今回の石碑現地調査でお世話になった方は、西条市丹原町の郷土歴史家・黒河さんでその節は大変お世話になりました。
西条市丹原町得能、常石山山頂・163,4mに建立されている石碑は、秋山好古が揮毫した石碑の中で、歴史的に一番古い人物の忠魂碑である。
平成17年8月1日、暑い夏の日に元常盤同郷会(秋山兄弟生誕地運営母体)理事・鷹尾氏と元秋山兄弟生誕地研究員・三戸氏両名と現地調査に伺い、常石山麓に居住されるお宅を伺い常石山の登山口を尋ねると、秋山好古揮毫の石碑調査ご苦労さまです。・・と丁寧な言葉を頂き、私がご案内いたしましょうと同行して頂きました。
ご案内頂いた方は、地元丹原町で郷土の歴史を研究されている郷土歴史研究家の黒河さんでした。
車も黒河さんのお宅に停めさせて頂き常石山に登りました。
黒河さんのお宅から約30分の登山道でした。
忠魂碑・得能通綱の人物像は、
南北朝時代伊予の守護職、河野氏の一族で、桑村得能荘(現・愛媛県西条市丹原町得能)を所領していた。鎌倉幕府の打倒を志す後醍醐天皇に味方し、同じ河野一族である土居通増・忽那重清・祝案親らと共に挙兵した武将で、反幕勢力討伐のため伊予へ進軍した、長戸深題・北条時直を打ち破った武将の一人である。
南北朝の争乱が起こると、通綱は通増と共に南朝側に加わり新田義貞に属し、湊川の戦いにも従軍した。北国へ赴く義貞に従い、越前金ヶ崎城へ入城するが、金ヶ崎の戦いで戦死を遂げた。・・その忠魂碑である。
忠魂碑裏面には、碑文がある。
撰文は、元愛媛県立図書館長・菅菊太郎氏の作で、当時の徳田村長大西虎市氏の筆で、得能通綱の事柄が書かれている。
黒河さん宅を出発してしばらくすると「常石山直進」の案内板がある。
常石山の道は、簡易舗装で整備された登山道であった。
黒河さんに案内されて常石山に登る。
周辺の木々は枝打ちされ手入れが行き届いていた。
石碑を163mの常石山山頂に上げるには、この道を小学校の運動会で使用する綱引きの綱を石碑に巻き付け、コロを敷いて得能地区の老若男女が総出で山頂まで引き上げたそうです。当時道は舗装されておらず、難儀したことでしょう!!
約30分程歩くと常石山山頂に辿り着いた。
山頂には、リパな石碑が建立してあり、石碑の周りには石柱が8本ばかりあった。
石の種類は、伊予の青石で愛媛県の代表的な自然石である。
その一つの石柱に「御大典記念」と揮毫され、もう一つの石柱には昭和5年4月4日と揮毫されていた。
この忠魂碑は、昭和天皇の御大典記念の行事の一つとして、得能通綱の忠魂碑を建立したのだ。
画像真ん中の方が「郷土歴史研究家の黒河さん」
石碑を163mの常石山山頂に上げるには、小学校の運動会で使用する綱引きの綱を石碑に巻き付けコロを敷いて得能地区の老若男女が総出で山頂まで引き上げたそうです。その除幕式は、松山から秋山好古陸軍大将予備役(北豫中学校長)を迎えて盛大に挙行された。
西条市丹原町得能、常石山山頂にある、得能通綱の忠魂碑
得能通綱は、伊予国の守護、河野一族の一人で、勤皇方として新田義貞とともに後醍醐天皇に忠義を尽くし戦い、延元2年(1337年)3月6日北国・金ヵ崎城で足利尊氏軍との壮絶な戦いで戦死した。その忠魂碑である。(宗家・河野は鎌倉幕府方であった。)
秋山好古揮毫の石碑は、全国に53基発見されているが、2番目に高い標高163mにあり、歴史的にも一番古い歴史上の人物の忠魂碑、そして唯一秋山好古が除幕式に臨席し、自分が揮毫した石碑をみたのもこの石碑のみである。
1.碑 文 : 忠魂碑
2.所 在 地: 西条市丹原町得能 「常石山城跡」
3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古 (北豫中学校長)
4.建 立 者: 記載無し
5.建立年月日: 昭和 5年 4月 4日
6.碑石大きさ: 高さ・2m00㎝ 幅・ 1m33
参考資料: 常石山:標高 163,4m・麓から徒歩約30分
忠魂碑は、得能通綱が築いた居城跡「常石山城跡」の常石山山頂に、後醍醐天皇に忠義を尽くしたその心を称え、昭和天皇御大典を記念して建立した。
忠魂碑裏面には、碑文がある。
撰文は、元愛媛県立図書館長菅菊太郎氏の作で、当時の徳田村長大西虎市氏の筆で、得能通綱の事柄が書かれている。
唯一秋山好古が除幕式に臨席し、自分が揮毫した石碑53基の石碑のなか建立された石碑をみたものはこれのみである。
昭和5年4月4日除幕式が開催され、当時陸軍大将予備役で官位従二位という肩書の、北豫中学校長(現・愛媛県立松山北高等学校)の要職にあった秋山校長を是非招待したいと地元の人たちの強い希望から、式典の期日は新学期を待って4月4日と決定された。
当時は天気晴朗で秋山校長は、日本陸軍騎兵の生みの親とあって、地元が準備した馬に颯爽と乗馬し登山したが、途中馬が疲れるからと下馬し歩いて上がったそうです。・・好古の馬に対する優しさが伺われる。
参考文献・丹原町誌から
関連余談その1
元弘3年(1333年)3月12日、伊予国でも幕府方と宮方に分かれて激しい戦いが行なわれ伊予の守護、河野一族の久米郡(現、松山市土居町)の土居通増と桑村郡得能(西条市丹原町)得能通綱は宮方についた。(宗家・河野氏は幕府方である。)
瀬戸内の宮方の取り締まりに来ていた幕府の長門探題長官、北条時直は、元弘3年(1333年)2月2日越智郡の石井浜(現、今治市近見)に上陸、土居氏・得能氏と戦い敗退した。
軍を立て直し同年3月12日に水居津(現、松山市今出か三津付近)に上陸した北条時直は宮方の中心である星ノ岡城を占領したが、土居・得能らの連合軍の猛攻撃で激戦となり戦線は平井付近(現、松山市平井町)まで及んだ。
「愛媛県東温市下林の築島神社に南北朝古戦の塚がある。」
その時の戦場になったのが、宮方の土居氏の館から2Kmはなれた「星ノ岡の戦い」で宮方が勝った。
この戦いが全国に波及して元弘3年(1333年)12月北条高時は自害して鎌倉幕府は滅んだ。
北条時直と伊予の朝廷方の旗頭、土居・得能軍との戦いの場所は、現在の石井・久米・小野地区に及ぶ大合戦で、此れが星ノ岡の合戦であり、この時の戦いを後世に伝えるため仙波太郎陸軍中将が建立した「星岡表忠之碑」が星岡山山頂にある。
場所は、松山市星岡一丁目町1番「星ノ岡山頂」
陸軍中将・仙波太郎が建立した「星ノ岡戦い」表忠之碑。
場所:松山市星岡一丁目1番8号「雲門寺」の山頂。
仙波太郎は、陸軍大学校の第1期生で三番目の成績で卒業した。秋山好古も同期生で6番目の成績であった。
土居氏の古蹟地には、土居・得能勤王之碑・土居兵庫守霊廟・土居通増公供養等・五輪墓がある。(松山市土居町・土居遊園地)
土居通増公供養等・五輪墓。(松山市土居町・土居遊園地)
建武年間南北朝古戦場の記念塚。
場所:東温市下林甲2616番地「築島神社・境内」
東温市下林甲2616番地・築島神社の社号額。
秋山好古揮毫の石碑調査のきっかけとなった社号額がこの築島神社拝殿にある。
余談その2:
現・天皇は北朝方、皇居前広場にある「楠正成の騎馬像」
楠正成は、南朝方の武将で後醍醐天皇に命を捧げた。皇居前広場にある正成の騎馬像は、皇居の宮殿(吹上御所)方向を向いている。
現天皇は北朝方、楠木正成は今の天皇家にとって政敵ということになるが、宮内庁は古い昔のこと・・で建立許可したのでしょか?・・何故皇居の方を向いているのか?である。
大東亜戦争終焉前、昭和18年8月12日金属類回収令が発令され、全国津々浦々の金属類回収が行われた。
由緒ある銅像も回収が行われ、秋山好古の騎馬像も秋山眞之の立像も金属類回収で潰された。しかし、西郷隆盛(上野)・大村益次郎(靖国神社)・楠木正成(皇居)の銅像は潰されなかった。・・・それは何故か?
皇居前広場にある、楠正成の騎馬像から警視庁はこの様な風景で見える。
新政府軍として西郷隆盛が攻め込んだ土地が上野だったのでこの地に建立された。
この銅像は西郷隆盛の功績を称えるため、全国2万5千人余の篤志家の寄付金で建立された。西南戦争の首謀者の一人として一時期朝敵とされたが、死後21年後の1898年(明治31年)12月18日に建立された。
眺める方角は、故郷薩摩を遠望しているのではないかと私は思います。
東京招魂社の創設者として、靖国神社にある、大村益次郎の銅像で高いところにある。
銅像は、日本で初めての西洋式銅像で、一説には上野の西郷隆盛像と対自するために高く建立したと・・ある。?
村田蔵六時代、伊予國宇和島藩に在籍し、造船技術や砲術等を伝授した。