EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

往年の名車・二輪「メグロ」

2011年07月29日 | 往年の名車 メグロ
愛媛県運動公園事務所の一角で、嘗ての二輪の名車「メグロ」が11台展示されている。8月28日まで。昭和30年代には国産の二輪車は沢山の製作会社があった中で特にメグロがよかった。単気筒エンジンで、独特のエンジン音を響かせる目黒製作所のメグロを愛好する者が多かった。
今回の展示は、愛媛メグロ愛好会、(代表の佐伯さん)が企画した。

メグロとは、目黒製作所 (めぐろせいさくしょ)の事で、日本に存在したオートバイメーカーで、「メグロ」の通称で知られる。大東亜戦争前からの日本メーカーとしては最も遅くまで活動していたが、昭和38年川崎重工の傘下になり、名称もカワサキ・メグロとなり、昭和44年に最後の生産となる。
展示されているメグロは、整備が行き届いており全て稼働出来、車両番号標(ナンバープレー)が付いている登録車であった。

展示のメグロを見ていると、学生時代自宅に有った、メグロジュニアS3型(250cc)に乗り正月元旦香川県の金比羅宮に初詣に行った事を思い出した。当時は防寒具もお粗末な物で厳寒の早朝暗がりに出て日帰り、国道11号線は未舗装よく走行したものだ。・・若かったから出来た事・・懐かしい思い出である。
昭和20年~30年代、愛媛県警の白バイは、陸王、キャブトン、メグロの3機種でメグロが一番多かった。・・形もよかった・・メグロは、ブレーキぺタルとギヤーぺタルが他の二輪車とは左右逆であった。


懐かしの昭和の名車メーグロ展のポスター。


往年の名車11台のメグロ展示。


往年の名車11台のメグロが勢ぞろい。維持管理が大変だそうです。


昭和31年形式のメグロスタミナK1、500cc、2気筒エンジン搭載新しい時代のねばり強いエンジンで特に各県警、警視庁の白バイとして採用され、その後改良されK2に引き継がれた名車中の名車。当時の価格29万5千円


昭和35年形式、メグロジュニアS7 250ccでメグロの中で最も売れた車種であった。当時の価格29万5千円


昭和31年形式、メグロスタミナZ7、名称を公募して付けられた名前「スタミナの愛称が付いた」メグロの伝統500ccを引き継ぐ看板車種、単気筒エンジン「ビッグシングル」の代名詞が付き 31年~35年までロングセラーを続けた。当時の価格26万円


昭和31年形式、ロングセラーを続けたメグロスタミナZ7のエンジン。
新車の如く綺麗に整備されていた。


ロングセラーを続けたメグロスタミナZ7のスピードメーター


メグロのシンボルマーク


画像は昭和40年形式で、ロングセラーを続けたメグロも、川崎航空機工業(現川崎重工)に引き継がれ名称もカワサキメグロとなり昭和44年に生産中止となった。
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昭和20年7月26日、松山大空襲

2011年07月26日 | 伊予松山歴史散策
今日7月26日は、66年前松山大空襲の日である。

昭和16年12月8日に日本国は、真珠湾を奇襲攻撃し米英に対して宣戦布告、大東亜戦争になった。その後日本は劣勢になり、沖縄戦線、本土空襲を受け、広島、長崎に原子爆弾を投下され昭和20年8月14日ポツダム宣言を受諾し
8月16日連合軍から日本軍に対し停戦命令、9月2日戦艦ミズリー号で降伏文書調印、昭和27年4月28日平和条約「サンフランシスコ講和条約」の締結が発効され戦争状態の終結日となり、日本が戦後初めて主権が認められ占領国から独立をしたのである。(先進国で独立記念日を祝わないのは日本だけである)

松山市は、昭和20年7月26日、サイパン・イスレイ飛行場の米軍第73爆撃団所属の空飛ぶ要塞、B-29、350機が大牟田・松山・徳山の三都市を攻撃のため飛び立った。その内128機が松山を爆撃し一瞬にして焼け野原となった。

慶長5年(1600年)加藤嘉明は、関ヶ原の戦いで武勲を上げ徳川家康から伊予国20万石を拝領し慶長8年(1603年)10月この地を「松山」とすると言ってから長い年月を掛けて築き挙げてきた松山の街は、342年後の
昭和20年7月26日午後11時08分に始まり27日午前1時13分頃まで約2時間余り爆撃は継続、攻撃要領は、大都市に対するものと同じ方法で行われ、攻撃の先頭部隊は無数の小型焼夷弾を投下次いで、後続の部隊が大型の焼夷弾を投下した。投下した焼夷弾は896トンと米軍の資料にある。

これで江戸時代から構築してきた松山の街は、一夜にして焼け野原と化した。
但し、松山城は攻撃から外されていたそうだが誤って焼夷弾が投下された。
東京大空襲(昭和20年3月9日)から約4ヶ月後の事である。

松山の戦後昭和20年から昭和46年代の画像を入手したので紹介します。


昭和15年の画像で左の建物は日本銀行松山支店、右の空き地は,現在の伊予銀行本店。


昭和20年7月26日松山大空襲で残った建築物、県庁前から大街道方面。


昭和22年復興の兆しが見えてきた松山。現在のロープウエイ街、奥の山は松山城の一部。


昭和24年の上一万交差点。


昭和22年、一番町交差点、映画館「ロマン座」現在は愛媛銀行大街道支店。


昭和25年時代、東堀端、左の建物は県会議事堂。右の更地は、進駐軍の命令で一部埋め立てられた三の丸堀の一部。


昭和26年代の一番町交差点。


昭和28年代、南堀端にある農協会館。


昭和28年代の映画広告「野立て看板」。


昭和21年の三越松山店として開店した。三越としては戦後初の新規出店であった。


昭和35年代の勝山交差点、右の建物は愛媛銀行本店。


昭和46年代の大街道一丁目。


昭和46年代の大街道一番町口。
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なでしこジャパン「世界女子サッカーワールドカップ・優勝」

2011年07月19日 | なでしこジャパン「世界女子サッカーワール
おめでとう!!なでしこジャパン
7月18日(月)早朝大和なでしこが、凄い事を成し遂げた。・・世界一の栄冠。
昭和35年に日本で女子がサッカーをするのかと冷ややかな目で見られていた時代をじっと耐えて基礎を創ってきたOGを初め現役の選手達は凄い。

昭和55年3月22日・23日、第1回全日本女子サッカー選手権大会が積雪の中東京で開催、コートサイズもゴールサイズ、使用するボールは4号球、試合時間は50分、選手の層が足りなかったので8人制で実施したとある。・・これが現在のなでしこジャパンの礎である。・・しかし今も生活環境は厳しい中で勝ち取った世界一の栄冠は凄い、素晴らしいの一言である。!!

翌昭和56年日本女子代表チームが結成外国チームと試合を始めてから30年目の7月18日世界の頂点に立った。
彼女達を支えてきたものは、先ず家族の絆が強い、父親は縁の下の支援者で、母親が確りと支えていた。

優勝したなでしこジャパンは泣かなかった!!直ぐに涙ぐみ言葉にならないのが日本人、今回の選手は誰一人泣かなかった。それだけ真の強い心の持ち主の集団・・女侍だ。・・殆どの選手はアマチュアで、プロ契約の選手は一部である。

外国各紙も奮闘を称賛し、その中になでしこジャパンを「すし職人の包丁さばきのようにピッチを鋭く切り裂いた」と称えた。 

日本に敗れた米国のメディアも「なでしこ」の奮闘を称賛した。米ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)は「希望と忍耐で数少ない幸運を生かして勝利に酔った日本が被災地を励ました」とたたえ、歓喜に沸く日本の様子にも触れた。

「希望と忍耐で数少ない幸運を生かして勝利に酔った日本が被災地を励ました」とたたえ、歓喜に沸く日本の様子にも触れた。

そして、参加国の中で一番の「フェアプレー」で戦い抜いたと絶賛された。

日本政府も女性で構成し、元気の日本に立て直して欲しいものだ。

註:なでしこジャパン:サッカー女子日本代表の愛称。日本サッカー協会が平成16年、アテネ五輪に出場する代表チームの認知度を高めようと愛称を公募。2700件の中から決定し商標登録した。「やまとなでしこ」は清楚な日本女性の代名詞。なでるように可愛がられる子を「なでしこ」と呼び、植物の撫子と掛け合わせた。


優勝トロフィーを受賞し掲げて喜ぶ、なでしこジャパンの選手達。






世界NO1FWの、ワンバック選手(米国)から祝福を受ける「なでしこジャパン澤穂希主将」


サッカー女子W杯・MFの澤穂希選手が5得点をあげ得点王に輝く。右は、4得点のワンバック選手(米国)


サッカー女子W杯・MFの澤穂希選手が最優秀選手(MVP)に輝く。


いい表現!!最高の贈り物・・東北の方々に・・日本の女性は心が強い・・国会の男達なにやってんだ

なでしこ
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道後温泉本館・振鷺閣の刻太鼓

2011年07月17日 | 道後温泉本館・振鷺閣の刻太鼓
今日(7月17日)の松山市は、今夏最高気温36,2度を記録した。
暑い中道後温泉ガイド当番であった。

この日松山市でノルディック・ウオーク大会が開催されていた。松山城三之丸の城山公園をスタートし、松山城本丸や道後温泉周辺を中四国から1000人のノルディック・ウオーク愛好者が参加、36度まで上昇した天候の下汗を流していた。・・熱中症は??大丈夫だったのだろうか!!

大会は松山市で日本病院脳神経外科学会が開催されているのを記念し開催、イベント参加費は東日本大震災の被災地支援のため、愛媛県の「えひめ愛顔(えがお)の助け合い基金」に寄付されるそうです。

今日の道後温泉は大きな大会開催でどのホテルも満室で嬉しい悲鳴を上げていた。
私は、東京から来られた方4名を道後温泉本館界隈を案内し、最後に本館最上階「振鷺閣」にある、刻太鼓を冠山から紹介し案内した。

刻太鼓は、午前6時に6回、昼12時に12回、午後6時に6回、時刻を告げる「刻太鼓」として女子職員が太鼓を打つ。
この刻太鼓の音は、平成14年に環境庁(当時)の「残したい日本の音風景100選」に選ばれ道後温泉の「刻太鼓」は83番目として「残したい日本の音風景100選」に選定された。

註:日本の音風景100選(にほんのおとふうけいひゃくせん)は、平成14年に当時の環境庁(現・環境省)が「全国各地で人々が地域のシンボルとして大切にし、将来に残していきたいと願っている音の聞こえる環境(音風景)」を広く公募。「日本の音風景検討会」の選定審査の結果に基づき、これらの応募のうちから音環境を保全する上で特に意義があると認められる100件を選定したものである。

画像は、840mmで本日撮影した。


冠山からの道後温泉本館・・最上階が振鷺閣でここに刻太鼓がある。


正午前の振鷺閣。・・未だ職員は上ってないです。


正午が近づき女子職員が上って来た。


今日も正午ジャストに刻太鼓を打たなければ、今日は観光のお客様が多いから何時もよりも気合を入れて・・腕まくりをしていざ・・




全て準備万端、後は正午の時報を待つのみ。


正午の時報を合図に・・鋭、日本の音風景100選の音を聞いてもらわないと心を篭めて。


正午の刻太鼓12回無事打ち止めした・・疲れました。
次は、夕刻6時に6回打ちます。・・

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第93回全国高校野球選手権愛媛大会 開会式

2011年07月14日 | 第93回全国高校野球選手権愛媛大会 開会
今日(7月14日)第93回全国高校野球選手権愛媛県大会が松山市の坊っちゃんスタジアムで開会式が行われ、13日間熱戦が繰り広げられる。
今日の第一試合、県立東温高校対県立今治南高校の試合を見て来た。
今年の愛媛県大会は、参加59校が甲子園を目指して対戦する。
 昨年秋の県大会を制した第1シードの新田は、通算本塁打40本を超える4番細川を中心とした強打が武器。守りも本格派右腕中川を軸に安定感がある。

 春の県大会で優勝した第2シードの川之江は最速145キロのエース大西翼を柱とした堅守が持ち味。攻撃も川上稔、水野、山西の中軸にしぶとさが光る。
 第3シードの三島は力勝負に小技を絡めた得点力で勝負。俊足の先頭高橋、飛距離十分の4番三好が個性を発揮する。エースの奥定も制球力を増した。

 第4シードの帝京第五は総合力で頂点を狙う。守備は井上、上野の投の二枚看板を土台に安定。嬉野、早瀬、近藤の中軸のほか、下位も長打力がある。あとは強力打線の西条、投打の柱が健在の八幡浜、走攻守そろった山下を中心に巻き返しを図る済美、経験豊富な今治西、結束力で勝負の松山商ら実力校も加わり頂点を争う。
何処が愛媛県代表になるかが楽しみである。一番面白い準準決勝戦を観戦に行く。


スコアーボードに表示された「第95回全国高等学校野球選手権・愛媛大会」開会式は午前11時から始まった。


全国高等学校野球選手権 愛媛大会のプラカードを持ち、日章旗が先頭にいよいよ選手入場行進が始まった。


入場行進の曲を奏でる松山市内高等学校の吹奏部員・・始めは、「栄冠は君に輝く」・・いい曲である。

「雲は湧き 光あふれて 天高く 純白の球(タマ) 今日ぞ飛ぶ  若人よ いざ まなじりは歓呼にこたえ いさぎよし 微笑む希望 ああ栄冠は 君に輝く」



愛媛県下参加校59校の勢ぞろい。


ホームベース近くに参加校の主将が校旗を持ち寄り、参加校を代表して愛媛県立西条農業高校野球部松本将成主将が選手宣誓をした。
素晴らしい宣誓であった。


入場する選手を取材する報道関係者。


主催者朝日新聞社のヘリから投下される始球式使用のボール。


ヘリから投下されたボールで中村時広愛媛県知事が始球式・・ストライクであった。


開会式後の第一試合:今治南高校対東温高校結果は、9対2の7回コールド試合で、東温高校が勝った。


25,000人収容の松山市営球場「愛称:坊っちゃんスタジアム」。
両翼:90.8 m・中堅:118.9 mの国際規格の球場で、ここで世界女子野球選手権大会も行われ、四国で初めてプロ野球オールスター戦も開催された。
平成24年にプロ野球オールスター戦が開催される。


平成17年4月24日、坊っちゃんスタジアムで東京ヤクルトスワローズの古田選手が対広島戦で達成した2,000本安打、記念のボールを二塁上でサインして、ライト側に全力疾走してスタンドのお客さんに投げ込んだ「古田選手は、みなさんに喜んでいただければと思い・・と言った」その姿の写真と経歴が刻まれている記念の石碑が坊っちゃんスタジアムにある。


明治29年作の正岡子規の句・・坊っちゃんスタジアムにある。


正岡子規が東京大学を中退して就職した日本新聞の記者時代に発表した野球用語、「打者・走者・直球・四球・死球等々」を新聞に紹介して野球を全国に広めた。その功績で 平成14年10月20日に野球殿堂入りをした。
記念に建立した記念碑。・・これも坊っちゃんスタジアムにある。
松山の野球が盛んなのは子規の功績である。
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