EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

松山に誕生した「子規の庭」3

2015年04月30日 | 伊予松山歴史散策
子規が生誕した松山市に子規の庭と題した小規模の庭が創園されている。
今回紹介いたします庭は、道後温泉街にあるホテル宝荘の玄関を入ると正面に扁額があり、その左側に3月に造園された「子規の庭」があります。
昨日、広島市から観光に来られました若いご夫婦をご案内いたしました。
埃をかぶっていた子規のレリーフに光をあて、三島直筆の書をモチーフに小さい坪庭ですが、「子規の庭・宝荘」が完成しましたと伺いました。
画像は、3月新しく創園された「子規の庭」です。平成27年4月29日撮影。


平成27年3月創園され道後温泉街、三つ目となる「子規の庭」で場所は、ホテル宝荘にあります。


子規の庭には、子規の代表句「春や昔十五万石の城下かな」の句碑と子規の肖像画があります。
春や昔十五万石の城下かな・・の句は、正岡子規が、明治28年春、日清戦争の従軍記者として出征するため,東京から一時帰省した時に詠んだ句です。松山市内には、数多くの句碑が建っていますが、この句碑は4ヶ所あります。
1つは、JR松山駅前に大きな句碑。
2つ目は、子規記念博物館敷地の句碑。
3つ目は、四国電力和気太陽光発電所の句碑。
4つ目が、ホテル宝荘にあります句碑です。


昨日ご案内しました広島市からお越しになったご夫婦です。


正面玄関に掲示してある扁額で、揮毫してある言葉を基軸にして、今回子規の庭として創園したそうです。
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坂東三津五郎さんお勧めの松山城

2015年04月27日 | 伊予松山歴史散策
今年2月15日放映されました「城案内人・坂東三津五郎」さんのTVを見られてから、全国のお城愛好者の皆さん方、松山城の見学者が増えています。
坂東三津五郎さんは、TV放映後2月21日永眠されました。59歳の若さで非常に残念です。三津五郎さんの趣味は、日本の城で2月15日放映された「城案内人・坂東三津五郎」のトップ画像の背景の天守が松山城でした。TV放映、三津五郎さんの背景の城「松山城天守」を見学に来ましたと言われるお城愛好者の方々が全国各地から来られています。
昨日も長野県から来られた方から、三津五郎さんの放映を見て来ました。三津五郎さんお勧めの所を案内してほしいとの事でご案内しました。昨日は霞が掛かり遠くの眺望は駄目でしたが、松山城上空は好天で青空が広がる絶景でした。
画像は、坂東三津五郎さん一番お気に入りの松山城です。


松山では2月15日TV放映されました松山城天守群を背景にしたトップ画像です。


2月15日TV放映され背景になりました松山城本丸本壇の天守群です。


松山城の中でも坂東三津五郎さん一番お気に入りの風景です。
本丸に築かれた屏風折れの石垣に続き塀と手前の乾門、後方に本壇南隅櫓と小天守を望む場所です。昨日4月26日撮影しました・・長野県の方をご案内しまして。


昨日は霞が掛かり眺望は良くなかったですが、松山城上空は好天で絶好の撮影日和でした。



この画像は、2月に撮影しました。4月以降になると木々に葉が茂り写真撮影には邪魔になります。


伊予松山藩は、初代藩主が加藤嘉明20万石、二代藩主、蒲生忠知24万石、三代藩主、松平定行15万石以後松平で維新を迎えます。
初代藩主、加藤嘉明が築城した天守は、5層でありましたが、三代目松平定行は、3層の天守に改築し、その後落雷で焼失、現在の天守は、安政元年再建された天守で、現存天守12の内一番新しい天守です。


南側から見た松山城天守。


本壇天守群の建造物にある鬼瓦には三つ葉葵が彫刻されている。


桜の開花時期は全国各地から観光に来られ本丸は大賑やかです。


大手門跡の隘路からみた風景です。この地点も三津五郎さんのお好きな場所の一つです。
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松山に誕生した「子規の庭」2

2015年04月23日 | 伊予松山歴史散策
子規の育った松山の礎を築いた人物は、豊臣秀吉恩顧の武将、賤ヶ岳七本槍の一人加藤嘉明である。
関ヶ原の戦いに武勲を揚げ徳川家康に伊予国半分20万石を拝領、慶長7年1月15日、家康の許可を得て勝山に新たな城を築城、同8年10月に嘉明は家臣および正木(松前)の住民とともに居を新城下に移し、ここに松山という名称が公にされた。これが現在の松山市の基礎である。その後藩主は、蒲生、松平と代わり、伊予松山藩主松平は、親藩であったため幕府の命を受け長州に二度攻め込み攻撃した。明治新政府から朝敵とされ制裁金15万両を課せられ、領地は土佐藩管理下おかれ松山の苦しみが始まった。
子供達は、何処からの支援も無く彼らなりに考え行動した事は、学問を身につけ自分の身は自分自ら切り開いて生きていく「独立自尊」であった。
その一人が正岡子規である。慶長3年9月17日生まれ、明治35年9月19日、35歳の若さで逝去した。その間近代文学の発展に多大な影響を及ぼした明治を代表する文学者であった。
もう一つの功績に、日本に野球が導入された最初の頃の熱心な選手でもあり文学を通じて野球の普及に貢献した。また、他にも「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語を、「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」と日本語に訳し新聞「日本」に紹介している。これらのことが評価され子規は平成14年、松山市で行われたプロ野球オールスター戦開会式で野球殿堂入りの式典が行われた。
そして、今年3月20日、道後温泉駅前にある放生園に「当時の野球ユニホーム」姿の青年正岡子規の銅像が建立された。これが松山市に誕生した「子規の庭」の二つ目である。
前置きが長くなりましたが、二つ目「子規の庭」を見て下さい。
三つ目の「子規の庭」が平和通りに創園されてますが、後日紹介します。


平成27年3月20日、松山に創園された二つ目の「子規の庭」で、正岡子規の野球姿を銅像にし、松山中央ライオンズクラブが結成50周年記念として建立、松山市に寄贈しました。
正岡子規の野球姿像は、高さ3mで、子規が22歳、明治23年春の写真を元に再現、右手にバット、左手にボールを握り腰かけています。
銅像の左には、「まり投げて 見たき広場や 春の草」の俳句を掲示してあります。
この俳句掲示は、季節に合わせた野球に関する俳句を掲示するそうです。


正岡子規によって松山に明治22年野球が伝えられ、明治25年松山中学に設立された「球技同好会」が起源で硬式野球部の設立は愛媛県内で最古であり、昭和25年に、松山東高校として夏の甲子園で優勝しています。
今年、高校野球21世紀枠候補に選ばれ甲子園に出場する愛媛県立松山東高校野球部は県内最古の野球部で、松山東高の前身は松山中学、正岡子規の母校であります。82年ぶり2回目」の出場となり初戦を勝利で飾りました。
松山からはバス65台で甲子園に行き、82年前には勝利できなかったが、大応援団の声援を受け初戦(東京代表、二松学舎大付属高校)を5対4で勝った。


「子規の庭」の子規野球姿像前に設置してある、日本語と英語の説明板。


「子規の庭」の子規野球姿像前に設置してある、日本語の説明板。
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松山に誕生した「子規の庭」その1

2015年04月16日 | 伊予松山歴史散策
草花を愛した正岡子規は、若くしてこの世を去った。
子規は、名を常則(つねのり)、幼名は処之助(ところのすけ)で、後に升(のぼる)と改めた。
俳句、短歌、新体詩、小説、評論、随筆等々多方面に渡り文芸活動を行い、日本近代の文学に多大な影響を及ぼした明治を代表する文学者であった。
松山中学、共立学校で同級であった秋山眞之とは、松山時代からの友人で、東大予備門では夏目漱石と同窓である。
子規が好んだ草花を植栽した庭を造り子規を偲んで頂こうとこの度松山に子規の庭が三ヵ所創園された。
現在、「子規の庭」は東京根岸にある子規庵と、奈良市の天平倶楽部にある。

画像は、松山道後にある、ホテル椿舘に創られた「子規の庭」であります。


ホテル椿舘にある「子規の庭」の説明板。


子規の句碑が建立してあります。


野球のボールに見立てた石畳。


石は、兵庫県の丹波石を使用し、球場をイメージしており、また野球のバットの材料であるアオダモの木をシンボルツリーとして造園、庭園は四季の移ろいを感じるものとして、それぞれの季節の咲く樹木、草花を植栽したそうです。


子規が物思いにふけながら、四季の移ろいを感じることのできる雑木林の石畳を歩いた事を想定した庭を作庭したそうです。

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神奈川県平塚市にある秋山好古揮毫石碑・招魂碑 義烈

2015年04月14日 | 伊予松山歴史散策

此の度、(平成27年4月11日)神奈川県平塚市広川在住の添田吉則さん敬子さん夫妻から「日清戦争における戦没兵士遺族の行動と心情」と題した研究報論文が送られて来ました。
この論文は、平塚市博物館研究報告「自然と文化」第38号(2015年3月)に投稿された文献です。
内容は、日本国家史上初、最大の出来事でありました日清戦争が勃発し、戦役され戦死されましたました騎兵1等卒添田賢次郎さんに関する事柄です。
賢次郎は、神奈川県大住郡金目村廣川(現、平塚市広川)に明治6年(1873)添田保吉の長男として誕生しています。
明治26年12月20日、騎兵第1師団第1連隊第1大隊第2中隊に入隊し、その後騎兵1等卒に進み馬術・銃鎗の技を修め本体に属し戦地に赴き斥候の任務に服し蓋平の戦いに於いて勇ましく戦い、二道溝栄口に敵を迎え撃つも激戦の末名誉な戦死をされました。
添田賢次郎さんの子孫である添田吉則さん敬子さん夫妻が添田家に残された資料、その他関係の史実をもとに作成された貴重な論文です。

添田賢次郎の家は、大きな農家の長男として誕生、学業も優秀で家督を継承するはずの嫡男を戦役で亡くされた父親の悲しみは計り知れないものであったと思います。
父、保吉は賢次郎の招魂碑を明治31年10月に広川神社境内に関係者の許可を得て建立され、碑文を秋山好古が揮毫しました。

騎兵1等卒添田賢次郎に関わりのある石碑が、東京都世田谷区池尻四丁目に「征清之役戦死者哀悼碑」があります。
この石碑は、明治29年6月30日、秋山好古が日清之役で名誉な戦死をされた騎兵隊士の哀悼碑で、裏面に戦死された15名の氏名を刻印し後世に伝えるために、好古自らが建立した石碑です。
15名の中の一人に騎兵1等卒添田賢次郎の名前があります。
私は、現在も秋山好古揮毫石碑の調査をしておりますが、世田谷区池尻四丁目の石碑は、平成18年10月6日、世田谷区役所の許可を得て写真撮影取材を行いました。
平塚市の添田賢次郎招魂碑「義烈」は平成24年4月18日、添田敬子さんが招魂碑「義烈」を拓本に採り遠路遥々神奈川県平塚市から、秋山邸に持参され判明しました。そして同年5月23日、平塚市の招魂碑を写真取材いたしました。
この時、秋山好古が征清之役で名誉な戦死をされた騎兵隊士の哀悼碑が世田谷区池尻四丁に建立されている事を伝え、後日裏面15名の中に騎兵1等卒添田賢次郎の名前があるか照会があり、添田賢次郎の名前を確認し連絡、此れが切っ掛けとなって、添田夫妻の今回の調査が始まり文献作成となりました。
秋山好古が明治29年6月30日、征清之役で名誉な戦死をされた騎兵隊士の哀悼碑として建立し、裏面にその15名の氏名を刻印し後世に伝えるために、好古自らが建立した石碑ですが、その後120年の歳月を経て好古の思いが添田家に伝わりました。

高が石碑然されど石碑だと熟思いました。


平成27年3月、平塚市博物館研究報告「自然と文化」第38号(2015年3月)に投稿された「日清戦争における戦没兵士遺族の行動と心情」と題した研究論文です。


添田賢次郎招魂碑「義烈」の拓本。
平成24年4月18日、添田敬子さんが招魂碑「義烈」を拓本に採り遠路遥々神奈川県平塚市から秋山兄弟生誕地に持参されました。


添田賢次郎招魂碑「義烈」。
賢次郎の父添田保吉が明治31年10月に広川神社境内に関係者の許可を得て建立され、碑文を秋山好古が揮毫しました。
平成24年5月23日撮影。


添田賢次郎招魂碑の碑文、揮毫は秋山好古。
秋山好古この時、陸軍騎兵大佐で、綺麗な字で丁寧に揮毫しております。


添田賢次郎招魂碑の義烈の碑文。


平成24年4月18日、添田敬子さんが招魂碑「義烈」を拓本に採り遠路遥々神奈川県平塚市から秋山兄弟生誕地に持参されました時の記念写真。


平成24年5月23日、平塚市の招魂碑を写真取材いたしました時の記念写真。


東京都世田谷区池尻四丁目にある「征清之役戦死者哀悼碑」。
平成18年10月6日、世田谷区役所の許可を得て写真撮影取材を行いました。許可は、文字に墨を入れて浮き出すために、撮影後は墨を水でふき取り現状復帰、職員立会のもとが撮影条件でした。石碑の管理は世田谷区役所です。


東京都世田谷区池尻四丁目に「征清之役戦死者哀悼碑」の裏面で見にくいですが、騎兵1等卒添田賢次郎の名前があります。秋山好古の直筆です。
この石碑が原点で今回の添田夫妻の調査が始まりました。
高が石碑然されど石碑です。


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