EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

坂の上の雲画像で辿る軍郷の街習志野市大久保 3

2016年03月29日 | 伊予松山歴史散策


東邦大学付属東邦中学校・高等学校正門。
騎兵第15連隊跡で現・東邦大学付属中・高等学校、東邦大学を創設した額田豊、額田晉により創立され、55年の伝統を有する進学校として優秀な学校である。
当高等学校教諭、山岸先生が監修、秋山好古と習志野刊行会が、平成23年12月1日、発行した「秋山好古と習志野」は当時の歴史がよく書かれている書籍です。人気のあった書籍でもう手に入らないかもですが、図書館には所蔵していますので是非読まれて下さい。
書籍は、大和屋書店・習志野スポーツで販売しておりました。
松山市では、秋山兄弟生誕地で取り扱っていましたが直ぐに売り切れました。


秋山好古と習志野刊行会が発行した書籍「秋山好古と習志野」


東邦大学付属東邦中学校・高等学校立派な校舎で勉学の環境は整っている。


全天候型のグランドで少雨でも活動が出来る文武両道の教育施設完備。


秋山好古が第一旅団長時代の騎兵第15連隊の兵舎全景。
写真は、習志野騎兵史跡保存会提供。


騎兵隊の乗馬訓練、習志野は広々とした地であった事が良く分かる。
全国各地の連隊隊員、一度は習志野で訓練を受けたそうだ。
写真は、習志野騎兵史跡保存会提供。


当時の騎兵第2旅団司令部。
写真は、習志野騎兵史跡保存会提供。


騎兵第1旅団司令部の模型。
当時、騎兵第1旅団司令部は現在の習志野市市民プラザ大久保にあった。
平成24年3月25日、習志野市市民プラザ大久保が落成、その玄関に置かれている。
製作は、日本大学生産工学部の学生さんが造った。




市民プラザ大久保に隣接して八幡公園があるが、その一角に「騎兵第1旅団司令部跡」の記念が建立されている。


平成24年3月25日、落成した習志野市市民プラザ大久保。


騎兵第16連隊の裏門にある歩哨所。(平成24年3月25日撮影)


騎兵第16連隊の裏門歩哨所は平成26年の秋に何故か取り壊された。
写真は、習志野騎兵史跡保存会提供
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坂の上の雲画像で辿る軍郷の街習志野市大久保 2

2016年03月27日 | 伊予松山歴史散策


習志野が全国によく知られるようになったのは、日露戦争で秋山好古率いた秋山支隊の活躍によるものだといわれている。それから歴史は流れ最近では画像の人で再び習志野の知名度が復活した。
画像は、小川淳司さんで、平成22年~平成26年まで東京ヤクルトスワローズの監督を務めた。東京ヤクルトスワローズは、平成16年から秋季キャンプを松山で行っている。非常に優しい監督であった。松山のヤクルトスワローズ支援者を大切にする監督であった。


小川淳司、元東京ヤクルトスワローズ監督が高校時代、昭和50年・第57回全国高校野球選手権大会決勝戦で愛媛県代表の新浜商業高校と対戦し5対4で習志野高校が優勝した。その時優勝凱旋し習志野市大久保商店街をパレードした時の画像。愛媛県代表が松山商業であればなおよかったのだが・・


では、騎兵第14連隊跡地、現日本大学生産工学部構内に在る遺跡を同大学の許可を得て見分した。


日頃の日大正門は先ほどの画像であるが、平成25年10月30日、秋山兄弟生誕地の研究員を引率して行った時、「桜泉祭」と名付けられた大学祭が行われその準備で画像の様に正門は変容していた。
同大学では、毎年市民講演会を習志野騎兵史跡保存会が主催して同大学で開催され市民に開放されている。市民に溶け込んだ大学である。


正門を入ると画像の様に案内板が設置してある。


構内の一角には色んな記念碑や物体が置かれ騎兵第14聯隊を偲ぶことが出来る。記念碑が二つ並ぶ、左の小さな碑が、昭和8年に建立されたものが不明となっていたが昭和43年に発掘された本来の碑で、右はそれを昭和62年に復元したもの。


昭和8年に建立された騎兵第14聯隊記念碑。


この「騎兵第14聯隊発祥之地」の石碑で、昭和61年に建立された新しい碑です。
揮毫は元の竹田宮様、竹田恒徳さん。


昭和61年に建立された新しい碑の裏面です。


この馬のオブジェは、平成5年に騎兵第14連隊会が製作した馬が置かれていた。


第14連隊跡には沢山の記念碑等々がある中に、明治天皇の和歌の碑があった。

「人ならば ほまれのしるし 授けまし 軍のにはに たちし荒駒」


現在の習志野市学園大久保商店街で、毎日、中・高校生・大学生・先生学校の関係者が通う街、秋山好古顕彰碑を見て当時の歴史を振り返ってもらえれば幸いですと習志野騎兵史跡保存会代表、三橋さんは語られた。
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松山市のロシア兵墓地で慰霊祭 開催

2016年03月25日 | 伊予松山歴史散策


ロシア帝国は、朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部を支配し、南下政策を試みそれを阻止しようとして発生したのが日露戦争である。時は、明治37年2月8日であった。ロシア帝国は、日本海制海権確保するために皇帝ニコライ二世は、明治37年10月15日、ロシア帝国太平洋第2艦隊を、明治38年2月16日、太平洋第3艦隊が、リバウ軍港から出航した。これが俗に言われる「バルチック艦隊」である。艦隊編成は、戦艦8隻、巡洋艦6隻、特務艦船、病院船等総勢38隻の大艦隊であった。日本海制海権を確保されると日本本土から満州への輸送は不可能になる。世界最強のロシア陸・海軍に全滅させられる日本は、ペリー来航以上の国難で日本中が不安になった。敗れると日本は、ロシアの植民地になってしまう。その戦いで捕虜となり松山に収容され亡くなった98人のロシア兵の墓地が松山市御幸町にあり毎年この時期に松山市主催で慰霊祭が行われている。
毎年参列している在大阪ロシア連邦総領事官は、急務で参列出来なく申し訳ありません・・そのおれいの書簡が送られてきて司会者が代読披露した。

特筆として、松山市立勝山中学校生徒会の皆さんが毎月「ロシア兵墓地清掃奉仕活動」を行っており墓地には草一つ生えてない。

ロシア兵墓地は、松山市御幸一丁目531番地2・・松山大学御幸キャンパスの西隣に在る。
慰霊祭の参列者は、ロシア兵墓地保存会会長、京口氏・日露親善協会愛媛県支部、逢坂氏・清水公民館長、倉田氏・松山商工会議所女性会長、守屋氏が参列された。


平成6年10月、ロシアから寄贈されたV・A・ボイスマン大佐の胸像この右に、昭和41年4月20日に松山市がV・A・ボイスマン大佐の記念碑を建立した。
 V・A・ボイスマン大佐は、日露戦争で秋山眞之が作戦参謀として戦った日本海開戦の帝国ロシア海軍太平洋第二艦隊・第三艦隊(通称、バルチック艦隊)の戦闘艦艦長で、明治38年9月21日松山の収容所で亡くなった。


本日、3月25日、松山市御幸一丁目531番地2に在る「ロシア兵墓地」で第56回目となる慰霊祭が開催された。
慰霊祭に当たり、松山市長の挨拶を松山市保健福祉部長、矢野一郎さんが「亡くなられた人の心情を思い、事実を後世へと伝えるとともに平和への願いを新たにしたい」と追悼の挨拶を代読した。

 最後に全員で墓地の掃苔をして献花して終わった。



墓地の清掃活動を続けている市立勝山中学校の生徒会長、波多野涼一郎さんが「清掃も31年になりますが今後も続けるよう努力します」戦争の無い世界平和でありますようにと挨拶をした。・・素晴らしい内容の言葉であった。


続いて、V・A・ボイスマン大佐に献花。


続いて松山捕虜収容所で亡くなった98人の墓に花を捧げた。


松山市立勝山中学校生徒会長、波多野涼一郎さんも献花。


 最後に参列者約40名全員で墓地の掃苔をし献花を行い終わった。


98人の墓に花を捧げた。・・画像の様に何時も綺麗に清掃され献花は絶えない。


ロシア兵墓地は毎月松山市立勝山中学校生徒会が清掃しており墓地には草一つ生えてない。
墓石は故郷ロシアを仰ぐ様に向いて立っている。
 
松山には日露戦争が始まった明治37年に全国初の捕虜収容所が設けられ、捕虜が収容された。松山が捕虜収容所となった理由としては諸説あるが、高浜に上陸する瀬戸内海のおだやかな港であり、輸送に便利なこと、気候が温暖であること、港から街まで鉄道があったことなどが挙げられます。
捕虜は公会堂や寺院に収容され、かつて松山市文京町にあった第22連隊城北練兵場(現愛媛大学、松山大学、松山赤十字病院、松山市立東中学校周辺)には26棟の病棟が建てられた。
 110数回に及ぶ捕虜輸送船により松山に収容された捕虜の数は、延べ6,000人に達したと言われ、多い時には4,000名を超える捕虜が松山にいたと言われています。(当時の松山市の人口は約30,000人)
捕虜兵の博愛処遇は県民に徹底されており、外出は自由で道後温泉に入浴、地元民との運動会に参加、ピクニックを兼ねて砥部焼観光等を楽しんだり、ユルイ捕虜生活が出来、その噂はロシア兵の間で広まり、ロシア兵が投降するときには、“マツヤマ”と叫んだとも伝えられている。将校たちは、祖国から妻を呼び寄せ、監視なしで自由に散策したり、温泉に行くこともできた。
 捕虜の中で、負傷し懸命の看護の甲斐なく異国の地で生涯を終えたワシリー・ボイスマン大佐、以下捕虜97名を埋葬しているのがロシア兵墓地である。なお、埋葬者の出身地は、当時の広大なロシア帝国の各地におよび、ロシアやポーランドに限らず、現在のウクライナ、ベラルーシ、バルト諸国、中央アジア諸国が含まれている。松山市は一時期ロシア人墓地と表記していたが、NHK坂の上の雲放映に当たりロシア兵墓地と改めた。

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坂の上の雲画像で辿る軍郷の街習志野市大久保 1

2016年03月24日 | 伊予松山歴史散策


習志野と言うと高校野球で有名な習志野高校しか知らなかった。
元東京ヤクルトスワローズ「小川淳司監督」が高校時代、昭和50年・第57回全国高校野球選手権大会決勝戦で愛媛県代表の新浜商業高校と対戦し5対4で習志野高校が優勝した。
小川投手は、甲子園で3試合連続完封と活躍を見せ、準決勝で肩を痛めながらも決勝戦でも完投し、優勝投手に輝いている。
また、阪神タイガースで活躍した掛布雅之や中日ドラゴンズで活躍した谷沢健一などがいる。
その後一躍有名になったのが、NHKスペシャルドラマ坂の上の雲が放映決定、平成21年11月29日~平成23年12月25日、3年に亘ってテレビドラマ特別番組として放送され習志野市大久保では、主人公の一人、秋山好古がこの地と深い関わりを持つことから注目を浴び商店街も地域振興と繁栄を企画しそのシンボルとして学園大久保商店街中央部に秋山好古顕彰碑が平成21年5月17日、建立された。
習志野には、近衛師団所属の陸軍騎兵第13連隊~16連隊の精鋭部隊が駐屯し、秋山好古は第一騎兵旅団長として在役していた。
好古の家族も一時期この地居り、好古は明治36年6月東京四谷区西信濃町から千葉県習志野薬円台に転居し、母貞は習志野で明治38年6月19日逝去している。

私は、初めて習志野に伺ったのは、平成21年5月17日、学園大久保商店街に秋山好古顕彰碑が建立されその除幕式に伺った。此れが切っ掛けで度々習志野を訪問し軍郷習志野大久保地区を見学させて頂いた。
案内して頂いたのは、習志野騎兵連隊史跡保存会関係者の方々で、東邦大学、日本大学は許可を得て見学させて頂いた。
その時の画像を4回に分けて紹介します。


平成21年5月17日、秋山好古顕彰碑が千葉県習志野市学園大久保商店街に建立されその除幕式。
石碑の前は学園大久保商店街で朝夕、小中高大学の生徒学生約6000人が通学する。石碑を見て当時の歴史に触れて頂くと嬉しいと関係者は語った。


除幕式で祝辞を述べる、森田健作千葉県知事、この年県知事として初当選された。


近代的な顕彰碑として建立された好古の碑、写真は直接石に刻まれている。
揮毫は、好古が生前書いた「天地無私」を秋山宗家の了解を元に使われた。


秋山好古顕彰碑の横に説明板が設置してある。


此れから、元騎第13連隊跡である、東邦大学を習志野騎兵史跡保存会会長さんのご案内です。(大学の許可を得て)


騎兵第13連隊跡の石碑。
13連隊は、明治32年騎兵第1旅団編成に着手騎兵14連隊と共に創設された。


平成5年4月29日、新たに「騎兵第13聯隊発祥之地」碑が建立された。
裏面には13連隊の沿革と歴代の連隊長の氏名が書かれている。


騎兵第13聯隊発祥之地の石碑の側に「司馬遼太郎」さんの碑がある。


そして一段と大きな石碑があった。揮毫は、陸軍大将、南次郎で第6代騎兵13連隊長を歴任。
松山市の秋山兄弟生誕地の石碑、題額を南次郎が揮毫している。


東邦大学にある騎兵第13連隊時代の建造物で、大変貴重なものなので大学では永久保存をする事を3年前に決定したそうだ。


当時の騎兵第13・14・15・16連隊と騎兵旅団司令部。
騎兵13連隊跡は、現東邦大学、14連隊跡は、日本大学生産工学部、15連隊跡は、現東邦大学付属中・高等学校、16連隊跡は、更地となっている。

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秋山眞之生誕148年祭 開催されました

2016年03月21日 | 伊予松山歴史散策


今年もやって来た・・秋山眞之生誕祭。
昨日(3月20日)、愛媛県、松山市、他多くの関係来賓参列の下盛大に秋山眞之生誕148年祭が秋山兄弟生誕地武道館で開催されました。
式典は、秋山兄弟生誕地を管理している、公益財団法人常盤同郷会、平松昇理事長の挨拶で始まり式典後は、お茶会、お琴の演奏会で眞之を暫しの間偲びました。
秋山眞之は、伊予松山藩士・秋山久敬の5男として慶応4年3月20日、に生まれ幼名は淳五郎で、元服し名を眞之と改めました。
眞之は、兄好古の支援をえて東京大学を目指し、東京大学予備門に入学、東京帝国大学を目指しますが、尊敬する兄、好古に学費、生活費の負担を掛けることは偲びがたし、の思いを持ち、兄を説得し了解を得て海軍兵学校17期生として進学しました。(なお、東京大学予備門の同級生に夏目漱石がいました。)
海軍兵学校では、終始首席で卒業し海軍大学校教官を経て、日露戦争勃発には、日本海軍連合艦隊司令長官東郷平八郎の下で作戦担当参謀となり、旗艦「三笠」に乗艦、日本海海戦では、帝国ロシア海軍太平洋第二艦隊・第三艦隊を日本海で撃滅その作戦を全て秋山眞之が専任参謀として立案し勝利に導き貢献しました。
その後大佐となり、海軍少将と昇進、大正6年12月1日中将に昇進、大正7年2月4日、小田原の山下亀三郎(山下汽船創設者)の別宅で盲腸炎を患い腹膜炎を併発し亡くなりました。享年50歳、海軍中将従四位勲二等旭日重光章であります。
墓所は、東京青山霊園に兄好古と一緒でありましたが、昭和62年鎌倉霊園に改葬しました。

画像は3月20日開催された秋山淳五郎眞之の生誕148年祭であります。

                  記

1、日  時  平成28年3月20日(春文の日)
        午前 9時30分 式典
        午前10時00分 伊豫売茶流・天山会の茶会 
        正派邦楽大師範箏・三絃「前谷雅貴社中」小・中学生の琴演奏会
2、茶  会  生誕148年祭式典後お茶会開催
        午後 3時 閉会
3、場  所  秋山兄弟生誕地 武道場「松山市歩行町二丁目3番地6」
4、来  賓  愛媛県知事代理・松山市長代理・山下亀三郎氏の孫、山下洋次郎氏(東京在住)・山下家本家、山下重蔵氏(宇和島市)
5、参  考  秋山眞之誕生日  慶応4年3月20日


式典会場「秋山兄弟生誕地・武道場」


午前9時30分開式、生誕148年祭開催の挨拶を述べる、公益財団法人常盤同郷会、平松昇理事長。


東京在住の山下汽船創設者、山下亀三郎氏の孫、山下洋次郎洋氏の挨拶
山下汽船は現在商船三井。
挨拶の中で、眞之は小田原の山下亀三郎氏の別荘で亡くなったが、山下亀三郎氏が日記に書いていた当時の様子の一部を披露した。
当時山県有朋が小田原の別荘に居た。眞之は、これから近代的な日本の国造りは山形閣下が中心となり建国されていかれるお方です。お願いは米国とだけは事を構えないようにお願いします。物量、資源豊かな米国と事を構えると日本は駄目になってしまします。・・この様な事柄をお願いに小田原の山下亀三郎氏の別荘で居た時に盲腸を患い腹膜炎を併発して亡くなった。小田原には腹膜炎を治す医師が居なかったと言われている。


愛媛県知事は議会開催の為代理者が参列、松山市長も公務の為代理者が参列、生前秋山眞之と深い交友のあった山下亀三郎氏の関係者の皆さんが参列し眞之を偲んだ。


眞之に対して献茶の準備をする、伊豫売茶流・天山会の家元。 


公益財団法人常盤同郷会・藤島理事が眞之に献茶。


148年祭を祝し正派邦楽会、大師範・琴・三弦前谷雅貴社中の皆さんが演奏した。最初に演奏された曲の素晴らしいアレンジで演奏し会場から一斉に大きな拍手が起こった。


素晴らしい演奏を聞き入る参列者。


生誕148年祭式典後、お茶会が始まり琴の演奏を聴きながら、点茶が始まりそして眞之を偲んでいた。


眞之生誕148年祭式場で琴の演奏指された正派邦楽会、大師範・琴・三弦前谷雅貴社中の皆さん。


来賓として参列された皆様方。


来賓として参列された各位に伊豫売茶流・天山会の家元が点茶。


秋山兄弟生誕地では、5年前の眞之生誕祭から、眞之の大好物であった「いり豆」を秋山兄弟生誕地・女性研究員が、伊予の名産「伊予絣」で袋を作り、その中に「いり豆」を入れて限定頒布しました。武智研究員と石川研究員。


一日遅れての地元紙「愛媛新聞記事」掲載。
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