EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

JR予讃線特急しおかぜ新型車両「8600系電車」

2017年05月29日 | 伊予松山歴史散策

特急しおかぜ17号「8600系」の特急電車、岡山駅8番線ホームにて。

 5月9日~11日まで、石清水八幡宮・寺田屋・大阪城西の丸庭園・大阪市立栄小学校の見聞に行って来ました。移動手段は、JRで行き、中でもJR四国が、新車両として投入した特急しおかぜ「8600系」の特急電車で、行き帰り共運行ダイヤに合わせて乗車しました。

なお、特急しおかぜ「8600系」の特急電車の列車編成は、8両編成で、松山発、特急しおかぜに、特急いしづちを連結し、宇多津駅で特急いしづち2両を切り離して、特急いしづちとなり高松駅に向かい、6両編成で特急しおかぜは終点岡山駅に向かいます。なお、私は撮り鉄・乗り鉄でもないので鉄道車両については何も知識がございませんのでご承知おき下さい。

その時の画像です。

特急しおかぜ12号「8600系」の特急電車、松山駅ホームにて。

前面にはカラーLED表示のヘッドマークが表示されているが少し小さすぎる感じがしました。

 JR四国には下記の記述がありました。

平成28年3月26日、ダイヤ改正に伴い、特急しおかぜに新型特急電車「8600系」が運転されることになった。

お客様に選択していただける魅力ある車両を目指し、JR四国で初となる空気バネ式車体傾斜機構の採用や、最新技術の導入による信頼性・耐久性・保守性の向上を図っています。
 デザインコンセプトは、「レトロフューチャー(前世紀の近未来デザイン)」として、先進性と懐古性を持たせた、ビジネスのお客様に魅せるスマートさと、ご旅行のお客様に旅の高揚感を感じていただける車両としました。

特急「しおかぜ」、上り岡山行が12号、18号、24号、30号で下りは、11号、17号、23号、29号です。その他のしおかぜは、旧型車両電車です。

JR四国からの記述です。

8600系新型しおかぜのグリーン車室内。

特急しおかぜ「8600系」のグリーン車は1両の半部を使い、片側2列シートが8席と、片側1列シートが4席ある、3列シート型でした。

1人掛けは、プライバシーが保証出来て最高です。

8600系新型しおかぜのグリーン車室内。

座席配置は、1人席と2人席の横3列構造で、全部で4列あります。
席番号は、松山駅方面から見て1~4となっています。

松山駅方面に向かって、左手の窓側が1人席のC席で、反対側の窓側がA席で通路側がB席です。なお1人席側は山側で、2人席側が瀬戸内海側です。

グリーン車のシートは、新幹線並みの造りであるとJR四国は自慢してます。

 

8600系新型しおかぜのグリーン車は1両の半分で、その半分は座席指定車両となっていた。

1席のみ一人掛けシートが確保されていた。これはたぶん車椅子の方の仕様ではないでしょうか?

「特急しおかぜ・8600系」トイレ入口付近で、男子小用トイレが独立しており便利です。新幹線の様に。

「特急しおかぜ・8600系」運転席。

「特急しおかぜ・8600系」運転席、若い運転手さんでした。

「特急しおかぜ・8600系」運転席。

瀬戸大橋を走る「特急しおかぜ・8600系」からの運転席側からの風景。

将来、四国新幹線が新設されても瀬戸大橋線には、新幹線仕様のレールの敷設が出来るように設計されているそうです。

 

瀬戸大橋を走る「特急しおかぜ・8600系」車窓からの風景。

岡山駅8番線ホームの出発車両の電光掲示板。

特急しおかぜ「8600系」の車体に書かれた「SHIOKAZE EXPRESS」とISHIZUCHI EXPRESS」と表記してある。

最近の日本は、日本語表示が少なくなったのは何故なのか?和洋折衷で可笑しな国である。

特急しおかぜ下り松山行きは、宇多津駅で、高松から来た、特急いしづちを連結して松山に向かう。反対に、上り特急しおかぜは、宇多津駅で、特急いしづちを切り離し岡山駅に向かう。

特急しおかぜ下り松山行きと、高松から来た特急いしづち下り松山行きを宇多津駅で連結する。時刻表には、特急しおかぜ17号・特急いしづち17号と連名で書かれてある。

特急しおかぜ下り松山行きと、高松から来た特急いしづちを連結。鉄道ファンは連結作業をカメラに収めるマニアが多い。

特急しおかぜ下り松山行きと、高松から来た特急いしづちを連結し松山に向かう。

特急しおかぜ「8600系」の普通車両シートで、色は香川県をイメージしたグリーン。

特急しおかぜ「8600系」の普通車両シートの色は、愛媛県をイメージしたオレンジ色です。香川県をイメージしたグリーンと、愛媛県をイメージしたオレンジ色の2色のシート車両が連結されていました。

松山発、12時20分・特急しおかぜ18号が、15時11分着で岡山駅8番線に到着。折り返し、岡山発、15時35分、しおかぜ17号となり松山に向かう。

折り返しで岡山発、15時35分、しおかぜ17号 松山駅着、18時27分です。

新型特急しおかぜ「8600系」で運行される列車は、「しおかぜ」、上り岡山行が12号、18号、24号、30号で下りは、11号、17号、23号、29号です。その他のしおかぜは、旧型車両電車です。

なお、特急しおかぜ松山~岡山は、一時間毎の運行です。

 

 

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大阪市立栄小学校(旧・有隣尋常小学校)

2017年05月24日 | 伊予松山歴史散策

新田長次郎が創設した私立有隣尋常小学校は、現在、大阪市立栄小学校となっている。

新田長次郎が18歳(明治8年)、秋山信三郎(好古)が16歳の時、二人は松山の城下町で出会った。長次郎は、伊予松山藩温泉郡山西村18番地、新田喜惣次の次男として出生した。生家は農家であったが、代々新田姓を名乗り、南北朝時代、足利尊氏に敗れ各地に分散した新田氏の流れをくんでいた。

熱心に読書をしていた信三郎の光景を見た長次郎は、信さん何の本を読んどるんぞな、と尋ねると、福沢諭吉さんの「学問のすすめ」よ、この本は凄い本ぞな、長さんも読んでみんかな・・と言われ読むことにした。その後二人は長さん、信さんと呼ぶ親しい間柄になった。

この本が切っ掛けで、信三郎は、教師を志、大阪師範学校に入学、名古屋師範学校の付属小学校の教師となる。(その後、郷里の先輩、名古屋付属小学校の教務官、和久正辰、名古屋鎮台の法務官、山本忠彰の強い勧めで軍人に転身する。伊予松山藩(親藩)から出た最初の軍人となる。)

長次郎は、大阪に出て会社を興し、信さんが教師になるのであれば、私は学校を造る事を志として努力した。二人の座右の銘は「独立自尊」であった。

これから画像で紹介する学校は、新田長次郎が創設した「有隣小学校」現在の大阪市立栄小学校である。

その後、長次郎は、郷里の松山に、松山高等商業学校(現、松山大学)を大正12年に創設、そして生まれ故郷の、温泉郡味生尋常小学校(現、松山市立味生小学校)校舎増築に際し多額の寄付を行い青少年の教育に寄与した。

新田長次郎が創設し、現在は、大阪市立栄小学校となっている学校を是非一度見てみたいと以前から思っていた。今回の旅の最後に伺ったのです。

新田長次郎、   安政4年5月29日生まれ

秋山信三郎好古、 安政6年1月 7日生まれ

 注1:秋山信三郎、後の秋山好古で日本の騎兵を創設し育て上げ、陸軍大将で、故郷の青少年の育成にと、地元からの強い要請を受け、北豫中学校長(大正13年2月~昭和5年3月)に就任した。北豫中学校は現在、愛媛県立松山北高等学校である。(大正12年3月31日、陸軍大将予備役、昭和4年4月1日、退役となる。)

 注2:新田長次郎は、秋山好古の奨めを受けて革ベルト製造会社を興し日本初の伝動用革ベルトの製造に成功。「東洋一のベルト王」と言われた。新田帯革製造所の創業者で、現在の「ニッタ株式会社」である。青少年の育成の為に学校創設に尽力した。(信さんと共に愛読した学問のすすめが根底にあった。)

また、日本で本格的にベニヤ板製造を開始したのも新田長次郎であった。

ニッタ株式会社は、秋山兄弟生誕地再建事業(平成17年1月18日完成)に際しては、多額の寄付を行っている。また揮毫嫌いであった秋山好古は、新田長次郎の強い勧めがあり大正14年以降に揮毫を始めた。大正14年以前に揮毫した好古の書は、大変貴重な物である。

 

新田長次郎が創設した「有隣尋常小学校・現在は、大阪市立栄小学校」で

平成29年5月10日、伺った画像で、校舎は想像していた建物とは大違いで、学校とは思えないおしゃれな建物でした。

JR大阪環状線、橋原駅から約300m程の大きな街道沿いにあった。

大阪難波に私立有隣尋常小学校を開校(現在の大阪市立栄小学校)設立時、教職員や学校運営の一切の経費を負担し、その上に、生徒の学用品、衣服、履物まで支給して教育に尽くした。・・好古と読み交わした「福沢諭吉の学問のすすめ」に共感しての事だった。

伊予松山藩は、朝敵とされ明治維新後は、大変な苦境の中、子供達はその苦難を味わい育った。二人は「福沢諭吉の学問のすすめ」を読み、人間生まれた時はみな一緒、後は、どれだけ勉強し努力するかで人間形成が構築される。二人は教育の大切さを感じ取り、志を決めたと私は思う。凄い二人です。

画像右の引き戸が正門だと思いますが、通用門には、注意書が掲示してあった。

注意書で、伺う前には、大きな門柱があり少し位は校庭に入れると思っていましたが思いは叶えなられなかった。

前もって理由書を付けて許可願を提出しておけば見学が許されたかもです。?

新田帯革製造所が軌道に乗り長次郎は、青少年の育成の為に学校開設行う。明治44年、地元の難波警察署の要請を受け、大阪難波に私立有隣尋常小学校を開校(現在の大阪市立栄小学校)した。その後大阪市は、民間人一人に負担をさせてはいけないと考えた。12年間経営し、大正11年、大阪市に施設・基金を付けて寄贈し、市立有隣小学校となる。

正門横に掲示されている、校名版。「大阪市立栄小学校」があった。

 

新田長次郎18歳、秋山好古は16歳の時、福沢諭吉の学問のすすめを読み、日本を近代化するには、先ずは子供の教育が必要であると感じ取り、自分の志を決めた書物であった。

秋山好古は教師となり、新田長次郎は、信さん(好古)が先生になるのであれば私は(長次郎)会社をお興し、その財をもって学校を作ると決めたのであった。二人の座右の銘は「独立自尊」であった。「福沢諭吉の学問のすすめに出て来る。」

新田長次郎が志した学校建設の思いが、現在もここ栄小学校に受け継がれていると私は感じた。その学校は、学校とは思えない現代的な建物に変貌、長さんもビックリしている事でしょう。

大正12年に新田長次郎が創設した松山大学で、当時は、松山高等商業学校と言い、全国で3番目の私立高等商業学校として開校した。これも郷里伊予松山の発展のため教育を通じて社会に貢献したいとの考によるものであった。

松山大学(松山市文京町)正門右に建立されている「新田長次郎」の胸像。

東洋一の「革ベルト王」と呼ばれた新田本社工場。昭和12年頃の画像。

画像は、西尾典祐氏著の「至誠」評伝・新田長次郎から引用。

大正14年、松山高等商業学校開設のお祝いに、元内閣総理大臣、清浦圭吾さんが来られ、大山祇神社(愛媛県今治市大三島町宮浦)を参拝した時の記念写真。

右から「新田長次郎・元内閣総理大臣・清浦圭吾・秋山好古」。

画像は、秋山兄弟生誕地所蔵

昭和5年3月、秋山好古は北豫中学校を辞任し、東京に帰る途中、同年5月、大阪の新田長次郎さんを訪ね一晩語り明かした。同年11月4日、東京の陸軍軍医学校病院で逝去、享年72歳。この事を知った長次郎さんは、あの時、信さん(秋山好古)は、私に別れの挨拶に来てくれたのであった。もっと色んな話をしたかったと号泣されたそうです。右が秋山好古、左が新田長次郎。

画像は、西尾典祐氏著の「至誠」評伝・新田長次郎から引用。

 「新田長次郎と秋山好古とは暫く会う事がなかったが、公務で大阪に出かけて時、好古の方から新田長次郎を訪ねた。長次郎は信さんが好古と改名したことを知らなかった。最後に大阪の新田長次郎を訪ねた時も信さん・長さんと呼び合って一晩を過ごした。新田長次郎さんの最も親交が深かった人が秋山好古であった。」

和歌山県海南市にある、新田長次郎が創園した「琴ノ浦 温山荘園」主屋座敷にある秋山好古が揮毫した扁額。この扁額は、昭和5年5月、新田長次郎さんを訪ねた時に揮毫したのでは?

平成24年3月14日、秋山兄弟生誕地研究員13名が研修に行った時許可を得て撮影した。

和歌山県海南市にある、新田長次郎が創園した「琴ノ浦 温山荘園」主屋座敷にある、内閣総理大臣、桂太郎が揮毫した扁額。

平成24年3月14日、秋山兄弟生誕地研究員達が研修に行った時許可を得て撮影した。

和歌山県海南市にある、新田長次郎が創園した「琴ノ浦 温山荘園」主屋座敷にある東郷平八郎が揮毫した扁額。琴ノ浦 温山荘の命名は、元帥・東郷平八郎である。

平成24年3月14日、秋山兄弟生誕地研究員達が研修に行った時許可を得て撮影した。

和歌山県海南市にある、新田長次郎が創園した「琴ノ浦 温山荘園」の主屋玄関に「温山荘」の扁額がある。揮毫は元帥・東郷平八郎である。

平成24年3月14日、撮影。

和歌山県海南市にある、新田長次郎が創園した「琴ノ浦 温山荘園」の入口で、新田長次郎の立像が建立してある。温山荘園は、大正初期から昭和初期に掛けて造園された。温山は、新田長次郎の雅号で、海軍元帥・東郷平八郎が「琴ノ浦温山荘」と命名した。

平成24年3月14日、撮影。

新田長次郎の故郷、愛媛県松山市立味生小学校、校長室に掲げてある。

平成25年6月4日、許可を得て撮影。

新田長次郎の故郷、愛媛県温泉郡味生尋常小学校本館が完成、大正13年落成式に参列された皆さんと記念の写真。前列右から4人目が、秋山好古・元内閣総理大臣、清浦圭吾・新田長次郎。

新田長次郎は、味生尋常小学校本館建設には多額の寄付を行っている。

元総理大臣清浦奎吾氏が、大正13年、味生尋常小学校本館落成式に参列された時に揮毫された扁額で、現在は、松山市立味生小学校で、体育館に掲示されている。

平成25年6月4日、許可を得て撮影。

新田長次郎が、大正13年、味生尋常小学校本館落成式に参列された時に揮毫された扁額で、現在は、松山市立味生小学校で、体育館に掲示されている。揮毫者は「温山」と書かれている。温山は、新田長次郎の雅号である。

平成25年6月4日、許可を得て撮影。

 

 

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大阪(坂)城西の丸庭園散策

2017年05月20日 | 伊予松山歴史散策

大阪城を表記するときには、大坂・大阪と両方が表記され、特に、国指定特別史跡には、大坂城跡として登録してあると記述がある。また、城郭構造についても、平城又は、平山城と書かれており、私は、平城と思っていた。

 豊臣時代の天守は、5層6階地下2階の望楼型、徳川時代は、5層5階地下1階の層塔型、昭和復興天守は、5層8階の望楼型とある。非常に紛らわしい天守である。

復興天守大阪(坂)城。

 復興大阪(坂)城天守は、豊臣大坂城と徳川大坂城、建っていた場所や外観が異なり、昭和の復興天守は、1層から4層までは徳川時代風の白漆喰壁とし、5層目は豊臣時代風で黒漆に金箔で虎や鶴の絵を描いている。この様に何故折衷にしたのか不思議である。豊臣時代の形式に統一するべきとする意見もあったそうだ。

徳川時代の大坂城は、藤堂高虎を総普請者として、豊臣時代の城の上に10mの盛り土をして、天下普請で江戸城をしのぐ規模の城を造り上げたとある。

 

 

昭和6年に造られた「復興天守大阪(坂)城」

大阪城には度々伺ったが、未だ西の丸庭園を見たことがなかったので、この度、(5月9日)西の丸庭園散策(見学)を主な目的で行った。

資料によると

昭和6年、市民による浄財・約150万円(現在の約750億円に相当)を費やして建て替えられた大阪城天守。その天守を中心に広がる大阪城公園には大手門、千貫櫓、火硝蔵など13棟の重要文化財や、梅林、西の丸庭園などがある。豊臣秀吉の正室・北政所の屋敷があった場所とされている西の丸庭園は、昭和40年、総面積約64,000平方メートルの芝生庭園として開園。周囲を樹木に囲まれ、天守や掘の石垣が美しく眺められる。春は染井吉野桜を中心に約300本の桜が咲き競い、花見の名所としても有名。開花期間は観桜ナイターも開催され、大勢の花見客が訪れるとある。資料より抜粋。

西の丸庭園の東北隅には昭和44年、松下幸之助氏から寄贈された茶室「豊松庵」があった。そして、平成7年APECの主会場として建設された大阪迎賓館があった。

注1:「おおさかじょう」の表記について、近世までは「大坂城」、近代(明治)以降は、大阪に統一したそうです。

注2:大阪(坂)城は、文献等にもよるが、日本三名城のひとつに数えられていて、記述によれば、江戸時代初期、城造りの名手と言われた加藤清正、藤堂高虎が普請した城のうち、特に機能美に優れた3つの城を選定したとある。(熊本城・大坂城・名古屋城)また、(姫路城・熊本・松本城)を挙げる学者もいる。

 

西の丸庭園の表示板。

高麗形式の門を潜ると西の丸庭園の受付がある。

開園時間は、9:00~17:00 (3月~10月) 9:00~16:30(11~2月) 入園は30分前まで、※桜の開花期は20時まで
定休日:毎週月曜日、年末年始

とウエーブには明記してあるので午後4時に行ったが、5月9日なのに何故か、4時30分まででした。散策時間は1時間の予定をしていたが、30分しかなく大急ぎで見て廻った。

平成7年APECの主会場として建設された大阪迎賓館。

略称、APEC(エイペック)とは

昭和53年、日本の大平正芳内閣総理大臣が就任演説で「環太平洋連帯構想」を呼びかけたことにある。

アジア太平洋経済協力、英:Asia-Pacific Economic Cooperation)は、環太平洋地域における多国間経済協力を進めるための非公式な共通の話題について情報を交換し合う会合で、略称、APEC(エイペック)と言う。と資料にある。APEC'95は、平成7年11月16日より11月19日までの4日間、大阪で開催され、アジア太平洋諸国の首脳級が参加する国際会議が東京以外の場所で開かれることは過去に前例が無く、官民一体となった協力体制のもと成功へと導かれました。と記事がある。その主会場として大阪迎賓館が建設されたそうです。

 

 大阪迎賓館の平面図。

 迎賓館の主部屋で、現在は黄金の茶室が造られていて、その前で記念写真が撮れるように機材がセットしてあった。

 

 床の間には、秀吉の掛け軸と茶道具。

 

 黄金の茶器。

 豊公吉野花見図屏風(複製)

 豊臣秀吉が、吉野花見を行った時の図屏風で、秀吉が、文禄3年(1594)2月27日~3月1日に掛けて行った、吉野の花見の様子を描いた屏風。(原本 重要文化財・紙本金地著色 6曲1双 桃山時代 細見美術館蔵)

西の丸庭園から見た大坂城天守。

 

 昭和44年、松下幸之助氏から寄贈された茶室「豊松庵」。

 

 重要文化財・千貫櫓。大阪城に現存する城郭建築で一番古い建物、大坂城大手口を守る重要な隅櫓。

 大坂城大手門の内側、大きな桝形。

 大坂城大手で奥に大手門(高麗形式)がある。

 左端の櫓が、重要文化財・千貫櫓、その右が多門櫓門。

 

 大阪城公園の全体図。

 桜が開花した頃の西の丸庭園で、一年の内一番いい時期。

 

 西の丸庭園、入場券。

 

  西の丸庭園、入場券裏面。

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坂本龍馬ゆかりの地「寺田屋」

2017年05月17日 | 伊予松山歴史散策

石清水八幡宮を参拝して、京阪電車伏見桃山駅で下車、伏見区の鍾馗さんを散策し、黄桜酒造レストランで昼食を取った。その後、龍馬通りを歩き、寺田屋に久しぶりに行ってみた。

現在の寺田屋は、事件当時の「弾痕」「刀傷」と称するものや「お龍が入っていた風呂」なるものがあり、当時そのままの建物であるかのような説明がされている。しかしながら、現在の寺田屋の建物は明治38年に登記されており、特に湯殿がある部分は明治41年に増築登記がなされているなどの点から、専門家の間では以前から再建説が強かった。

平成20年になってから、京都市は当時の記録等を調査し、同年9月24日に、幕末当時の建物は、鳥羽伏見の戦いの戦火で焼失しており、現在の京都市伏見区南浜町263番地にある建物は、後の時代に当時の敷地の西隣に建てられたものであると公式に結論した。・・と資料にある。この事を眼中に置きながら見学した。旧寺田屋は、現在の史跡公園に建っていた事になる。

なお、坂本龍馬を表記するとき「龍馬と竜馬」と表記する場合があるが私は龍馬と書きます。

次回のブログは、大阪城西の丸庭園を掲載します。

黄桜「カッパカントリー」を出て左折すると龍馬通りである。

途中、龍馬通りには掲示板があった。

龍馬通りの掲示板。

 

龍馬通りを右折すると寺田屋である。

寺田屋史跡公園の入口。

園内には、休憩用の縁台置かれてあったが、雨上がりであったので、「濡れています気負付けて下さい。」と注意書きが置かれてあった。

季節は、5月10日、綺麗なつつじが咲いていた。

寺田屋騒動の記念碑とその前に坂本龍馬の像が建立されていた。

寺田屋騒動は、2件の事件を言う。

  1. 文久2年(1862)に発生した薩摩藩の尊皇派志士の鎮撫事件。
  2. 慶応2年(1866)に発生した伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件。

寺田屋騒動記念碑で、明治27年建立。

薩摩藩主、島津久光により殺害された急進派の薩摩藩士9名を追慕して建立。

篆額は、有栖川宮熾仁親王で、「薩摩九烈士遺蹟志」と揮毫されている。

寺田屋史跡公園側から見た現在の寺田屋。

寺田屋の女将、お登勢さん、「文政12年(1829)~明治10年(1877)9月7日」の100年記念で、昭和52年9月7日に建てられた。

お登勢さんが亡くなった年は、西南戦争が起こった年である。

寺田屋とは関係ないことですが・・(私が住む松山市は、藩政時代、伊予松山藩15万石であった。)

伊予松山藩は、鳥羽伏見の戦いから苦境にたたされ、幕府からは阻害され、新政府からは、朝敵とされ苦難の道を歩むことになる。

伊予松山藩の子供「秋山好古・仙波太郎、新田長次郎、加藤拓川、秋山眞之・正岡子規、勝田主計、井上要、その他多くの子供たちは、自分の事は自分の力で自立しなければならない。何処からの支援もなかった。そのため一生懸命に勉強し努力したそうです。」

独立自尊の精神で、世の中、社会に出て活躍した。

寺田屋の内部見学の出口。

寺田屋の正面。

寺田屋は、鳥羽伏見の戦いの戦火で焼失し、現在の寺田屋は、史跡公園の西側に明治40年頃建てられたと資料にある。当時の寺田屋の図面、設計図に基づき忠実に建てられたのであれば、復元であるが、それ以外の事で建てられたのであれば、旧寺田屋風建物となる。

現在の寺田屋玄関。

角度を変えての寺田屋正面。

角度を変えての寺田屋。

昭和36年、100年祭を記念して建立とある。

 

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京都伏見の鍾馗さん

2017年05月15日 | 伊予松山歴史散策

伏見区の鍾馗さん

私のブログタイトルは、昨年まで「鍾馗さんと名城巡り&秋山好古揮毫石碑紀行」と言う長い表示でしたが、今年1月1日から、「EEKの紀行春夏秋冬」に変更しました。鍾馗さんも、名城巡りも、そして好古揮毫石碑も殆ど調査が終わりましたのでタイトル変更しました。

 さて、先日5月10日、石清水八幡宮参拝に際し、京都市伏見区の鍾馗さんを見る事が出来ました。京の鍾馗さんとの対面は、8年振りであります。

 平成21年4月11日、に京都の鐘馗さん散策に行った時、タクシーに乗り、鐘馗さん散策に来た事を話すと、京都の歴史に博学な若い運転手さんがよくおいでになられましたとの歓迎の言葉、そして京の鐘馗さん由来を話して頂きました。

 その話は、「江戸時代、京都の、三条通りにある家の奥様が、原因不明の病で伏せていた。手を尽くしても回復しないので困り果てた医者は、ある日隣の屋根に鬼瓦が載っているのに気付き、もしかしたらこの病は鬼瓦で除けられた災いがこちらに降りかかっているためかもしれない。でもお向かいの鬼瓦を降ろしてくれとは言えない。あれこれ考えた末、鐘馗像を作ってもらい鬼瓦と睨みあう位置に据えたところ、たちまち病は全快したという。

京都には、お寺が多い。それぞれに意匠をこらした見事な鬼瓦が載っている。それまで高嶺の花であった瓦が江戸時代になると安価で庶民も自由に使えるものになり、近所の人間関係を保ちつつも鬼瓦によって除けられた災いが我が家に降りかからないよう、屋根に鐘馗像を据え、鬼より更に強い魔除けとしたようです。・・と詳しい説明を受け京都で一番新しい鐘馗さんを見せて頂きました。

散策は、二年坂、三年坂、一条通、御池通、西洞院通、今出川通七本松をいたしました。

京都の鐘馗は、いろんな表情をしておりました。

今回の鍾馗さんは、伏見区竜馬通り界隈にありました三体の鍾馗さんです。

末尾に、奈良市・大阪市の鍾馗さんを掲載しました。

家屋は新築され新しいですが、鍾馗さんは古く、新築される前の鍾馗さんを挙げられたのでしょう。

大きくするとこのような鍾馗さんです。

暫く歩くと、鍾馗さんが居られました。先程の鍾馗さんとは表情が違いますし、少し古くしっかりとお家と家族を守護されていました。

広角で見ると玄関の上の屋根に鎮座されていました。

この鍾馗さんは、新しい鍾馗さんのようで、置き方も素晴らしい方法で鎮座されていました。今まで見た鍾馗さんは、針金で固定され置かれていますが、この鍾馗さんは違っていました。

広角で見てみると、新しいお店の鍾馗さんでした。

伏見区には、鍾馗さんを製作する工房があったはずです。

愛媛県にも今治市菊間町にある、菊間瓦製造所で鍾馗さんを造っております。

この鍾馗さんは、平成21年4月11日、当時京都で一番新しい鍾馗さんとの事で、タクシーの運転手さんが案内して頂いた鍾馗さんで、建物は新しいビルでした。近代的なビルを守護する鍾馗さんは初めて見ました。

平成21年4月11日、当時のビルに立つ鍾馗さん。設置も綺麗に置かれていました。立っているのは、花崗岩の上で、しかも歩道と同じ高さの地面に花崗岩を敷かれその上です。

大阪の鍾馗さんで、北区長柄東三丁目に鎮座されていました。

広角で見ますと玄関の直ぐ上に置かれていました。

初めて見る赤い鍾馗さんで、北区天神橋六丁目に鎮座されていました。

広角で見ますと玄関の直ぐ上に置かれていました。大阪の鍾馗さんはこの二体のみです。京都の鍾馗さんと置き方が違います。

平成21年5月9日に奈良の鐘馗さん散策に行った時の画像です。奈良の鍾馗さんは、設置の仕方が京都とは違い、棟に置かれていました。

 奈良にも沢山の鐘馗さんが鎮座しているものと期待していきましたが少ないのと奈良の観光に従事している皆さんが鐘馗さんに付いての知識が無いのにはびっくりとがっかりしました。

足と時間の制限内で「奈良町界隈」をひたすら歩き六体の鐘馗さんを発見しました。

京都の鐘馗さんの多くは、軒下・玄関の入り口の上においでになりましたが、奈良の鐘馗さんは屋根の棟に高々と揚がっていました。

京都の鐘馗さん由来は分かりましたが、奈良の由来は分かりませんでした。

界隈に奈良町資料館・振興館・情報館等々名称があり鐘馗さんについて伺いましたが資料の情報がなかった。

奈良市の某企画編集社が発行している雑誌には奈良の鐘馗さんに付いて記事が掲載しているし、奈良町振興財団が発行している「ならまち散策マップ」にならまちクイズとして鐘馗さんの事を取り上げているにも関わらず具体的な情報を把握してない。・・がっかりした。

なお、「奈良町」は奈良市の行政区の公称町名ではなく、どの範囲を「奈良町」と称するのか区分が分かりませんでした。

「吉田蚊帳」に立派な鍾馗さん。

「吉田蚊帳」の立派な鍾馗さんで、新築時からこの所に鍾馗さんを設置する事を決めておられたのでしょう。

この度、8年振りに京の鍾馗さんを見せて頂きました。最近は、鍾馗さん散策も、名城巡り(日本100名城の内84城を巡っている。)もしなくなりました。秋山好古揮毫の石碑も、昨年5月、長野県安曇野市に発見されてから、新たな石碑は見つかりません。そんな関係でブログのタイトルを変えました。

 

この鍾馗さんは、我が家の鬼門を守護する鍾馗さんです。

今治市菊間町にある菊間瓦製作所の瓦鍾馗さんです。

我が家の鬼門を守護する鍾馗さんです。我が家には2体上げており,丑寅(北東方向に立っています。)

 現代でも、人々は、縁起を担ぎ、家の北東、鬼門の方角に魔よけの意味をもつ、「柊」や「南天」を植えたりして、鬼門を守っています。

鬼門は、丑寅の方角で北東に当たり、現代でも、家の中央から見て鬼門にあたる方角には、玄関、便所、風呂、台所などの水を扱う場所を置くことを忌む風習が全国に強く残っている。

京都御所の築地塀が鬼門、北東方位が凹ませてあることから、御所ですら鬼門を避けていると考えられ、それから鬼門を除ける手法とされてきた事にあると資料に記載されている。

 

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