EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

杖ノ淵の伝説

2009年10月31日 | 往年の名車 メグロ
杖ノ淵の伝説

昨日、衛門三郎の伝説八ツ塚の帰りに杖ノ淵公園に寄った。
杖ノ淵は、弘法大師が巡錫の年、ひでり続きで田畑はもとより草木も枯れ道行く人々も殺伐となっていた。大師はどの家を訪れても水をもらう事が出来ない。・・とあるあばら家で仕事中の老婆に水を乞うた。長らく待ったが、老婆はなみなみと水をたたえた桶を惜しげもなく大師にささげた。はるかな泉に水をくみに行ったのである。大師は「この辺は水が不自由とみえる出してあげよう」と杖を大地に突き入れると不思議や泉となった。今なお、どんな日照りが続いても枯れる事のない大切な泉である。
近くに四国巡拝四十九番札所の西林寺がある。地元の人は西林寺奥の院と呼んでいる。
以前福島県磐梯山の近くにある、野口英世の生誕地を訪れて時、近くに弘法大師縁の泉があると説明を受けた。
弘法大師が杖をつくと泉が湧き井戸や池となった、といった弘法大師水の伝承をもつ場所は日本全国に沢山ある。
また
「弘法大師の故事来歴を有する伝説から命名された『杖ノ淵』は、昭和45年4月1日に松山市の公園として開設された。 この豊富で清らかな湧水を守るため、地元住民の熱心な保存活動が評価され、昭和60年に環境庁から全国名水百選の一つに認定されそこで、この『杖ノ淵』が観光名所を兼ね備えた親水公園となるよう、昭和62年度から4箇年で松山市が拡張整備をはかったもので、平成4年には、建設省から”くらしに根づく施設部門”で『手づくり郷土賞』を受賞した。 この水と緑に囲まれた杖ノ淵公園は清楚で風情ある憩いの場として広く市民に親しまれている」・・何時も多くの方がポリ容器を持参して水をくみに来ている。昨日も多くの方が水をくみに来ていた。

画像は、弘法大師が杖を突き泉となった「杖ノ淵の泉」右奥に弘法大師の立像が建立さている。今まで大干ばつが幾度もあったがこの泉だけは枯れた事がない。

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衛門三郎の伝説「八ツ塚」

2009年10月30日 | 往年の名車 メグロ
衛門三郎の伝説「八ツ塚」

今日松山地方は、素晴らしい秋晴れである。バイクで四国八十八ヵ所巡礼の元祖と言われている衛門三郎邸跡(文珠院)地に行ってきた。
天長年間(824~833年)の頃の話である。浮穴郡荏原郷(現在の愛媛県松山市恵原町)の豪農で衛門三郎という者が居た。三郎は欲深く、民の人望も薄かったといわれる。あるとき、三郎の門前にみすぼらしい身なりの僧が現れ、托鉢をしようとした。三郎は家人に命じて追い返した。翌日も、そしてその翌日と何度も僧は現れた。八日目、三郎は怒って僧が捧げていた鉢をつかんで地面にたたきつけた、鉢は八つに割れてしまった。僧も姿を消した。実はこの僧は弘法大師であった。
三郎には八人の子がいたが、一大事が起こった。その翌日から1人ずつ子が亡くなり、皆亡くなってしまった。悲しみに打ちひしがれていた三郎の枕元に大師が現れ、三郎はやっと僧が大師であったことに気がつき、何と恐ろしいことをしてしまったものだと後悔する。
三郎は、沢山の財産を世の人の幸せのためにと寄進し、家族とも別れ、遍路姿となり大師を追い求めて四国巡礼の旅に出る。二十回巡礼を重ねたが出会えず、大師に何としても巡り合いたい気持ちから、今度は逆に回ることにして、巡礼の途中、阿波国の焼山寺の近くの杖杉庵で病に倒れてしまう。死期が迫りつつあった三郎の前に大師が現れたところ、三郎は今までの非を泣いて詫びた。
これが四国八十八ヵ所巡礼の始まりだと言い伝えられている。
衛門三郎の戒名は「光明院四行蓮大居士」で、現在の文珠院が衛門三郎の邸跡であると言われている。ご詠歌に「我れ人を救はんための先達に、みちびきたまふ衛門三郎」とある。
松山市恵原町にある衛門三郎の邸跡から西に200mの所に三郎の八人の子を祀る八ツ塚がある。塚の頂には小祠が置かれ石地像が安置してある。
最近は女性の歩き遍路が多く、一日30km歩いたとして約40日程度掛かる。距離は約1300kmある。
画像は、衛門三郎の亡くなった子供を祀る八ツ塚である。

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徳島城跡

2009年10月24日 | 往年の名車 メグロ
徳島城跡

今日、25万石の徳島藩蜂須賀氏の徳島城跡に行って来た。
松山から車で往復4時間50分・399kmの徳島城紀行である。
天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐に勲功のあった蜂須賀家政(蜂須賀正勝の子)が阿波一国18万6千石を賜った。入封当初は徳島市西部にあった一宮城に入城したが、入封早々に現在の地に大規模な平山城を築造し、翌年完成した。以後、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀氏25万石の居城となり、明治維新を迎える。
徳島城は、標高61mの城山に本丸を、東二ノ丸、西二ノ丸、西三ノ丸、南山麓の御殿(一部は現徳島博物館)西山麓に隠居した藩主の住まい、西之丸からなる平山城である。今日行ってみたが、8合目あたりに天守跡の石碑があるだけで天守台も残ってなく、城門、櫓、続塀等々なにも残ってない。本丸跡に行く案内板もなく城を紀行している者に対して非常に不親切である。日本100名城に指定されているのだから気配りをして欲しいものだ。がっかりした。
25万石の城で何か再建している建造物はないものかと散策したら東南の隅に城門が再建してあった。説明版によると、平成元年9月27日徳島市制100周年を記念して、徳島出身の吉井ツルヱ氏が復元寄贈されたものとある。
徳島市は、城郭の復興、復元には情熱がないものだと今日行ってよく分かった。
日本100名城76番目、私は36番目の紀行である。11月7日・8日と伊賀上野城&明石城紀行をする予定である。

画像は、復元寄贈された、「鷲の門」




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四 季 桜

2009年10月19日 | 伊予松山歴史散策
四 季 桜

17日・18日とアマチュア無線関係の集会・講習会開催の準備等々で疲労困憊、今日は気分転換にバイクで隣町(東温市・旧温泉郡川内町・白猪滝入口)まで走行してきた。帰りに珍しい桜がある惣河内神社により写真を撮ってきた。
神社の宮司の奥様に桜の経緯を伺うと、75年前に種苗会社にお願いして入手したそうで品種は、四季桜と言われたが、調べてみるとそんな品種はないとの事、しかし神社では四季桜と呼んでいるそうです。
開花は、毎年10月になると必ず咲き出し12月が最高で、染井吉野桜が開花し散り終わると四季桜も終わり葉桜になるそうです。(開花時期が長い)
花は華やかに開花するのでなく少しずつ開花し長い期間に渡り開花するそうです。
四季桜は境内に3本あり、原木が老木になり専門家に依頼して接木をして2本後継木を作り現在3本ある。原木は開花も出来ないほど弱っていたが、若木が開花しだすと不思議に元気になり現在も盛んに咲いているそうだ。
画像は、原木の花です。
昭和25年から27年に掛けて15ヶ月間、俳人 松根東洋城が境内の離れに滞在して俳句の指導をしたそうで、その時詠んだ句が「春秋冬 冬を百日 桜かな」四季桜を百日桜とも呼んでいますと奥様は言っていた。
松根東洋城が滞在した離れを、一畳庵と呼んでいる。

画像は、惣河内神社にある四季桜(百日桜)です。

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第24回 マイクロ波帯講習会・終わる

2009年10月19日 | 伊予松山歴史散策
第24回 マイクロ波帯講習会・終わる

愛媛のアマチュア無線、「マイクロ波」バンドの普及は、標記の講習により基盤ができた。第24回目である。日本アマチュア無線連盟愛媛県支部・初代支部長、松本純一氏の肝いりで24年前に始まった。講師は、マキ電機社長・槇岡寛幸氏で24年間愛媛県のマイクロ波帯の指導助言技術提供をしてきた。
第2代目支部長・高橋寛氏が継続して講習会を実施している。近年は、県外からの参加者が多くマイクロ波帯の輪が広がった。また愛媛大学農学部、羽藤先生の支援もあり意義のある講習会が出来ている。
勿論来年も開催する。・・継続は力成り・・の信念で


画像は、第24回・日本アマチュア無線連盟愛媛県支部主催「マイクロ波帯・講習会」に参加した局長たち・・場所は、愛媛大学農学部である。
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