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EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

ブログ終了のご挨拶

2025年09月06日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

ブログ終了のご挨拶

皆様ご挨拶がおそくなりました。

平成21年7月15日に開設いたしました私の拙いブログは、今年(令和7年11月18日)をもってサービスを終了いたしますとbiog.gooから告知されました。

私は、ブログを開設にあたり色々と検討した結果、docomo系列であるから信用してお世話になる事にいたしましたが、この度をサービス終了の宣言があり、継続される方は他のブログサービスに引っ越し移設して下さいとの指示です。引っ越し移設作業を大変な作業で私の技量では困難だと思います。

これを機会に私のブログ「https://biog.goo.ne.jp/jr5eek」を閉鎖いたしたく思います。

長らく私の拙いブログを見て頂き大変ありがとうございました。そして大変有意義なコメント沢山お送り頂きありがとうございました。感謝いたしております。

最後になりましたが

ここ近年日本列島は亜熱帯化が進み特に夏季は異常気象で高温の日が連続で続き熱中症になる方が多いようです。

まだ暑い日が続く様ですので皆様くれぐれも御身ご自愛されお過ごし下さい。

長い間ありがとうございました。

添付の画像は、現存12天守の一つである松山城本丸城郭と、後方に聳える西日本最高峰で日本100名山の一つである、石鎚山(標高1982m)をバックにした画像を添付いたしますので御覧下さい。

この画角で撮影出来る場所は松山市では一箇所しかなく貴重な所です。探すのは難しい場所です。

参考までに:令和7年4月29日放映されたNHK総合TV「日本最強の城スペシャル」でNHKの要請で画像を提供いたし放映に使用された画像です。

後方に聳える山は、西日本最高峰の石鎚山(標高1982m)で、石鎚山をバックにした松山城天守です。

この画像をNHKさんが使われました。

参考事項:松山城天守のある本丸は132mの勝山に建造されています。城郭の形式は「平山城」です。

(日本三大平山城:津山城・姫路城・松山城)

現存12天守の一つである松山城本丸城郭と、後方に聳える山は、西日本最高峰で日本100名山の一つである、石鎚山(標高1982m)です。石鎚山をバックにした松山城です。

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      秋山好古揮毫の石碑写真集 第3版が出版された

2025年05月30日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

        

この度、秋山好古揮毫の石碑写真集第3版が秋山好古生誕166年記念に令和7年4月29日付けで刊行された。

平成23年12月1日に2版が発行されてから新たに石碑が5基発見され今回3版に追加掲載された。

その石碑は次の通りである。

神奈川県平塚市・長野県安曇野市・京都市右京区・愛媛県大洲市・愛媛県上浮穴郡久万高原町に発見され掲載されている。特に京都市右京区の石碑は、関西地区で初めての石碑で大変貴重な石碑であります。

秋山好古・眞之生誕地生家再建事業は、平成17年1月18日完成し、その日にNHKおはよう日本の大型ニュース番組で現地から生放送され全国に紹介されました。

またNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」が放映され今まで2度に渡り再放送があり全国から秋山兄弟愛好者の方々が大勢お越し頂いています。

平成17年5月5日生誕地に大阪から来られた好古支援者の方から重信町(現東温市)にある神社に好古が揮毫したものがあるそこ行きたいので紹介して欲しい質問がありました。秋山邸ではその情報の持ち合わせがなくご案内出来ず大変な罵倒でお叱りを受けました。

後日神社に伺い宮司にお聞きすると「築島神社」と揮毫した神社の社号額でありました。

私はこれが切っ掛けとなり好古揮毫の石碑調査を始めました。

今年で20年になります。その集大成がこの写真集第3版です。

秋山好古揮毫石碑写真集第3版は国立国会図書館・愛媛県立図書館・松山市立中央図書館に納本しておりますのでご覧になって下さい。秋山兄弟生誕地にて頒布いたしております。

なお、新たに発見された5基の石碑を掲載します。

先ずは、京都市右京区の石碑からご案内します。

       

1.碑      文: 山國御陵

2.所 在 地: 京都府京都市右京区京北井戸町(常照皇寺参道口)

3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古

4.建 立 者: 山國村(旧 京都府北桑田郡山國村)

5.建立年月日: 不 明 

6.墓石大きさ : 高さ182cm 横幅 96cm 厚さ 22cm

7.石碑の由来: 石碑裏面には「昭和戊辰御大典記念陸軍大将従二位 勲二級 秋山好古 山國村建と書かれている。

 石碑建立の場所は、常照皇寺の参道入口、(寺の背後には光厳天皇の山国陵、後花園天皇の後山国陵、後土御門天皇の分骨所がある。)に建立されている。

京都市右京区に関西で始めてとなる貴重な石碑です。

 石碑裏面には「昭和戊辰御大典記念陸軍大将従二位 勲二級 秋山好古 山國村建と書かれている。

       

この石碑の所在情報を頂いたのは、京都市右京区在住の、左賀 秀機氏からであった。初期コロナが発生し旅の移動が制限されていた。そのため石碑の写真撮影、寸法計測等全て左賀氏からの提供である。

撮影をするため、石碑の清掃をいたしたくその許可を受けるため、文化庁京都庁舎、常照皇寺に伺うも両者とも関係がなく、地元自治会の了承を得て、その事務作業全て左賀氏が行って頂いた。心よりお礼申し上げる。

石碑は、関西地区ではじめて発見された大変貴重な碑である。しかし揮毫の経緯は不明である。

私の憶測であるが、好古は毎年開催されていた全国中学校校長会に出席し、会場は、何時も東京日比谷の府立第一中学校(現・東京都立日比谷高等学校)で行われていた。

この時、京都の中学校校長から揮毫を依頼されたのではないかと想像する。

伊予松山15万石の藩校、明教館で基礎教育を身に付け、大阪高等師範学校で、陸軍士官学校で、陸軍大学校第1期生として多彩な知識を身に着け、その後元帥に推薦されるもこれを辞退した好古に大元帥(大正天皇)は大変驚かれ、特旨として官位従二位を授与された超有名な教育者であった。

校長会でも他の校長たちは、好古を敬慕し、その人格に非常な尊敬を感じていた。東京の新聞に次の事が報じられた。「元帥を辞退し、錦をステテ故郷の中学校長となった秋山大将、三日にして第一中学生と化す。」「若い学生のあの純眞さが尊い。あれはそのまま成長させねばならぬ。私の学校には千人ほどの学生がいますよ」・・とさも心地よく語ったと新聞は報じた。・・そのような人物だからこそ揮毫依頼があったと思うのである。

    

石碑建立の場所は、常照皇寺の参道入口、(寺の背後には光厳天皇の山国陵、後花園天皇の後山国陵、後土御門天皇の分骨所がある。)に建立されている。

 

次に、長野県安曇野市である。

       

             53基の内唯一墓石である。

 

1.題     標 正八位 内田與作墓(墓 石) 

2.所 在 地: 長野県安曇野市豊科高家388番地5

3.揮 毫 者: 陸軍騎兵大佐 秋山好古(題標を揮毫)

4.撰 並 書: 陸軍騎兵大尉 稲垣三郎

5.建 立 者: 内田與作の実父(内田 茂市・もいち)

6.建立年月日: 明治35年1月11日 

7.墓石大きさ :  高さ98cm 横幅39,5cm 厚さ38,5cm 

8.石碑の由来 :

内田與作騎兵隊員は、長野県南安曇野郡高家村(現 安曇野市豊科)で内田 茂市の長男として生まれた。明治25年12月1日第一師団騎兵第一大隊に入隊し、その後騎兵一等卒に進み馬術・銃鎗の技を修め本体に属し戦地に赴く。斥候の任務に服し蓋平の戦いに於いて勇ましく戦い、二道溝栄口に敵を迎え撃つも激戦の末名誉な戦死をした。内田與作騎兵隊員の実父、茂市は息子の名誉な戦死を内田家の後世に伝えたく秋山好古に揮毫を依頼し墓を建立した。現在、好古揮毫の石碑は全国に53基発見されているが、名誉な戦死をした優秀な騎

兵隊員について墓石(石塔)に揮毫したのは初めてである。

情報提供者は、神奈川県平塚市の添田敬子氏で、東京世田谷区に秋山好古自身が建立した「日清戦争で名誉な戦死をした優秀な騎兵隊員の哀悼碑」の裏面に騎兵隊員15名の氏名を好古は自筆で揮毫している。敬子氏は、これをもとに国立国会図書館で、ご遺族の所在を調査されその結果、内田與作騎兵隊員の出身地が判明した。

平成27年10月、この事を私に連絡して頂き、同28年5月31日現地、長野県安曇野市豊科に伺い写真取材をした。

追記:このたび石塔が発見され、好古が哀悼の意を篭めて東京世田谷に哀悼碑を建立した思いが120年経過したいま点が線として繋がったその証である。・・「高が石碑、然れども石碑」今回の取材で特に痛感した。

特記事項:秋山好古の妻、多美は昭和25年2月12日、長野県安曇野市豊科に居住していた好古の次男、次郎宅で他界した。内田與作の墓所から僅か4kmの近くであった。(今回の取材で判明した)

               

内田與作の石塔に刻印されている。秋山好古は、予備役後愛媛県松山市の北豫中学校校長(現・愛媛県立松山北高等学校)として昭和5年まで努め、稲垣三郎は、予備役後日本体育会体操学校(現・日本体育大学)校長を努めた人物である。

次の石碑は、神奈川県平塚市の石碑です。

        

1.篆     額: 義  烈 (篆額:石碑などの上部に篆書体で書かれた題字)

2.碑     文: 鐡馬奮闘 蹴雪衝風 斃而後止 惟義惟忠 

3.所 在 地: 神奈川県平塚市広川・広川八幡神社

4.揮 毫 者: 陸軍騎兵大佐 秋山好古

5.建 立 者: 添田保吉(賢次郎・実父)

6.建立年月日:明治31年10月吉日 

7.碑石大きさ:高さ 1m 70cm   横幅 1m 23cm  厚さ 24cm 

8.石碑の由来:

添田賢次郎は、神奈川県大住郡金目村字広川(現 平塚市広川)で保吉氏の長男として生まれた。明治26年12月第一師団騎兵第一大隊第二中隊に入隊し、その後騎兵一等卒に進み馬術・銃鎗の技を修め本体に属し戦地に赴く。斥候の任務に服し蓋平の戦いに於いて勇ましく戦い、二道溝栄口に敵を迎え撃つも激戦の末名誉な戦死をした。実父添田保吉は、息子の名誉な戦死を添田家の後世に伝えたく秋山好古に揮毫を依頼し石碑を建立した。現在、好古揮毫の石碑は全国に53基発見されているが、名誉な戦死をした優秀な騎兵隊員について漢詩で撰文した石碑は2基のみで二番目に古い石碑。情報提供者は、添田保吉氏から4代目に当たる、吉則氏の妻、添田敬子氏が遠路はるばる神奈川県平塚市から平成24年4月18日、松山市の秋山兄弟生誕地に石碑に関する資料を持参して判明した。同年5月23日現地平塚市に伺い写真取材をした。

註:添田敬子氏は、放送大学卒業論文に「日清戦争における戦没兵士の遺族の行動と心情」

  副題に「秋山好古揮毫の添田賢次郎招魂碑建立の軌跡」と題して卒論を書いた。

 

        

秋山好古は、名誉な戦死をした優秀な騎兵隊員について漢詩で撰文した石碑は2基のみで二番目に古い石碑。情報提供者は、添田保吉氏である。

        

秋山好古が名誉な戦死をした優秀な騎兵隊員について漢詩で撰文した原稿。

提供者は、添田保吉氏。

顕彰碑文の読み。

次は、愛媛県大洲市長浜町の石碑です。

     

1.   文三嶋神社

2.所 在 地:大洲市長浜町戒川甲245番地1  三島嶋神社

3.揮 毫 者:陸軍大将 秋山好古

4.建 立 者:記載無し

5.建立年月日:昭和3年御大典紀念建之    

6.碑石大きさ:高さ 2m39㎝  横幅 64㎝  厚さ 43㎝

7.石碑の由来:昭和3年11月6日昭和天皇の即位の礼が行われたその記念。

現地に到着すると、二人の若い女性が社号碑を観賞していた。伺うと揮毫した好古さんの事を知っており驚いた。女性は、秋山兄弟生誕地にも既に来館し、秋山好古・眞之についてかなり勉強しており再び驚き、恐れ入り候であった・・・暫し秋山兄弟談義に耽った。

         

昭和3年11月6日昭和天皇の即位の礼が行われたその記念。

即位の礼は、天皇が天子の位を受け継ぎ、皇位を継承したことを内外に示す儀典であり、即位の礼・大嘗祭と一連の儀式を合わせ大礼または大典と称される。

  好古が揮毫した石碑は、現在全国に53基発見されているが御大典記念に合わせて建立された石碑が10基ある。

三嶋神社社号碑には、石碑左側に揮毫者、陸軍大将 秋山好古書と刻印されていて、裏面には、昭和3年御大典紀年建之と記載されている。

この石碑も何時、誰が、何処で好古に揮毫を依頼したかは不明で、宮司さんに伺うも不明との事であった。

三嶋神社には、JR八多喜駅から登るが道路は狭隘なうえ隘路で辿り着くのに大変苦労した。今までで一番の難所の取材であった。

註:御大典記念の「記」が「紀」であった。今回初めてである。

           

       社号碑左に、「陸軍大将 秋山好古」と揮毫してあった。

       次は、愛媛県上浮穴郡久万高原町の石碑であります。

     

1、碑   文 :  御大典記念(昭和天皇の即位記念)

2、所 在 地:  上浮穴郡久万高原町中組  三社神社 「注連石」

3、揮 毫 者:  陸軍大将 秋山好古

4、建 立 者:  記載無し

5、建立年月日:  昭和3年11月

6、石碑大きさ:  高さ3m70cm  表幅42cm  横幅36cm

7、石碑の由来:  不明

8、石碑の材質:  コンリート

三社神社 注連石(しめいし)

向かって左に、「昭和3年11月建之・陸軍大将秋山好古謹書」 右に、「御大典記念」と揮毫されている。

 

        

揮毫原稿について:秋山好古が揮毫した石碑は現在、全国に53基が発見されているが、その直筆の原稿は1も残っていない。

このたび、上浮穴郡久万高原町中組の三社神社で、全国初となる直筆原稿が発見された。

好古に揮毫を依頼した同神社先々代の小野義直宮司が、直筆原稿を軸物にして保管していたのを現宮司の小野哲也さんが発見された。平成27年7月16日発見の知らせを受けて、小野宮司さんの許可を得て複写し、平成28年1月11日開催の「秋山好古生誕157年祭」で披露し、公開された。小野哲也宮司さんには大変なご配慮頂き感謝いたしております。

原稿をよく見ると、石工が作業に使う原稿を複写する時、鉛筆でなぞった個所がある。原稿は、秋山兄弟生誕地に展示してあるのでご来館の節は是非御覧ください。

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令和7年4月、私達の散歩道 染井吉野桜満開

2025年04月04日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

(画像:川附川で奥に掛かる橋は、孝田橋)

令和7年も私達が散歩する道にある「染井吉野桜」は元気よく咲いています。

昨年同様天候不順で特に桜の開花前後寒暖の差が激しく、絶好の写真撮影(青空が見えなく)今日(4月4日)久しぶりに青空が見えましたのでカメラ持参で散歩に行ってきました。午後1時50分現在外気温は、18,2度少し風があり肌寒いです。

なお、松山地方の染井吉野桜の開花日は3月25日に開花宣言されました。

桜は、川附川に掛かる「孝田橋」のすぐ下流にあり、桜が満開の状態になると対岸にある「高齢者福祉施設・れんげ荘」に入所している方々が、優しい介護士さんに付き添われ、車椅子で桜を鑑賞されますが今年は例年になく寒く外出されてなかったようです。

7本植えられた染井吉野桜のトンネルを潜るのも楽しみにしておられます。

これは一本の染井吉野桜で毎年元気よく沢山の花を咲かせます。

これも同じ染井吉野桜です。

これも同じ染井吉野桜です。

7本植えられた染井吉野桜があります。

この道は、散歩をされる方以外に天山病院の関係者の方々も通られます。

近くの方々にとっても一年で一番いい季節到来で清々しい気持ちで桜を鑑賞し、スマホで撮影しながら楽しまれています。

来年楽しみにして元気で過ごしましょう。

暫く紀行不順です皆さん御身体ご自愛ください。

コメント (1)
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松山の偉人伝シリーズ その4: 仙 波 太 郎(改訂版) 

2025年03月11日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

                            陸軍中将 仙波太郎

 仙波太郎は、安政2年4月21日に、伊予国久米郡福音寺村(現・松山市福音寺町)に生まれ、幼名を惣太といった。
仙波家は、福音寺村の庄屋であったが、太郎の幼少時に家計の不如意から、家産は次第に減少していった。(私の曽祖父、仙波友十郎と幼友達で、届いた書簡を大切に保存、小型の屏風に仕立て大切に使っていたが、昭和21年12月21日午前4時19分頃発生した昭和南海地震時に破損し現在は現存しない。)

太郎は、家計を助けるために少年時代から三津浜で魚類を買って、松山の城下町で行商したり、冬場には久米郡小野村(現在の松山市北梅本町)の山に行って入会林で切り取った木の枝を刈り、これを町へ売り歩いたりしながら、僅かな賃金を得て家計を助けた。

父は病弱で病床に臥せってから、母と二人で苦労を重ねたが、この間母は、貧しいなかにも太郎を激励した。

激しい労働のかたわら、僅かな時間を惜しんで南久米の三輪田米山塾で学び、直接米山の教えを受け、明治7年の秋(20歳)陸軍教導団に合格、病床にあった父は、太郎を激励、叔父の松田通博の学友である河東坤(碧梧桐の父)の援助を受けた。
その後陸軍士官学校に入学、明治11年12月卒業、同12年2月歩兵少尉、同16年に中尉となり、同16年4月創設された陸軍大学校第1期生として入学同期に秋山好古がいた。

1期生は推薦入学で19名が入学し、卒業できたのは10名であった。首席で卒業したのは、東条英教(英機の父)太郎は3番目の成績で、好古は7番目の成績であった。なお、陸軍大学校の入学は2期生から試験制度となった。 
 その後陸軍大学校教官を経て、ドイツに留学その時、射撃術を習得し帰国後射撃術の優秀な部隊に名誉旗を授与するようになったのは太郎がドイツで行なわれていた制度をわが国に採用させた結果である。・・中略・・陸軍士官学校教官を経て大佐に昇進第三師団(名古屋)の参謀長、この頃、陸軍の三太郎「宇都宮太郎・桂太郎、後の内閣総理大臣・仙波太郎」のひとりと呼ばれた。その後福岡第24連隊長となりそして第2旅団長を経て明治43年11月30日陸軍中将となった。そしてかねてから永住の地を岐阜県加納町に決めてた。
加納町は夫人の出身地で、退役後は夫人・矢野タマの地である岐阜県加納町に居住した。

大正9年5月岐阜県より衆議院議員に立候補し当選、わが国の社会教育に貢献、太郎は質実剛健で正義の士にあって真に軍人の典型的であり、しかも単なる軍人に終わった人でなく常に豊富な学識と社会的常識とを保持し、正確な判断をなし得た立派な社会人でもあった。・・秋山好古は、仙波太郎中将は良く働いたとの談話がある。
 仙波太郎と温泉郡久米村との関係は、大正7年に御下賜金を受けた時、これを直ちに岐阜県教育委員会と久米村青年団とに匿名で寄贈した。
また昭和2年に生誕地である福音寺の屋敷跡に村民のために「公正会堂」を建てて寄付し、村の社会教育のために尽力した。
 昭和4年2月19日、逝去 享年75歳。

 旧伊予松山元藩主久松家の当主、第16代久松定謨は、秋山好古よりも8歳、仙波太郎よりも12歳年下であった。(仙波太郎、安政2年・秋山好古、安政6年・久松定謨、慶応3年)
明治16年、久松定謨が17歳の時、佛蘭西のサン・シール陸軍士官学校に留学することになり、加藤恒忠に付き添われて入学した。

入学以降の補導役として久松家の家令役である、藤野漸によって白羽の矢が立ったのが、秋山好古と仙波太郎であった。
藤野漸は先ず、仙波太郎に久松定謨の補導役としてフランスに行ってくれるよう頼んだが、仙波太郎はこれを断った。仙波は、藩政時代久米郡福音の庄屋の長男として生まれ藩政時代多くの年貢を納め務めて来たのに未だ久松家の世話をせねばならぬのかと断った。
もう一つの理由は、当時陸軍の用兵はドイツ式でフランスの用兵を学んでも役に立たず、その上身分の昇進が中断されるからであった。

次に、藤野は秋山好古に頼んだ。

信さん(当時秋山好古の事を信さんと呼んでいた。幼名が信三郎であったからである)は藩士の出で、久松家から家禄を賜りしした家系、恩をきせるわけではないが是非とも願いを聞き届けてほしいとたっての頼みであった。
 秋山もフランスの用兵を学んでも役にたたず、ましてや私費留学扱いで昇進もストップするので断った。藤野は、好古の父秋山久敬にも頼み込んだ。好古は仕方なく引き受け、明治20年7月20日付で本職、陸軍騎兵大尉を免じ、陸軍務総局長・桂 太郎から私費留学の訓令が発せられた。(御令息好古君には我陸軍大学校をも卒業せられ、前途洋々たる処、久松定謨の補導役として是非とも渡佛御報導置候也)秋山好古は、陸軍大学校1期生として卒業、階級は大尉で東京鎮台参謀の要職に在った。好古は、仏蘭西に行く事を承諾、明治20年7月23日、横浜港から陸軍局の訓令により私費留学の名目で、仏蘭西に行くことになり同年9月5日仏蘭西に到着した。階級は大尉で東京鎮台参謀の要職に在ったがその要職も解かれ生活費は、久松家から年間1000円の支給であった。
 秋山好古は、朝敵出身者で有るがために昇進が遅れていた。しかし努力して大尉まで昇進したが久松定謨の補導役として身を捧げる事とした。しかし思わぬことでフランスに行った事が後日有利に展開するそれは、下記の通りである。

フランスの騎兵用兵が日本人の身体にマッチする事が渡佛して初めて分かった。
当時陸軍の用兵は、ドイツ式であった。
山縣有朋中将が欧州視察の際、フランスに居た秋山好古を訪ねてくれた。騎兵の用兵だけは是非ともフランスの用兵を採用して欲しい旨詳しく説明した。山縣有朋は、好古に対していまここで即答は出来ぬが、東京に帰り要人たちと相計らい連絡すると約束した。後日、明治23年2月10日付で、陸軍総務局長、桂太郎から、正式に官費留学の許可となり、学資金は1ヵ年1、600円が支給された。スットプしていた昇進も解除され、日本陸軍騎兵用兵はフランス用兵を採用し改めて好古は、日本騎兵隊を育てる事になった。日露戦争時世界最強のコサック騎兵団と戦い善戦したのもフランス用兵のお陰であった。尚秋山兄弟生誕地にある「秋山好古騎馬像」の乗馬姿がフランス式用兵の姿である。

仙波太郎の経歴

安政2年6月5日       伊予国久米郡福音寺村の庄屋仙波家の長子として誕生
慶応 元年         三輪田米山に漢学を学ぶ
明治 7年         陸軍教導団に入る
明治 8年         陸軍士官学校入学
明治11年12月      陸軍士官学校卒業・2期生
明治12年 2月      陸軍少尉・歩兵第8連隊(大阪)付
明治16年 4月10日   陸軍大学校入学・一期生(歩兵中尉)
明治17年 5月      古戦場、星岡山に「星岡表忠之碑」建立を発起
明治18年12月24日   陸軍大学校一期生・優等で卒業
明治20年 4月      久松定謨の補導役としてフランス行きを断る
明治23年 2月      ドイツ留学
明治30年         乃木希典中将子息の教育監督
大正 4年 2月15日   第1師団長(この時秋山好古、近衛師団長、久松定謨、第
              1連隊長として衛戍地である東京を守護した)
大正 9年 4月      退役、岐阜3区から衆議院議員に出馬当選
昭和 4年 2月19日   岐阜県加納町にて死去 享年74歳 正三位勲一等功三級
昭和49年 4月25日   仙波太郎生誕地に「仙波太郎生誕の地」の記念碑建立

参考事項1:衛戍地である東京を、朝敵とされた旧伊予松山藩出身者の、秋山好古・仙波太郎・久松定謨の3名が守護した。予測していなかった事で驚いた。

ここで三名のことについて少し触れてみる。
先ず、
大正4年2月15日付 発令
秋山好古が近衛師団長として任命された。近衛師団は、天皇と宮城(皇居)を警備する師団で、一般の師団とは異なり、部隊は最新鋭、最古参の儀仗部隊で、秋山好古はそのトップに就いた。

大正4年2月15日付 発令
仙波太郎が第一師団長として任命、当時6師団中で近衛師団部隊に次いでの精鋭隊員の師団として首都東京を護った。

大正4年5月11日付 発令
久松定謨は、近衛兵第一連隊長として、天皇と宮城を護り抜いた。

伊予松山藩は朝敵とされ15万両の制裁金の上納、旧藩主、久松定謨の爵位は本来なれば侯爵であるはずが、朝敵であったがために伯爵止まり。しかし大正4年、摂政宮時代である東京を朝敵とされた伊予松山の、久松定謨・秋山好古・仙波太郎の3名が護ったのである。
この3名は、明治維新の時、朝敵の汚名を被ったがこれでようやく汚名を返上出来たと久松家で祝杯を上げ喜んだそうだ。しかし、秋山好古・仙波太郎共に親藩、朝敵の出身者が故に身分の昇進が遅れていた。

画像は、左から、秋山好古(近衛師団長)・久松定謨(近衛第1連隊長)・仙波太郎(歩兵第1師団長)

大正4年久松家の法要時に撮った集合写真を切り抜いたもので、この時代久松定謨の横に座れる人物は秋山好古と仙波太郎しかいなかった。

                「星岡表忠之碑」

松山市星岡町にある星岡山山頂に「星岡表忠之碑」が建立されている。揮毫は、二品伏見宮貞愛親王で石碑は、明治16年に中尉となった仙波太郎が故郷の星岡山に土居通増・得能通綱らの奮闘の生涯を永遠に伝えるために松田通博・吉田格堂・鈴木安職らの有志と謀って土居・得能氏の古戦場に「星岡表忠之碑」を建設した。
「星岡表忠之碑」右側に、建立発起人 陸軍中尉 仙波太郎・松田通博・吉田格堂・鈴木安職、鴻田佐太郎の各位の氏名が刻まれている。

西条市丹原町得能にある常石山山頂に建立されている得能通綱の忠魂碑。

なお、得能通綱の忠魂碑は西条市丹原町得能の常石山山頂にあり揮毫は秋山好古で除幕式にも好古は参列している。除幕式は、昭和5年4月4日行われた。忠魂碑は昭和3年、昭和天皇の御大典記念に建立された。

揮毫は、秋山好古で、常石山の標高は163mある。

                  常石山山頂に建立された得能通綱の忠魂碑除幕式で挨拶をする秋山好古

除幕式場は山頂のため好古は足の具合が悪かったので地元民が用意した馬で登った。しかし好古は馬が疲れるからと言って途中から下馬して歩いたそうだ。除幕式は、昭和5年4月4日行われた。

揮毫は、秋山好古で、常石山の標高は163mある。

常石山の標高は、163mで昭和5年に建立された。

        松山市土居町、土居遊園地にある土居通増の五輪塔。

      松山市教育委員会設置の「星岡古戦場」説明板。

            「仙波太郎生誕の地」記念碑建立。

「仙波太郎生誕の地」記念碑建立除幕式に参列した関係者。
記念碑・仙波太郎生誕の地の揮毫は、温泉郡久米村大字高井出身(現在・松山市高井町)の元郵政大臣、桧垣徳太郎氏である。

記念碑は、昭和49年4月25日、松山市福音寺町にある福音寺公民館に「仙波太郎生誕の地記念碑」が建立され除幕式が行われた。公民館の敷地は、仙波太郎が生誕した屋敷跡で、此処に「公正会堂」と命名され、福音寺町に寄付され福音寺町の社会教育推進活動拠点として使われた。

参考事項1:仙波太郎と深い親交にあった木原さんが書かれた仙波太郎の手記の一部を別記する。

仙波太郎は、松山に帰っても家がなかったので宿は木屋町一丁目の木原家で、帰った時は大抵1ヶ月位は滞在し家族同様にして過ごした。・・中略・・軍を離れたはじめの頃は満州や支那にもよく行っており帰りに松山で疲れた身体を休めていた。そして揮毫をよくするので父はその墨をするのに汗だくであった。鍾馗と達磨が得意で5分間くらいで書き上げるので驚きの目で見ていた。中略・・秋山好古が松山に帰れてからはよく訪ねて来られ「ワシ」「オマエ」の仲で昔話を楽しんでおられた。松山高等学校のストライキが起こりかけた時も丁度仙波が来ていて、北豫中学校長であった秋山好古と香坂県知事の三人で木屋町の我が家で密談をしておられ、ストライキは不発に終わった。

「これが仙波の帰松最後の事件であったかもしれない」・・と書かれている。

昭和3年か4年頃、仙波から今年も又そのうちに帰るからその前に福音寺に持ってゆくお地蔵さんを送るから受け取っておいてくれと連絡があり、着いたのは小さなお地蔵さんであったが首が落ちていたので母が何か悪い予感がすると心配したが、予感通リそれが最後の帰郷計画になってしまった。お地蔵さんは久米の福音寺に送ったが今は何処にあるのか時々考えることがある。尚どうしたわけか知りませんが千舟町の白石写真館で撮った仙波太郎の写真が手元にありますので司馬遼太郎の記事を機に写真と共に古いとりとめのない思い出をまとめた次第です。しかし何分にも古い事ですので思い違いがありましたらお許し下さい。・・

以上の様な

木原さんの手記があった。

松山平野で、記事の中に出て来る星岡山と土亀山の位地を確認のため掲載した。

土居・得能氏の古戦場の「星岡表忠之碑」があるのは、星岡山で、仙波太郎の墓所は、土亀山にある。天山は、奈良県の天香久山と姉妹の山として有名である。

また加藤嘉明が松山城築城のとき徳川家康に築城候補地第1番に候補地に選んだ山である。築城候補地第2番候補地に選んだ山が勝山(現在の松山城)築城候補地第3番候補地に選んだ山は、御幸寺山であった。家康は築城許可地は申請の2番目の地に許可が下りていたので嘉明は勝山に築城したかったので2番候補地として申請した。

参考までに

星岡山の標高は:75m

土亀山の標高は:50m

天山の標高は:51m

昭和52年5月8日奈良県橿原市南浦町と松山市天山町は姉妹縁組を結成し交流をしている。

天山山頂にある天山神社拝殿横に「交流20周年」と揮毫された立派な記念碑が建立されている。

   松山市福音寺町「土亀山」にある仙波太郎中将の墓。

土亀山に付いて、正岡子規の俳句があり句碑が建立されている。

「凩にはひつくばるや土亀山」明治25年 終わりの冬、に詠んだ句である。

仙波太郎は、夫人の郷 岐阜市加納町で死去した。福音寺の墓は分骨である。生前墓は、大きな墓石にするなと言われたので先祖の墓石とほぼ同じ大きさである。

軍人の墓石は、肩書入りの大きな墓石であるが、秋山好古も墓石は家族と一緒「秋山家」の墓で眠っている。仙波も、秋山もよく似たものだ。

昭和49年、仙波太郎の長男、仙波正、孫の仙波昭が建立した「仙波家墓所」の石碑。

             仙波太郎中将の先祖代々のお墓

仙波太郎の一族は松山には居ないので、時より岐阜市から墓参りに来ている。そして秋山兄弟生誕地に寄って帰るそうである。

画像は、昭和46年4月1日、私が、陸上自衛隊松山駐屯地の資料館に寄贈した仙波太郎の写真である。当時はフィルムカメラであったのでデジカメ撮影して情報を持っておきたくて平成17年6月1日自衛隊に行き広報担当自衛官の許可を得て撮影した。

 

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令和7年2月・ 私の散歩道も春の気配を感じます 

2025年02月14日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

令和になって早くも7年が経ちます。

今年の冬は厳しい!!。北国の皆さん達大変な降雪で雪下ろし作業が大変!!ご苦労さまです。・・松山市も先日降雪がありました。

私の散歩道(川附川堰堤)は、寒波の最中、水仙と菜の花が元気よく花を咲かせだしました。

昨日、2月13日、カメラ持参で散歩に行ってきました。

伊丹十三記念館の庭にある「雪柳・ユキヤナギ」も花が咲いていました。

少しずつではありますが季節は進んでいます。

三寒四温・春一番と言った言葉を聞くようになりました。

画像は、昨日の様子です。

立春を過ぎた頃から少しずつ、太陽の高度が上がり、昼間の時間が長くなりました。

光の春・音の春・気温の春、植物も動物も日本列島各地で動き始めます。

光の春­=気温が上昇して光に反応して冬眠から目覚める。

音の春=川のせせらぎの音、鳥の鳴き声、雪国では雪解けの音が聞こえる。

気温の春=春分をすぎる頃から「暑さ寒さも彼岸まで」のたとえの通りに、気温も上昇して一番いい季節に移行していく。四季のはっきりしている日本は素晴らしい・・地震がなければであるが!!。

いろいろな水仙を撮ってみました。

水仙の裏側です。

水仙も元気ですが、菜の花も元気に開花していました。

地球は、温暖化が進んでいるが季節(四季)は必ずやってくる。

「地表が暖かくなると冬眠から目覚め、芽を吹き、葉っぱを形成し、花を咲かせる。そして人々の気持ちを浄化させてくれる。ありがとう、いい構図の写真が撮れないけれどごめんね・・と心の中で呟きながらシャッターを押しました。

昨日は、普段になく大勢の皆さんが歩いていました。

散歩道の直ぐ側には伊丹十三記念館があります。

左奥の樹々は、天山です。

伊丹十三記念館の庭に咲いていた「雪柳・ユキヤナギ」です。

伊丹十三記念館の庭に咲いていた「雪柳・ユキヤナギ」の傍に蝋梅が咲いていました。

散歩道沿線の家の庭に沢山の「みかん:種類は不明」がありました。

散歩道にある「染井吉野桜」は画像のような現状です。

今年の、松山地方の染井吉野桜の開花予想日は「3月22日」と予報されています。

私の散歩道、川附川に架かっている「孝田橋」から見た「西日本最高峰・石鎚山1982m」です。

雲が掛かり頂上部分は見えなかったです。

私が散歩をする付近を上空から見るとこのような図式になります。

私が散歩するのは、天山の南側を流れる「川附川」がありますがその堤防に敷設してある道を歩きます。

加藤嘉明が松山城築城の時、1番候補地(天山)に徳川家康に申請したが、もしも天山に許可が下りていれば、我が家周辺は松山の城下町になっていました。

この付近は、歴史上に出てくる所が沢山あり、歴史好きの人は散策に訪れます。

以前、奈良県から天山散策に訪れた人に出くわし、ご案内をしたことがありました。

伊丹十三記念館も散歩道の一角にあります。

 

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