EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

伊予松山・義士祭開催 

2016年12月14日 | 伊予松山歴史散策

松山義士祭、平成14年12月14日、第40回開催を記念して大々的に義士行列が行われました。例年は、末広町商店街と髙島屋百貨店前のみの行列ですが、この年は松山一の商店街である銀天街を義士に扮装した関係者達が練り歩いた時の画像です。

さて
今年もやってきました。
年末、日本最大の関心事、314年前の出来事、元禄14年、播州赤穂藩第3代城主、浅野内匠頭の江戸城松の廊下の刃傷から、同15年、大石内蔵助良雄が率いる赤穂浪士の吉良邸討ち入り、同16年、浪士の切腹に至るまでの一連の事件は、今日まで歴史上のみならず、寛永元年に歌舞伎で、仮名手本忠臣蔵として開かれその後、書籍、映画、演劇、講談、多岐にわたる分野に取り上げられ、12月14日前後には、数社のTV局は忠臣蔵を放映する。
今年は、某局が真相に近い解説付きの忠臣蔵が放映され改めて再認識した。
最近は、外国の人々も東京高輪の泉岳寺にある浪士の墓参りに来ているそうで、5人に一人が外国の人達だそうです。

松山市では毎年、伊予松山義士祭が12月14日に開催されています。
私も記録を兼ねてカメラ持参で参列して来ましたが、今年は体調を患い愛大医学部附属病院で検査を受けるため行く事が出来なかったのが残念です。

今年、第53回を迎える義士祭、昨年までの松山義士祭を振り返って画像を掲示してみました。
何故、松山で義士祭が挙行されるかと言いますと、大高源吾、木村岡右衛門の切腹を介錯した松山藩士、宮原久太夫が両名の遺髪を藩主の許しを得て、松山市末広町にある宮原家の菩提寺、興聖寺(こうしょうじ)に二人の墓を建立し納め供養したのが事の始まりで、昭和39年、両名と宮原の供養と地元の発展を願って、興聖寺史跡顕彰会が発足し、同年12月14日第1回松山義士祭が挙行された。その後主催は末広町商工会を経て同町会へ移行し現在では松山の師走の風物詩として継続されていてこれが経緯です。
宮原は、この介錯の後、俳諧で著名であった人でも殺さねばならない武士というものに嫌気がさし、武士を捨てて松山で酒屋に転じた。ご子孫は、現在も健在で神奈川県に居られるそうです。
平成25年12月27日、NHKBSで「最後の忠臣蔵」が放映された。
ドラマの内容は虚構であるが見ごたえのある物語で、毎年この時期になると録画している「最後の忠臣蔵」涙を流しながら観ています。


平成24年・第49回 義士祭開催のポスターです。


興聖寺にある、木村岡衛門・大高源吾のお墓にお供え物を献上、その横に介錯をした宮原久太夫のお墓がある。
大高源吾は、宝井其角に俳諧を学び、俳号を「子葉」と号し元禄16年2月4日伊予松山藩江戸中屋敷邸で切腹を命ぜられ、その死に臨んで次の句を遺して清く自刃した。
「梅てのむ  茶屋も有りへし死出の山」

参考:伊予松山藩がお預かりした赤穂浪士10名の方々は下記の通りです。
大石 主税良金     部屋住(大石内蔵助良雄長男)  15歳
堀部 安兵衛武庸    二百石馬廻           33歳
中村 勘助正辰     百石祐筆            44歳
木村 岡右衛門貞行   百五十石代官          45歳
岡野 金右衛門包秀   部屋住(亡父二百石物頭)    23歳
不破 数右衛門正種   先知百石普請奉行        23歳
菅谷 半之丞政利    百石代官            43歳
千馬 三郎兵衛光忠   三十石宗門改          50歳
貝賀 弥左衛門友信   十両三人扶持蔵奉行       53歳
大高 源吾忠雄     二十石五人扶持近習       31歳
興聖寺の資料より


松山義士祭諸準備が行われている興聖寺境内の様子。




義士行列を行うに当たっての注意事項等々を言い渡す。


午前10時興聖寺を義士行列が出発・・行列開始。


末広町商店街を行列が行進。


髙島屋百貨店前広場で義士隊が集合し記念写真撮影。


無事義士行列も終わり、木村岡衛門・大高源吾が眠る興聖寺に帰り義士隊一同が勝鬨を上げる。


義士祭に参加した人達、討ち入りそばを頂きながら当時の義士達を偲んでいた。


赤穂浪士は、4大名家に御預けとなり、その一つが伊予松山藩である。
浪士達を切腹までの間お世話をした。
そのお礼として赤穂藩から「はぜの木」が贈られて来たが、何故「はぜの木」なのか不思議に思い、赤穂市役所に照会するも不明と回答があり、判明したら連絡します。・・ですが7年が経過するが未だ何の連絡も無い。

画像は、道後湯築城跡外堀に赤穂藩から贈られて来た「はぜの木」が植栽保存され、その説明版も設置されています。管理は道後地区土地改良区が行っています。


東京都港区高輪泉岳寺にある「大石内蔵助良雄」のお墓で、浪士のお墓も大石内蔵助良雄が見守る様に配して祀ってある。墓参に来る5人に1人は外国人だそうで、年々人気が広がっているそうです。
その人気は何処にあるのでしょう。主君のために妻、子供家庭を捨てて命を懸けての忠義心、忠誠心、武士の生き方を貫いた姿勢等々、外国の人々には到底考えられない行動らしい。


松山義士祭の関係について観て来ましたが、最後は、伊予松山藩江戸中屋敷の現在はどうなっているのかを観て終わりとします。
その前に、江戸末期伊予松山藩は親藩であったため、幕府の命により長州征伐の先鋒隊として攻め込み、第二次長州征伐も参戦、その為、維新後新政府から朝敵とされ、制裁金15万両を課せられた。松山藩は15万両の大金を調達するに大変な苦労をした。その為江戸屋敷を手放したとか?。
元禄16年2月4日、大石主税以下10名の赤穂義士が伊予松山藩江戸中屋敷で切腹した。
現在、伊予松山藩江戸中屋敷は、イタリア大使館となっており、大使館内に赤穂義士が切腹した経緯を記して記念の石碑が建立されている。
私も是非とも石碑を見たいが、特別な要人でないと大使館に入れない。
それが一度だけNHKのカメラが入り放映された。それはブラタモリの番組であった。ここに掲示する画像は、その時放映されたTV画像です。


イタリア大使館の庭に建立されている石碑。
江戸時代の伊予松山藩江戸中屋敷(現、イタリア大使館)、松平隠岐守と記載されている所である。伊予松山城主、第4代松平定直の時代、大きな出来事であった。

記念石碑には、大石主税以下浪士の名前と介錯人の名前まで刻まれている。
大石主税の介錯人は、羽賀清太夫で、禄は15石3人扶持、身分は、寄合大小姓とある。
ともあれ、石碑の建立は、流石にイタリア大使館、何時の時代の大使が建立したのか立派な事をされた。
一時期、三国同盟を結成した国家だけの事はあり、アッパレである。観ることが出来るのであれば是非とも観てみたい石碑である。

イタリア大使館の庭は、当時のままで、昨年、平成27年赤穂市の大石神社の宮司を招き浪士の慰霊祭が実施されたそうです。「忠臣蔵に思いを馳せる」人は日本人だけではない様です。


イタリア大使館の庭で、現在も当時のままだそうです。


イタリア大使館では昨年、平成27年赤穂市にある大石神社の宮司を招き、浪士の慰霊祭が実施されたそうです。
「忠臣蔵に思いを馳せる」のは日本人だけではない様です。


ドラマ「最後の忠臣蔵」瀬尾孫左右衛門と寺坂吉右衛門、そして大石内蔵助良雄の忘れ形見である可音との一場面。

ドラマ「最後の忠臣蔵」鑑賞で涙する。
3年前に人の心を揺るがすドラマを見た。
それは「最後の忠臣蔵」で12月になると必ず忠臣蔵が放映される。内容は殆ど決まっており違うのは出演する配役くらいである。殆どの内容は討ち入った義士達の切腹で終わる。
残された家族の事はドラマになっていない。
平成25年12月27日、NHKBSで「最後の忠臣蔵」が放映された。
ドラマの内容は虚構であるが見ごたえのある物語であった。
最初の画面は、大石内蔵助良雄から討ち入りの生き証人として真実を伝える使命と、残された義士家族を探し訪ねて暮らしを助けてやってほしいと大石の命を受けた、佐藤浩市演ずる寺坂吉右衛門が、最後の家族である、茅野の家族を訪ね預かった金子を渡す画面から始まる。そして役所広司が演じる瀬尾孫左衛門と出会う。
このドラマの主人公は、瀬尾孫左右衛門と寺坂吉右衛門、そして大石内蔵助良雄の忘れ形見である可音である。
ドラマの内容は、フィクションであるが、主に託されそれをともすれば挫折することがあるが、特に孫左右衛門と吉右衛門は、いろんな苦難を乗り越えて成し遂げる意思の強さと忍耐力、不穏に思っていた孫左の16年間の真実、吉右衛門が初めて出会う可音に対して「元播州赤穂藩浅野家臣、寺坂吉右衛門でございます。」と名乗り出るところから最後まで鑑賞する側は、思わず涙の連続で、NHKはいいドラマを放映したと喝采を送りたい作品であった。久しぶりに感動をしたドラマに出会った。

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伊予四山 晩秋の景

2016年12月08日 | 伊予松山歴史散策

上空から見た「伊予四山」。
伊予四山の左右に筋状に観えるのは、右が国道11号線、左が国道33号線です。
両国道は松山城麓にある松山市役所前で合流し終わる。
ちなみに国道11号線の起点は、徳島市で、高松市を経由して終点は松山市です。
    国道33号線の起点は、高知市で、終点は松山市です。


昨日(12月7日)は、大雪で、この時期は厚く垂れ込めた雲に天地の気が塞がれ、雪雲となり、山の周辺だけでなく平地でも雪が降り始め、生き物は活動を控え冬ごもりの支度に入り、暦の上では本格的な冬到来である。・・とある。
この時期昨年は、東日本のスキー場では降雪がなく、盛んに人工雪を造りゲレンデを確保していたが、今日のTVニュースでは降雪充分で白銀の世界であった。

私は、先日から急性声帯炎を患い、近くの耳鼻咽喉科で治療を受けている。
病院は、伊予四山の一つ東山の直ぐ傍にあり、昨日、松山地方は好天に恵まれ暖かい一日であったので、病院帰りに伊予四山散策を気晴らしにしてみました。

参考までに「伊予四山」の標高は下記の通りです。
天 山:50,4m 
星岡山:75,4m:三角点あり。 
東 山:48,5m 
土亀山:50、5m:三角点あり。


先ずは、天山から。
天山は、風土記 日本古典文学体系 岩波書店・風土記逸文・伊予の国に出て来る山で、奈良県橿原市にある天香具山と姉妹の山である。
また、天山は慶長6年、加藤嘉明が、徳川家康に、築城許可を願い出た候補地として、一番候補地にした山でもある。
この日は筋雲が現れ幻想的な光景でした。


天山(50,4m)から見た伊予松山城本丸天守。
伊予松山城天守は天山から見る姿が一番綺麗に観えます。
加藤義明は、伊予松山城築城時、一番候補地にしたのが天山で、二番候補地にした勝山(伊予松山城・132m)を観る。


次は、土亀山で標高50、5m。
いろんな書物に現れるのは、伊予三山としての記述があり、その為土亀山が省かれています。
天山・東山・星岡山に比べると知名度は低い山なのでしょうか?
しかし、天山・東山・星岡山には無い、正岡子規が詠んだ句があります。

その句は「凩に はひつくばるや 土亀山」明治25年 終りの冬の句です。

また、土亀山の一部に福音寺町の墓地があり、その一角に旧陸軍大学校第1期生の仙波太郎中将の墓があります。当時陸軍の三太郎と呼ばれ活躍しました。
陸軍の三太郎、宇都宮太郎・桂太郎・仙波太郎で、桂太郎は、内閣総理大臣に上り詰めました。


伊丹十三記念館の前を通り「東山」に向かう。
伊丹十三記念館の館長さんは、奥様の宮本信子さんで時々お越しになります。
常勤の館長さんでないので、名誉館長さんでしょう。


次は、東山です。
標高48,5mで、伊予四山では一番低い山である。
この山は、古墳が沢山あり、現在は東山古墳公園と公称され地元住民の公園として親しまれています。 
手前の広場は、多目的グランドで、以前は東石井町土地改良区が所有していた溜池であった。
昭和42年、灌漑と工業用水および発電用のダムが旧上浮穴郡面河村に建設され灌漑目的であった溜池を埋め立てて、多目的グランドとして現在に至っています。
グランド右手には、硬式テニスコートも設置されています。


東山古墳公園の一部で、木々は紅葉していました。


最後の山、「星岡山」標高75,4mあり伊予四山で一番高い山であります。
星岡山は、星の岡古戦場として歴史のある山で、鎌倉時代の末期幕府の力が弱まって来た頃、後醍醐天皇はもう一度、天皇が政治を行なう為に実権を取り戻どそうと討幕を計画し王政復古の戦いを起こした。
伊予国でも幕府方と宮方に分かれて激しい戦いが行なわれ、鎌倉幕府が終焉に至った古戦場の地であります。
また、星岡山の北面には、以前から冷泉が湧いていて、昭和34年、此処に深井戸を掘削して温泉を汲み上げ現在の星の岡温泉となっています。


すると、南西方向からヘリが飛来して来ました。


ズームを駆使してアップで撮ってみました・・業務内容は分かりませんが東に飛んで行きました。
もしかしたら電力の送電線の調査かもです。??


最後に我が家から観た西日本最高峰「石鎚山・1982m」です。
未だ冠雪は無いです。
例年では、11月に冠雪します。
暖かいほうが過ごしやすくいいです。




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