EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

東京スカイツリー開業日は・・雨だった

2012年05月31日 | 伊予松山歴史散策
5月22日(火)の計画は、日本100名城紀行東京駅から高崎市に出て「箕輪城」「金山城&新田神社」「足利氏館&足利学校」を紀行して、東武伊勢崎線、足利市駅発15時43分「特急・りょうもう30号浅草行き」で16時55分に東京スカイツリー駅に行きスカイツリーのライトアップを撮る予定であった。

行動は予定通りだったが、天候は違った・・生憎雨天となった。
午後5時前に東京スカイツリー駅着き、早速東武橋を渡り北十間川に行ってみた。新たに川面近くに整備された遊歩道を散策した。・・スカイツリーは雲の中。

昨年8月に来た時は、河川改良工事中だったが綺麗に整備完了されていた。
世界一高い東京スカイツリー(電波塔)の周辺は、それ相応に整備しないと外国からも大勢の人びとが訪れるのだからお持て成しの披露が必要だ。

ニュースを見ると、心無い見学者が何の断りも無く建物の2Fに(ベランダ)上りこみ平気で写真を撮る者、ゴミを置き去りにする者、不道徳極まりない。自分さえよければそれでよし、こんな日本人が最近増えてきた。・・社会道徳の躾がなされてない・・なさけない日本人が増えている。嘆かわしい現象だ。愚痴ってもしょうがない。

さて本題に、雨天だったので撮影を諦めてホテルに帰った。翌日の新聞を見ると雲の切れ目から綺麗に写し出されたスカイツリーが一面に載っていた。
プロのカメラマンは必ず見えることを信じ待機していたのだ。・・流石プロ!!

開業日の特別演出として、通常営業では一日交代点灯の「粋」と江戸紫の「雅」が30分毎に切り替え点灯されたそうだ。・・撮れなく残念!!

註:スカイツリーの第一展望台(350m)と空中散歩を味わえる第二展望台(450m)に設置されているステンレス製手すりは我が県、愛媛県四国中央市の会社が製造した製品です。・・ちょと自慢


画像は東武伊勢崎線「特急りようもう30号」・・これで足利市駅から東京スカイツリー駅に移動、約1時間20分の列車の旅
東京スカイツリー駅のホームが狭い、拡張出来なかったのか?土日祝日春休み夏休みには大勢の人出ホームから落ちそう


東京スカイツリー駅1番ホーム案内板


東京スカイツリー駅1・2番線の案内板


東京スカイツリー駅東武橋側改札口


東武橋から見た北十間川で、川面に近く整備されて遊歩道が出来ていた・・斜めに出る噴水も出来ていた・・中ほどには浮き橋を設けて左右に渡れるようにしていた


北十間川護岸道路も綺麗な舗装仕上げに、開業日なのに雨天だった為か歩く人が思ったより少なかった


午後5時09分・東武橋欄干から片手で傘を持ち片手でシャッターをおした・・上部は雲の中


午後5時47分・吾妻橋欄干から、殆どスカイツリーは雲と霧とで確認できず・・下部が少し見えるだけ
この状態なので諦めてホテルに帰った・・ホテルの窓には横殴りの雨が降っていた
風が出たので雲が途切れたのか翌日新聞の画像には午後7時9分撮影とあった、雅でライトアップされた綺麗な画像が載せてあった
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東京スカイツリー開業・新シンボルに希望の灯が

2012年05月29日 | 伊予松山歴史散策
5月22日(火)開業した世界一高いタワー、東京スカイツリー、高さ634メートル(東京都墨田区押上一丁目1番13号に建設された電波塔)が開業した。

平成15年12月に日本放送協会(NHK)と在京民間テレビ局5社(日本テレビ放送網、東京放送(TBSテレビ)、フジテレビジョン、テレビ朝日、テレビ東京)が600m級の新しい電波塔を求めて「在京6社新タワー推進プロジェクト」を発足させたのが始まりであった。
そして平成20年7月14日に着工され、3年半の期間をかけて平成24年2月29日に竣工した。
予定通り5月22日に展望台として開業して、今年4月から来年3月にかけて放送局の試験放送ならびに本放送を実施する計画・・とある。

今回、奈川県平塚市に発見された秋山好古揮毫の石碑取材を兼ねて22日夕方行ってみた。主な目的はライトアップの画像が撮りたくて、しかしこの日は雨天で撮影を諦め、23日平塚市の帰りに撮影した。

この日は、好天に恵まれ浅草の隅田川に掛かる「言問い橋」下手から、東武伊勢崎線橋梁下手から、「吾妻橋」から撮影、そして吾妻橋を渡り対岸の北十間川に架かる「枕橋」「源森橋」「小梅橋」「東武橋」からと撮った。
昨年8月に行ったとき北十間川両岸は整備されてなかったが、今回行ってみるとスッカリ様変わりしていた。

22日初日は開業日の特別演出として、通常営業では一日交代点灯の「粋」と江戸紫の「雅」が30分毎に切り替え点灯されたそうだ。
昨日は雨天だったが二日目は好天、今日も特別に「粋」と「雅」を切り替えてくれるのかと期待していたがそれはなかった。
23日は「粋」であった。

地方から来る観光客の為に一夜で「粋」と「雅」が観賞出来るように配慮してほしいものだ。


平塚市で石碑取材に使った必要な用品をホテルに置き、撮影に必要なものだけを持って浅草に出掛けた
吾妻橋から少し上手では俄かカメラマンでごった返していた・・手持ち撮影なので少しぶれている
ゲイン塔が霧に反射して幻想のゲイン塔が出来ていた!!


ここからは一眼レフ+三脚を使い撮影開始午後7時21分から、場所は言問橋の下手から・・先ずは一枚を


すると隅田川から屋形船でスカイツリーを観賞する船がやってきた・・風流なものだねお江戸は


撮影場所を、東武伊勢崎線隅田川橋梁を渡る東武特急電車を入れて撮ってみた、そしてクロスフィルターを使用


今回来た船は、近代的な観光船が観賞客を乗せてやってきた・・この頃から634mあたりに薄い霧が掛かってきた


午後7時46分場所は吾妻橋欄干から、ゲイン塔に掛かる霧が多くなってきた


吾妻橋を渡り対岸に出て歩く事約20分途中勝海舟の銅像があった・海援隊の出航を見送った時を模して建立したとか、そして先ず枕橋から撮ったが思った構図ではなかったので場所を変えて・・源森橋から・・左の白い線は東武伊勢崎線電車
第一展望台が350m 第二展望台が450m ゲイン塔付近は霧がかかり粋な感じ//ゲイン塔に透明な保護キャップを被せたような



移動して東武橋袂からここまで近づくと広角でないと全容が撮れない
すみだ水族館の文字を入れて


スカイツリー真下から・・「雅」のライトアップも撮ってみたかった・・迫力のあるスカイツリー・・よくぞ造り上げてものだ・・3.11の地震にも耐えたし


東武橋から少し上流北十間川遊歩道から


時間は午後8時47分、観賞者は盛んにコンデジ・携帯等々で夜景を撮っていた・・昨晩は雨天だったので23日は好天、撮るには早い内に撮りたいのだろう・・思うことは誰しも同じ
私は未だ夕食を撮ってなかったのでこれで切り上げた・・ビールを飲みながら夕食を取った・・次回東京に行く時に「雅」のスカイツリーを是非撮りたい
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秋山好古揮毫石碑新たに発見

2012年05月28日 | 伊予松山歴史散策
神奈川県平塚市広川にその取材紀行

5月21日金環部分日食を撮影してから直ぐに石碑取材のため松山を出発した。
今回はJRで移動した。・・そして23日平塚市に取材・・以下の通り。

秋山好古揮毫の石碑が新たに発見された。
所在地は、神奈川県平塚市広川である。
先月18日に遠路平塚市から添田敬子様が石碑の拓本他資料持参で秋山兄弟生誕地にお越しになられた。

石碑の建立は、明治27年7月から同28年3月に掛けて行われた日本と清国との戦争に騎兵隊員として従軍し名誉な戦死をされた添田賢次郎騎兵一等卒のため、実父の添田保吉さんが添田家の為後世に伝えたく上官であった秋山好古に揮毫を依頼し石碑を建立した。

好古は、これに応じ名誉な戦死をした優秀な騎兵隊員であった添田賢次郎騎兵隊員に対して心から哀悼の意を最高の漢詩で撰文した。
実父の保吉さんは撰文を添田家のすぐ近くにある神社に許可を得て石碑を建立した。
添田賢次郎さんは、保吉さんの長男で添田家嫡男、跡取り息子を亡くした悲しみは大変であったと思う。

現在、好古揮毫の石碑は全国に49基発見されているが、名誉な戦死をした優秀な騎兵隊員に対して漢詩で撰文した石碑は2基のみで貴重な石碑である。
なお1基は千葉県鎌ヶ谷市の道野辺神社にあるが、石碑は三つに折れ神社境内奥深い場所に18年間も眠っている。早く日の目を見る場所に再建立して頂きたく昨年6月宮司さんにお願いに伺った。
よって現在建立されている石碑は平塚市の石碑のみである。

平成18年10月6日に東京都世田谷区にある「日清戦争で戦死された騎兵隊員に哀悼の意を篭めて建立した」石碑を私が取材した。
その石碑裏面に14名の戦死者の名前を好古は直筆で刻印している。
この度、私に添田敬子さんから世田谷の石碑に「添田賢次郎」の名前があるか照会があった。裏面写真を撮った中にありました。好古は忘れることなく名前を書いていた。

世田谷の石碑は、好古が建立者で戦死した隊員の事を後世に伝えたく直筆で名前を揮毫し好古自身が石碑を建立した。
建立年月日は、明治29年6月30日で当時好古は、騎兵第一連隊長であった。
それから月日は流れ58年後に世田谷の石碑と平塚市の石碑の結びつきが判明した。
添田敬子夫妻は早速に世田谷区の石碑をお参りするそうです。

「高が石碑然れど石碑」好古が心を篭めて哀悼の意を揮毫した石碑がいま実を結んだのである。・・後世に伝わったその証しだ


明治31年、添田賢次郎さんの実父から揮毫依頼を受けた秋山好古が賢次郎騎兵隊員の為に漢詩で撰文し揮毫した。その全容を石碑として同年10月実父 保吉さんが建立した。


好古は、「義 烈」と揮毫した
石碑上部の揮毫でこれを「篆額てんがくまたは、篆書てんしょ」と呼ぶ
石碑などの上部に篆書体で書かれた題字のこと


揮毫した秋山好古騎兵大佐、39歳の時


秋山好古が哀悼の意を漢詩で撰文した全文


好古が漢詩で撰文した碑文の読み


石碑裏面、明治31年吉日 實父 添田保吉建立  石工 多田新太郎と刻印


神奈川県平塚市広川にある、広川八幡神社正面、右奥に石碑を見る事が出来る


広川八幡神社境内、昔は境内で村祭りには青年団が芝居をしたそうです


現在添田家は3人兄弟で、23日私を皆さんが出迎えて頂いた
当日は大変お世話になりました・・取材後昼食をご馳走になり、小田原市の一夜城跡を案内して頂きました・・一夜城跡もブログに掲載します・・見て下さい


石碑はご覧の通り少し左に傾いている・・これは石碑右にある大きな樹の根っこが石碑の台座を持ち上げているためです・・今に内に手直ししなくては・・



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金環日食・松山市では

2012年05月27日 | 伊予松山歴史散策
5月21日、金環日食が日本各地広範囲で観察出来たのは、平安時代以来932年振りだそうです。
松山市は、雲の多い天候で太陽がリング状になる状態ではなく部分日食として観察出来た。
松山市で観察出来た日食の始まりが06時15分から食の最大が07時26分、食の終わりが08時49分だった。

松山で食の始め頃は雲に覆われ見えなかったが、私はこの日所用で東京に行くため出掛け様としていた。すると雲の切れ間に時々部分日食が見え慌ててカメラを取り出し時間の許す限りシャッターをおした。

残念ながら時間が無く07時46分最後のシャッターを押し東京に向かった。
その時の画像です。


撮影時間は07時32分、食の最大時が07時26分だったので最大時に近い日食・・撮れてラッキーよくぞ雲が切れた


07時38分撮影、まだ雲の切れ間から観察継続


07時40分撮影、雲に遮られそう・・だがまだ見えていた


07時43分撮影、黒い雲が近づいて来た


07時45分撮影、周囲に大きな雲があるがここだけが雲が切れ何とか見えた


07時46分撮影、これを最後にして予約で待たしてあったタクシーに乗車東京に向かった・・薄い雲がフィルターの役目をしてくれて部分日食を撮る事が出来た・・金環日食が観測出来た所は気温が約1度低下したそうだ・・太陽の威力改めて感じた・・何時まで太陽は健在なのか??

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一草庵・放浪の俳人「種田 山頭火」

2012年05月15日 | 伊予松山歴史散策
先日県外からお越しになった俳句愛好者であられる方から種田山頭火が松山で過ごしたと言われている一草庵を案内して欲しいと頼まれてお連れしました。その時の画像を交えて紹介します。
一草庵は、松山市御幸一丁目435番地1にあり愛媛県護国神社の直ぐ西に位置する御幸地前にある、種田山頭火終焉地である。名前は正一で明治15年(1882)12月3日―昭和15年(1940)10月11日、山口県西佐波令村(現・山口県防府市大道)の大地主の出身。旧制山口中学(現山口県立山口高等学校)から早稲田大学文学部に入学したが、神経衰弱のため中退した。その後、帰省し療養の傍ら家業である造り酒屋を手伝った。

明治44年(1911)荻原井泉水の主宰する自由律俳誌『層雲』に寄稿。
大正2年(1913)井泉水の門下となる。大正5年(1916))には、『層雲』の選者に参加。その後雲水放浪に生き托鉢行乞の旅をつづけ、酒に生き、句作に生きた山頭火は「わたしはのんだ、今まで日本を歩いたが、伊豫国が一番よかったように思う。風土も美しく人情もよかった。どうせ死ぬなら伊豫へ渡るとしようか」と友人らに相談し彼らの世話で昭和14年10月1日広島から海路松山に上陸して道後温泉に歩いて15分ここに小庵を結び安住した。もう一つ松山に来たかったのは、野村朱鱗洞の墓参もあった。

「おちついて死ねそうな草萠ゆる」 来松一年目の昭和15年10月11日急死し享年59歳。
松山では、大山澄太をはじめ高橋一洵・藤岡正一達が山頭火を支えたのである。
自由奔放に生きた生涯であった。

庭内に自由律の自筆句碑2基がある。
「鐵鉢の中へも霰」 「春風の鉢の子一つ」


ひょいと四国へ晴れきつてゐる・・山頭火と伊豫松山


平成21年3月に完成した一草庵と入口の案内板


一草庵の扁額「本物」


平成21年3月に完成した一草庵




一草庵の玄関で「一草庵の扁額」は複製品で、本物は南側縁側奥に保管されている


一草庵座敷


平成21年3月に完成した一草庵、隣接する用地を取得して休憩所等の施設を建設した・画像は、休憩所


画像は何時頃か不明だが、山頭火が住んでいた改築前の一草庵


昭和27年(1952)10月、当時の愛媛県知事・久松定武を会長とする「山頭火顕彰会」が浄財を集めて庵を再建したとある・・その時は玄関横の増築された建物はないので、その後の物


平成21年3月再建当時の建物として工事は行われた


昭和27年10月再建当時の一草庵・奥に伊豫松山城天守が見える


昭和27年再建以前の間取り


一草庵、玄関口にある句碑
鐵鉢(てつぱつ)の中へも霰(あられ)・・昭和7年1月8日、福岡県遠軽郡芦屋町で托鉢に出た時の句


一草庵、玄関口にある句碑
春風の鉢の子一つ・・昭和8年3月19日山口市小郡町での句
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