EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

法隆寺に行ってきました:その5 偉大な宮大工・西岡常一棟梁

2019年07月26日 | 伊予松山歴史散策

世界最古の木造建築である法隆寺は、平成5年12月、日本で最初に世界遺産に登録された建造物である。

西岡常一棟梁は、明治41年9月4日、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺西里で生まれ、平成7年4月11日亡くなられ享年86歳であった。

西岡家の家系は、先祖代々法隆寺の建造物の修理解体にかかわって来た宮大工で、法隆寺昭和の大修理、法輪寺三重塔の再建工事や薬師寺金堂・西塔再建に従事して手腕を発揮した。

西岡常一は、法隆寺管主、佐伯定胤に目を掛けてもらい、昭和31年法隆寺文化財保存事務所技師代理となる。

法隆寺の修復、薬師寺金堂、同西塔の再建については学者と激しい技術について論争するが、西岡棟梁は一歩も譲らず今まで培ってきた自分の持論を貫き通し、法隆寺には鬼がいると呼ばれた。
そして、NHKの番組「プロジェクトX」でも大きく取り上げられ放映され改めて西岡常一棟梁の凄さを確認した。

参考文献:西岡常一「木のいのち・木のこころ」「口伝の重み」

     きりぶち輝「薬師寺に陽がのぼる」

落慶法要には、西岡常一棟梁は神社の神主の様な服装で出席した。

 

これからの画像3枚は、法隆寺iセンター2階に展示してある画像です。

宮大工棟梁・西岡常一の紹介。

宮大工棟梁・西岡常一。

宮大工棟梁・西岡常一が使った道具等々が展示してある。

西岡常一棟梁の手によって再建された法輪寺三重塔。法輪寺は三井寺(みいでら)とも呼ばれる。

世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」の構成資産に、法輪寺三重塔は入っていない。
昭和50年の再建だからだ。 7世紀に創建されたとされる法輪寺の三重塔は、江戸時代の台風で金堂などの諸堂が倒壊し、かろうじて塔だけが三層目を吹き飛ばされながらも残った。
 修復の後、明治時代に最大最古の三重塔として国宝に指定され、解体修理も行われたが、太平洋戦争中の昭和19年7月の落雷で炎上、焼失した。戦時中の金属供出で避雷針がなくなっていたからだといわれる。

平成10年薬師寺は世界遺産に登録された。

これからは西岡常一棟梁の最大の技術の集大成となる薬師寺金堂・西塔再建、そして学者と激論を戦い木造で再建することになり、どうしても必要とする和釘の製作であった。

西岡棟梁と東京日本橋にある老舗の金物店「木屋」で偶然の出会いがあり人生の大転換をした日本一の和釘「千年の和釘」を作り上げた伊予松山の鍛冶師・白鷹鍛冶師、この度法隆寺を訪れた目的の一つであるこの二人を追ってみた。

画像は平成21年5月10撮影。

西岡常一棟梁は、尊敬する僧侶が二人いた。
一人は、法隆寺管主、佐伯定胤でもう一人は薬師寺管主、高田好胤であった。

西岡常一棟梁は、はじめは高田好胤をタレント僧侶としか見ていなかったが、昭和45年5月、ご相談したいことがあるから寺においで下さいと使いの人が西岡常一の家に来た。金堂再建建設委員会の方々の熱い語らい、高田好胤管主の命がけの再建事業計画を聞き引き受ける事にした。

画像は平成21年5月10撮影。

西塔再建は昭和51年4月から始まった。

工事中の薬師寺西塔、昭和56年4月落慶法要。

薬師寺西塔用の和釘が6,990本使われた。
この和釘を伊予松山市の鍛冶師、白鷹幸伯一人で鍛造された。

西塔は木材の乾燥収縮を考えて東塔よりも30cm高くして再建された。
西岡常一棟梁によれば、計算すると500年後に東塔と同じ高さになるとの由。

国宝東塔で、現在寺に残る建築のうち、奈良時代(天平年間)にさかのぼる唯一のもの。総高34.1メートル。

日本に現存する江戸時代以前に作られた仏塔としては、東寺五重塔、興福寺五重塔、醍醐寺五重塔に次ぎ、4番目の高さを誇る。屋根の出が6か所にあり、一見六重の塔に見えるが、下から1・3・5番目の屋根は裳階である。

画像は平成21年5月10撮影。

高田好胤管主の命がけの再建事業計画を聞き引き受ける事にしたが、当時の設計図がない大変な事業であった。
高田好胤管主殆ど寺に居なく、金堂再建の費用は写経で得る事を昭和43年から再建運動の話を全国を駆けまわり一日に3回・4回も講演をしていた。

そして昭和46年5月8日金堂再建工事が始まった。
昭和51年4月15日、飛鳥時代そのままの金堂は再建された。

金堂左に東塔を見る。

画像は平成21年5月10撮影。

東廻廊越しに東塔とその奥に西塔を見る。

東塔は、総高34.1メートルで東寺五重塔、興福寺五重塔、醍醐寺五重塔に次ぎ、4番目の高さを誇る。

画像は平成21年5月10撮影。

昭和46年5月8日金堂再建工事が始り、昭和51年4月15日、飛鳥時代そのままの金堂は再建された。

画像は平成21年5月10撮影。

金堂の北側に平成15年に再建された大講堂がある。
大講堂に金堂・西塔再建に関する資料が展示してあった。
その中に千年の和釘を制作した白鷹幸伯鍛冶師について小学校5年生国語教科書に載っている事が紹介されていた。

画像は平成21年5月10撮影。

修学旅行生に説法をする高田好胤管主。

西岡常一棟梁は、はじめは高田好胤をタレント僧侶としか見ていなかったが、昭和45年5月、ご相談したいことがあるから寺においで下さいと使いの人が西岡常一の家に来た。
高田好胤管主の命がけの再建事業計画を聞き尊敬する僧侶となった。
高田好胤管主は殆ど寺におらず、金堂・西塔再建資金作りで全国を講演をし疲労が蓄積された病院に入院、先生からこのまま続けると命はうけあわないと告げられた。

晩年は、家庭教育の講話が各教育委員会から名講話ともてはやされ多忙が増した。

 

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法隆寺に行ってきました:その4 法隆寺周辺三カ所に設置してある観光俳句ポスト

2019年07月20日 | 伊予松山歴史散策

「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」この句は、正岡子規が明治28年8月27日、松山に帰り、夏目漱石の勧めで52日間、漱石の下宿先である愚陀仏庵に居候として過ごし、同年10月19日、故郷伊予松山から東京に帰る途中奈良・法隆寺に立ち寄り詠んだ子規の代表する句である。

また、法隆寺のある斑鳩町はNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」のロケ地ともなり、法隆寺ゆかりの聖徳太子が道後温泉に訪れた記録は、記紀成立以前の天皇や皇族たちが道後温泉に来湯の伝えが伊予風土記に記されている。

 伊予松山と深い縁のある斑鳩町、法隆寺iセンターで、県外第1号俳句ポストの設置式が平成22年10月29日行われ、松山市の山口最丈副市長は「深い縁を感じている」と述べ交流促進を期待しておりますと挨拶をした。

俳句ポストを受け取った斑鳩町の小城利重町長は「2年前から『子規・斑鳩の里俳句大賞』を始め、俳句に親しめる環境をつくっています。」と挨拶された。
この時、柿と法隆寺をイメージした同町キャラクター「パゴちゃん」も紹介された。

これからの画像は、令和元年6月5日法隆寺を訪れた時に撮影した俳句ポストである。

平成22年10月29日、法隆寺iセンターで俳句ポスト設置式典が行われた所である。

法隆寺iセンター正面。

法隆寺iセンター受付。

俳句ポスト設置式典が終了した後に

法隆寺iセンター

いかるがホール

JR法隆寺駅二階観光案内所

三カ所に俳句ポストは設置された。

画像の俳句ポストは、法隆寺iセンターエレベーター横に設置してある。

俳句ポストは、法隆寺をイメージした形で大きさは、三個とも同じである。

高さ・63cm

横幅・18cm 

奥行・18cm

県外俳都松山俳句ポスト設置場所一覧(平成30年4月現在、14ヶ所)です。

俳句ポスト設置自治体   俳句ポスト設置場所

奈良県斑鳩町       法隆寺iセンター

奈良県斑鳩町       JR法隆寺駅観光案内所

奈良県斑鳩町       いかるがホールロビー

熊本県熊本市       熊本城(現在は城彩苑に移動設置)

愛知県犬山市       博物館明治村

東京都台東区       根岸子規庵

神奈川県横須賀市     記念艦「三笠」

東京都千代田区      日本都市センター会館(都市PRコーナー)

東京都新宿区       区立新宿歴史博物館

東京都新宿区       区立漱石公園内 交流施設「道草庵」

東京都荒川区       羽二重団子本店(現在は日暮里駅前店に移動しております)

埼玉県東松山市      東松山市市民活動センター(7ヶ所を周期的に巡回)

福島県会津若松市     会津若松城(鶴ヶ城)

広島県呉市        戦艦大和ミュージアム

 

海外俳都松山俳句ポスト設置場所一覧

設置地域

設置場所

ベルギー・ブリュッセル市

欧州連合日本政府代表部

ドイツ・フライブルク市

フライブルク市立図書館

台湾・台北市

台北市政府 1階ロビー

台湾・台北市

台北俳句会

台湾・台北市

台湾大学 

平成31年3月現在、5ヵ所です。

いかるがホール(奈良県生駒郡斑鳩町興留10丁目6番43号)正面。

 

いかるがホールは、図書館・歴史博物館・文化ホール等々がある複合施設で立派な文化施設である。

俳都・松山俳句ポストは、いかるがホール一階ロビーに置かれている。

俳句ポストは、法隆寺をイメージした形で、松山市の共同作業所「おいでや」が手作りで製作した。
法隆寺iセンター玄関・JR法隆寺駅観光案内所・いかるがホールに設置してある。
俳句ポストは三ヶ月に一度開函され投句は松山市に送り、選句される。

 俳句ポストは、昭和41年、子規・漱石・極堂生誕百年祭の記念事業の一つとして観光俳句を募集し好評を得た。
そこで、昭和43年5月に松山城長者ヶ平(ロープウェ山頂駅舎前)に第1号の俳句ポストを設置し、第2号を同年9月に子規堂、昭和44年4月には道後温泉本館へと、年々俳句ポストを増やし、現在は主要観光地や道後温泉のホテル・旅館・路面市内電車・松山・広島間旅客船や四国八十八ヵ寺など、90ヵ所以上に設置している。

平成22年からは、小説『坂の上の雲』ゆかりのある県外の都市にも10ヵ所以上設置している。
また、平成24年4月から、海外第1号として欧州連合(EU)の首都ブリュッセルに、平成31年1月からは、台湾・台北市にも設置し、俳句文化の魅力をPRしている。

平成30年度に50周年を迎え、俳句ポストの名称を「俳都松山俳句ポスト」に変更したほか、選句の回数を四季に合わせて3ヵ月に1回になった。松山の俳句文化を春夏秋冬お楽しみいただけます。
お気軽に投句してください。・・と松山市は観光者に呼び掛けている。

いかるがホールに設置された俳都・松山俳句ポスト。

平成30年度に50周年を迎え、これを記念して俳句ポストの名称を「俳都松山俳句ポスト」に変更したほか、選句の回数を四季に合わせて3ヵ月に1回になった。

「俳都松山俳句ポスト」の裏側。

JR法隆寺駅。

駅舎には画像の様に「ようこそ斑鳩の里へ」とお出迎えの表示板があった。

JR法隆寺駅舎二階にある「斑鳩の里観光案内所」

JR法隆寺駅舎二階にある「斑鳩の里観光案内所」に設置してある俳都松山俳句ポスト。

JR法隆寺駅舎二階にある「斑鳩の里観光案内所」に設置してある俳都松山俳句ポスト。

JR法隆寺駅舎二階にある「斑鳩の里観光案内所」に設置してある俳都松山俳句ポストを上から見た。

各俳都・松山俳句ポストに置かれている投句用紙。

各俳都松山俳句ポストに置かれている投句用紙裏面。

県外設置の俳都・松山俳句ポストは3ヵ月に一回開函し各設置管理者から松山市に送り下記の要領で選句、して記念品贈呈し、松山市のホームページで発票するとともに「俳句ポスト入選句集を刊行し入選者に贈呈している。

開函:3カ月に1度
選者:松山の著名俳人
賞:各設置地域ごとに特選3句・入選句(記念品を贈呈)
発表:松山市ホームページ
句集:「俳句ポスト入選句集」を作成し、入選者に贈呈

 

このポスは、松山市が設置しているものではなく、子規が松山から東京に帰る時奈良に立ち寄り宿泊した宿、對山樓(現在は、日本料理天平倶楽部)に設置してある。

これからの俳句ポストは松山市内に設置してある一部のポストである。

画像は、俳句ポスト第1号で、形は句碑(石碑)をイメージして造った。素材は青銅である。

ポストは、昭和41年に子規・漱石・極堂生誕百年祭の記念事業の一つとして観光俳句を募集し、好評を得、昭和43年5月に松山城長者ヶ平(ロープウェ山頂駅舎前)へ第1号の俳句ポストとして設置した。

第1号俳句ポストと並列して二つの掲示板が設置してある。

一つは、俳句ポストのご案内ともう一つは、開函結果のご案内である。

注:画像に開函 二ヵ月に一度と書かれているが、現在は三ヶ月に変更されている。

開函し松山の著名俳人が選句、特選・入選句・氏名が掲示され、本人にも連絡通知される。

画像は第288回松山市観光俳句ポストの開函結果のご案内である。

昭和44年4月、道後温泉本館入り口に設置された俳句ポスト。

松山市内の俳句ポストは、平成31年3月現在、92ヶ所に設置されているが全て形の違った俳句ポストが設置してある。

道後温泉駅前にある(カラクリ時計横に)花崗岩で造った俳句ポスト。

四国八十八ヵ寺第48番札所、西林寺の奥の院「杖の淵」の俳句ポスト。

秋山兄弟生誕地に置かれてある俳句ポスト。

松山市立子規記念博物館入口に設置してある俳句ポスト。

平成29年12月26日、新しく開湯した道後温泉飛鳥乃湯に設置された俳句ポスト。

現在設置してある県内外で一番新しい俳句ポストである。

 

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法隆寺に行ってきました:その3 正岡子規の句碑 「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」

2019年07月14日 | 伊予松山歴史散策

法隆寺には、境内案内と参詣に当たり禁止・注意事項が掲げられている。

今回は、正岡子規の句碑 「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」である。

35年前、近鉄奈良駅前か、JR奈良駅前からか観光バスの出発した地点の記憶が定かでなく、観光コースも法隆寺のみだったのか、他の観光地がセットになっていたのかも記憶に残っていない。

ただ、鮮明に脳裏に残っている事は、バスガイドさんが、子規が詠んだ句碑の説明で「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」有名な俳人、正岡子規の句ですと説明された事だけは何故かおぼえている。
そして、その時大変失礼な質問をした。それは、正岡子規は何処の出身の方ですかと伺うと、

すみません。どこの出身の方は知りませんとの返事が返ってきました。私は小さな声で愛媛県松山市ですとささやくように言うと有難うございましたと確か言われた。

子規は果物が大好きで、特に柿が好きで、この茶店で食べた。その後,「柿茶屋」と呼ばれていたが、大正3年に取り払われた。この時に聞こえてきた鐘は西円堂の鐘と言われている。子規が愛媛松山に居た、夏目漱石の下宿先「愚陀仏庵」から東京に帰る途中奈良に立ち寄り、東大寺近くの宿で若い女中さんが、むいてくれた柿を食べているとき、東大寺の鐘が聞こえてきた。奈良最終日に法隆寺を参拝して、鏡池の西にあった茶店でこの句を詠んだ。 

参考までに:夏目金之助(漱石)は明治28年4月松山中学(現、愛媛県立松山東高校)の英語教師として赴任、給料は校長より高く毎日坊ちゃん列車で道後温泉入浴に通った。松山は、東京都比べると何も優れたものはないが、道後温泉だけは東京にはなく素晴らしいと言った。入浴の帰りに老舗和菓子屋で「さらしな団子」を食べて帰るのが日課であった。さらしな団子は後に「坊ちゃん団子」と呼ばれることになる。

この有名な句碑は、法隆寺鏡池の西にある。

  句碑表面には

 法隆寺の茶店に憩ひて 子規
 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺 と揮毫されている。

句碑は記憶にあるが、句碑表面に揮毫されている「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」以外の付随され書かれている文字は記憶になく、今回句碑を見て35年前バスガイドさんから説明を受けた時の記憶を辿るが思い出せなかった。

正岡子規は、慶応3年9月17日、伊予松山15万石の藩士、馬廻り役の家系で家禄100石の家臣、正岡常尚の長男として温泉郡藤原町(現、松山市花園町)で生まれた。幼名は処之助、のちに升(のぼる)と改名した。明治13年、旧制松山中学(現・松山東高等学校)に入学。明治16年、同校を中退し、末は博士か大臣かを志して、親友の秋山眞之、清水則遠と共に上京、受験勉強のために共立学校(現・開成高校)に入学した。

翌年、旧藩主家の給費生となり、東大予備門(のち一高、現・東大教養学部)に入学し、常盤会寄宿舎に入った。同窓に夏目漱石がいた。大学中退後、叔父・加藤拓川の紹介で明治25年に新聞日本の記者となり、家族を呼び寄せそこを文芸活動の拠点とした。幼少時代からの親友である秋山眞之は、東大進学をあきらめ、海軍兵学校に入学、その後勃発した日清戦争で命を掛けて母国防衛に身体を捧げている事に感銘した子規は、病弱な身体を推して、明治28年、新聞日本の社長・陸羯南の猛反対を押し切り従軍記者として清国に渡り、帰国の船中で喀血、神戸須磨で療養し、その後松山に帰郷した。

松山で親友の夏目漱石の下宿(愚陀仏庵)で52日間居候生活をし、漱石より10円を借り、東京に帰る途中何故か同年10月26日〜29日の4日間奈良に行っている。奈良に滞在し、「柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺」の句が詠まれたのである。この奈良旅行中、滞在したのが当時の奈良の老舗旅館であった「對山樓」であり、この宿で詠んだ「秋暮るゝ 奈良の旅籠や 柿の味」の句を始め、柿の木も現存している。對山樓は現在、日本料理天平倶楽部となっておりそこに子規庭園がある。

参考までに

正岡子規の幼馴染である秋山眞之は、日清戦争でお国のために戦っていた。子規は自分も何かお国の為に働きたいと考え、従軍記者として戦地に赴くことにした。明治28年3月14日宇品より故郷である松山に帰り、父の墓に詣で、16日料亭「明治楼」で送別会を受け、翌日広島に帰り4月10日御用船「海城丸」にて近衛師団司令部と共に乗り、宇品から清国へ向かった。

子規は、松山はこれが見納めかと思いを込めて、「春や昔十五万石の城下哉」を詠んだ。

「春や昔十五万石の城下哉」の句碑は現在松山に4基存在する。それだけこの句の存在が大きいのである。その一つの句碑は、JR松山駅前に建立されており、松山を代表する俳句であるとともに松山には沢山の句碑が建立されているが一番大きな句碑で、松山を訪れる人々を出迎えている。

明治28年10月26日~29日の間、東京に帰る途中奈良に立ち寄り名句「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」を詠んだのである。

秋山眞之が大正7年2月、小田原にいた元老、山県有朋と会見、その時小田原で盲腸炎を患い、腹膜炎を併発し大正7年2月4日、山下汽船(現、商船三井)の創設者、山下亀三郎の小田原の別荘で病死、49歳11ケ月の若さであった。眞之の辞世句、「不生不減明けて鴉の三羽かな」、三羽かなの、一人は清水則遠(東京予備門時代に病死)次の一人は正岡子規(明治35年9月19日逝去)そして秋山眞之だと言われている。

句碑裏面には

 明治廿八年秋子規居士遊覆の憩ひし所に建之
 碑面の書は居士自筆の句稿より拡大せさるもの也
 大正五年丙辰九月 青々
 発起 斑鳩吟社 イ巻鳥(けんちょう)社同人
と揮毫されている。

句碑裏面全体を撮る。その後方に聖霊院がある。

東京に帰る途中奈良に立ち寄った時には、脊椎カリエスの病状は進んでおり、東京根岸の自宅までよく辿り着いたものだと思う。

子規は、病状については、口に出さなかったが苦痛であったのではないか?子規最後の長く遠い旅路の奈良路であった。
そんな深い思いもこの句碑に織り込まれているような気がしながらシャッターを押した。

画像は、日本料理天平倶楽部(元・老舗旅館「對山樓」)

平成28年6月1日、長野県安曇野市にある秋山好古揮毫の石碑取材の帰りに行き撮影した。
明治28年10月26日〜29日の4日間奈良に滞在した時の老舗旅館「對山樓」であり、この宿を詠んだ「秋暮るゝ 奈良の旅籠や 柿の味」の句を始め、柿の木も現存している。對山樓は現在、日本料理天平倶楽部となっておりそこに子規庭園がある。

「秋暮るゝ 奈良の旅籠や 柿の味」の句を詠んだ柿の木が現在もある。
老舗旅館「對山樓」の若い女中さんがむいてくれた、柿を食べているとき東大寺の鐘が聞こえてき。奈良最終日に法隆寺参拝をして、鏡池の西にあった茶店で「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の句を詠んだ。
画像は、当時の柿の木が現存し、その奥に大きな建物の屋根が見えるのが東大寺である。

平成28年6月1日、長野県安曇野市にある秋山好古揮毫の石碑取材の帰りに行き撮影した。

これからは子規に関する松山市にある画像である。

松山市花園町にある正岡子規の生誕地跡。

正岡子規の生誕地跡には俳句ポストが設置してある。

正岡子規の生誕地跡にある松山市が設置した説明版。

正岡子規の生誕地跡は小さな庭園風の造りになっておりベンチも設置してある。

暫し子規を偲びながら俳句を詠み俳句ポストに投函する人もいる。

画像は、昭和20年7月26日、松山大空襲で焼失する前の愚陀仏庵(夏目漱石の下宿先)で、場所は、松山市二番町三丁目7番地・三越松山店南側にあった。
愚陀仏庵は、上野義方宅の離れの屋敷で、漱石の俳号「愚陀仏」から命名した。
明治28年8月27日、正岡子規は松山に帰り、漱石の勧めで52日間愚陀仏庵に居候として過ごした場所である。

一階に子規が、二階に漱石が居住し、一階では毎晩賑やかに句会が開かれていた。礎石も句会に参加するようになり、これが文豪、夏目漱石の原点となった。漱石は、子規の筆名(ペンネーム)であった一つで子規から譲り受けたものである。

そして子規は、東京に帰る時、漱石から10円を借り受け、途中奈良に立ち寄るのである。何故奈良に立ち寄ったのだろうかそれは不明である。

 松山大空襲で焼失した愚陀仏庵は、昭和57年萬翠荘の北側に復元された。

しかし平成22年7月12日午前8時ごろ、豪雨のため土砂崩れで全壊した。

画像は、倒壊前の愚陀仏庵で句会やお茶会が毎日開催されていた。

場所も、久松定獏の松山邸宅として建設した萬翠荘(国指定重要文化財)の北側にあり、松山城の山麓に位置する歴史文化が漂う場所にあった。

萬翠荘は、大正11年、旧伊予松山藩主の子孫にあたる久松定謨伯爵が、別邸として建設した愛媛県最初のフランス様式の建物である。

その後再建計画案が出てきているが未だ再建されてない。

愚陀仏庵でのお茶会で、よく使われたのが「亀八・(亀屋八城)」のお茶菓子で、老舗の和菓子店が道後温泉本館前にあった。
亀八は、京都の和菓子店であったが、先々々代の時三越松山店から招かれ道後に来た。
残念ながら14年前に惜しまれながら店舗は畳まれた。
最後の社長が、元ミス長野(信州)に選ばれた美人の御上(女社長)であった。

 

 倒壊前に掲示してあった愚陀仏庵の説明版。

夏目漱石が明治28年4月9日、松山中学の英語教師として赴任、その時の下宿先跡で(松山市二番町3丁目7番地・三越松山店南側)現在は駐車場になっており。
現在は、記念碑と説明版が設置してある。
画像は、愚陀仏庵跡で再建地候補の一つとして挙げられたが未だ再建されてない。

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法隆寺に行ってきました:その2 夢殿

2019年07月07日 | 伊予松山歴史散策

法隆寺東伽藍のシンボル・夢殿(国宝・奈良時代創建)
西暦601年造営された斑鳩宮跡に、行(ぎょう)信(しん)僧都(そうず)という高僧が聖徳太子の遺徳を偲んで天平11年(739)に建てた伽藍を上宮王院といい、その中心となる建物がこの夢殿で、八角円堂の中央の厨子には、聖徳太子等身の密仏救世観音像(飛鳥時代)を安置し、その周囲には聖観音菩薩(平安時代)、聖徳太子の孝養(こうよう)像(鎌倉時代)乾漆の行信僧都像(奈良時代)、平安時代に夢殿の修理をされた道(どう)詮(せん)律師(りつし)の塑像(平安時代)なども安置している。
この夢殿は中門を改造した礼堂(鎌倉時代)と廻廊に囲まれ、まさに観音の化身と伝える聖徳太子を供養するための夢殿としてふさわしい神秘的な雰囲気を漂わせている。

夢殿本尊特別開扉:春季⇒4月11日~5月18日迄
             秋季⇒10月22日~11月22日迄

文言は:資料・法隆寺畧縁起より引用。

夢殿の屋根、最上部には「露盤宝珠(ろばんほうじゅ)」という、仏舎利(釈迦の遺骨)がつけられている。
露盤とは玉の土台のことで、「仏舎利(釈迦の遺骨)」を収めた入れ物を意味するそうです。
宝珠の下の皿のような部分は「宝傘(ほうさん)」、その下の膨らみは「宝瓶(ほうびょう)」と呼ばれるもので、仏様の保護を意味する傘や、お供え用の香水などを入れる瓶の形なのだそうです。
法隆寺畧縁起より引用。

夢殿正面は、南方向ですが四方から拝めるように扉が設置されている。
昭和5年(1930)の百円札として夢殿が初めて紙幣の図案として採用された。
その後昭和32年(1957)、聖徳太子の肖像は五千円札の表面に採用され、昭和33年(1958)に一万円札の表面に聖徳太子が登場した。
昭和21年(1946)以降のものは今でも使えるようです。

夢殿内部は、撮影禁止でふと軒下に目をやると画像の様に、特に蟇(かえる)股(また)部分に針金が沢山取り付けてあった。

夢殿内部は、撮影禁止で時折関係者が見回り監視をしている。
蟇(かえる)股(また)部分に取り付けてある針金らしきものについて職員に質問すると、よく気が付かれましたね、参拝者は殆ど気が付きません。
これは鳩の飛来防止の為に設置しております・・の答えが返って来た。

写真撮影はよろしいですかと伺うとOKですとの事で許可を得て撮影しました。

鳩の飛来防止については、いろんな事を行いましたが効果が無く(ネットを張ると美観を損ねる)その結果、針金を設置すると効果があり現在に至っていると説明をされた。

蟇(かえる)股(また)部分に取り付けてある鳩の飛来防止の針金。

西伽藍から東伽藍(夢殿)に行く案内表示板。

東伽藍(夢殿)入り口にある掲示板。
掲示板下部に白い四角に塗りつぶした部分がある。
ここには何が記載されていたのか?質問するのを忘れて帰りました。
何が書かれてあったのでしょうか。
他の掲示にも同じような白い四角に塗りつぶした部分があった。

修学旅行か、遠足かで訪れた小学生が、夢殿参拝に入る。

中門から見た西伽藍方向。

中門から見た東伽藍方向で、中門と夢殿間の通路には出店があった。

通路に面して設置してある長い続塀には、落書き注意を促す表示板が掲げてあった。

これからの画像は、道後温泉新湯屋「飛鳥乃湯」の画像です。

日本三古泉の一つ道後温泉に新たな湯屋・道後温泉別館湯屋として「飛鳥乃湯泉」が平成28年12月26日正式開館した。

道後温泉本館耐震補強工事(平成31年1月15日から約9年間の工事期間)の代わりの道後温泉別館湯屋としての「飛鳥乃湯」である。

法隆寺夢殿の屋根の最上部には、露盤宝珠(ろばんほうじゅ)がついているが、道後温泉の飛鳥乃湯屋最上部には、夢殿を模した八角円堂が建造されその上には、道後温泉のシンボルである白鷺がつけられている。そして瓦には湯玉が彫り込まれている。

道後温泉は、傷ついた白鷺が飛来し、湧き出る湯に傷口を癒し元気になり飛び立った。鳥に効能があるのであれば人にもいいのでなないかとの事が開湯の始まりで本館正面最上階、振鷺閣上に正面を向けて白鷺を設置している。

画像は、法隆寺夢殿の屋根の上にある球状の立派な飾り。
法隆寺・夢殿の屋根の上に、球状の立派な飾りがついている。
この飾りは「露盤宝珠(ろばんほうじゅ)」といい、露盤とは玉の土台のことで、「仏舎利(釈迦の遺骨)」を収めた入れ物を意味するそうです。
道後温泉の飛鳥乃湯屋最上部には、夢殿を模した八角円堂が建造されている。その上には、露盤宝珠でなく、白鷺がつけられている。

夢殿の屋根の宝珠に刺さっている無数の針のようなものは「光芒(こうぼう)」と呼ばれる光の筋だそうです。
宝珠の下の皿のような部分は「宝傘(ほうさん)」、その下の膨らみは「宝瓶(ほうびょう)」と呼ばれるもので、仏様の保護を意味する傘や、お供え用の香水などを入れる瓶の形なのだそうです。

道後温泉飛鳥乃湯の中庭に建立された「聖徳太子の碑」。
石碑の現物は亡失して無いが、『伊予風土記』逸文には、推古4年(596年)聖徳太子(厩戸皇子)と思われる人物が伊予(現在の愛媛県)の道後温泉に高麗の僧・慧慈と大和の豪族葛城臣なる人物を伴って赴きその時、湯岡の側にこの旅を記念して「碑」を建て、その碑文が記されていたとされている。

その碑文(原文)は

「法興六年十月 歳在丙辰 我法王大王与慧慈法師及葛城臣 道遙夷予村正観神井 歎世妙験 欲叙意 聊作碑文一首  惟夫 日月照於上而不私 神井出於下無不給 万機所以妙応 百姓所以潜扇 若乃照給無偏私 何異干(天の誤りか)寿国 随華台而開合 沐神井而?(癒)疹 ?(言巨)舛于落花池而化弱 窺望山岳之巌?(愕) 反冀子平之能往 椿樹相?(蔭)而穹窿実想五百之張蓋臨朝啼鳥而戯?(峠の山が口) 何暁乱音之聒耳 丹花巻葉而映照 玉菓弥葩以垂井 経過其下 可以優遊 豈悟洪灌霄霄庭 意与才拙実慚七歩 後之君子 幸無蚩咲也」(「法隆寺ハンドブック」より)

飛鳥乃湯中庭に建立された聖徳太子の碑の説明版。

飛鳥乃湯の玄関。

飛鳥乃湯の入浴料金表で管理運営は松山市である。

画像は道後温泉本館で、現在仮設の大屋根建設中、大屋根が完成すると本格的な耐震補強工事がはじまる。
現在は1階のみで営業、入口は明治27年改築当時の二の湯入口に変更している。

 

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法隆寺に行ってきました:その1 金堂・五重塔 

2019年07月03日 | 伊予松山歴史散策

「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」
令和元年6月4日、35年振りに法隆寺を訪ねました。
訪ねた訳は,下記の通りです。
1、昭和24年1月26日、法隆寺金堂の火災により金堂壁画が焼損、これがきっかけとなり、昭和25年5月30日、重要文化財保護法が制定された、その金堂が見たく伺った。

 2、聖徳太子が法興6年(596年)、道後に訪れたと言われ、太子は名媚な風光と良質な温泉を推賞せられ、湯の岡に温泉の碑を建立されたと伝わっています。
平成29年12月26日、道後温泉に新しく飛鳥時代の建築様式を取り入れた道後温泉別館とした湯屋「飛鳥乃湯」が新築された。
道後温泉飛鳥乃湯の最上部には、法隆寺のシンボルである、夢殿を模した構造物が造られた。
そして飛鳥乃湯の中庭の一角に聖徳太子撰文の石碑の写しが建立してあります。
当時は椿が美しく生い茂り、霊妙な温泉が平等に恩沢を施す様はまるで寿国(理想の国)のようだと讃えられたと言われています。(松山市の花は、椿です。)

3、 法隆寺修復時に西岡常一棟梁と日本橋の刃物商「木屋」で出会い和釘「千年の釘」を制作した西岡常一棟梁の片腕として活躍された名工鍛冶職人、白鷹幸伯さんが松山市堀江町の方で活躍されました。
法隆寺修復に白鷹さんが制作された千年の和釘を見に行った。

4、正岡子規は、明治28年10月26日〜29日の4日間、東京に帰る途中何故か奈良に滞在し詠んだ句が有名な「「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」この句碑の確認と撮影。

5、近年、松山市が寄贈した観光俳句ポストが法隆寺周辺3カ所に設置してあるそうでその確認と俳句ポストの撮影。

以上の事案で、35年振りに法隆寺を訪ねました。

 

法隆寺伽藍配置図。

この日は、真夏日で参拝するには大変でしたが、写真を撮るには絶好の撮影日和でした。JR法隆寺駅からタクシーで「いかるがホール」を経由して「法隆寺iセンタ」まで行き、法隆寺の正門である南大門まで徒歩で、いよいよ35年振りの参詣です。
南大門は歴史を感ずる壮大な建造物で、それに連なる続き塀が素晴らしい。
永享10年(1438)室町時代、第6代将軍足利義教時代に再建された。

南大門正面右側に画像の表版。

室町時代、第6代将軍足利義教時代に再建された南大門表示板。

南大門を潜り、大門から見た西伽藍の中門と五重塔を望む。
この日は、真夏日で天候は良く写真撮影には絶好の天候であったが、少し熱すぎた。
また、大勢の修学旅行生が来ていました。

西伽藍の一角に拝観料を支払う受付があり規定の料金を支払い入りました。

西伽藍回廊の入口で参拝券を見せて拝観を行う。

法隆寺は、金堂・五重塔を中心とする西伽藍と、夢殿を中心とする東伽藍、百済観音を中心とする大宝蔵院に分けられ、広さ18万7千平方メートル広大さである。

さて画像は、問題の金堂です。

昭和20年に金堂の解体作業が始まり、昭和24年1月26日の早朝、金堂に火災が発生した。
出火当時、金堂は、解体中で仏様や重要なものは金堂から移されて難をまぬがれたが肝心な壁画は外す事が不可能で焼損した。
金堂は、昭和29年に解体修理を終えて復旧したが、壁画の描かれていた壁は空白のままであった。
その後壁画は著名な画家たちの手で複製され、壁にはめ込む工法で昭和43年2月に完成、パネルにはめ込んだ上で金堂の壁に設置され法隆寺金堂内部はようやく火災前の姿に戻った。

そして、昭和25年5月30日、重要文化財保護法が制定された。
それまでの国宝は全て重要文化財に指定替えされ、改めて重要文化財保護法に基づき新しい国宝が指定された。

なお、昭和25年(1950)の文化財保護法施行以前の旧制度下では、現在の「重要文化財」に相当するものがすべて「国宝」と称されていた。

城郭を例に挙げると、現存12天守は全て国宝であったが、文化財保護法施行後は、松本・犬山・彦根・姫路城の天守が国宝に指定され、弘前・丸岡・備中松山・松江・丸亀・高知・宇和島・伊予松山の天守は重要文化財に指定替えされ格が下がった感がする。

なお、松江城天守は、平成27年7月8日、重要文化財であったが国宝に指定された。

 

画像は、金堂と五重塔。
昭和25年5月30日、重要文化財保護法が制定の続きである。
文科省は、明治30年(1897)から昭和24年(1949)までの間に、古社寺保存法および国宝保存法に基づいて「国宝」に指定された物件は明治30年(1897)から昭和24年(1949)までの間に、古社寺保存法および国宝保存法に基づいて「国宝」に指定された物件はいわゆる「旧国宝」であり、これらの物件すべては文化財保護法施行の日である昭和25年(1950)8月29日をもって、同法に規定する「重要文化財」となった。

そして、「重要文化財」のうちで日本文化史上特に貴重なものがあらためて「国宝」に指定されることになった。
つまり、昭和25年(1950)以前と以後とでは法律上の「国宝」という用語の意味が異なっており、旧法の「国宝」は文化財保護法上の「重要文化財」に相当する(文化財保護法付則第3条)。
この点の混同を避けるため、文化財保護法上の「国宝」を「新国宝」と俗称することもある。いずれにしても、第二次世界大戦以前には「国宝」であったものが戦後「重要文化財」に「格下げ」されたと解釈するのは誤りである。・・文科省のHPにはこのように記載してある。

文科省HPを引用

しかし私は格下げになったとしか理解できない。

金堂と五重塔で、北側から撮影。

西側から見た金堂。

南側から見た金堂と五重塔で法隆寺の建造物は全て南が正面だそうです。
この日は多くの修学旅行生徒が来ていた。

南側、正面から見た五重塔。
創建は金堂と同じ推古15年(607)、五重塔としての建物で現存する木造建築としては世界最古、法隆寺西院伽藍のシンボルである。

金堂と五重塔には、創建当時は敷設されなかった付設建造物がある。
それは、画像の通り敷設物で「裳(も)階(こし)」と言うそうです。

建物外部の軒下に回した庇(ひさし)で、風雨・風雪を防ぐ構造物。

 

付設物の名称は、法隆寺の職員さんに教示願いました。

金堂壁画で代表する壁画はどれですか?と伺うと、写真があるからご覧下さいと写真を取り出し見せて頂き、許可を受け撮影しました。
画像が、金堂壁画の代表する壁画で、名称は「6号壁画・阿弥陀浄土図」だそうです。

「裳(も)階(こし)」について、金堂壁画の代表する壁画「6号壁画・阿弥陀浄土図」を説明して頂いた安保さんで、顔を写さない条件で撮影させて頂きました。

 

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