久米地区に現存する常夜灯最後の常夜灯です。
鷹子町にも2基の常夜灯が現存する。
先ずは、鷹子町中岡組(鷹子町の北)古くはこのあたりが集落の中心であった。
所在位置は:松山市鷹子町622番地、高市寛次氏宅西側にある。
常夜灯の側に小さな祠がある。正面は西向きである。「奉獻」と書かれている。
常夜灯裏面で、胴に「組中安全」と刻まれている。
北面の胴に「明治二年巳三月吉日」と書かれている。
今から146年前に建立された常夜灯である。久米地区に現存する中で一番新しい。
昭和21年12月21日午前4時19分過ぎに潮岬南方沖震源地として発生した南海地震、松山市は震度4と記録されていが、この時に倒壊し修復したそうだ。
鷹子町にある二つ目の常夜灯。
所在位置は:松山市鷹子町200番地1、佐々木氏宅東、旧街道沿いの南側にあり、鷹子町の南方面地区にあたる。
正面は北向きで、上に「金毘羅・石銕」下に常夜燈と彫られている。
正面から見て左面で、胴に「寛政十二年申三月」と書かれている。
今から215年前に建立された常夜灯である。久米地区に現存する中で一番古い。
常夜灯前の道路は、旧金毘羅街道である。
以上松山市久米地区に現存ずる常夜灯を紀行して来ました。
12基現存する常夜灯たちは、古いものは215年、新しい物でも154年前に建立され、その間の集落が歩んで来た歴史を見て来た。古い時代のような、常夜灯を介しての祭りごとは無くなったが、その地区の文化遺産の一つとして保存し当時の様子を語り継いで行って欲しいものです。
久米地区にはもう一つ石碑がある。それは、四国88ヶ所を巡礼するお遍路さんの道標として建立した「遍路道標の石碑」が10基現存している。古い時代四国88ヶ所を巡礼するお遍路さんたちは歩いて巡礼した。お遍路さんたちの道標として篤志家達が建立した石碑である。これを近日辿って見たいと思う。久米地区には、第48番霊場西林寺・第49番浄土寺がある。西林寺から浄土寺・桑原校区にある第50番繁多寺に行く遍路道にある「遍路道標の石碑」を辿って見る。
鷹子町にも2基の常夜灯が現存する。
先ずは、鷹子町中岡組(鷹子町の北)古くはこのあたりが集落の中心であった。
所在位置は:松山市鷹子町622番地、高市寛次氏宅西側にある。
常夜灯の側に小さな祠がある。正面は西向きである。「奉獻」と書かれている。
常夜灯裏面で、胴に「組中安全」と刻まれている。
北面の胴に「明治二年巳三月吉日」と書かれている。
今から146年前に建立された常夜灯である。久米地区に現存する中で一番新しい。
昭和21年12月21日午前4時19分過ぎに潮岬南方沖震源地として発生した南海地震、松山市は震度4と記録されていが、この時に倒壊し修復したそうだ。
鷹子町にある二つ目の常夜灯。
所在位置は:松山市鷹子町200番地1、佐々木氏宅東、旧街道沿いの南側にあり、鷹子町の南方面地区にあたる。
正面は北向きで、上に「金毘羅・石銕」下に常夜燈と彫られている。
正面から見て左面で、胴に「寛政十二年申三月」と書かれている。
今から215年前に建立された常夜灯である。久米地区に現存する中で一番古い。
常夜灯前の道路は、旧金毘羅街道である。
以上松山市久米地区に現存ずる常夜灯を紀行して来ました。
12基現存する常夜灯たちは、古いものは215年、新しい物でも154年前に建立され、その間の集落が歩んで来た歴史を見て来た。古い時代のような、常夜灯を介しての祭りごとは無くなったが、その地区の文化遺産の一つとして保存し当時の様子を語り継いで行って欲しいものです。
久米地区にはもう一つ石碑がある。それは、四国88ヶ所を巡礼するお遍路さんの道標として建立した「遍路道標の石碑」が10基現存している。古い時代四国88ヶ所を巡礼するお遍路さんたちは歩いて巡礼した。お遍路さんたちの道標として篤志家達が建立した石碑である。これを近日辿って見たいと思う。久米地区には、第48番霊場西林寺・第49番浄土寺がある。西林寺から浄土寺・桑原校区にある第50番繁多寺に行く遍路道にある「遍路道標の石碑」を辿って見る。