世界最古の木造建築である法隆寺は、平成5年12月、日本で最初に世界遺産に登録された建造物である。
西岡常一棟梁は、明治41年9月4日、奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺西里で生まれ、平成7年4月11日亡くなられ享年86歳であった。
西岡家の家系は、先祖代々法隆寺の建造物の修理解体にかかわって来た宮大工で、法隆寺昭和の大修理、法輪寺三重塔の再建工事や薬師寺金堂・西塔再建に従事して手腕を発揮した。
西岡常一は、法隆寺管主、佐伯定胤に目を掛けてもらい、昭和31年法隆寺文化財保存事務所技師代理となる。
法隆寺の修復、薬師寺金堂、同西塔の再建については学者と激しい技術について論争するが、西岡棟梁は一歩も譲らず今まで培ってきた自分の持論を貫き通し、法隆寺には鬼がいると呼ばれた。
そして、NHKの番組「プロジェクトX」でも大きく取り上げられ放映され改めて西岡常一棟梁の凄さを確認した。
参考文献:西岡常一「木のいのち・木のこころ」「口伝の重み」
きりぶち輝「薬師寺に陽がのぼる」
落慶法要には、西岡常一棟梁は神社の神主の様な服装で出席した。
これからの画像3枚は、法隆寺iセンター2階に展示してある画像です。
宮大工棟梁・西岡常一の紹介。
宮大工棟梁・西岡常一。
宮大工棟梁・西岡常一が使った道具等々が展示してある。
西岡常一棟梁の手によって再建された法輪寺三重塔。法輪寺は三井寺(みいでら)とも呼ばれる。
世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」の構成資産に、法輪寺三重塔は入っていない。
昭和50年の再建だからだ。 7世紀に創建されたとされる法輪寺の三重塔は、江戸時代の台風で金堂などの諸堂が倒壊し、かろうじて塔だけが三層目を吹き飛ばされながらも残った。
修復の後、明治時代に最大最古の三重塔として国宝に指定され、解体修理も行われたが、太平洋戦争中の昭和19年7月の落雷で炎上、焼失した。戦時中の金属供出で避雷針がなくなっていたからだといわれる。
平成10年薬師寺は世界遺産に登録された。
これからは西岡常一棟梁の最大の技術の集大成となる薬師寺金堂・西塔再建、そして学者と激論を戦い木造で再建することになり、どうしても必要とする和釘の製作であった。
西岡棟梁と東京日本橋にある老舗の金物店「木屋」で偶然の出会いがあり人生の大転換をした日本一の和釘「千年の和釘」を作り上げた伊予松山の鍛冶師・白鷹鍛冶師、この度法隆寺を訪れた目的の一つであるこの二人を追ってみた。
画像は平成21年5月10撮影。
西岡常一棟梁は、尊敬する僧侶が二人いた。
一人は、法隆寺管主、佐伯定胤でもう一人は薬師寺管主、高田好胤であった。
西岡常一棟梁は、はじめは高田好胤をタレント僧侶としか見ていなかったが、昭和45年5月、ご相談したいことがあるから寺においで下さいと使いの人が西岡常一の家に来た。金堂再建建設委員会の方々の熱い語らい、高田好胤管主の命がけの再建事業計画を聞き引き受ける事にした。
画像は平成21年5月10撮影。
西塔再建は昭和51年4月から始まった。
工事中の薬師寺西塔、昭和56年4月落慶法要。
薬師寺西塔用の和釘が6,990本使われた。
この和釘を伊予松山市の鍛冶師、白鷹幸伯一人で鍛造された。
西塔は木材の乾燥収縮を考えて東塔よりも30cm高くして再建された。
西岡常一棟梁によれば、計算すると500年後に東塔と同じ高さになるとの由。
国宝東塔で、現在寺に残る建築のうち、奈良時代(天平年間)にさかのぼる唯一のもの。総高34.1メートル。
日本に現存する江戸時代以前に作られた仏塔としては、東寺五重塔、興福寺五重塔、醍醐寺五重塔に次ぎ、4番目の高さを誇る。屋根の出が6か所にあり、一見六重の塔に見えるが、下から1・3・5番目の屋根は裳階である。
画像は平成21年5月10撮影。
高田好胤管主の命がけの再建事業計画を聞き引き受ける事にしたが、当時の設計図がない大変な事業であった。
高田好胤管主殆ど寺に居なく、金堂再建の費用は写経で得る事を昭和43年から再建運動の話を全国を駆けまわり一日に3回・4回も講演をしていた。
そして昭和46年5月8日金堂再建工事が始まった。
昭和51年4月15日、飛鳥時代そのままの金堂は再建された。
金堂左に東塔を見る。
画像は平成21年5月10撮影。
東廻廊越しに東塔とその奥に西塔を見る。
東塔は、総高34.1メートルで東寺五重塔、興福寺五重塔、醍醐寺五重塔に次ぎ、4番目の高さを誇る。
画像は平成21年5月10撮影。
昭和46年5月8日金堂再建工事が始り、昭和51年4月15日、飛鳥時代そのままの金堂は再建された。
画像は平成21年5月10撮影。
金堂の北側に平成15年に再建された大講堂がある。
大講堂に金堂・西塔再建に関する資料が展示してあった。
その中に千年の和釘を制作した白鷹幸伯鍛冶師について小学校5年生国語教科書に載っている事が紹介されていた。
画像は平成21年5月10撮影。
修学旅行生に説法をする高田好胤管主。
西岡常一棟梁は、はじめは高田好胤をタレント僧侶としか見ていなかったが、昭和45年5月、ご相談したいことがあるから寺においで下さいと使いの人が西岡常一の家に来た。
高田好胤管主の命がけの再建事業計画を聞き尊敬する僧侶となった。
高田好胤管主は殆ど寺におらず、金堂・西塔再建資金作りで全国を講演をし疲労が蓄積された病院に入院、先生からこのまま続けると命はうけあわないと告げられた。
晩年は、家庭教育の講話が各教育委員会から名講話ともてはやされ多忙が増した。