EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

瀬戸の夕日 その3

2012年01月31日 | 伊予松山歴史散策
今日の松山は最低気温で零下1,0度まで下がり最高気温は8,3度でした。
一日雲ひとつ無く、もしかすると達磨夕日が撮れる可能性がありそうであったので
松前町の河口に行きました・・海上は風が無く少し気温が上がったため達磨夕日はだめでした。

達磨夕日出現は気象の諸条件が重ならないと出来ません。
画像のように、この時期は夕日が島の後ろに落ちるので、撮影場所を変えないとだめです。
達磨夕日が現れるのは2月中旬まで、またいい天気の時にもう一度挑戦してみる。

今日の瀬戸内「伊予灘」の夕日です。









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伊予松山 椿神社祭

2012年01月30日 | 伊予松山歴史散策
今年もやって来た、伊予路に春を呼ぶと言われている「椿祭り」が1月29日から、松山市居相町二丁目にある伊予豆比古命神社で始まった。
私も今日30日カメラ持参で参拝に行って来た。「家内安全と今年一年元気に過ごせますようにと、東北震災早期復興を祈願した」

椿祭りは毎年旧暦の1月7日~9日に開催される。初日、二日目は好天に恵まれ大勢の家族ずれが参道を埋め尽くし、同神社では例年通り参拝者は45万人の人出があると見込んでいる。愛媛県最大の神社大祭である。

参道は約600mあるが両サイドに露天商が並び境内には縁起物の熊手や「名物の・おたやんあめ」を参拝の帰りに買い求めていた。
参考に、伊豫豆比古命神社(いよずひこのみことじんじゃ)は愛媛県松山市居相町にある神社である。式内社、旧社格は県社。神紋は十六弁八重表菊。
地元では椿神社、椿さんとも呼ばれている。開運縁起・商売繁昌の御利益がある。
「伊豫豆比古」の読み方については、神社では「いよずひこ」としているが、「いよづひこ」と読んでいる例も多い。本来の意味からいえば「いよ-づ-ひこ」であり、「豆」は格助詞「つ(づ)」であるが、ここでは同神社の表記に従う。
江戸時代には松山藩主・久松氏の篤い崇敬を受けた。現在では縁起開運の神として、崇敬者は全国に広がるという。

【正式名称】
 伊豫豆比古命神社は、御鎮座(御創建)二千余年の古くより、尊称・敬称も親しく「椿神社」「お椿さん」とも慕われ、縁起開運・商売繁昌の神様として、四国四県はもとより、広く全国から崇敬を寄せられている神社です。

【通称号】
 「椿神社」「お椿さん」は、松山市内・四国四県で特に敬称を込めて呼ばれているが、この由来は、『往古、伊豫豆比古命・伊豫豆比売命の二柱の神様が舟山(境内図参照)に御舟を寄させ給い、潮鳴栲綱翁神(しおなるたぐつなのおきなのかみ)が纜(ともづな)を繋いでお迎えした。』との伝説が示すように、神社周辺は一面の海原であり、『津(海の意)の脇の神社、すなわち「つわき神社」が時間の経過と共に「つばき神社」と訛った。』との学説の一方、民間伝承では、現在も境内一帯に藪椿を主に、各種の椿が自生していますが、「椿の神社」つまり「椿神社」と呼ばれるとの説話があります。

 大政奉還が行なわれて幕政が閉じられ、廃藩置県の実施を見て明治を迎えましたとき、伊予の国8藩も例外に漏れず、現在の愛媛県が誕生しました。県名策定に際し、古事記・日本書紀にも記されている、当神社の御祭神の一柱、愛比売命から県名とされましたが、都道府県名に御神名を冠されたのは、愛媛県のみのようだ。

なお境内には例年8月に開催される全国高校俳句甲子園大会で最優秀句に選定された句が記念の句碑として建立されている。

好天に恵まれ多くの参拝者が来ていた・・昨日は日曜日であったのでもっと人では多かったのでは??

なお境内には、例年松山市で開催される全国俳句甲子園大会で最優秀句に選定された句碑が建立されている。


本殿からみた境内の一部


山門を潜り本殿に上がる石段を登る参拝者、右側に帰り専用の下り石段がある


600mある参道はいろんな露天が並んでいる


参拝が終わり帰りにお守りとお札を買い求めるが、種類が沢山あるからどれにしようか??お札・お守りの品定め


お守り・お札を買い求め次は、縁起物の熊手を買って帰る


松山にある5局のTV放送局も中継車を出してお祭りのライブ放送、女子アナも大忙し


こちらは、現場のカメラマン


帰りに見かけて風景思わずシャッターをおした、本当の自衛官か??それとも自衛官マニアか??・・カメラマンの願いにポーズの敬礼をしていた


神社境内には、毎年松山市で開催される全国高校俳句甲子園大会で最優秀句に選ばれた句碑が建立される。


第13回全国高校俳句甲子園大会最優秀句「開成高校・青木 智さん」の句碑
昨年は第14回であったが未だ句碑が完成してなかった。
14回目の最優秀句は「厚木東高校・菅 千華子さんの:未来もう来ているのかも蝸牛」です。早く建立してあげないと!!
註:全国高校俳句選手権大会(略称:俳句甲子園)とは社団法人松山青年会議所、NPO法人(特定非営利活動法人)俳句甲子園実行委員会が主催する、高校生を対象とした俳句コンクールである。愛媛県松山市で毎年夏に開催されている。
今年は、第15回で、8月17日~19日まで行われる。
なお、第1回目は平成10年8月 (社)松山青年会議所によって、第1回俳句甲子園松山大会を開催。参加校は9校であった。
第13回の参加校は103校で言葉による「俳句バトル」が争はれた。
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福島県立双葉高等学校2年生秋山兄弟生誕地訪問

2012年01月27日 | 伊予松山歴史散策
中村時広愛媛県知事は、東北高校受け入れ事業である被災地修学旅行支援を県教委を通して行っている。
本日(1月27日)愛媛県立松山北高校の生徒が福島県立双葉高校2年生を案内して、秋山兄弟生誕地を訪れた。

双葉高等学校は現在、200名の生徒はサテライト校に通っていて今春、いわき市の大学の校舎で再スタートするそうです。

愛媛県には25日来県、3泊4日の日程で体験や松山観光を行い修学旅行の思い出を愛媛で行う。

その一環として、秋山兄弟生誕地を訪問した。
生誕地では、研究委員が温かく出迎え好古・眞之が育った経緯と二人の生き様を紹介した。

画像はその様子です

註:愛媛県立松山北高校の前身は、秋山好古が校長を務めた松山北豫中学である














福島県立双葉高等学校二年生秋山兄弟生誕地で記念の集合写真で松山市内を五班に分かれて研修を行い秋山には、2班が訪れた。
出来るだけ早く復興し以前の生活に復帰出来るよう祈念いたしております。
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菅原道真 伊予の足跡

2012年01月26日 | 伊予松山歴史散策
今年も受験の時期が遣って来た。
受験と言えば学問の神様「菅原道真公」、京都の「北野天満宮」の神様は、合格祈願のため参拝する受験者の願いを叶えるため大忙しではないでしょうか。

伊予松山にも菅原道真公に纏わる事柄があるので紹介します。
先ず、伊予松山藩第3代城主「松平 定行」に関すること。
松平定行(久松定行)の父親定勝は、徳川家康を出産した母親(伝通院夫人)が久松俊勝と再婚して定勝が誕生した。したがって定勝は家康と異父同母弟であって、その子が伊予松山藩第3代城主定行である。

伝通院夫人が再婚した久松家の祖先は菅原道真公であり家紋も梅鉢である。
文政6年(1823)松山藩主久松定通は伊予松山城東山麓に東雲大明神と称え、久松家の祖先神天穂日命菅原道真公と伊予松山藩祖久松定勝公以下藩主の、神霊を奉斎し、藩崇敬の神社とした。明治13年2月東雲神社と改め県社に列格した。

履脱天満宮は、菅原道真が昌泰4年(901)左大臣藤原時平にざんそされ大宰府の副司令官として左遷され瀬戸内海を航海中、嵐にあい遭難して愛媛県今治市桜井海岸に漂着した。陸路西下し現在地の愛媛県松山市久保田町に滞留し具足を脱いで休息したところとされていて由緒のある神社である。境内に道真が「星占い」をしたと言う、松山七不思議のひとつ「占い池」がある。そして秋山好古揮毫の石碑「履脱天満宮」の石碑が建立されている。

道真はあまりにも居心地がよかったのか長居をしたため、朝廷から勅旨が訪れ早く大宰府に行くよう指示され松山市今出の濱から船で旅たった。
その時見送る人々に「今でるよ」と声をかけたので松山市西垣生の濱を「今出」の濱と呼ぶ。

また松山市北久米町に龍天満宮神社があるが、ここに菅原道真公が座られたと言う石がある。

菅原道真公は、延喜3年(903)2月15日逝去された。


京都の北野天満宮・本殿で、私が参拝に行ったときは受験も終わり一段落した時期であったので参拝者は少なかった。


北野天満宮に掲示されている各種祈祷。


久松家の祖先神天穂日命菅原道真公と伊予松山藩祖久松定勝公以下藩主の、神霊を奉斎し、藩崇敬の神社とした。明治13年2月東雲神社と改め県社に列格した社殿。


久松家の祖先神天穂日命菅原道真公と伊予松山藩祖久松定勝公以下藩主の、神霊を奉斎している本殿。


松山市久保田町にある「履脱天満宮」で大宰府に左遷され瀬戸内海を航行中、暴風に遭遇し今治市桜井海岸に漂着、ここから陸路松山に移動この神社で具足を脱いで休憩した。しかし居心地がよかったのか長居をしたために、朝廷から勅旨が訪れ早く大宰府に行くよう指示された。


天満宮の秋山好古揮毫の社号石碑がある。


松山市北久米町の「天満神社」境内にある道真がこの地に寄って石に腰をおろし休憩したと言い伝えがある「腰掛石」。またこの地は星ノ岡の一角で、元弘3年(1333)北条時直が探題府の兵を率いて宮方軍の土居・得能連合軍と壮烈な戦いがあった古戦場である。この戦いが全国に広がり鎌倉幕府は滅亡した。
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瀬戸の夕日 その2

2012年01月24日 | 伊予松山歴史散策
昨日も瀬戸の夕日を撮りに重信川の河口に行ってみた。
この日はかなり雲の多い日中でしたが、午後4時頃西の空が明るくなり、もしかするといい夕日が見れるかなとの思いで出かけた。

松山市の気温は、最低5,1度 最高気温9,1度の晴れで、日の入りが午後5時37分であった。
河口に行ってみると瀬戸内海はかなりの強風で、波消しブロックに当たった波が霧状になり降って来る。・・カメラにはよくないので場所を変えて三脚をセットして待機した。

今回は、達磨夕日を期待せず、雲間に見える夕日が狙いであった。が一瞬達磨になる気配を感じたが奥にある雲に遮られた。

綺麗な夕日は、大自然の気象条件が重なり合わないと現れない難しい現象です。
さすが昨日は撮影には誰も来ていなかった。
次回いい気象条件の時に行って見ます。・・我が家から30分程の道のり
画像を掲載するほどのものでは無いですが・・ハイ・・見てください。


午後4時30分過ぎの状態


午後4時30分過ぎの状態


午後4時30分過ぎの状態


午後4時30分過ぎの状態




綺麗夕日が海面に沈んで行くには、遥か彼方水平線上に雲が無いことが条件・・これからも2月上旬まで天気のいい時に行く事にする・・我が家から30分程だから!!
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