EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

天山・崖崩れ防災対策工事完成

2019年02月22日 | 伊予松山歴史散策

愛媛県松山市は、平成31年2月1日現在人口は、510,516人で、松山市天山町は伊予松山城から南方向約、5kmの地点に位置する松山市の中心にある街である。 

天山崖崩れ防災対策工事完成
平成30年7月に発生した「平成の大水害・西日本豪雨」で被災されました方々の再建は未だ復興されていません。皆様の一日も早いご再建をお祈りいたしますとともに、今もボランティアとして活動されている皆様ご苦労様です。
広島県・岡山県・愛媛県地区では特に甚大な災害が発生し、尊い命が失われました。

全国各地の県警・消防・企業局・医師団・自衛隊・それ以外で派遣されている皆さん方の救助活動が毎日のようにTVで報道されました。
また、TVで報道されていない地区でも被害が出ました。
私の住まいのすぐ近くに奈良県の天香具山と姉妹の山「天山」があり、西日本豪雨の時、松山市石井地区の天山町に避難勧告が発令されました。

 その後松山市天山町に避難勧告が出た場所を見に行ってみると、天山神社の参道(石段115段)両側の崖崩れの兆候があり土砂崩れ避難勧告が発令されたのです。
昨年暮れから崖崩れ防災対策工事が行われ昨日完了しました。
幸い松山市天山町の天山には崖崩れは発生せず難を逃れました。

この山は、天から降り下りて来る時、途中で二つに分かれ、一つが奈良県橿原市の天香具山、もう一つが松山市天山町の天山です。
天山香具山(152,4m)・天山(50,4m)ともに、神ノ山として崇められる山で、平成の大水害・西日本豪雨の際、天山町の住民は神様のご加護があったのではないでしょうか!!
画像は、崖崩れ防災対策工事が行われた箇所です。

崖崩れ防災対策工事が行われる以前の画像。
参道入口にある社号碑は、明治時代の書家、三輪田米山の揮毫である。

崖崩れ防災対策工事が行われ完成した画像。

崖崩れ防災対策工事、右側の崖崩れ防災対策工事現場。

崖崩れ防災対策工事、左側の崖崩れ防災対策工事現場。

長い115段の石段。

天山神社参道には長い115段の石段があり上がると参道は続く。

参道から境内にかけて塵一つ落ちてなく地域の人々が毎日清掃をしている。神ノ山の神社である。

山頂にある社殿右には、大和国(奈良県橿原市)天香久山と伊予国(松山市天山町)との姉妹交流記念20周年を記念して立派な石碑が建立してある。

天香具山・天山の歌碑。

「お山の縁で歴史姉妹」の大きな見出しで新聞記事となった。

天山は、加藤嘉明が松山城築城に際して徳川家康に築城の位置について、3ヶ所の候補地を上申した1番目の場所が「天山」であった。
2番候補地が現在の松山城(勝山)で、3番候補地が御幸寺山であった。
画像上部に小高い山が伊予松山城。

慶長7年(1602年)1月15日の吉日をもって、伊予国正木(松前)城主10万石の大名であった加藤嘉明が、関ヶ原の戦いでの戦功により徳川家康から20万石を拝領し、松山城築城第2番候補地、勝山に築城許可が下り普請が始まった。慶長8年(1603年)10月に、嘉明は家臣及び正木の住民とともに居を新城下に移し、この地を松山という名称が公にされた。
しかし城郭は短時間に完成したわけでなく、完成までに26年の歳月が掛かりその当時の関係者の努力で現在の松山城がある。
完成間際の1年前、嘉明は幕府の命で会津若松藩40万石で転封となった。

標高50,4mの天山山頂から見た伊予松山城で、松山城は天山から見るのが一番綺麗と言われている。
画像撮影レンズは、35mm判換算にすると1,365mm相当のレンズで撮影。

奈良県橿原市南浦町にある「大和国(奈良県橿原市)天香久山152,4m」である。
撮影は、日本100名城巡り時、第48番松坂城(三重県松阪市)から、第61番高取城(奈良県高取町)に移動中、橿原市南浦町にある天香久山を撮影した。

 

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伊予路に春を呼ぶ 椿神社祭り・2月11日から13日迄開祭された

2019年02月16日 | 伊予松山歴史散策

今年もやって来た、伊予路に春を呼ぶと言われている「椿祭り」が2月11日から13日まで、松山市居相町二丁目にある伊予豆比古命神社で始まった。

中日の12日カメラ持参で参拝に行って来た。
「家内安全と今年一年元気に過ごせますように、西日本豪雨被害早期復興、北朝鮮拉致問題早期解決、元気のある日本復活を祈願しました。」 

椿祭りは毎年旧暦の1月7日~9日に開催される。
初日は雨天&曇天、二日目は快晴、最終日も好天に恵まれ大勢の家族ずれが参道を埋め尽くしていた。
本殿参拝は、愛媛県県警の警察官が参拝者の安全を確保し、事故の無いお参りが出来る様配慮され、市民のパトロール隊を編成し安全を保っていた。

境内には新しい児守神社が出来ていました。(平成24年12月23日竣工)拝殿とお札・お守りを初穂料と引換え受け渡しとして臨時の巫女さんが大忙しであった。
同神社では例年通り参拝者は45万人の人出があると見込んでいるそうで、愛媛県最大の神社大祭である。

参道は約600mあり、両サイドに露天商が並び境内には縁起物の熊手や「名物の・おたやんあめ」を参拝の帰りに買い求めていた。
参考に、伊豫豆比古命神社(いよずひこのみことじんじゃ)は愛媛県松山市居相町にある神社で、式内社・旧社格は県社で神紋は十六弁八重表菊である。
地元では椿神社、椿さんとも呼ばれて、開運縁起・商売繁昌の御利益がある神社として崇拝されている。

「伊豫豆比古」の読み方については、神社では「いよずひこ」としているが、「いよづひこ」と読んでいる例も多い。本来の意味からいえば「いよ-づ-ひこ」であり、「豆」は格助詞「つ(づ)」であるが、ここでは同神社の表記に従う。
江戸時代には松山藩主・松平(久松)氏の篤い崇敬を受け、現在では縁起開運の神として、崇敬者は全国に広がるという。

【正式名称】
 伊豫豆比古命神社は、御鎮座(御創建)二千余年の古くより、尊称・敬称も親しく「椿神社」「お椿さん」とも慕われ、縁起開運・商売繁昌の神様として、四国四県はもとより、広く全国から崇敬を寄せられている神社である。

【通称号】
 「椿神社」「お椿さん」は、松山市内・四国四県で特に敬称を込めて呼ばれているが、この由来は、『往古、伊豫豆比古命・伊豫豆比売命の二柱の神様が舟山に御舟を寄させ給い、潮鳴栲綱翁神(しおなるたぐつなのおきなのかみ)が纜(ともづな)を繋いでお迎えした。』との伝説が示すように、神社周辺は一面の海原であり、『津(海の意)の脇の神社、すなわち「つわき神社」が時間の経過と共に「つばき神社」と訛った。』との学説の一方、民間伝承では、現在も境内一帯に藪椿を主に、各種の椿が自生しているが、「椿の神社」つまり「椿神社」と呼ばれるとの説話がある。

大政奉還が行なわれて幕政が閉じられ、廃藩置県の実施を見て明治を迎えたとき、伊予の国8藩も例外に漏れず、現在の愛媛県が誕生した。
県名策定に際し、古事記・日本書紀にも記されている当神社の御祭神の一柱、愛比売命から県名とされたが、都道府県名に御神名を冠されたのは、愛媛県のみのようだ。
(伊豫豆比古命神社由緒から引用)

 なお境内には例年8月に開催される全国高校俳句甲子園大会で最優秀句に選定された句が記念の玉垣句碑として永久に建立されている。
今日行ってみると昨年開催の第20回俳句甲子園個人最優秀句の句碑が建立されていた。

好天に恵まれた中日の2月12日、600mの長い参道を歩いてきた多くの参拝者は最後の大鳥居を潜り拝殿・本殿に向かう。

伊豫豆比古命神社の楼門からの参道(600m)大勢の参拝者で一杯であった。

楼門を潜ると今年も拉致被害者救出運動をされる方々が署名活動をされていた。私も署名をした。早く解決するようにと願いながら。

数段の石段を上がり拝殿に向かう。

「家内安全と今年一年元気に過ごせますように、西日本豪雨被害早期復興、北朝鮮拉致問題早期解決、元気のある日本復活を祈願しました。」
特に今年は、岡山県倉敷市に居住する、次男の家庭に、第二子が誕生しますので母子ともに元気な子供の出産をする事を祈願した。

参拝した人々は本殿の回廊を巡り神の祈りを終える。

参拝した人々はお札・お守りを受ける。沢山のお札お守りがあり選ぶのが大変である。

4年前に新築された「児守神社」でお札・お守りを受け渡す臨時の巫女サン達。

参拝者の要望を聞き取りテキパキとお札お守りを渡す巫女さん。

縁起物の熊手も売っている。・・売れると三本締めで締める。

境内には、毎年8月松山市で開催される、全国高校俳句大会(俳句甲子園)で個人最優秀句に選定されると句、学校名、個人名が石碑に刻印しその誉れを讃え永久に句碑玉垣として建立保存されている。

一昨年開催された第20回全国高校俳句甲子園大会で個人最優秀句に選定された句、学校名、個人名が句碑として石碑が建立されていた。
第20回までの句碑が玉垣として建立されている。・・昨年開催の第21回大会の最優秀句碑が未だ建立されていない。・・早く建立してあげて下さい。

なお、第21回、個人最優秀句(文部科学大臣賞)に選定された句は、
学校法人興南学園・興南高校(沖縄)桃原(とうばる)康平君(2年)の句「滴りや 方舟に似て あなたの手」です。

椿神社境内には沢山の椿が植栽されていて、中でも藪椿が多く見られる。
松山市の市花も藪椿である。

安全な参拝が出来るよう市民パトロール隊を編成し警護に当たる。

参拝もお守りも授かり最後におみくじを引き内容を確認し、神社が特設したおみくじ掲載場所に結び帰路に就く参拝者。

 

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第57回愛媛マラソン 好天の中開催 された

2019年02月12日 | 伊予松山歴史散策

平成最後となる第57回愛媛マラソンが平成31年2月10日、愛媛県庁前をスタート、伊予松山城三之丸公園をゴールとするコースで行われた。
スタートは午前10時、42,195kmの間に10ヶ所の関門があり指定された時間内に通過しないと失格となり、6時間内にゴールしないと完走資格がない。

愛媛マラソンは、日本陸連公認のマラソン大会で、第1回は昭和38年1月15日の成人の日に行われ参加選手、30名で開催、昭和58年にやっと100名の参加となり、参加資格は日本陸上競技連盟に登録されている事が条件で男子のみのであった。

第44回、平成10年開催から女子の部が開催され、この時から以前は見る・応援する愛媛マラソン大会でしたが、市民が楽しくランニングできる、現在の市街地発着の市民マラソンとして変更した。
それ以来参加し楽しむマラソンが急増し大変身、今や日本でも屈指の有名なマラソン大会となった。

シドニーオリンピック金メダリスト、高橋尚子さん曰く、全国に数あるマラソン大会に参加して来ましたが、愛媛マラソン大会は市民の応援、支援が素晴らしい大会と誉められました。大会関係者もこの言葉を聞き感激した。
今年も高橋尚子さんゲストランナーとして来て頂きました。
愛媛マラソンは全国で開催されているベスト3に入る素晴らしい大会ですと誉めて頂きました。 

平成29年・第55回愛媛マラソン節目の大会に、川内優輝選手(埼玉県職員)が参加し、2時間9分54秒の52年ぶりの大会新記録を樹立した。川内優輝選手(埼玉県職員)のお母さん、僕も愛媛で走るからお母さんも走りましょうと優輝選手が申し込みをされ、自己記録の3時間50分台で完走された。

川内美加さんは、今年第57回大会にも参加、今年は次男の川内鮮輝さんもエントリーしていたが、直近体調を崩し参加出来ず川内美加さん(川内3兄弟の母親)の支援にまわった。
またイギリス人の、マーラ・ヤマウチ(イギリス・オックスフォード出身)も完走された。
今年も大きな事故も無く無事終了お疲れ様でした。選手の皆さん&関係者の皆様。

 愛媛マラソン実況放送は、ラジオ放送が第20回大会から、TV放送は第26回から始まり今年が32回目となる。
特にTV放送は、スタート直前の午前9時55分からマラソン終了の午後4時05分まで6時間放送で全国でも唯一の長時間放送である。
放送局は日本TV系列の南海放送(RNB)です。
愛媛マラソン制限時間6時間で閉鎖されるが全てを放映する。今年は中継するアナ、技術スタッフも機器を背負ってランニングしながらの放映画像を流した。
実況カメラは33台、ドローンも使用し150名のスタッフが従事して放送した。 

参加者は、1万318人(男子:8169人 女子:2149人)
完走者は、 9530人(男子:7669人 女子:1861人)

優勝は、男子は中村佳樹(愛媛銀行)が2時間19分44秒、女子が大城優衣(愛媛銀行)が2時間49分24秒それぞれ初優勝した。

なお、今大会から代理走行防止のため、身分証明を提示し本人確認の上リストバンドを発行し行われた。

これからの画像は、午後1時44分から午後4時2分までに撮った画像です。

ゴールの伊予松山城三之丸公園に行ってみると川内親子がTVのインタビューを受けていた。
川内三兄弟の次男の鮮輝さんと母親の川内美加さんがTVのインタビューを受けていた。
川内鮮輝さんもエントリーしていたが、直近体調を崩し参加出来ず川内美加さん(川内3兄弟の母親)は自己記録更新した。
川内一家は、お父さんとお母さんも、元アスリートで、お父さんの川内葦生さん、高校時代にボクシングで国体にも出場したことがあるアマチュアボクサーで、お母さんの川内美加さんは、中高は陸上部で長距離走の800m1500mをやっていたそうです。
川内美加さんの記録は:3時間40分23秒で自己新だそうです。

今回一番遠くから参加したイギリス人の、マーラ・ヤマウチオックス(イギリス・オックスフォード出身)
マーラ・ヤマウチさんは、イギリスの陸上競技選手、マラソンのイギリス女子マラソン歴代2位の記録保持者。
記録は、2時間59分21秒でした。

 

会場では完走タイムが記載できる掲示板を持って記念写真を撮っていた。

このランナーは自己記録更新のプラカードを持って記念写真。

こちらの伊予路のマドンナ達は、友達が完走して帰るのを待っている。

足がパンパン!!あるけないわ・・と友人が介護。

会場は伊予松山城天守を仰ぎ見ることが出来る三之丸公園で完走したランナー達が家族・友人達を探していた。

報道機関のカマラマン、一人が3台のカメラを操つり大忙し。

こちらは、ゴールしてくるランナーを正面から捉えるTV中継の固定カメラ。

家族・友人が脚立持参でスマホ撮影。

完走し食糧補給をする・・美味しそうに!!

会場には毎年道後温泉の源泉で足湯コーナーが設営され、疲れた足をほぐしていた所にTV中継カメラがやってきた。

3時間56分49秒・・この時間帯になると続々とゴールしてくる。

ゴールするランナーに取り付けてあるICチップを係の若い女性(女子高生)が取り外す。

記念の写真を・・お疲れ様です。

ゴール付近は両サイドにランナーを迎える関係者でいっぱい。

ゴール前では高橋尚子さんがハイタッチでお出迎え。

完走者全員とハイタッチをして労を労うと大活躍。

こんな風景で高橋尚子さんはランナーをゴールに導く。

高橋尚子さんゴールは直ぐそこ頑張れと元気づける!!

高橋尚子さん、愛媛マラソン大会実行員会会長の野志松山市長を激励しながら並走。

愛媛マラソンタイムリミット6時間を53秒オーバし完走は出来なかった女性ランナーを優しくゴールに導く高橋尚子さん・・優しさが伺えるいい光景で大きな拍手が起こった。
観衆から、高橋尚子ありがとう!!来年もまた来てくださいと声援が起きた。

平成29年・第55回愛媛マラソン節目の大会に、川内優輝選手(埼玉県職員)が参加し、2時間9分54秒の52年ぶりの大会新記録を樹立した川内優輝選手(埼玉県職員)の35km地点の力走。
ダントツの時間で35km地点を走り抜けた。この時も母川内美加さんも走り、自身の記録を更新した。

第57回 愛媛マラソン平成最後となった大会も、規定時間6時間が過ぎゴールが閉鎖された。
係員は各ランナーの時間を計測した電子機器等の撤収を行い、原状回復にする作業が始まり大会は無事終了した。
ランナーの皆さん・大会に従事した関係者、声援を送った応援の皆さんご苦労様。
札幌市から参加したランナーの方は、関係者の配慮、沿線の応援ランナーにとっては走りやすく、ランナーの気持ちになっての配慮が素晴らしいとお褒めの言葉を頂いた。

地元紙愛媛新聞の記事。

第57回愛媛マラソン結果

男子総合

  1.  2:19:44 中村佳樹 愛媛銀行
  2.  2:21:15 井上直紀 東京陸協
  3.  2:22:26 清水歓太 早稲田大学
  4.  2:22:50 井上正之 愛媛銀行
  5.  2:27:17 岡山春紀 コモディイイダ
  6.  2:28:24 田村友希 津島体協
  7.  2:28:54 山下克尚 明浜体協
  8.  2:29:14 古泉辰男 松山陸協

 女子総合

  1.  2:49:24 大城優衣 愛媛銀行
  2.  2:51:38 下村紫織 コモディイイダ
  3.  2:52:50 細川江梨子 愛媛県総合保健協会
  4.  2:54:05 筒本恭実 広島県庁ランニンググラブ
  5.  2:54:12 村上史恵 今治アスリートクラブ
  6.  2:57:43 合田睦美 松山ランナーズ
  7.  2:59:07 許玉芳  台湾
  8.  2:59:09 吉光和恵 倉敷福田走友会

 

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秋山好古揮毫石碑を訪ねて 14、愛媛県久万高原町の石碑「御大典記念碑」

2019年02月08日 | 伊予松山歴史散策

秋山好古揮毫の直筆原稿が全国で始めて発見された石碑「御大典記念」

 平成31年2月1日現在、秋山好古揮毫の石碑は全国に52基発見されているが原稿が保存されているものは、愛媛県久万高原町中組・三社神社の「御大典記念」のみで非常に貴重な直筆原稿である。

これから訪ねてみよう。
 平成24年7月16日、愛媛県久万高原町中組・三社神社に秋山好古揮毫の石碑があるとの情報をいただき取材に行った。その時、小野宮司の母親さんと面談、先々代小野宮司さんが秋山好古揮毫「御大典記念」の直筆原稿を大切に保存していたのを見たそうですが保管場所が不明。見つかったら連絡しますと言っていただきそれから3年の月日が経過した平成27年10月8日、原稿が見つかったと連絡があり、同月13日宮司宅を伺い宮司さんの許可を受け4枚複製を作成する許可を得た。

1、     文 :  御大典記念
2、所 在 地 :  上浮穴郡久万高原町中組  三社神社 「注連石」
3、揮 毫 者 :  陸軍大将 秋山好古
4、建 立 者 : 不明
5、建立年月日 : 昭和3年11月
6、石碑大きさ : 高さ 3m 70cm  表幅 42cm  横幅 36cm
7、石碑の由来: 先々代宮司・小野義直宮司が直接秋山好古に揮毫依頼
8、石碑の材質:   コンリート

三社神社
揮毫原稿について:秋山好古が揮毫し石碑として建立されているのは、現在全国に52基が発見されていますが、原稿は1件も発見されてなかった。
このたび、愛媛県上浮穴郡久万高原町中組の三社神社、小野哲也宮司宅で全国始めとなる秋山好古直筆原稿が発見された。
好古に揮毫依頼をしたのは先々代、小野義直宮司が行い、宮司はその原稿を大切に軸物として仕上げて保管していた。
この原稿を現、宮司さんの小野哲也宮司が発見された。

宮司さんの許可を得て原稿を復元し現在秋山兄弟生誕地で展示公開している。
原稿をよく見ると、石工さんが石に刻印する作業に必要とされる部位を鉛筆でなぞった個所がある。
先々代の小野義直宮司は、何とか原稿を保存しようと考えた。
原稿を写し取り(複写)石工さんが作業用の物を作り石に刻印し石碑とした。
そして原稿を軸物として仕上げて保存した。
現在、複写は優れた機械で簡単に出来るが、この時代は原稿に和紙を重ね鉛筆で文字をたどり複写する方法しかなかった。

 三社神社沿革:
平成24年7月16日(月)午前11時30分現地、上浮穴郡久万高原町中組(旧面河村大味川)に鎮座する三社神社へ取材に行った。
三社神社の沿革は、愛媛県神社誌によると、延暦23年(804-平安時代)6月詔によって、安芸国厳島明神を勧請したという。
天正18年(1590-豊臣秀吉時代)11月三社大明神と号した。
元禄3年(1690-第5代将軍徳川綱吉時代)、安永7年(1778-第10代将軍徳川家治時代)、社殿改築、明治12年(1879)三社神社と改称したとある。

 

愛媛県久万高原町中組・三社神社の参道に建つ 注連石(しめいし)向かって右に、御大典記念が揮毫され建立されている。

愛媛県久万高原町・三社神社の参道に建つ 注連石(しめいし)向かって左に、昭和3年11月建之・ 陸軍大将秋山好古謹書と揮毫され建立されている。

松山市歩行町二丁目3番地6にある秋山兄弟生誕地に写真掲示されている説明資料。

画像は、秋山好古が揮毫した直筆原稿。

先々代小野宮司が秋山好古揮毫「御大典記念」の直筆原稿を軸物に表装して大切に保存していた。

平成27年10月13日、三社神社の小野哲也宮司を伺い原稿を借用し、4枚の複製許可を受け作成した。

4枚の保存先は下記の通り。

1、秋山兄弟生誕地武道場東側に展示し一般公開している。

2、公益財団法人常盤同郷理事:宇都宮 良治

3、新潟県新潟市江南区横越中央五丁目:北方文化博物館館長 神田 勝郎

4、秋山兄弟生誕地、秋山好古揮毫石碑専任調査委員:仙波 満夫

原稿の大きさ:御大典記念
長さ⇒172cm
幅⇒35cm
寸法は、軸の台紙は含まず

 原稿の大きさ:陸軍大将秋山好古謹書
長さ⇒122cm
幅⇒17cm
寸法は、軸の台紙は含まず

平成27年10月13日、小野哲也宮司さんの許可を受け4枚の複製を作成、その1枚を私が軸物に表装し床の間に掲示している。
原稿は、御大典記念と、陸軍大将秋山好古謹書は別々に表装してあったが、私は1枚物として表装した。

秋山好古が揮毫した御大典記念の「念」で石工さんが作業に使うため、和紙に写し取りやすく端々を鉛筆で辿った跡が見える。

平成28年1月11日開催の秋山好古生誕157年祭に会場舞台に展示して参列者に披露した。

平成28年1月11日開催の秋山好古生誕157年祭に際し、中村時広愛媛県知事が祝辞を述べられたその中に、今回発見された秋山好古直筆の揮毫原稿が全国で初めて発見されたことについて触れられた。

平成28年1月11日開催の秋山好古生誕157年祭に参列された、東京在住、秋山好古のお孫さん「秋山哲兒夫妻」
写真左から、公益財団法人常盤同郷理事:宇都宮 良治氏
秋山好古のお孫さん、秋山哲兒氏、哲兒氏の奥様

松山市歩行町二丁目にある、秋山兄弟生誕地武道場東側に展示し一般公開している。

秋山兄弟生誕地武道場東側に展示し一般公開している。

秋山好古揮毫の直筆原稿が全国で始めて発見された石碑「御大典記念」の事が地元新聞「愛媛新聞」が記事として報道した。

平成31年2月1日現在発見されている秋山好古が揮毫した石碑の所在一覧。

平成23年12月1日、秋山好古生誕153年記念に第2版本を発行した「秋山好古揮毫の石碑写真集」でこの時点では48基が掲載されており。写真集刊行後4基が発見されこれが掲載されていないので改訂版を刊行したいと検討中である。
なお、平成21年1月7日、秋山好古生誕150年記念に初版本を刊行している。

画像は、松山市衣山町から撮影した伊予松山城天守と石鎚山・1982m(西日本最高峰)で石鎚山には車で1492mまで行ける道(石鎚スカイライン)がる。
石鎚スカイラインに行くには、秋山好古揮毫した石碑「御大典記念」の前の道路を走行しないと行けないので石鎚スカイラインを走行されるときには是非とも石碑「御大典記念」を見て下さい。
画像石鎚山の裏側が久万高原町中組にある三社神社がある。

愛媛県久万高原町中組・三社神社から石鎚山向けて走行すると大きな鳥居がある。
これからが石鎚山国定公園となる。

大きな鳥居を潜り少し行くと道路標識が出てくる。
直進すると面河渓谷で石鎚山登山口があり面河川の水の色が変わってくる。
国定公園となっている。(石鎚山を始め、瓶ヶ森、伊予富士、二ノ森などが含まれる。石鎚山の西麓には面河渓谷があり、この渓谷も同国定公園に含まれる。)

先程の画像にあるゲート手前を左折すると石鎚スカイライン入り口ゲートがある。
手前に画像の標識がある。
石鎚スカイラインは、冬季閉鎖される。12月1日から3月31日迄。
通行時間もあり午前7時から18時まで夏場は20時迄、詳細は下記に照会の事。
中予地方局久万高原土木事務所
〒791-1201 上浮穴郡久万高原町久万571番地の1
電話番号:0892-21-1210 

また、石鎚スカイラインで開催される自転車レース「石鎚山・ヒルクライム」が毎年開催され今年は第9回で平成31年9月8日(日)開催となっている。
急な坂道なので健脚でないと大変なコースである。

久万高原町が掲示している観光案内版。

愛媛県久万高原町を流れる「面河川」で特に、石鎚山登山口当たりの面河川は画像の様に、エメラルドグリーンの綺麗な水が流れている。
原稿が発見された「御大典記念と、陸軍大将秋山好古謹書」の記念碑はこの下流直ぐ近くに三社神社がある。

松山市衣山町から撮影した伊予松山城天守と石鎚山・1982m(西日本最高峰)
この画像を撮影するポイントは限定されたカ所しかなく、撮影状況は、快晴で大気の水蒸気が少なく午後の時間帯であること。
愛媛県久万高原町中組・三社神社は石鎚山の裏側になる。

冬季、石鎚山が鮮明に見える時は画像の様に瀬戸内海伊予灘に綺麗な達磨夕日を見る事が出来る。
但し雲が無い事が条件である。
一級河川重信川河口の伊予郡松前町側から撮影。

一級河川重信川河口伊予郡松前町側から、瀬戸内海の達磨夕日を撮影していると画像の様うな光景に出く会った。

 

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