北方文化博物館 神田勝郎館長さんが、民衆を愛した土木技師・宮本武之輔の故郷探訪に来られた時の画像で、先ずは、秋山兄弟生誕地を表敬訪問され研究員各位が出迎えました。
行き松山市駅発の郊外電車に乗り、終点の高浜駅で降り、すぐ前の高浜港から興居島由良の連絡船(フェリー・185トン)に乗ると10分ほどで興居島由良の港に着きます。
宮本武之輔の故郷を伺う。
後方の島が興居島で小高い山を「伊予小富士」と呼ばれています。
伊予小富士(いよこふじ)は、愛媛県松山市興居島にある小高い山で、標高は282mです。
興居島へは、松山市高浜港から海路15分、沖に見える島が「興居島」で元読売巨人軍の投手、西本投手の出身でもあります。
平成25年1月5日、松山市興居島・由良町(松山市役所興居島支所の隣接)に宮本武之輔の顕彰銅像が建立された。1月5日が宮本武之輔の誕生日、新潟県からも参列されて除幕式典が行われた。
地元愛媛県松山市では無名だが、新潟県では恩人として今も愛されている。
港に降りて左に1~2分歩くと松山市役所興居島支所があり、隣接された所に宮本武之輔の顕彰碑と銅像と説明板があります。
宮本武之輔は、松山市興居島出身の土木技師で、15歳の時宮田兵吉の援助で上京し、勉学に励み東京帝国大学工学部を主席で卒業しました。
土木技師として内務省に就職、新潟県信濃川大河津分水可動堰工事でその才能を発揮しました。宮本武之輔の銅像が、顕彰碑の隣に建立され、銅像建立には、新潟からも多くの寄附が寄せられ、大河津分水を愛する資料館友の会からメッセージが寄せられました。・・「民衆のために生きた宮本の功績を新潟と愛媛で何時までも伝えて行きましょう」とある資料に掲載されています。
宮本武之輔の顕彰碑で、宮本武之輔の誕生日に建立された銅像は、顕彰碑の右側に建てられた。
前もって松山市役所興居島支所の支所長さんに新潟市の北方文化博物館館長さんが伺うことを連絡しました。
当日は現場で、支所長さんから宮本武之輔資料を頂き説明を受けました。
成績抜群で第一高等学校に無試験で入学。校長は新渡戸稲造で、同級生に芥川龍之介、菊池寛、久米正雄がいました。
将来は文学者を目指そうと志したが、大反対されたこともあり作家の道を断念した。 そのため進学を早稲田大学英文学から東京帝国大学土木工学へ変更し入学、大正6年首席で卒業、内務省に入省しました。
宮本武之輔の説明板。
宮本武之輔の顕彰碑と銅像の傍に「民衆のために生きた土木偉人」の顕彰説明板が設置されました。顕彰碑を挟んで、左に記念の胸像、右にステンレス製の説明板が新たに設置されていました。
松山市役所興居島支所長さんの案内で宮本武之輔墓所を訪れ墓参をさせて頂きました。
宮本武之輔のお墓で、宮本武之輔のお墓は、多磨霊園にもあるそうです。
民衆を愛した土木技師・宮本武之輔です。
大正後期から昭和の戦前を代表する土木 技術者 、高級 官僚、愛媛県松山市 興居島 に生まれ、東京帝国大学を首席で 卒業後、内務省土木局の 技官 信濃川大河津分水路の可動堰建設工事を指揮し、わずか4年で完成させ、越後平野を洪水から守り、民衆のために尽 くした。特に新潟の方々から現在も愛されています。
昭和16年12月24日、東京で肺炎のため急逝(享年49歳)の若さでした。
松山が生んだ優秀な土木技師にもかかわらず、松山市民はおろか出生地の興居島の住人さえもその功績を知る人は少ない。私もその一人です。
新潟越後の人は知っています。
宮本武之輔生涯で一番の功績は、信濃川大河津分水路可動堰建設工事で、完成した東洋一 の規模を誇った大河津分水路の自在堰です。
帰りの船中からの画像です。
高浜港沖に浮かぶ「四十島」で、夏目漱石の小説坊っちゃんに出てくる「ターナー島」です。
四十島は、周囲約135メートルの花崗岩でできた島で、夏目漱石の小説『坊っちゃん』に書かれた「青嶋」のモデルとなった島です。
島に生えている松の形がイギリスの画家、ターナーが描く松に似ていたことから「ターナー島」と名付けられたそうです。小説発表以降、ターナー島の愛称で広く親しまれています。
民衆を愛した土木技師・宮本武之輔の見出しで
平成25年1月1日から3回に渡り愛媛新聞に大きく記事が載りました。
内容は、新潟の信濃川大河津分水大工事建設のことでありました。
私もこんな偉人が松山から出られた事をこの新聞で初めて知りました。
そして、この新聞記事を、北方文化博物館神田館長と佐藤副館長に送りました。
ご両人ともご存知でした。
そして、神田館長さんが宮本武之輔の故郷に来られました。
平成25年1月3日から2回目の愛媛新聞記事です。
民衆のために、命がけで信濃川に挑み守った 宮本武之輔。
完成を間近に控えた昭和5年7月31日から降り始めた豪雨は、信濃川に流れ込み、水位が上昇を続け8月2日になると「上流地方、大破堤の危険迫る」との情報を受けた武之輔は、被害拡大を防ぐため、独断で、工事現場を守っている仮締め切りの破壊を断腸の思いで部下に命じた。この武之輔の英断が、洪水を防ぎ農民を救った。しかも、工事の遅れはたいしたことなく、昭和6年6月にわずか3年半の歳月と440万円の費用で大河津分水路可動堰が完成した。この可動堰は、今日まで問題なく稼働していたが、耐用年数が近いため、さらに新しい可動堰が造られ、平成26年完成したそうです。
平成25年1月4日から3回目の愛媛新聞記事です。
信濃川は、日本一の大河で、新潟県と長野県、2つの県にまたがって流れる日本一長い(367km)の大河である。
信濃川堤防を切り沿線の住民を救った勇気ある決断を下した土木官僚、その人の名は「宮本武之輔」。
横田切れ、明治29年7月22日に発生した。信濃川の堤防の決壊による洪水、その後度々水害で大きな被害を被ってきた。横田切れを契機に大河津分水大工事建設が始まった。
この大工事の指揮を取った官僚が、愛媛県松山市興居島出身の「宮本武之輔」である。
利根川と、荒川の大規模河川改修 で名を馳せた 宮本武之輔は、信濃川大河津分水大工事の指揮を任された。
大河津分水大工事が佳境を迎えた、昭和5年8月2日、大正3年以来の 集 中 豪雨により堤防決壊の危険が迫ったため、下流の被害の拡大を防ぐ ため宮本が独自の判断で(本庁の許可を取るそんな悠長な時間がなかった)可動堰の工事現場を洪水から守っていた仮締を切った。
仮締を
切ったため、下流の住民の命が守られた。
全責任をとる覚悟であった。
これにより、工事は遅れたものの、寒風の冬も猛暑の夏も、宮本は、先頭に 立って働く獅子奮迅 の活躍で、実質3年余りという驚異的な工期で 可動堰を完成させた。 昭和6年6月20日、内務大臣や新潟・長野・山形などの県知事 らを招いて竣工報告式が現場で盛大に行われた。 その後、越後平野は日本を代表する穀倉地帯に生まれ変わった。 (参考:愛媛県生涯学習センタ内 えひめ人物博物館資料引用)
この事は、松山市の人びとは殆ど知り得ていないが、信濃川沿線の新潟の人たちは知らない人はいない。
信濃川大河津資料館には、宮本武之輔に関する資料が常設展示をされているそうです。日々書かれた日記が展示されているそうです。
大河津分水の恵み
大河津分水路によって、越後平野は様々な恩恵を受けている。 特に稲作・交通・土地利用の面が発達し、分水路の通水により、信濃川下流部は水位が低下し、排水性が向上した。また、信濃川下流域の治水安全度も飛躍的に向上し、それに伴って、信濃川沿いの耕地は全国有数の美田に生まれ変わり、高速道路や新幹線が整備され、宅地の開発も進み、大河津分水は越後平野発展の礎であり、今日も越後新潟の人々の暮らしを支えている。
大河津資料館より引用
新潟県燕市五千石にある「大河津資料館」
大河津資料館には、宮本武之輔の日記帳が展示してあり、その文章には文才豊かであったことが伺えるとある。
新潟市内を流れる信濃川に掛かる「万代橋」
大河津分水路により、信濃川下流部は水位が低下し、排水性が向上した。また、信濃川下流域の治水安全度も飛躍的に向上した。
私が新潟訪問時に撮りました。
北方文化博物館です。
豪農の館「財団法人 北方文化博物館」 越後屈指の大地主、伊藤家七代の歴史と、新潟の地方文化を伝えています。
北方文化博物館は、新潟県新潟市江南区沢海にある戦後初の私立博物館で、第二次世界大戦後の農地改革で、財団法人の道を選択し、豪農伊藤文吉の邸宅を米国連合国最高司令官総司令部の民間情報教育部門の長として着任した、ラルフ・E・ライト中尉の援助のもと、博物館として整備された。美術工芸品や考古資料等を展示している。日本最大の私立博物館である。バーナード・リーチ・柳宗悦・人間国宝、濱田庄司・司馬遼太郎各氏も訪れ、所蔵する価値の高い美術品を観て圧倒されたそうです。
神田勝郎氏は、この北方文化博物館長を努めている。
画像に好古揮毫石碑とありますが、ここに秋山好古が揮毫した石碑「忠魂碑」が建立されています。
石碑「忠魂碑」は、新潟市民文化遺産に登録されています。
以前TV番組で、「高島礼子が家宝捜索・蔵の中には何がある?」が放映されました。その時の北方文化博物館の一場面です。
右が、女優、高島礼子さん、左が、北方文化博物館 佐藤隆夫副館長です。
北方文化博物館の大広間。
北方文化博物館の直ぐ側に建立されている、秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」です。
新潟市民文化遺産に登録されています。
民衆を愛した土木技師・宮本武之輔の故郷探訪を終えた後、松山の名所旧跡の一部をご案内し秋山兄弟生誕地に帰りました。・・その画像です。
先ずは、梅津寺公園に展示している、夏目漱石の小説「坊っちゃん」で、登場する蒸気機関車を「坊っちゃん列車」案内しました。
伊予鉄道が、明治21年にドイツ・ミュンヘン州クラウス社から輸入した第1号機関車で梅津寺公園に静態保存されています。
坊っちゃん列車とは伊予鉄道で活躍した蒸気機関車のことで夏目漱石の小説「坊っちゃん」で、その登場人物達が多くこの蒸気機関車を利用したことから「坊っちゃん列車」の愛称で人々に親しまれていました。
伊予鉄道は、日本最古の軽便小鉄道でその主役として活躍したのが蒸気機関車(愛称・坊っちゃん列車)でした。 坊っちゃん列車は明治21年10月28日の運行開始以来67年にわたり、活躍しましたが、列車の電化に伴い蒸気で走っていた坊っちゃん列車は路線上から姿を消しました。
現在は、復元された坊っちゃん列車1号車と14号車が市電の軌道を営業運転しています。但し、動力はジーゼルエンジンであります。ここ3年ばかりは、コロナ蔓延のため、1号車のみが運行しています。14号車は車庫で待機しています。
梅津寺公園の近くにある、秋山好古の銅像をご案内。
好古の銅像は、激戦地であった遥か奉天を望むよう立っている。
梅津寺公園の近くにある、秋山眞之の銅像をご案内。
秋山眞之の銅像は、現在、秋山好古の銅像の場所に移設されました。
眞之の銅像は、帝国ロシア海軍、太平洋第二艦隊・第三艦隊(通称・バルチック艦隊)との激戦地であった「日本海・対馬海峡」を望むよう建立されている。
秋山眞之の銅像が移設された理由は下記の通りである。
平成30年7月西日本豪雨により銅像が建立してある付近が土砂崩れに会い、観光に来られた方々が秋山眞之の銅像の場所に行けないので銅像の位置を変更移設した。
令和元年12月9日設置された。
三津の渡し舟を案内。
この渡し舟は、松山市の市道高浜2号線の一部として、松山港内港地区の三津と港山の間約80メートルを結ぶ市直営の渡舟で、年中無休、無料で年間約5万人の利用者に親しまれています。
【運行時間】午前7時から午後7時 随時運航、年中無休(荒天などにより、運休する場合があります。)
【料金】 無料
【交通機関】伊予鉄港山駅から徒歩2分、伊予鉄三津駅から徒歩15分で、現在、2隻の舟名を「すさき丸」と「こぶかり丸」として運航しています。
NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」放映以来県外から観光に見えられる方が多く今や人気の渡し舟です。
次に、秋山好古揮毫の石碑を案内しました。
好古は、日清・日露戦争で従軍し亡くなった部下の事を思い陸軍大将になっても極力華美な生活は控え、元帥に推薦されても断わりました。
郷里の北豫中学(現、愛媛県立松山北高等学校)の校長を引き受け青少年の育成に尽くしました。
この石碑は、平成20年10月3日、NHK四国スペシャル「拝啓秋山校長殿」で紹介されました。
表忠魂とは、従軍し戦病死された方々の英霊を御祀りする時に建立する。石碑は慰霊碑・忠魂碑と揮毫するが、生還された兵士の戦役の意味も篭めて建立する時は表忠碑として建立します。
好古が揮毫した石碑は、現在全国に53基発見されていますが、この石碑が一番大きい石碑です。
高さ:4m63cmあります。
宮本武之輔の顕彰を終え遅くなりましたが、昼食を頂きました。
昼食会は、秋山兄弟生誕地のすぐ近くにあった「割烹・桃李花」昼間は、秋山御前がいただけました。(現在は、閉店しました)
昼食時間帯だけに食する事が出来た、刺身や松山寿しなどがついた御膳で、好古・眞之が好んで食した膳です。
この料理は、秋山好古の孫が好古の母「貞」から受け継いだ作り方を、割烹・桃李花の女将さんが受け継いだ料理でした。
「秋山家伝授のお雑煮セットで、刺身や松山寿しなどがついていた。 上品な雰囲気のある一品で、食事の味は十分満足できるものでした。
割烹・桃季花の女将さんで、元・ミス松山、現在も秋山好古・眞之生誕祭には毎回お手伝いに来て頂いております。(現在、桃季花は閉店しました。)
昼食後、旧伊予松山藩主、久松定謨伯爵の松山の別邸「萬翠荘」を案内しました。
大正11年11月15日、陸海軍の大演習が松山で行われ、大正天皇の名代で、摂政宮殿下が観閲されるため松山にお越しになり、その時宿泊されたのがこの萬翠荘です。
萬翠荘は、当時愛媛県唯一のフランス風の鉄筋コンクリート造りの建造物で、国指定の重要文化財に指定されております。
大正11年11月15日、陸海軍の大演習が松山で行われ、大正天皇の名代で、松山にお越しになり、その時萬翠荘に宿泊された当時の摂政宮殿下です。
続いて、伊丹十三記念館をご案内。
次に、愛媛県護国神社境内にあります秋山好古揮毫の石碑をご案内しました。
石碑「天壌無窮」は、昭和3年清水小学校開校及び昭和天皇即位の大礼を記念して20数名の先生方が醵金して建立しました。
昭和20年11月米・英軍が松山に進駐し、GHQの命令により碑石を撤去して、同校の用具室に保管してあったのを、平成7年10月渡部校長の許可を得て愛媛県護國神社、波(は)爾(に) 荘(さかえ)宮司の努力で同神社境内に再建立されました。
撤去命令は、昭和16年3月、国民学校が公布され教育の目的は、「皇国ノ道ニ則りテ初等普通教育ヲ施し国民ノ基礎的練成ヲ為スヲ以テ目的トス」(第一条)とあって、「皇国ノ道」とは「天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スル道」と意味づけされたと言う。・・天壤無窮の碑文碑が校庭にあり、揮毫者が元軍人である事も重なりGHQの遺憾とするところによ
り司令長官命令で撤去されました。
神田館長をご案内して、最後に、レーモンド松屋さん作詞、作曲で五木ひろしさんが歌い大ヒットしました。夜明けのブルース「夜明けの・・ここは松山二番町の街・・」を散策して終わりにいたしました。
神田館長さん、宮本武之輔の故郷探訪ご苦労様でした。
コロナ蔓延、コロナ第八波蔓延とか?・・そして今年はインフルエンザが大流行すると厚生省が発表しました。ご自愛されご活躍下さい。
伊豫松山15万石の城下、夜の帳が下る頃、二番町では華やかなひと時がやってくる!!・・ですが、近年ウイルスコロナが蔓延し街には賑やかさがなく、ひっそりとコロナが過ぎ去るのを待っている。
松山市の人口、令和4年9月1日現在、506,238人の城下町です。