EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

第15回 全国高等学校俳句甲子園大会出場高校決定

2012年06月27日 | 伊予松山歴史散策
今年で第15回の節目を迎える全国高等学校俳句選手権大会(俳句甲子園)は、全国76校、109チームがエントリーして18都道府県23会場で実施、地方大会の優勝チームと、投句審査を通過した13チームが、8月18日(土)19日(日)松山市で開催される。
昨日(6月26日)高等学校俳句甲子園大会出場高校が決定した。

17文字に秘められた言葉の熱闘、各チーム5人で構成し俳句を掲げ相手高校から質疑を受けそれに対して応答する言葉の戦いである。
言葉には、麗しさ、「力」、伝える事、伝わる事、覚える事、育てる事が多彩に含まれている。

子規が明治28年故郷松山に帰った時に詠んだ「春や昔15万石の城下哉」
俳句の街・今年も全国各地から俳句という短詩系文学を介して高校生達が松山市に集い、日本語を操る能力の向上、将来日本俳句文学の振興と、高校生相互の文化交流を介して豊かな人間性を育むことを目的として開催される。

全国大会の兼題は「蛾・が」「キャベツ」「涼しい」、決勝トーナメントは「雲の峰」「裸」で、審査員は有馬朗人・高野ムツオ・長谷川櫂・夏井いつき・高柳克弘・各氏ら13名が審査する。

第15回大会出場高校は、北海道・旭川東、青森県・弘前学院聖愛、岩手県・水沢・黒沢尻北A、宮城県・仙台白百合学園A、秋田県・秋田西、茨城県・結城第二、群馬県・渋川女子、東京都・開成A・開成B・立教池袋B、神奈川県・厚木A・厚木B,長野県・松本第一B、岐阜県・飛騨神岡、愛知県・幸田A、三重県・高田A・高田B、京都府・洛南A・洛南B、大阪府・吹田B、兵庫県・甲南、広島県・広島、愛媛県・愛光・松山東A・松山東B・済美平成・宇和島東・松山中央A・伯方B・福岡県・三潴A・三潴B・三井A、熊本県・熊本信愛女学院、沖縄県・浦添・首里の高校が参加決定した。

画像は、第14回大会の様子

西日本最大級の一つとされている大街道商店街アーケードに掲示された歓迎の表示板


大街道商店街アーケードに参加高校の紹介板


大街道商店街で繰り広げられる17文字に秘められた言葉の熱闘予選会


全国一の俳句王国伊豫松山で全国から地方予選を勝ち取った高校生が言葉の熱闘を展開・・審査員も真剣そのもの


予選を勝ち抜き決勝戦の会場「松山市コミュニテイーセンター」のロビーに参加高校名が懸垂幕として掲げられている


決勝戦を行う最後の会場・舞台、静かに開幕を待つ観衆


決勝戦の会場舞台・・いざ決戦


個人最優秀句に選ばれた句は、松山市の「伊豫豆比古命神社」、通称号・「椿神社」「お椿さん」境内に永遠に句碑玉垣として建立される・・昨年第14回個人最優秀句は・・
神奈川県厚木東高等学校B、菅 千華さんの「未来もう来ているのかも蝸牛」が句碑として建立されている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋山兄弟生誕地・好古揮毫石碑写真展示

2012年06月25日 | 伊予松山歴史散策
松山市歩行町二丁目3番地6にある秋山兄弟生誕地は、平成17年2月18日に再建事業が完成し、同日朝のNHK「おはよう日本」のニュースで全国に放映された。
以前から松山市民は何故秋山兄弟の顕彰をしないのかと言われて来た。

NHKがスペシャルドラ「坂の上の雲」の放映が決定し主人公の生誕地が未整備では不自然である事を鑑み、全国の秋山兄弟支援者の皆様から醵金を頂きこれを基金として完成した。同年2月19日から一般公開し現在に至っている。
同年5月5日大阪からお越しになった方から秋山好古が揮毫した扁額か石碑を見に来たその場所は重信町の神社(現東温市)にあるそうだ・・その場所を教えて欲しいとの申し出があった。秋山邸の関係者は誰も知識として、また資料として準備が出来てなくその方から大変なお叱りを受けた。

その後調査に行き判明、この事がきっかけとなり特に好古が揮毫した石碑のみの調査が始まり現在に至り調査継続中である。
最近では貴重な石碑が神奈川県平塚市広川神社境内に発見された。また愛媛県上浮穴郡久万高原町中組の三社神社にある「注連石・しめいし」に揮毫された石碑が発見された。現在全国に50基の石碑が発見されている。

秋山邸では内部資料として保管保存していく計画であったが、秋山兄弟生誕地の管理母体である、公益財団法人 常盤同郷会の理事から、折角調査し貴重な資料だから邸内に石碑写真展として公開展示し来館者にご覧頂こうと平成17年8月26日から行っている。また秋山好古生誕150年記念として「秋山好古揮毫の石碑写真集」を平成21年1月7日に発行(1月7日は好古誕生日)そして平成23年1月7日に好古生誕153年記念として「秋山好古揮毫の石碑写真集改訂版」を発行した。

現在も好古揮毫石碑調査は継続中であります。もしご存知の石碑がございましたら是非ご連絡下さい。
連絡先:〒790ー0801 松山市歩行町二丁目3番地6 秋山兄弟生誕地
                TEL&FAX 089-943-2747 です。

平成17年2月18日完成した秋山兄弟生誕地・生家


平成17年8月26日から展示を開始現在に至る・・画像は展示当初


展示場所は、秋山兄弟生誕地武道場の回り縁の欄干を利用


好古揮毫石碑所在地を地図に示す


好古揮毫石碑所在一覧


好古騎馬像から見た写真展示状態


好古揮毫石碑所在情報お願い掲示板・・写真展示の後方に提示


秋山好古生誕150年記念として「秋山好古揮毫の石碑写真集」を平成21年1月7日に発行(1月7日は好古誕生日)


平成23年1月7日に秋山好古生誕153年記念として「秋山好古揮毫の石碑写真集改訂版」を発行した


昨日6月24日、新たに発見された神奈川県平塚市の石碑を展示した
なお、平塚市の取材は5月23日に行きました
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊豫松山発展に尽くした最大偉人:佐庭如矢

2012年06月22日 | 伊予松山歴史散策
日本最古の道後温泉本館を造り、伊豫松山城天守を明治新政府に現存に至る直訴をした松山の誇る偉人「佐庭如矢」を讃えなければ今の松山は語れない。

慶長8年(1603)10月伊豫松山藩主加藤嘉明は、新城下を「松山」と命名、慶応3、王政復古の大号令、慶応4年9月明治元年となり、鳥羽伏見の戦いが起こり明治維新、明治2年薩長土肥の四藩による版籍奉還奏請、明治10年2月西南戦争勃発、同年10月西郷隆盛自殺、明治11年大久保利通暗殺、維新は終わる。
現在の観光地松山の基礎を築いたのは、加藤嘉明と佐庭如矢であると言っても過言ではない。

佐庭如矢は、
文政11年9月12日に伊豫国(現愛媛県)に生まれる
明治5年:石鉄県となる機会に県吏員となる
明治6年:松山城を城山公園として残すように大隈重信に直訴し、大久保利通大蔵卿名で存続が許される
明治10年:愛媛県吏員時代、明治9年香川県が愛媛県の管轄になるを機に、高松支庁長になる
明治13年:内務省に入る 
明治14年:愛媛県に戻る 
明治15年:山田香川郡長に就任する
明治16年:愛媛県立高松中学校長を兼任する(現香川県立高松高等学校)
明治17年:郡長を辞任し、校長のみとなるが、その後財政難のため、廃校となる
明治19年:金刀比羅宮の禰宜になる
明治23年2月:道後湯之町の初代町長に就任、道後温泉本館・改築に着手62才
明治25年2月:養生湯落成同8月、道後鉄道に着手
明治27年4月:道後温泉本館落成・・伊豫松山藩城郭建築棟梁により
明治28年8月:道後鉄道開通
明治35年:三期十二年勤めた町長を勇退
明治40年9月4日:脳溢血で没した。享年80才 通称は斧右衛門 号は震庵
佐庭如矢の功績

第1:明治23年2月:100年先の道後地区発展の大計を考え道後温泉本館・地元住民、議会の猛反対を押し切り改築に着手した事

第2:明治6年2月政府は、廃城令を出して旧権力の象徴である城郭を取り壊すと共に、売却による維持経費の削減を図ろうとしたことに対して発令した廃城令に対し、明治政府大隈重信大蔵卿に対し伊豫松山城の存続を上申、この事が切っ掛けとなり、19の天守が存続を許された(先の大戦で、広島・福山・岡山・和歌山・名古屋・大垣・松前)の天守は消失し現在12天守が存続している。・・これが現存12天守である。なお松前城天守は不審火で消失。

松山城天守存続の経緯:存続に尽力した伊佐庭如矢と久松定謨


明治6年2月政府は、廃城令を出して旧権力の象徴である城郭を取り壊すと共に、売却による維持経費の削減を図ろうとした。
伊予松山藩は、親藩がゆえに幕末朝敵とされ松山城の売却取り壊しは免れぬ状態であった。
存続を願い伊佐庭如矢は、大蔵卿大隈重信に城郭を公園化する事で、庶民の観覧のためにと上申した。
維持費は地元で負担する事を条件で、内務卿大久保利通は公園化を条件で認め存続を許す事になった。
政府も各地の城の取り扱いに困っていたので、伊佐庭如矢の公園化計画は一つのヒントになり、その後各地の城は公園化が推進され存続した。

伊佐庭如矢は、道後温泉建設に努力して完成させた功績は良く知られているが、松山城存続に努力した事はあまり知られてない。
大正12年7月久松定謨は、政府から松山城の払い下げを受け、維持費の一部にと寄付金を付けて松山市に寄贈した。
昭和20年7月26日午後11時26分からの松山大空襲で、城山に焼夷弾が投下されたのは本丸の井戸が最初で、事務所、太鼓櫓、乾門、天神櫓等々城郭の建造物が次々に焼失、敵機が去ったのち焼煙が薄らぎ天守が浮かび上がった時、天守三階の西南隅が燃えつつあったのを見た住田監守長は一人でバケツ一個だけ持って走り本壇水槽の水で消し止めた。
後日、田中耕太郎文部大臣から、戦火から国宝松山城天守を命懸けで守った功績に対し住田監守長に感謝状が届いた。

現存天守が残ったのは以上の経緯である。
松山城存続に伊佐庭如矢と久松定謨の尽力と、大隈重信・大久保利通の英断がなければ存続はなかったと私は思う。
そして住田監守長の命懸けの消火活動の努力があったからである。
存続に尽力した伊佐庭如矢の銅像または、顕彰碑を松山城内に建立を望むものである。
註1:住田監守長の命懸けの消火活動については、監守長の業務日誌から引用した。
註2:昭和43年8月3日愛媛新聞夕刊大見出で「松山城・焼土の中に」松久 敬記者の記事あり。
註3:昭和10年5月に天守は国宝に指定されたが、昭和25年5月に文化財保護法の公布にともない、重要文化財に指定変 更された。
また昭和27年3月29日松山城跡は国指定の史跡となった。
主 観:松山市の観光資源は、第一に松山城、第二に道後温泉でどちらが欠けても半減するもので、俳句だけでは松山の観光は成り立たない。
   松山人は、肝心な功労者の顕彰がなってない。


平成7年道後温泉本館建設100周年を記念して建立された「伊佐庭如矢」の石碑・・本館正面を眺めるように建てられた


道後温泉本館で明治27年4月竣工今から118年前の建物、「伊佐庭如矢」の石碑は本館の向こう側に建っている


旧湯築城跡(現道後公園)に建立されている「伊佐庭如矢」を顕彰碑で、揮毫は、安部能成で能成は、昭和21年吉田第一次内閣時の、文部大臣を歴任、(1月~5月)同年10月学習院院員長(没まで)


100年後の道後を見越して建設した道後温泉本館、今や県外はもとより外国からも観光者が来ている観光の目玉


もう一つの伊豫松山の観光の目玉「伊豫松山城天守」存続を果たしたのは伊佐庭如矢、存続経緯の説明板がない


夜の道後温泉本館、平成6年温泉の建築物としては日本で初めて重要文化財に指定された・・本館最上階に赤く見える建造物


本館最上階に赤く見える建造物「振鷺閣」で刻を知らせる太鼓が置かれている


「振鷺閣」刻を知らせる太鼓が置かれている・・朝昼夕3回女性職員が時報に合わせ「刻太鼓」を打つ・・朝6時開館に6、昼12時に12回、夕6時に6回打ち鳴らす・・平成8年に環境庁の日本の音風景百選に指定された


現存12天守(弘前・松本・犬山・丸岡・彦根・姫路・松江・備中松山・丸亀・高知・宇和島・伊豫松山各天守)の一つで、現在日本の天守存続を最初に願い出たに伊佐庭如矢、残念ながら地元松山でもあまり知られてない・・
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浄瑠璃町(松山市)の菖蒲園

2012年06月20日 | 伊予松山歴史散策
松山市浄瑠璃町に四国八十八ヶ所第46番札所「浄瑠璃寺」がある。
久万高原町にある第44番札所菅生山・大寶寺から国道33号線を下り、第46番札所医王山・浄瑠璃寺に巡礼する手前に、16年前に休耕田を利用した関係者が「菖蒲を愛する会」を設立して約12,00株の花菖蒲園を育成している。

この道は幅員4m程の細い道で普通自動車以上の車は走行不能、離合も出来ない。
歩き遍路さんには打って付けの遍路道である。
今日(6月20日)撮影に行ってきた。現地に着くと中年の白人系外国女性一人が巡礼していた。
そして市内から車で花菖蒲の観賞に来ていた。

松山市浄瑠璃町の休耕田を管理する関係者と地元住民たちが16年前に「花菖蒲園を愛する会」を設立して12、000株を管理育成している


今日撮影に行ってみたが、昨日の台風4号の影響で少し花が痛んでいた//「江戸紫」に近い雅な色合い


花菖蒲は、4種類程の花が咲いていた・・真っ白な菖蒲も何の穢れも無く、歩き遍路さんの気持ちを和らげるのではないだろうか??


日本では伝統的な色青色には藍(あい)があり、大和言葉「あお」梅雨時期に巡礼をするお遍路さん、雨に洗われた青色花菖蒲、身体の疲れが癒されるのでは!!


画像のように昨日の台風4号で花は痛んでいた


第46番札所医王山・浄瑠璃寺に巡礼をするお遍路さん、観光バス3台巡礼していた
巡礼者には、一世代の家庭を築き上げ次世代にバトンタッチを行いその経緯を先祖報告にも兼ねての巡礼の旅をしている方もおられるのでは


浄瑠璃寺境内に上がりこれから本堂を拝礼


本堂を拝礼する団体のお遍路さん、一般拝礼者の邪魔にならぬように右側に2列に並んで御詠歌捧げていた


本堂を拝礼次は、弘法大師堂で御詠歌を捧げ巡礼は終り、各バスには巡礼を先導されるお先達さんが同行されていて、お寺の説明もされていた
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道後温泉・又新殿

2012年06月17日 | 伊予松山歴史散策
日本最古の湯、道後温泉本館には附設された日本唯一の皇室専用の浴室「又新殿・ゆうしんでん」がある。

現在の道後温泉本館を建築したのは、香川県金刀比羅宮の禰宜をしていた伊佐庭如矢で、明治23年道後湯之町の初代町長として迎えられ、道後地区発展の基盤となる道後温泉本館建築に情熱のすべてを捧げた。

老朽化が進んでいた道後温泉の改築費用は現在の金額で約13億円であったといわれているが、そんな金を掛けて建設するとは!町をつぶす気か!と、当時の湯之町の人々は猛反対した。

だが伊佐庭は、「この道後温泉が100年たっても真似の出来ない物を造ってこそ意味がある。人が集まれば町が潤い、百姓や職人の暮らしも良くなる」と、誠心誠意をもって町民を説得し、自身の給料も無給として、また一時期自分の命の危険を感じるほどで、この困難を乗り越えて偉大な事業を明治27年4月に落成した。・・これが現在見ることの出来る道後温泉本館である。

「平成6年全国初温泉の建造物が国の重要文化財(文化施設)として指定された」
その後、明治32年本館に、「又新殿」が皇族専用の浴室として全国唯一つ道後温泉に造られた。

道後温泉本館全容で、右手緑色の屋根が「又新殿」


又新殿に、皇室の方が入浴される時は、画像の右側に小さな門があるが、ここから御成りになる


又新殿の御成門内側で、ここから二階に上がられる


御成門から式台で二階にあがると、内部は四畳敷きの前室を経て八畳の御居間があり、さらに一段高い間が玉座である
画像は、八畳の御居間と奥が玉座、広さは四畳


画像は、八畳の御居間


脱衣の室


脱衣の室の南側に階段があり、下りると八畳の洞の間があり、次いで一間と二間の板の間、その次に同じ広さの御湯殿となる・・画像は、御湯殿で、すべて切石をもって敷き詰められ、石段を降りて浴槽となる。浴槽は庵治石で造られ、正面に大國主・少彦名の両神像が浮き彫りせられている、周りには白鷺が彫刻され、宝珠には小松宮彰仁親王の「健歩如故」の文字が刻まれている・・階段式浴槽


御湯殿口には畳敷きの御手洗いがある


又新殿には思考を凝らした小さい庭を設けてある

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする