EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古揮毫石碑・取材にご協力頂いた方々 その10 愛媛県西条市丹原町の石碑

2021年04月30日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

今回の石碑現地調査でお世話になった方は、西条市丹原町の郷土歴史家・黒河さんでその節は大変お世話になりました。

西条市丹原町得能、常石山山頂・163,4mに建立されている石碑は、秋山好古が揮毫した石碑の中で、歴史的に一番古い人物の忠魂碑である。

平成17年8月1日、暑い夏の日に元常盤同郷会(秋山兄弟生誕地運営母体)理事・鷹尾氏と元秋山兄弟生誕地研究員・三戸氏両名と現地調査に伺い、常石山麓に居住されるお宅を伺い常石山の登山口を尋ねると、秋山好古揮毫の石碑調査ご苦労さまです。・・と丁寧な言葉を頂き、私がご案内いたしましょうと同行して頂きました。

ご案内頂いた方は、地元丹原町で郷土の歴史を研究されている郷土歴史研究家の黒河さんでした。
車も黒河さんのお宅に停めさせて頂き常石山に登りました。
黒河さんのお宅から約30分の登山道でした。

忠魂碑・得能通綱の人物像は、

南北朝時代伊予の守護職、河野氏の一族で、桑村得能荘(現・愛媛県西条市丹原町得能)を所領していた。鎌倉幕府の打倒を志す後醍醐天皇に味方し、同じ河野一族である土居通増・忽那重清・祝案親らと共に挙兵した武将で、反幕勢力討伐のため伊予へ進軍した、長戸深題・北条時直を打ち破った武将の一人である。
南北朝の争乱が起こると、通綱は通増と共に南朝側に加わり新田義貞に属し、湊川の戦いにも従軍した。北国へ赴く義貞に従い、越前金ヶ崎城へ入城するが、金ヶ崎の戦いで戦死を遂げた。・・その忠魂碑である。

忠魂碑裏面には、碑文がある。
撰文は、元愛媛県立図書館長・菅菊太郎氏の作で、当時の徳田村長大西虎市氏の筆で、得能通綱の事柄が書かれている。

黒河さん宅を出発してしばらくすると「常石山直進」の案内板がある。

常石山の道は、簡易舗装で整備された登山道であった。

黒河さんに案内されて常石山に登る。
周辺の木々は枝打ちされ手入れが行き届いていた。
石碑を163mの常石山山頂に上げるには、この道を小学校の運動会で使用する綱引きの綱を石碑に巻き付け、コロを敷いて得能地区の老若男女が総出で山頂まで引き上げたそうです。当時道は舗装されておらず、難儀したことでしょう!!

約30分程歩くと常石山山頂に辿り着いた。

山頂には、リパな石碑が建立してあり、石碑の周りには石柱が8本ばかりあった。

石の種類は、伊予の青石で愛媛県の代表的な自然石である。

その一つの石柱に「御大典記念」と揮毫され、もう一つの石柱には昭和5年4月4日と揮毫されていた。
この忠魂碑は、昭和天皇の御大典記念の行事の一つとして、得能通綱の忠魂碑を建立したのだ。

画像真ん中の方が「郷土歴史研究家の黒河さん」

石碑を163mの常石山山頂に上げるには、小学校の運動会で使用する綱引きの綱を石碑に巻き付けコロを敷いて得能地区の老若男女が総出で山頂まで引き上げたそうです。その除幕式は、松山から秋山好古陸軍大将予備役(北豫中学校長)を迎えて盛大に挙行された。

西条市丹原町得能、常石山山頂にある、得能通綱の忠魂碑

 得能通綱は、伊予国の守護、河野一族の一人で、勤皇方として新田義貞とともに後醍醐天皇に忠義を尽くし戦い、延元2年(1337年)3月6日北国・金ヵ崎城で足利尊氏軍との壮絶な戦いで戦死した。その忠魂碑である。(宗家・河野は鎌倉幕府方であった。)

 秋山好古揮毫の石碑は、全国に53基発見されているが、2番目に高い標高163mにあり、歴史的にも一番古い歴史上の人物の忠魂碑、そして唯一秋山好古が除幕式に臨席し、自分が揮毫した石碑をみたのもこの石碑のみである。

1.碑   文 : 忠魂碑

2.所 在 地: 西条市丹原町得能 「常石山城跡」

3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古 (北豫中学校長)

4.建 立 者: 記載無し

5.建立年月日: 昭和 5年 4月 4日 

6.碑石大きさ: 高さ・2m00㎝  幅・ 1m33  

参考資料: 常石山:標高 163,4m・麓から徒歩約30分

忠魂碑は、得能通綱が築いた居城跡「常石山城跡」の常石山山頂に、後醍醐天皇に忠義を尽くしたその心を称え、昭和天皇御大典を記念して建立した。

忠魂碑裏面には、碑文がある。

撰文は、元愛媛県立図書館長菅菊太郎氏の作で、当時の徳田村長大西虎市氏の筆で、得能通綱の事柄が書かれている。

唯一秋山好古が除幕式に臨席し、自分が揮毫した石碑53基の石碑のなか建立された石碑をみたものはこれのみである。

昭和5年4月4日除幕式が開催され、当時陸軍大将予備役で官位従二位という肩書の、北豫中学校長(現・愛媛県立松山北高等学校)の要職にあった秋山校長を是非招待したいと地元の人たちの強い希望から、式典の期日は新学期を待って4月4日と決定された。

当時は天気晴朗で秋山校長は、日本陸軍騎兵の生みの親とあって、地元が準備した馬に颯爽と乗馬し登山したが、途中馬が疲れるからと下馬し歩いて上がったそうです。・・好古の馬に対する優しさが伺われる。

参考文献・丹原町誌から

関連余談その1

元弘3年(1333年)3月12日、伊予国でも幕府方と宮方に分かれて激しい戦いが行なわれ伊予の守護、河野一族の久米郡(現、松山市土居町)の土居通増と桑村郡得能(西条市丹原町)得能通綱は宮方についた。(宗家・河野氏は幕府方である。)
瀬戸内の宮方の取り締まりに来ていた幕府の長門探題長官、北条時直は、元弘3年(1333年)2月2日越智郡の石井浜(現、今治市近見)に上陸、土居氏・得能氏と戦い敗退した。 
軍を立て直し同年3月12日に水居津(現、松山市今出か三津付近)に上陸した北条時直は宮方の中心である星ノ岡城を占領したが、土居・得能らの連合軍の猛攻撃で激戦となり戦線は平井付近(現、松山市平井町)まで及んだ。
「愛媛県東温市下林の築島神社に南北朝古戦の塚がある。」
その時の戦場になったのが、宮方の土居氏の館から2Kmはなれた「星ノ岡の戦い」で宮方が勝った。
この戦いが全国に波及して元弘3年(1333年)12月北条高時は自害して鎌倉幕府は滅んだ。
 北条時直と伊予の朝廷方の旗頭、土居・得能軍との戦いの場所は、現在の石井・久米・小野地区に及ぶ大合戦で、此れが星ノ岡の合戦であり、この時の戦いを後世に伝えるため仙波太郎陸軍中将が建立した「星岡表忠之碑」が星岡山山頂にある。
場所は、松山市星岡一丁目町1番「星ノ岡山頂」

陸軍中将・仙波太郎が建立した「星ノ岡戦い」表忠之碑。

場所:松山市星岡一丁目1番8号「雲門寺」の山頂。

仙波太郎は、陸軍大学校の第1期生で三番目の成績で卒業した。秋山好古も同期生で6番目の成績であった。

土居氏の古蹟地には、土居・得能勤王之碑・土居兵庫守霊廟・土居通増公供養等・五輪墓がある。(松山市土居町・土居遊園地)

土居通増公供養等・五輪墓。(松山市土居町・土居遊園地)

建武年間南北朝古戦場の記念塚。

場所:東温市下林甲2616番地「築島神社・境内」

東温市下林甲2616番地・築島神社の社号額。

秋山好古揮毫の石碑調査のきっかけとなった社号額がこの築島神社拝殿にある。

余談その2:

現・天皇は北朝方、皇居前広場にある「楠正成の騎馬像」

楠正成は、南朝方の武将で後醍醐天皇に命を捧げた。皇居前広場にある正成の騎馬像は、皇居の宮殿(吹上御所)方向を向いている。
現天皇は北朝方、楠木正成は今の天皇家にとって政敵ということになるが、宮内庁は古い昔のこと・・で建立許可したのでしょか?・・何故皇居の方を向いているのか?である。
大東亜戦争終焉前、昭和18年8月12日金属類回収令が発令され、全国津々浦々の金属類回収が行われた。
由緒ある銅像も回収が行われ、秋山好古の騎馬像も秋山眞之の立像も金属類回収で潰された。しかし、西郷隆盛(上野)・大村益次郎(靖国神社)・楠木正成(皇居)の銅像は潰されなかった。・・・それは何故か?

皇居前広場にある、楠正成の騎馬像から警視庁はこの様な風景で見える。

新政府軍として西郷隆盛が攻め込んだ土地が上野だったのでこの地に建立された。
この銅像は西郷隆盛の功績を称えるため、全国2万5千人余の篤志家の寄付金で建立された。西南戦争の首謀者の一人として一時期朝敵とされたが、死後21年後の1898年(明治31年)12月18日に建立された。
眺める方角は、故郷薩摩を遠望しているのではないかと私は思います。

東京招魂社の創設者として、靖国神社にある、大村益次郎の銅像で高いところにある。

銅像は、日本で初めての西洋式銅像で、一説には上野の西郷隆盛像と対自するために高く建立したと・・ある。?

 

村田蔵六時代、伊予國宇和島藩に在籍し、造船技術や砲術等を伝授した。

 

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大相撲春場所、気になる向正面の溜席で観戦する女性・その2

2021年04月20日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

千秋楽それも表彰式後半まで席を立たず最後まで見届けられたのでしょう。

大相撲春場所中にブログに書きました観戦するある女性の姿が素晴らしいのと、姿勢・身なりを整えての観戦が凄いと感じたのでまた思い出し書きました。

まるで、禅宗の寺で座禅を組み、一切の邪念から離れ無我の状態で精神統一し、一念に相撲を観戦するかの様に見受けられた。

力士も体を張って(全身全霊、大げさに言えば命を掛けで戦っているのだから)。

日本の国技である大相撲、両国國技館という禅の館で、坐禅をするときの如く微動ともせず安定した心がけで、相撲を観戦している姿に感銘したので、私の心の中に留めておくのでなく、私なりの言葉として表現させ頂きました。

私のブログにコメントを頂きました中には、この女性を見るようになったのは、先場所からで、「枡の妖精」と呼ばれる様になったそうで、何時も2時30分前後に着席していたそうです。

長時間正座でいると足がいたくなり、体の筋肉が硬直し体を動かし体をほぐしながら楽な体型で観戦しますがこの女性は動かない。

茶道・華道・日本舞踊を極められたのか、はたまた小笠原流礼法を身に付けておられるのか?本当に妖精かもです。

来場所(5月場所が楽しみです。)

大げさですが画面を見る限り道徳教育の模範となるのでは!!

幼少期にご両親から、きちんとした躾を受けた方でしょう。

先場所、6日目の國技館の妖精。誰もが知る國技館では有名な方だそうです。

服装は華美にならず上品です。

10日目の國技館の妖精。

午後2時30分頃に席に着かれていたそうです。

14日目の國技館の妖精。

國技館の妖精、一度間近で拝見したいものです。

5月場所は、どの位置に席に着かれるのか楽しみです。

千秋楽の表彰式、君が代斉唱で一同起立。

立ち姿は、スラッとした背の高い、國技館の妖精でした。

隣席の男性が席を離れる時に挨拶をされた。その時妖精は丁寧な挨拶をされていた。

表彰式も後半に差し掛かり、観客者もまばらとなるも表彰式を見も待って居られた。

席の位置も正面でなく、控えめにされ右端に席を取られている。しかし画面に入るように席を確保されたのか?です。

 

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秋山好古揮毫石碑・取材にご協力頂いた方々 その9 愛媛県久万高原町の石碑 原稿が保存されていた

2021年04月10日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

画像は、
全国で始めて発見された秋山好古揮毫の原稿で、注連石に刻印される「御大典記念」と揮毫者の「陸軍大将 秋山好古謹書」である。

三社神社の先々代の小野義直宮司さんは、石工が刻印をする時原稿を石に貼り付け作業をするから、原稿は残らないが、小野義直宮司は原稿を写し取って作業用の原稿を作り、原稿は、軸物に表装し大切に保管して取り置いていたのである。

これを、現宮司の小野哲也宮司さんが発見し連絡を頂いたのです。

令和2年10月1日現在、秋山好古揮毫の石碑は全国に53基発見されているが、揮毫した原稿が保存してあったのは、愛媛県久万高原町の石碑「御大典記念」が初めての事で凄いの一言につきる。
先々代の小野義直宮司さんはよくぞ考え保存されたなと思います。

大切に保存されていた所は、愛媛県上浮穴郡久万高原町中組1845番地にある三社神社で、現宮司の小野 哲也さんの先々代の小野義直宮司さんで、アッパレであります。

なお、
三社神社の石碑「注連石・御大典記念」を発見され連絡いただいたのは、松山市在中で、伊予史談会でご活躍されている「佐伯 健さん」です。

そして、
小野哲也宮司さんに、原稿を3枚複製することについて許可を頂きました。

3枚の所蔵は、秋山兄弟生誕地・新潟市の北方文化博物館・私に頂き、私は軸として表装し床の間に掲げております。

平成28年1月11日開催の「秋山好古生誕157年祭」で披露し、公開さしました。

原稿をよく見ますと、石工が石に刻印する作業に必要とされる所を鉛筆でなぞった個所があります。

先々代の小野義直宮司さんが保存されていた秋山好古揮毫の「御大典記念」揮毫者の「陸軍大将 秋山好古謹書」の原稿です。

小野哲也宮司さんの許可をえて複製したその一枚です。

平成28年1月11日開催の「秋山好古生誕157年祭」で披露し公開しました。

秋山好古生誕157年祭式展に舞台に飾り臨席された、中村愛媛県知事・野志松山市長を始め、参加出席者各位に全国で初めて保存されていた秋山好古揮毫の原稿が発見された経緯を報告し披露しました。

秋山好古生誕157年祭式典で祝辞を述べる中村愛媛県知事。

祝辞の中に御大典記念の原稿発見について所見を述べられた。

今は、新型コロナ蔓延防止のため愛媛県民を守るため日夜努力されております。

秋山好古生誕157年祭式典後は、画像のように秋山兄弟武道館に掲示しており自由に閲覧出来ますので御覧下さい。

好古揮毫原稿発見については、地元新聞、愛媛新聞に大きく報道された。

揮毫嫌いであった秋山好古は、大正13年以降は揮毫を頼まれると気持ちよく引き受け揮毫した。

それは、元内閣総理大臣・清浦奎吾氏が松山高等商業学校(現・松山大学)創立記念に松山に来られた時、道後温泉の尺車で早朝から各位から頼まれた揮毫を黙々とされている姿を見て、傍にいた新田長次郎から、好古に揮毫をするよう諭された。
好古が揮毫した石碑・扁額等々は大正13年以降のものがほとんどである。

愛媛県上浮穴郡久万高原町中組1845番地にある、三社神社の注連石に揮毫されている「御大典記念」である。

三社神社の「注連石(しめいし)」に刻まれた好古が揮毫した

写真左の

石  柱 =昭和3年11月建之 陸軍大将秋山好古謹書

右の石柱 =御大典記念

1、碑   文 :御大典記念(昭和天皇の即位記念)

2、所 在 地:上浮穴郡久万高原町中組  三社神社 「注連石」

3、揮 毫 者:陸軍大将 秋山好古

4、建 立 者:氏子

5、建立年月日:昭和3年11月

6、石碑大きさ:高さ 3m 70cm  表幅 42cm  横幅 36cm

7、石碑の由来:不明

8、石碑の材質:コンリート

全国で始めて原稿が発見された。

 

御大典記念とは、

天皇が即位することで、大正15年12月25日、大正天皇が崩御され、昭和3年に、大正天皇の喪が明け、同年11月10日、即位礼の儀式が京都御所で行われ、摂政宮裕仁殿下が昭和天皇として正式に即位されたことをお祝いし、建立したものである。

注連石、右側にある「御大典記念」を切り取ってみました。

年表によると昭和天皇は松山に四度行啓されている。

皇太子時代、つまり摂政宮として、大正11年11月14日、温泉郡新濱村高浜沖(現 松山市高浜町)で日本陸海軍の大演習が行われ、此れを観閲の為、昭和天皇が摂政宮時代に大正天皇の御名代として松山に行啓された。

摂政宮殿下は、駆逐艦「谷風」でお越しになり萬翠荘に宿泊された。

海南新聞:
大正11年11月15日付の記事、大正11年11月14日、摂政宮殿下は陸海軍の大演習が温泉郡新濱村高浜沖で行われこの大演習を荒神山山頂から観閲された。
「海南新聞:大正11年11月15日付の記事」荒神山に上られる皇太子殿下。
下の画像は、観閲されるお席、玉座。
海南新聞は、現在の愛媛新聞である。

象徴(人間)天皇となられ、戦後の全国巡幸せられ、摂政宮時代を入れ松山には下記の4回来られた。

第1回目は、大正11年11月14日、摂政宮時代、陸海軍松山大演習観閲行啓

第2回目は、昭和25年 3月17日~20日、戦後の復興巡幸

第3回目は、昭和28年10月22日、第8回国民体育大会開会式行幸啓

第4回目は、昭和41年 4月17日、第17回全国植樹祭行幸啓


大正天皇は、体調はあまり良くなく、地方行幸はされず、殆ど摂政宮・裕仁殿下が天皇の名代として地方行幸されていた。

大正11年11月14日、日本陸軍の大演習が松山で行われ此れを観閲の為、昭和天皇が摂政宮時代に大正天皇の名代で松山に来られ、この時に萬翠荘に宿泊された時のお写真である。

摂政宮は、駆逐艦「谷風」でお越しになった。

皇太子時代、つまり摂政宮として、大正11年11月14日、温泉郡新濱村高浜沖(現 松山市高浜町)で日本陸海軍の大演習が行われ、此れを観閲の為、昭和天皇が摂政宮時代に大正天皇の御名代として松山に行啓されたその記念碑で、軍の大演習があった方向に向けて建立されている。
揮毫は、秋山好古である。

松山城南側山麓に萬翠荘(旧伊予松山藩主久松定謨が大正11年松山の別宅として建築)がある。
松山市では一番古い鉄筋コンクリート造りで、木子七郎が設計したフランス式の建物である。
久松定謨は明治23年フランスの陸軍士官学校に留学、のち台湾総督にもなった人物であり、フランスの陸軍士官学校留学に随行役で行ったのが秋山好古である。

大正11年11月14日、日本陸軍の大演習が行われ此れを観閲の為、摂政宮時代に大正天皇の名代で松山に来られ、この時に萬翠荘に宿泊された。
この時、萬翠荘は建築真っ最中で、摂政宮殿下の宿舎とするために突貫工事で完成を急いだ。
摂政宮殿下は2階のお部屋に泊まられた。
萬翠荘は、昭和20年11月から暫く連合軍司令官の宿舎として使われた時代もあった。


三社神社の注連石、左側にある「建立年月日と揮毫者 秋山好古」を切り取ってみました。

好古に揮毫を依頼した同神社、先々代の小野義直宮司が、直筆原稿を保存するために石工と相談して、作業用の原稿を写し取るときに、文字のはねた箇所を移しやすくするために、鉛筆でなぞった箇所が読み取れる貴重なものである。

三社神社の小野 哲也宮司さんの許可を得て3枚複製いたした一つを頂き軸物に表装し我が家の床の間に何時も掲げています。

 

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私の散歩道、染井吉野桜とその風景

2021年04月01日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

私が散歩する道には、数本の「染井吉野桜」があります。

カメラ持参で出掛けました。

3月15日、松山地方気象台は、松山市管内の染井吉野桜が開花したと宣言されてから16日目、花は散り始めました。

昨日(31日)6年ぶりの黄砂で、空は霞がかかった様な状態で青空を背景にした桜の写真は撮れなく残念でしたが微笑ましい姿をカメラに収めました。

近くの施設で生活されている方々が、介護士さんに付き添われて桜を鑑賞、そして桜をバックに写真を撮っていました。

介護士さん達は、優しい振る舞いで、施設で生活されている方たちを介護し花を楽しんでおられ、カメラのシャッタをおしながら記念の写真をとっておられ微笑ましい一時を垣間見ました。

私が散歩する道筋に在る一番大きな染井吉野桜です。見頃が過ぎ散り始めました。

施設の人たちは一年の内一番いい季節で、気持ちが晴れ晴れしたのか皆さん楽しんで居られました。

一番大きな染井吉野桜を後に、しばらく歩くと7本植えられた染井吉野桜があり、ここにも移動です。

ここでも写真を撮るね。・・優しい介護士さんで微笑ましい風景です。

桜も見たし、そろそろ帰ろうか・・ありがとう介護士さん・・そんな会話がありました。

お元気でお過ごしください。

散歩する人も気持ちよく桜のトンネル歩きます。

この道は、殆ど車は走行しないので安心して散歩が出来ます。

路上は、既に花絨毯になりつつ変化してました。

今年も咲きましたね。桜は何時見ても素敵ですね気持ちが晴れ晴れします。今年は、コロナ禍の中、外出を控えていますが、桜を見に来ました。・・そんな会話が聞こえてきました。

桜が咲いている山は、奈良県の天香山と姉妹の山「天山」です。

奈良県の天香山と姉妹の山「天山」に鎮座する、松山八社八幡神社の一つ日尾八幡神社の末社、天山神社で、正面右にある社号碑「天山神社」は三輪田米山の揮毫であります。
なお、天山神社の石段は115段ありかなりの急勾配です。

画像は、黄砂がなくなり青空が戻った、本日4月2日に撮りました。

散歩道は、伊丹十三記念館前で小野川に合流します。

小野川の堤防にも染井吉野桜と陽光桜が植えられています。

画像左の桜が「陽光桜です。」

小野川の堤防の染井吉野桜です。

ある家庭の前に来ますと、奥さんが丁寧に庭の花々の手入れをして居られました。

目についたのがチュウリップで綺麗に咲いていました。

ご案内が逸れますが

これから紹介します染井吉野桜は、青森県弘前市にある弘前城内に植樹されている日本で一番長く生息する染井吉野桜です。

樹齢は、明治15年に植栽されていますので、今年で139年になります。

画像は、現存12天守の一つ「弘前城・天守」です。

平成20年5月8日に訪れ撮った画像です。

弘前城には、日本最古の染井吉野桜が生息していました。
染井吉野桜は人工的に作られた桜で、寿命が長くとも80年と言われていますが、弘前城の桜は、明治15年に植栽された日本一の長寿の染井吉野桜で説明版には、幹周:5,37m 樹高:10mと書かれていました。未だ元気でいれば今年(令和3年)139年になります。

弘前城内に植樹されている日本で一番長く生息する染井吉野桜です。

樹齢は、明治15年に植栽されていますので、今年で139年になります。

日本一の「染井吉野桜」説明板。(弘前城)

染井吉野桜の寿命は70年から80年と言われ、終戦後植栽された染井吉野桜は、樹勢が弱り枯れています。最近は、染井吉野桜の代わりに神代あけぼの桜が植栽されているそうです。

染井吉野桜は天狗巣病に弱くそのため長生き出来ないそうですが、神代曙桜は、天狗巣病に強く長生きするそうです。

染井吉野桜の代替品種として推奨されているそうです。樹勢は染井吉野桜とよく似ており花の色は染井吉野桜よりも少し濃いそうです。

 

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