EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

第12回 松山能面の会 新作能面展示会開催される

2018年09月30日 | 伊予松山歴史散策

第12回松山能面の会、新作能面展出展目録表紙。

 恒例となった松山新作能面展が平成30年9月26日(水)~9月30日(日)まで、愛媛県立美術館・南館2階会場で行われている。

能面については、私は何も知識が無いが、中学校の同期生が趣味として面を打つ会「松山能面の会」に知人の勧めで12年前から入会し、作品の披露を毎年秋季に展示発表会を行っており今年も同期生5人で観賞に行って来た。昨年までは、NHK松山放送局ロビーで開催されていたが今年は、愛媛県立美術館・南館2階会場で開催された。

松山能面の会は、18名の構成であくまでも趣味として楽しんでいるとの事、今年会員が打った新作能面は48作品が展示してあった。毎年関心する事だが、素晴らしい出来栄え、素人とは思えない力作であった。

能面は、能楽や一部の神楽で用いられる仮面で、鬼神・老人・男・女・霊の5種類に大別され、能面は木(桧が多い)を彫り、彩色して製作するが、この工程を「面を打つ」というそうです。

 画像は、昨日(9月29日)鑑賞してきた能面展です。

第12回松山能面の会、会員18名の代表作18面。

松山能面の会今年の新作出品目録その1。

松山能面の会今年の新作出品目録その2。

 

第12回新作能面展の案内状。

 面を打つ工程説明書の下に材料と面が出来るまでの実物が展示してあった。

 面を打つ工程説明書の下に材料が展示してあった。

私の同期生「浅井 修氏」が今年新たに面を打った新作「曲(しゃく)見(み)」1面。

毎年2面打っていたが、今年は1面のみであった。

毎年の事だが、新作能面鑑賞が終わると、久米中卒仲良し6人組がミニ同期会と題し会食をして楽しんでおります。

私の同期生「浅井 修氏」が今年新たに面を打った新作「曲(しゃく)見(み)」の説明。

会場には能面48作がずらりと展示。

会場には能面がずらりと展示。

松山能面の会員18名の48点が展示。

 熱心に能面を鑑賞する女性。

第37回松山市民文化祭・美術展入選、工芸部門・特選に選ばれた「能面・顕徳」武智公正さんの作品。

第37回松山市民文化祭・美術展入選、工芸部門・特選に選ばれた「能面・般若」藤田正博さんの作品。

 

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秋山兄弟生誕地、研究員の定期研修会開催

2018年09月27日 | 伊予松山歴史散策

         秋山好古・眞之兄弟生誕地(愛媛県松山市歩行町二丁目3番地6)

 秋山好古・眞之兄弟生誕地整備事業については、全国の皆様からご賛同を頂き、平成17年1月18日に再建事業が完成し、この日NHKニュース番組「お早う日本」で全国放送されました。同年1月19日から、「秋山兄弟生誕地」として一般公開し現在に至っています。

秋山兄弟生誕地には研究員18名が在籍し全国から観光にお越しいただいた方々にご案内をいたしております。

研究員は日々自己研鑽し知識を身に付けておりますが、4ヵ月に一度研修会を、年に一度館外研修を実施しております。今年の館外研修は、広島県江田島町海上自衛隊第一術科学校(旧海軍兵学校)で見学研修をしました。(秋山眞之・海軍兵学校第17期生・広瀬武夫・第15期生)

昨日(9月25日)、秋山兄弟生誕地武道場で定期研修会を開催し新たな知識を身に付けた。

講師は、山崎常盤同郷会理事長が、画家、横江昌人が製作した絵肖像画「秋山好古・眞之の語らい」の展示について。

 次に、前常盤同郷会常務理事・佐伯健氏が「加井尚孝と秋山好古、村上正義」と題して講話があり研修をしました。

その様子です。

昨日の研修会の情景で車座状態で行った。(所用で数名が欠席した)

研修会場は秋山兄弟武道場で、合気道と柔道の錬成を行っている。

本日の研修会の本題である「秋山兄弟語らいの想像図」で、その説明をする山崎理事長。

 「秋山兄弟語らいの構図」秋山好古と眞之で、此れを描かれたのは石川県在住の横江昌人画伯で、昭和11年1月、秋山好古の騎馬像を彫刻された「横江嘉純」さんの、甥になられる方です。

肖像画は、秋山兄弟生誕地に展示公開しております。大きさは30号。

石川県在住の横江昌人画伯に、常盤会同郷会、前理事長・平松昇氏がお願いして今年の7月に描かれました。平松前理事長は、騎兵の育ての親、秋山好古大将騎馬像を彫刻して頂いた血筋のある方に是非描いて頂こうとお願いし、石川県から7月に秋山兄弟生誕地にお越しになられ描かれました。

画像下の絵が当初描かれたもので、上部が一部修正した秋山好古と眞之です。

肖像画を描かれるに付次の写真を参考にして描かれました。

 

「秋山兄弟語らいの想像図」右が秋山好古で、この写真を元に描かれました。

好古が少尉の時で、明治10年愛知県立名古屋師範学校附属小学校教師を退職し、同年5月4日、陸軍士官学校に入学、同年12年12月23日、陸軍士官学校を卒業、少尉に任官され、明治13年7月2日付で東京鎮台騎兵第1大隊小隊長を拝命した時の写真で、この顔をモチーフして「秋山兄弟語らいの想像図」描きあげた。

画像左が、秋山眞之で、この時期は、名前は、淳五郎時代の12歳であった。

画像は、左が秋山眞之(淳五郎)真ん中が、父、秋山久敬、左が母、貞である。

「秋山兄弟語らいの想像図」秋山眞之は、12歳の時のこの写真を元にして描かれた。

研修会の資料として山崎理事長が作成し使われたものです。

秋山兄弟肖像画(語らいの想像図)を描かれた、技法と画家・横江昌人氏の略歴。

研修会資料。

横江嘉純氏と横江昌人氏の関係図と、資料右の写真は、昭和11年1月、横江嘉純氏が彫刻し銅像として建立し時の写真と、平成17年1月18日、復元した秋山好古の騎馬像である。

富山県出身の彫刻家、横江嘉純が昭和11年1月11日制作した騎馬像は、昭和18年8月12日、金属類回収令が勅令施行され、秋山好古騎馬像もこの対象物となり回収供出され潰された。

画像は、愛媛県立北高等学校にある小さな秋山好古騎馬像と昭和11年1月11日建立した騎馬像の写真を元にしてコンピュウタ処理で設計図を作成し富山県高岡市にある制作会社に依頼して出来上がった秋山兄弟生誕地に展示してある秋山好古大将の騎馬像である。

 なお、横江嘉純の作品は、「秋山好古の騎馬像」「ネール首相像」そして昭和30年11月、東京駅中央口前広場に建立された「愛の像」、廣島平和記念公園にある「祈りの像」の制作者としても著名である。

昭和10年、井上要氏が中心となり、秋山好古将軍銅像建設会を設立、井上要自ら建設委員長となり、東京の彫刻家、横江嘉純氏に構図設計共に依頼一任した。銅像は最初立像の予定であったが、「騎兵の秋山か」「秋山の騎兵か」とまで言われた将軍の銅像を馬から下すことは如何なものかとの意見があり騎馬像とすることにした。

しかし横江嘉純氏は秋山好古の騎馬の姿など見た事が無く設計を辞退した。

井上建設委員長のたっての願いと、秋山好古の人格と偉勲に感銘し騎馬像制作を引き受けた。

制作に当たり、秋山好古の副官であった、山内保次少将が馬に乗り、横江嘉純に対して好古の騎馬姿を披露しそれを見て設計した。

昭和11年1月11日、松山市道後公園に建立されていた当時の秋山好古騎馬像。

昭和11年に彫刻家「横江嘉純」が制作するにあたり、秋山好古のモデルとなった人が「山内保次」であった。

新潟市出身の「山内保次」は、秋山好古副官の一人で、日露戦争で世界最強のコサック騎兵団を破った切っ掛けは、山内保次が好古の命を受け隊員7名を率い敵陣深く斥候隊長として出向きロシア軍の動向を詳細に把握して帰還し戦いを有利にした事であった。

また、『敵中四騎挺進』(昭和16年刊行 山内挺進斥候がモデル)により紹介され、大ベストセラーとなったことも有名である。

写真提供:新潟市江南区澤海、北方文化博物館・神田勝郎館長

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平成最後の夏の終わりに・川附川堤防大清掃

2018年09月21日 | 伊予松山歴史散策

今年の夏は、極暑で大変な夏であった。JA各地では、豪雨被害、台風被害、大阪北部地震、北海道胆振東部地震等で甚大な被害が発生し、市民生活や公共の施設の復旧が遅れ、特に電気の復旧はかなり回復しているようだが、生活水の復旧が遅れている。

そんな中で、朗報もありホッとした事が起きた。「尾畠春夫さん」により、山口県の藤本理稀ちゃんが見つかった事、全国高校野球選手権記念大会で秋田県立金足農業高校の活躍、そして全米オープンテニスで、大坂なおみ選手の優勝で日本国民が祝福を送りその余韻が続いているなか、凱旋し東レパンパシフィックオープンテニスに参加、2回戦を勝ち今日準々決勝に臨む。

さて、先日の朝(9月15日・土曜日)いま全世界で問題しされているプラスチック製品の排出曜日になっており所定の場所に持参した。その場所は、我が家の近くの川附川堤防北側(天山の東麓)にある。すると若い女性一人がゴミ袋とゴミ取りばさみを持って清掃していた。私は声を掛けた「暑いのにご苦労様と」今日は、年2回川附川沿川の松山市天山町と東石井町の住民、それと社会福祉関係を経営しているアトムグループの皆さんが清掃する日であった。

アトムグループの一つ「老人保健施設レンゲ荘」入口に関係者が居られたので話を伺った。清掃活動の範囲と対象者は、松山市天山町と東石井町の川附川沿川の住民たちで、「孝田橋」から「伊丹十三記念館」前までの両岸400mを約75名の人々が清掃活動をしていた。清掃は毎年、早春と早秋に行い今年は第30回目の清掃だそうで15年間の清掃活動が継続している。清掃した後を見てみると、彼岸花の蕾が膨らみ開花近い状態であった。極暑であった平成最後の夏の終わりを感じた。

川附川の北側堤防に掲示してある告知板で、伊丹十三記念館の向かい側堤防にある。

川附川は、1級河川重信川の支流の一つで、伊丹十三記念館南側の小野川に合流し、下流約6kmで石手川と合流、そして重信川に合流し瀬戸内海の伊予灘に流れる川である。掲示板には400mと記載してあるが、実測すると500mある。

清掃範囲は、500mX2=1kmとなる。

川附川沿川の住民、松山市天山町と東石井町の住民と福祉施設アトムグループの職員約75名がの皆さんが参加しての大清掃活動。

川附川南側堤防で、この道は車の走行が多く最近幅員が拡張された。

川附川堤防の清掃をされる範囲は、伊丹十三記念館前から、レンゲ荘と表示しましたがこの間を清掃している。画像に天山と表記した山が、奈良県の天の香久山との姉妹の山「天山」である。

天の香久山のある、奈良県橿原市南浦町と、天山のある松山市天山町の住民は、昭和52年5月8日から姉妹町の交流が始まり、天山山頂広場には記念碑が建立されている。

参考までに:画像は、奈良県橿原市南浦町にある天の香久山で、日本100名城巡り第48番松坂城から第61番高取城に移動の途中撮影した。

参考までに:松山市天山町にある天山。我が家から撮影。

天山山頂には天山神社があり、拝殿南側に建立されている「奈良県橿原市南浦町にある天の香久山」との姉妹町記念碑が建立されている。

参考までに:天山の位置図で今回取り上げた清掃範囲は、天山の南面の一部である。

画像は、上が北方向、下部が南方向。

松山市は、昭和50年から7月に市民一斉大清掃を毎年実施いているがこれは行政(御上)からの企画で行われた松山市の年中行事の一つで参加しなければだが、川附川沿川の大清掃は地元民からの発想で気持ち・心が入っている活動である。

参考までに:伊予松山城天守で、今年(9月1日現在)行って良かった日本の城に第3番目に選ばれた。

この松山城天守が一番綺麗に見える場所が、天山山頂である。画像は、天山山頂から撮影。

初代伊予松山藩主、加藤嘉明が伊予松山城築城に際し、徳川家康に築城第一候補地に挙げたのが天山で、第二候補地が勝山、現在の松山城、第三候補地が御幸寺山で申請した結果、家康は第二候補地の勝山に築城許可が下り築城したとの逸話が残っている。

川附川北側の堤防で清掃が終わり綺麗になった。左側の森は、記紀に書かれてある由緒ある「天山」である。

先日、清掃に先立ち堤防の草を草刈り機で刈り取り、9月15日、沿川の住民が出てきめ細かい清掃活動をした。

雑草を刈り取った後、待ち構えていたかのように彼岸花が芽を出した。

先日、9月15日、暑い中清掃活動をする沿川住民たち。

これからの画像は、川附川北側の堤防の四季の風景である。

毎年4月になると画像の様に堤防には菜の花が咲き、染井吉野桜が咲く気持ちのいい心和む散歩道となる。

沿川住民の清掃の賜物である。

4月の時期にはこのような風景になる。

2月から4月に掛けては菜の花が咲き、素晴らしい散歩道となる。

北側の堤防は、殆ど車は通らないので近くの皆さんの散歩道で、犬を連れて散歩をする人が多く以前は犬の糞をそのままにして帰る心無い愛犬家がいたが、糞は持ち帰りましょう啓発運動が実り、いまは殆どなくなったが、未だ心無い愛犬家がいる。

4月になると画像の様な景色を見ながら気持ちのいい散歩道となり記念の写真を撮る人もいます。

6月になると紫陽花が咲く、以前は沢山紫陽花があったが、河川の堤防なので土が乾き水不足で枯れ、元気な紫陽花が数本だけ残っている。

この川には、画像の様なカワセミが飛んで来る。

先日、雑草を刈り取った後、待ち構えていたかのように彼岸花が芽を出した。

この時期になると、夏とお別れをして秋になり彼岸花の時期になる。画像は先日撮った彼岸花で、蕾が膨らみ開花間近である。(撮影は、9月15日)

芽を出した彼岸花は数日後開花した。

川附の堤防に咲く彼岸花は、朱と白の花がうまく交じりあって咲いている。

 

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平成時代最後の夏の終わりに快挙で日本全土が湧いた

2018年09月12日 | 伊予松山歴史散策

まさか全米オープン決勝まで勝ち進むとは誰一人思っていなかった。

それを見事勝ち抜き優勝した。

表彰式では、大ブーイングが起こり大坂なおみ選手は大変とまどった。こんな終わり方になったことは残念です。「勝ってしまってごめんなさい」。のコメントで大ブーイングから大きな拍手に変わった。

テニスの全米オープンで優勝を飾り、日本選手で初めてグランドスラムを制した大坂なおみ選手が、スピーチで、「みんながセレーナを応援していたことを知っています。
こんな終わり方になったことは残念です。「勝ってしまってごめんなさい」でも私は、決勝でセレーナとプレイするのが夢でした。
プレイしてくれてありがとう。・・と発言した後日本人らしく頭を下げた。そして試合を見てくれてみなさんありがとう」と、感謝を述べると、会場は祝福ムードとなったがグランドスラムを制した選手の異例の優勝表彰式となった。

この快挙は、4ヵ月前に就任したコーチの「サーシャ・ベイジン氏」の存在が大きい。いま日本のスポーツ界はいろんな悪い事案が発覚、近々では女子体操界の問題で毎日のようにTVの番組に取り上げられ見ていて嫌になる。利権争いか何か原因分からないが、大相撲から始まり、女子レスリング、ボクシング、そして今回の女子体操、某大学の駅伝監督。

本日またも重量挙げ協会のパワハラ、暴力疑惑・・こんな不祥事が沢山出て来る・・スポーツ長官の指導力が問われるこの頃である。

そんな暗い話題の中、大坂なおみ選手の快挙そして微笑ましいスピーチで救われた感じがする。

これから日本のスポーツ界特に指導者は、怒鳴る・叩く・のではなく、大坂なおみ選手のコーチの「サーシャ・ベイジン氏」をお手本として選手の指導育成をして頂きたいと願うものです。

私もテニスをしていたので次の事柄が頭の隅に残っている。

清水善造さんである。ウィンブルドン選手権で「緩やかなボール」を相手コートに返球した事で有名な話である。それは、大正9年(1920)ウィンブルドン選手権のオールカマーズ決勝、対戦相手のチルデンが足を滑らせて転倒、その時にゆっくりとしたボールを返したという。チルデンが態勢を立て直し、返球がエースになったが、観客がスタンディング・オベーションで清水選手に向かって拍手をした。結果としてチルデンが勝ち、二人が会場を後にしたものの、その後しばらく拍手が続いたという素晴らしい出来事が98年前にあった。

今回のテニス全米オープンでの優勝戦で大坂なおみ選手とセリーナ・ウイリアムズの出来事はテニス界に残る悪い意味で歴史に残る事でしょう。

テニス全米オープン優勝戦前の記念写真撮影、これから起こる出来事は予想もしない二人。

いざ試合になるとセリーナは、大坂なおみ選手との試合運びが思うようにならず、イライラしてラケットを叩き折り主審から警告を受ける。

次は、受けてはならないコーチからのアドバイスがあったとして警告。主審に暴言を吐き、国際テニス協会の役員から注意をうけるも聞き入れないセリーナはポイントを取られる。こんな事は、今までグランドスラムでは無かった事だそうだ。

主審に暴言を発する。

アメリカの人気番組にも出演。

4ヵ月前に就任したコーチの「サーシャ・ベイジン氏」の存在が大きいと言われている。サーシャ・ベイジンコーチは、セリーナ・ウイリアムズに8年間ヒッティングパートナーとして従事して来たそうだから、セリーナの長所欠点を全部知り尽くしていたのでいい作戦が立てられたのでは?

日本のスポーツ界もサーシャコーチの様な指導をする人が必要ではないでしょうか。

表彰式で大ブーイングが起こり、戸惑いを受ける大坂なおみ選手。

大坂なおみ選手本当にグランドスラム優勝おめでとうございます。表彰式で日本人の控えめな態度を見て世界中の人々が絶賛しています。お疲れ様でした。

表彰式で大ブーイングが起こったのは、観衆が主審に対して、セリーナ・ウイリアムズ課した警告に対してのブーイングだったらしいが、表彰式で行う事はないだろう。

セリーナを支持するフアンーの怒りの表現だったかもしれないが、テニスは紳士淑女のスポーツ、それもスポーツ大国アメリカの地での出来事、優勝者に対して大変失礼な行為で見ていて腹が立ち、大坂なおみ選手が可哀そうであった。勝者が何故観衆に誤らなければならなかったのか、何も悪い事をしてないのに。 お疲れ様でした大坂なおみ選手。

 そして忘れてはいけない事があります。

それは、西日本豪雨・大阪府北部地震・平成30年台風21号・北海道胆振東部地震で被害を受けられ未だ平常の日常生活が出来ない方々が大勢おられます。この事も忘れる事は無いでしょう。特に北海道胆振東部地震で被害にあわれた皆さんこれから気温が下がり厳しい環境となりますがお身体お気を付けてお過ごし下さい。

私に出来る事は、細やかな義援金をお送りするだけです。

 

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平成時代最後の夏の終わりに

2018年09月06日 | 伊予松山歴史散策

日本の元号で4番目に長い平成最後の夏が終わった。

思い出に残る事項が沢山ありますが、その中でも山口県周防大島町に家族と帰省していた2歳男児の藤本理稀(ふじもとよしき)ちゃんが見つかった事だ。よしきちゃんは2歳になったばかりの幼児で、よく耐え抜いたと思います。

理稀ちゃんは、生き運の強い男の子だと言える事と、見つけ出した別府市から必ず私が見つけ出すと強い信念を持ち捜索にボランティア活動の一つとして駆け付けた「尾畠春夫さん」・・神様が巡り合える様に取り計らってくれて感じがした出来事でした。

そして西日本豪雨から二か月、未だに避難生活をして強いられている皆さんが大勢おられる。

次は、第100回全国高校野球選手権記念大会で準優勝した秋田県立金足農業高等学校の大活躍、全国から集まり強力なチームを結成し優勝を目指す高校と、全員秋田県出身者のチーム、吉田輝星投手一人で投げ抜き準優勝を勝ち取った凄い投手でした。

準優勝を勝ち取った秋田県立金足農業高等学校のメンバー清々しい高校生であった。

日本列島を巻き込んだ金農旋風、公立高校で農業高校の準優勝は初めての出来事全国民が感動した夏であった。・・長く高校野球歴史に残る快挙であった。

最後は、台風21号襲来である。

9月4日12時頃徳島県南部に上陸した21号は、最大瞬間風速57、4m、大阪市内でも47,4mの猛烈な風が吹き荒れ、観測史上最大あったと報じられた。

私の住まいは松山市ですが、台風が豊後水道を上がって来ると最も大きな被害を被る。台風20・21号共に四国東部に上陸したので被害は無かった。昨年9月17日、台風8号が鹿児島県東部に上陸し、高知県西部に再上陸した時は我が家の玄関の戸が壊れるのでな無いかと思う程の強風が吹き荒れた。

地震も怖いが、台風も恐ろしい。風の脅威恐ろしさを感じた。

今回大都会で50mの風の被害は甚大であった。

台風21号で高知県安芸市の海岸に打ち寄せる高波の凄さ、脅威。

白い巨大な海の怪物が襲い掛かる様な高波。

関西空港連絡橋に燃料補給船が強風に流され激突し破壊され関空開港から脱失する事が出来ない人々が苦難した。これも強風の脅威。

陸地では、大型トラックが転倒、軽自動車は木の葉様に飛ばされ、建物が吹っ飛んでいる。改めて強風の脅威を感じた。

台風21号は徳島県南部に上陸し速度を増し近畿北陸を強風で駆け抜け、東北弘前市でもリンゴ園で手塩にかけて育てたリンゴの木が無残に倒壊する被害が出た。

そして、今日9月6日北海道胆振地方で大きな地震が発生した。

私が住む四国では、近々起こるだろうと言われている南海地震、どんな対策をすればいいのか?とりあえず持ち出す緊急用品を準備しなければならないとこの地震をみて感じた。

残り少ない平成の世、穏やかに過ぎ新たな元号の世を迎えたいものです。

 

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