EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山兄弟生誕地整備事業を回顧する その1

2022年02月24日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

平成15年1月、日本放送協会(NHK)当時の会長・海老沢会長は、大河ドロマとは別枠の、21世紀スペシャル大河ドラマとして制作し平成21年11月から放送する予定であると発表された。

その作品は、司馬遼太郎が10年の歳月をかけ書き上げた壮大な物語「坂の上の雲」で、発行部数は1,800万部を超えの超大作、多くの日本人の心を動かした司馬遼太郎の代表作品であった。

朝敵とされた四国・伊豫山出身の秋山好古・眞之兄弟と正岡子規たちの物語である。

しかし司馬遼太郎はこの作品の映像化を拒んだ。司馬遼太郎の死後、著作権を相続した福田みどり夫人の許諾を得て、平成14年に制作チームが結成され稼働しだした。

現地松山市、当時松山市長であった中村時広市長(現在の愛媛県知事)は、NHKが平成21年に放送する予定と発表されとのを骨幹に、松山市は「坂の上の雲」の街作りに取り組んだ。その核となる施設「坂の上の雲ミユージアム」を建設しここを拠点に街作りが動き出しった。

そして主人公の秋山好古・眞之兄弟生誕地も整備事業に取り組むことになった。

平成17年1月18日、秋山兄弟生誕地の整備事業が完成し、当日の朝NHK大型ニュース番組「おはよう日本」で秋山兄弟生誕地の現地からライブで全国に様子が放映された。

翌日19日、から一般公開され現在に至っている。

全国の秋山兄弟愛好者からやっと松山の関係者は重い腰をあげて整備したのかとお慶びのお言葉が届いたのである。

この整備事業は、公益財団法人・常盤同郷会が行い整備事業費は、全国の秋山好古・眞之兄弟の支援者からの醵金によって完成した。

画像は、開館当時の秋山生誕地である。

秋山兄弟生誕地の全景で画像左の大きな建造物は、武道場で柔道と合気道が行われている。

平屋の建物が、好古・眞之が生誕した所である。

江戸時代から現地にあった伊豫松山藩徒目付・秋山家は昭和20年7月26日のB29機による松山大空襲で消失した。

敷地は、江戸時代伊豫松山藩主、松平定行から頂いたそのままの地積で、約250坪藩政時代から地積変更がなくこのあたりは下級武士の屋敷跡で昔の面影はなく、高級住宅街となり面影を残すのは秋山兄弟生誕地のみである。

武道場は、秋山眞之が海軍兵学校1年生の夏休みに薩摩の郷中教育を視察見聞に行き、その教育組織を参考にして創設した松山同郷会(文武両道の青少年の教育を目的とした組織)で関係者に呼びかけ結成されたその名残の武道場である。
道場の建造物は、昭和20年に愛媛県の所有物であったものを譲り受け移築した。条件は愛媛県が開催する福祉関係の会議や研修を優先するであった。

愛媛県立保育専門学校第1期生はここで卒業式を行った。

秋山兄弟生誕地の整備事業が完成した秋(平成17年10月6日)松山秋祭りお祝いに神輿が巡幸して祝福してくれた。
大賑わいであった。

来館2万人目の方が近づきその瞬間を撮影するカメラマンが構え始める。

来館者2万人目来館者カウント表示板。

平成17年1月19日に一般公開され、2万人に達成したときには感謝歓迎会を行う企画をしていた。

事務局が予定していたよりも早くにやって来た。その日は、平成17年7月31日であった。

此の事を松山の各報道機関に連絡周知し、各社のカメラ・記者は取材で賑わった。

2万人目の来館者は、名古屋市から家族5名でお越しになった平井さんご一家でした。

秋山好古は、大阪師範学校卒業(現・大阪教育大学)勤務地が名古屋師範学校(現・愛知教育大学)付属小学校の教師をして名古屋に赴任した。その名古屋から来られた方が2万人目の来館者で不思議なご縁であった。

好古は、名古屋師範学校の教務官・和久正辰(伊予松山藩出身)の強い勧めで退職し陸軍士官学校に進み暫し軍人の世界に身を置き、晩年松山(好古の故郷)の北豫中学校長となる。

2万人に達成したときには歓迎を行う企画の一つとしてお琴の演奏でお迎えした。

演奏準備をする「前谷雅貴 社中」の皆さん。

平成17年7月31日、午前10時48分、開館2万人目の方がお越しになった。

お祝いのテープカットで迎え入れた。
渡部事務局長がご住所と、お名前を尋ねると名古屋市の平井さんと判明した。好古とご縁がある名古屋であることに驚いた。

平成17年7月31日、来館者2万人目に秋山兄弟生誕地にお越しになった名古屋市の平井さんご一家で、秋山好古騎馬像の前で記念写真を撮りました。

常盤同郷会・平松 昇理事長から感謝状が贈られた。

平井さんは、まさか2万人目でこんな記憶に残る記念行事の一人として関係するとは思わなかった・・と感激されていた。

秋山兄弟生誕地の研究員からお祝いの花束贈呈。

秋山兄弟生誕地では、「前谷雅貴 社中」の皆さんが琴の演奏で、来館2万人目となった平井さんご一家(5名)を出迎えた。

秋山兄弟生誕地の関係者と記念撮影をされる名古屋市の平井さんご一家、行事に巻き込みご苦労さまでした。
その後お元気でお過ごしの事と存じます。コロナ感染にお気を付け下さい。

ここからは整備事業が完成しました秋山兄弟生誕地の画像です。

秋山好古の騎馬像。

秋山好古(陸軍大将従二位勲一等功二級)

好古は、大正9年12月28日陸軍の最高幹部の一つである教育総監兼軍事参議となり、大正12年3月31日付で予備役となり元帥に推薦されるがこれを辞退した。(元帥になろうと思ってもなれない地位、これを辞退したのは好古が最初で最後である)

大元帥である大正天皇は、元帥を辞退した好古にビックリされ、大元帥(大正天皇)は、特旨を以って官位、従二位を与えた。

そして故郷である伊豫松山からの強い要望を受けて北豫中学校長として単身で赴任した。

好古は、元々は大阪師範学校(現・大阪教育大学)を卒業し名古屋師範学校附属小学校の教師であったので)

秋山好古の騎馬像姿は、フランス式の乗馬姿勢です。

昭和11年(1936)道後公園「中世の城郭跡・湯築城」内に建立されたが、先の大戦中に金属供出でつぶされた。幸いそのレプリカの一つが愛媛県立松山北高等学校に保存されていたので其れを参考に原作者の子孫の監修も受けて当時と同じ大きさに復元しました。(設計図はトヨタ自動車の設計班がコンピューターを駆使して作成) 製作地は、富山県高岡市で、重さ:800Kg、高さ:3m、台座巾:2,5mのブロンズ像である。

 好古は、伊予松山藩主第16代久松定謨がフランスの陸軍師範学校留学に付きお供役としてフランスに滞在していた。

山形有朋は、ヨーロッパ諸国を視察の際フランスにいる秋山好古を訪ねた。
好古は、立ち寄ってくれた山形有朋に乗馬について直訴し、その後日本の騎馬隊の原型となった、フランス式の乗馬姿勢です。(ドイツ式は、見た目には綺麗な姿勢だが、長時間乗馬すると非常に疲れる・・好古理論)

秋山眞之の胸像。

眞之は、慶応4年3月20日、現在の松山市歩行町二丁目3番地6にて、松山藩士・秋山平五郎久敬の五男として生まれ名を淳五郎と命名・元服した時に眞之(さねゆき)と改名した。

好古は実兄である。15歳で上京し、親友の「正岡子規と清水則遠」と共に大きな志を抱き、東京大学を目指した。大学予備門時代に夏目漱石と同期であった。その後、眞之は、尊敬する兄に対し「自分がこれまでになれたのは兄のおかげだ」と生涯にわたって兄好古を尊敬した。そのため、兄好古に経済的な負担を掛けるのは忍び難しとの思いで、東京大学進学を諦め、明治19年海軍兵学校に入学し同校を首席で卒業する。 そして、日清戦争を経て米国に留学、マハン戦術(近代米国海軍戦術)を究めた。日露戦争では、連合艦隊司令長官東郷平八郎の作戦主任参謀として活躍、日本海海戦では、ロシア帝国海軍太平洋第二・第三艦隊(バルチック艦隊)を迎え、伊予水軍戦法の「丁字戦法」を駆使し、意表を衝く敵前旋回で敵艦隊を撃滅、戦局の大勢を決した。その後中将に昇進したが、大正7年2月、小田原にいた元老、山県有朋と会見、その時小田原で盲腸炎を患い、腹膜炎を併発し大正7年2月4日病死、49歳11ケ月の若さであった。眞之の辞世句、「不生不減明けて鴉の三羽かな」、現在は鎌倉霊園に眠っている。位階は従四位を叙位。

秋山眞之の胸像について

眞之が海軍大学校教官時代の教え子達が醵金を募り(約900円)「当時イタリア大使館に勤務していた教え子の一人の武官が」ローマ在住の彫刻家・マリォ・リナルディに依頼して作った胸像の複製です。

 出来上がった胸像の請求金額が、注文時の金額よりも1,5倍多く、武官は金額が高い理由はと質問すと、日本海海戦の連合艦隊専任参謀として大活躍した将校なので形のいい大きさに作り上げたらこの大きさ1,5倍になった、よってこの金額を請求する。・・・武官曰く追加金の調達準備をしないと予算が無いと説明・・困り果てた様子をした。

 此れをみた彫刻家は、分かりました、予算通りの金額でよろしいと、この偉大なる将軍に敬意を表してと元の金額に落ち着いたとの逸話があります。

財団法人常盤同郷会は、東京目黒にある海上自衛隊幹部学校に安置されている眞之銅像の複製許可を得て秋山兄弟生誕地整備事業の記念として富山県高岡市の会社に依頼し複製しました。

(設計図はトヨタ自動車の設計班がコンピューターを駆使して作成)

東京目黒の海上自衛隊幹部学校に安置されている秋山眞之の胸像。

秋山兄弟生誕地の全景で、伊豫松山藩15万石の徒目付家禄10石の質素な佇まいです。

正岡家は、馬廻役で家禄100石であったそうです。

裏庭の一部で、整備事業前は表の庭は狭く裏庭が広くあったが、表に二人の銅像を設置するために表庭を広くし、裏庭を狭くした。

生家の東側になります。

裏庭で、左に大きな石碑がありますが、表にあったのを裏庭に移動しました。

好古は、北豫中学校長として故郷松山に帰ってきますが、奥さんや子供達は東京に残し単身で生家にて生活しました。

好古は、日清・日露戦争で優秀な部下であった騎兵隊員を戦争で亡くしその責任を痛切に感じていた。それ故に華美な私生活は出来るだけ避けていた。元帥を辞退したのもその現れであった。

ただし、好きなお酒は飲んでいた。
学校の勤務が終わり自宅に帰ると、近所の親戚から、そろそろ秋山の叔父さんが学校から帰ってくるからお酒のつまみを持って行ってお上げなさいと・・届けてくれて、天気のいい日は裏庭に小さな机と椅子を出して松山城を見ながらお酒を飲んでいたそうです。

裏庭で、奥に石が見えますが、江戸時代から続く井戸で現在も井戸水は出ます。

水は庭木の散水に使用しています。

そして大きな石碑は、題額「秋山両将邸之碑」を陸軍大将、南 次郎が揮毫した石碑です。

 南 次郎は、(明治7年8月10日―昭和30年12月5日)好古の部下で第6代騎兵第13連隊長を歴任、南は鬼の連隊長として恐れられた。特に礼節に厳しい連隊長であった。(近衛師団配下の騎兵連隊だから)

騎兵第13連隊は平時の時は、近衛師団の配下に属し、有事となると騎兵第一旅団の配下として活動した。日本騎兵隊の中で一番の精鋭騎兵隊員の集まりの連隊であった。初代騎兵第一旅団長が秋山好古であった。

南 次郎は、大東亜戦争後、満州事変の総責任者として東京裁判でA級戦犯にされ、終身禁固刑となるが東京拘置所内で大病を患い昭和29年仮釈放され治療を受けた。

数年前の秋に鎌倉から南家の方が秋山兄弟生誕地に来られこの石碑を案内しました。すると、尊敬していた秋山好古さんの生家に南次郎が書いた石碑がある事は知らずに来ました。来ていいものを見せて頂きました。よかったと喜んでおられ感激してお帰りになった。
千葉県習志野市・東邦大学薬学部校内に南 次郎さんが揮毫された立派な6角形の石碑がありますとご案内すると是非は拝見に伺いますと言われた。

「秋山両将邸之碑」を陸軍大将、南 次郎が揮毫した石碑です。

石碑は、昭和12年7月建立されました。

千葉県習志野市にある東邦大学構内に南 次郎揮毫の立派な六角形の石碑が建立されている。

石碑には、「武勇・信義・質素・忠節・禮儀」の文字が揮毫されている。

南次郎が最も慕ったのが、秋山好古で、日露戦争の時秋山好古は旅団長で、その傘下に南次郎連隊長の第13連隊があり、最も実践向きの猛者揃いであった。南連隊長の指導方針は、1、騎兵精神の徹底、2、将校団の団結、3、戦術能力の向上、4、武道奨励、特に敬礼は、身をもって範を示し、体罰はしないのが身上であった。・・とある。
なお、習志野市には、騎兵第12・13・14・15・16連隊があった。戦後12連隊跡に、順天堂大学、13連隊跡に、東邦大学薬学部、14連隊跡に、日本大学生産工学部、15連隊跡に、東邦大学付属東邦中・高等学校、16連隊跡は空き地となっている。
東邦大学構内には、13連隊当時の建物が一棟現存しており、大学では永久保存する事が決定している。
現在は、当大学の柔道部・空手部の武道場として使用している。

騎兵第12・13・14・15・16連隊が精鋭部隊で、秋山好古が育てた騎兵隊である。

特に13連隊が一番の優秀な精鋭部隊であったそうです。平時には近衛師団の配下として属し、天皇と宮城(皇居)を警衛する騎兵隊であるから。

画像奥が、座敷で8畳です。手前も8畳の部屋です。

居間で、奥と手前も各6畳の部屋です。手前の上に納戸が設けられています。

画像左に一部見えますものが納戸に上がる階段です。

炊事場で、奥が玄関です。

ご覧のように質素な佇まいです。

設計は、愛媛県文化財保護員をされている河合一級建築士さんが、秋山好古さんのお孫さんに会い聞き取り調査をされて当時の通り設計をされました。

来館者に対しての一般公開のお知らせ。

平成17年1月19日(水曜日)から開館しました。

スペシャルドラマ・坂の上の雲が放映されてからは全国から多くの方々が来館されました。

現在は、新型コロナが蔓延来館者は少ないそうです。

毎年1月に秋山好古生誕祭、3月に秋山眞之生誕祭を開催していますが、今年はコロナの関係で1月9日(日)開催予定の秋山好古生誕祭は延期、令和4年3月20日(日曜日)開催予定の秋山眞之生誕祭と合同で開催予定だそうです。

早くコロナの蔓延が収束してほしいものです。

 

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