EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古揮毫石碑・取材にご協力頂いた方々 その16 松山市道後湯築城跡の石碑

2021年06月30日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

昭和3年11月10日昭和天皇即位の大礼を記念して建立された石碑。

湯築城は、日本100名城の一つ、第80番に指定された城で、現在は道後公園として県民に親しまれている。
平成14年9月20日、国指定の史跡公園に、湯築城跡として指定を受けこの公園内に秋山好古が揮毫した「御大典記念」の石碑がある。

湯築城跡には、資料展示室があり学芸員が勤務している。

元・学芸員の 柴田氏から、秋山好古が揮毫した立派な石碑が道後公園にありますと連絡を受け取材に行ったが、詳しい場所を聞かずに行ったので道後公園特に西側ばかり探したので発見できず探すのに一苦労した。

所在場所は、湯築城跡(道後公園東グランド)の北側にある「ゆうぐ広場」にあった。

石碑取材には、現地に行ってもなかなか発見出来なく探索に苦労した石碑も数基ある。

画像の石碑は、松山市道後公園(鎌倉時代伊予の守護河野氏の居城・湯築城跡にある御大典奉祝記念碑である。

秋山好古揮毫石碑

1、碑 文:御大典奉祝記念

2、所在地:松山市道後公園 国指定史跡 湯築城跡

3、揮毫者:陸軍大将 秋山好古

4、建立者:大日本国粋会愛媛本部

5、揮毫年月日:昭和3年11月

6、石碑の大きさ:高さ3m25cm 横幅1m94cm 厚さ91cm

所在地:松山市道後公園「東グランド・ゆうぐ広場」

昭和3年11月:大日本国粹會愛媛本部が建立した。

昭和3年11月10日、京都御所での即位の大礼儀式の一幕。

昭和天皇即位の礼当日の参列者は勲一等以上の者665名、外国使節92名他、2,000名以上の参列者があり、式典では内閣総理大臣・田中義一が万歳三唱したとある。(国事行為の儀式で、最高の皇室儀礼)

即位の礼・大嘗祭と一連の儀式を合わせ御大礼・または御大典とも称され、秋山好古が揮毫した石碑が現在53基発見されているが、御大典記念の石碑は4基ある。いずれも愛媛県内に建立されている。

松山市道後公園(湯築城跡)

東温市北方、揚神社

八幡浜市松柏、覚王寺

上浮穴郡久万高原町、三社神社

日本100名城第80番に指定されている湯築城のスタンプ。

画像は、手前に中世鎌倉時代に築城された湯築城跡(道後公園)最後の城主、福島正則(賤ヶ岳の七本槍の一人)でその後廃城となる。

画像上に見える山が近世に築城された松山城で築城したのは初代松山藩主、加藤嘉明(賤ヶ岳の七本槍の一人)です。

平成14年9月20日、文部科学省から指定を受けた「国史跡 湯築城跡」の表示版です。

昭和62年10月から12年間に及ぶ埋蔵文化財発掘調査も終わり、発掘した遺構を元に復元された中世の城「湯築城跡」として平成14年4月12日開園した。

画像は、湯築城跡正面入口で、湯築城時代は搦手で大手は東側にあった。(現在は裏口となっている。)

所在地は、〒790-0857 松山市道後公園1 管理者は愛媛県。

市内電車道後公園前停留所の直ぐ前にある。

では、これから簡単に湯築城跡とそれに関わる事柄をご案内しましょう。

画像は、湯築城跡資料館内にある湯築城の模型で秋山好古揮毫の御大典記念の石碑は、子規記念博物館の右側にあります。子規記念博物館も湯築城跡敷地内です。

昭和63年から埋蔵文化財発掘調査が12年間実施され、発掘調査により多種多様の遺物約25万点も出土された。

家臣団の居住区(西側)庭園区(中央部)上級武士の居住区(東側)など機能を分担していたことが発掘調査で判明した。

愛媛県は、当初の計画を日本庭園を造築する予定であったが、発掘調査で判明した遺構が予想していたものよりも貴重な遺構が発掘され、これを後世に伝えるため史跡公園として、散策・休憩をしながら楽しく歴史を学べる場所として設計変更した。

湯築城跡(道後公園)平面図。

湯築城は、中世伊予国(現在の愛媛県)の守護河野氏の居城として約250年間存続した城跡で、築城は建武1年(1334)~建武3年(1338)に築城されたと推定されている。

天正13年(1585)全国統一を目指す豊臣秀吉の四国征伐の命を受けた小早川隆景に攻め込まれ河野通直は降伏、小川隆景が城主となり、その後福島正則に受け継がれ湯築城は廃城となる。

なお、この時代の城には天守はなく、天守が造られるのは織田信長が安土城を築城してからで、信長が築城したものは天主と称した。

湯築城跡、家臣団の居住区の一部で、昭和28年愛媛県立道後動物園が創立、県内唯一の動物園として多くの方に親しまれてきたが、昭和62年10月、道後動物園は伊予郡砥部町に移転、その後が現在の湯築城跡史跡公園として整備された。

現在松山市の人口は、514,900人全国の中堅都市として繁栄しており街の中心部、道後温泉を近くにひかえる地で、都市開発が行われ他の施設が出来てもおかしくない場所に中世の遺構が現存するのは全国でも珍しい貴重な遺構である。

中世の城が平地に築城されているのは珍しく、防御するのは大変であるが、反面攻めるのは容易い。よって中世の城は殆ど山間部に築城された。

湯築城跡、上級武士の居住区で外堀と内堀がよく見える。

外堀は当初よりも幅が狭くなっている。それは、道路整備等々開発され外堀を埋め立てたためである。

湯築城跡管理棟にある資料展示場。

湯築城跡、家臣団の居住区に復元された武家屋敷の建物内部で、発掘調査の様子や出土品が展示されている。

全国でも珍しい貴重な土塁の展示室が造られており、土塁の築造方法などが身近に見学出来る。

上級武士の居住区内で、時より結婚式の前撮り写真撮影風景を見ることがある。

外堀の一角に、播州赤穂から贈られた「ハゼの木」が植栽されている。

松山市道後公園(湯築城跡)南外堀の道路沿いに樹齢300年近い赤穂から贈られたと言う、赤穂義士縁のハゼの木があり、地元道後水利組合の人々は、このハゼの木に由来を伝える看板と、記念碑を建立し保存運動をしている。

松山藩では大石主税、堀部安兵衛等赤穂浪士10名を預かり江戸中屋敷で丁重に持て成した。
 大高源吾、木村岡右衛門の切腹を介錯した松山藩士宮原久太夫は、両名の遺髪を藩主の許しを得て、松山にある宮原家の菩提寺、興聖寺(こうしょうじ)に二人の墓を建立し納め供養し丁寧に扱った。
 後にこの事を知った播州赤穂の住人は、赤穂特産のハゼの木を贈り、感謝の気持ちを表したとされている。

同組合の梅岡茂雄総代によると、縁のハゼの木は、かっては石手川の堤防や道後公園沿いに30本程植えられていたが、道路拡張、護岸工事等により、現在の一本を残すだけとなった。この為40年前に梅岡さんの父親が愛媛大学農学部教授の管菊太郎氏(故人)に調査依頼した結果、播州赤穂から贈られたものと確認したと言う。

立て看板を作った同市岩崎町の森博さんによると、「当時、木蝋燭の原料として貴重だったハゼの木を贈ったというには、赤穂の人にとってよほど、松山藩の赤穂義士に対して対応が嬉しかったのだろうと」と思いを巡らせている。

以上は、「平成11年1月22日付けの愛媛新聞に掲載された。」

播州赤穂から贈られて来たハゼの木の説明板。

松山市道後公園(中世の城跡・湯築城)南外堀の道路沿いに樹齢300年近い赤穂浪士縁のハゼの木があり、地元道後水利組合の人々は、このハゼの木に由来を伝える看板と、記念碑を建立し、保存運動をしている。

松山市末広町にある興聖寺では、地元商工会議所が中心となり毎年12月14日、木村岡右衛門、大高源吾のお墓にはお供え物と献花がされ、その右に介錯人、宮原久太夫家のお墓がありお花が生けられる。両名と宮原の供養と地元の発展を願って、興聖寺史跡顕彰会が発足し、昭和39年12月14日第1回松山義士祭が挙行された。その後主催は末広町商工会を経て同町会へ移行し現在まで松山の師走の風物詩として毎年開催されている。

松山市末広町商店街を行く義士行列隊。

コロナが蔓延してからは中断されている。

松山義士祭には、大高源吾、木村岡右衛門のお墓にお供え物と献花がされ、右に介錯人、宮原久太夫家のお墓がありお花が生けられる。

大高源吾の辞世の句、「梅で呑む 茶屋もあるべし 死での山」

木村岡右衛門の辞世の句,「思ひきやわが武士の道ならでかゝる御法の縁にあふとは」

イタリア大使館。(旧伊予松山藩江戸中屋敷・東京都港区三田)

伊豫松山藩が預かった赤穂浪士は松山藩江戸中屋敷で、丁重に持て成した。

この地は、現在イタリア大使館となっており、大使館庭園には赤穂浪士の事柄を石碑に記録として記して建立し保存されている。

参考:伊予松山藩がお預かりの赤穂義士は下記の通りである。

大石 主税良金     部屋住(大石内蔵助良雄長男)  15歳

堀部 安兵衛武庸    二百石馬廻           33歳

中村 勘助正辰     百石祐筆            44歳

木村 岡右衛門貞行   百五十石代官          45歳

岡野 金右衛門包秀   部屋住(亡父二百石物頭)    23歳

不破 数右衛門正種   先知百石普請奉行        23歳

菅谷 半之丞政利    百石代官            43歳

千馬 三郎兵衛光忠   三十石宗門改          50歳

貝賀 弥左衛門友信   十両三人扶持蔵奉行       53歳

大高 源吾忠雄     二十石五人扶持近習       31歳

(松山義士祭実行委員会資料引用)

イタリア大使館(旧伊予松山藩江戸中屋敷)では、赤穂市にある大石神社から宮司を招いて赤穂浪士の慰霊祭を行っている。

平成21年5月11日、伺ったとき撮影した赤穂市にある大石神社参道。

画像は、湯築城跡に建立された当時の秋山好古の騎馬像。

好古は、生前「銅像創るな・石碑もいらぬ・家も要らない・墓も創るな」と言い残し昭和5年11月4日:東京陸軍病院で逝去 72歳の大往生であった。

教師として社会人になり途中軍人の世界に身をおくが、晩年北豫中学校長として世を終え。・・軍服と言う甲冑を着ていた時期は長かったが中身は教育者であった。

画像の騎馬像は、昭和11年松山の関係者がもうそろそろ銅像を創っても好古さん、許してくれるだろうとの事で道後公園の西側に建立した。しかし残念に昭和19年、大東亜戦争の金属供出で潰された。画像は、建立当時の秋山好古騎馬像である。

当時の建立地は、現在伊佐庭如矢の顕彰碑がある後方に東屋がある辺りに建立されていた。

秋山眞之の立像である。

昭和6年、眞之の13回忌と日本海海戦25周年に当たるのを記念して郷里の人々に顕彰運動が起り、井上要、岩崎一高、新田長次郎、山下亀三郎、各位多くの有志が発起人となり寄付金を募り道後公園内に建立された。眞之が連合艦隊先任参謀として、戦艦三笠艦上にあったときの軍装姿である。銅像の表には、東郷平八郎元帥の揮毫による「智謀如湧」の四文字の銅板がはめられている。銅像は先の大戦中に金属供出で鋳つぶされた。しかし「智謀如湧」の四文字の銅板は関係者が残し保存した。現在は、梅津寺の銅像の台座に設置されている。

昭和38年に石手寺に再建され、昭和43年9月に梅津寺へ移された。画像は、金属供出される前の銅像である。

昭和6年、眞之の13回忌と日本海海戦25周年に当たるのを記念して建立された秋山眞之の銅像を兄好古が見る姿写真。道後公園に建立されていた当時の写真である。

しかし両名の銅像は、先の大戦中に金属供出で鋳つぶされた。

兄である好古が弟眞之を「淳、お前はお国の為に良く働いた。」・・と称えている姿に見える写真である。

註:淳とは、秋山眞之の幼少期の名前淳五郎で、元服して眞之となる。

  正岡子規も、淳さんと呼んでいた。

湯築城跡(道後公園)北側にある、松山地方気象台が管理する「ソメイヨシノ・観測用標本樹がる。

松山地方気象台はこの、ソメイヨシノ・観測用標本樹で昭和28年から観測を始めた。

平成23年までは、ソメイヨシノ・観測用標本樹に設置された立ち入り禁止の柵がなかったが、やっと平成24年に柵が造られた。開花時期になると松山地方気象台の観測員2名が午前中1回、午後1回やってきて観測をし、観測員2名が5輪以上の開花を確認すると松山地方のソメイヨシノ桜の開花を宣言する。

開花すると大勢の市民は花見を楽しむ。松山市一番の桜の名所である。

しかしコロナが蔓延してからは花見が出来ない状態である。

日本三大八幡造のある伊佐爾波神社。

この神社は伊予の守護、河野氏が湯築城の守護神として崇拝していた。湯築城、築城の際、湯築城にあった神社を今の地に移し、その後、加藤嘉明が松山城の固めとして八社八幡を定めた時、一番社として武運の祈願所となった。
現在の社殿は、伊予松山藩松平第三代松平定長が、徳川将軍から命じられた流鏑馬の必中祈願のお礼として建替えたもので、京都の石清水八幡宮を模して建造、大分の宇佐八幡宮と並び全国に三例しかない整った八幡造りで、国指定の重要文化財に指定されている。

日本三大八幡造神社は

大分県:宇佐八幡宮(国宝)

京都府:石清水八幡宮(国宝)

松山市:伊佐爾波神社(重要文化財)

最後に、現在保存修復真っ最中の国指定重要文化財「道後温泉本館」の現状です。

又新殿(皇室専用の湯場)は完成し、次は本館中心部(玄関棟を含む)の保存修復になります。現在は大きな鉄骨の工事用屋根の移動工事の準備作業を行っております。

保存修復工事は、令和6年12月20日までかかります。

画像は、令和3年6月20日現在の道後温泉本館です。

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秋山好古揮毫石碑・取材にご協力頂いた方々 その15 愛媛県今治市大三島町の石碑

2021年06月21日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

今治市役所大三島支所産業建設課、越智課長さんが秋山兄弟生誕地まで来て頂き石碑の情報

を頂きました。越智課長さんにおかれましては、度々秋山生誕地にお越し頂いておりました。

今治市大三島町野々江・野々江八幡神社の石碑「招魂碑」

1.碑   文:招魂碑

2.所 在 地:今治市大三島町野々江甲6536番地「野々江八幡神社」

3.建立年月日:不明

4.揮 毫 者:陸軍大将 秋山好古

5.建 立 者:不明

6.碑石大きさ:高さ・1m91㎝ 横幅・89㎝ 厚み・ 8cm

7.参考 事項:  

秋山好古が揮毫し石碑として建立されている碑は、令和2年10月1日現在53基発見されていますが、招魂碑と揮毫された石碑はこれ1基のみである。戊辰戦争、日清戦争時に戦死された々の霊を招いて祀る事に招魂碑を建立して慰霊をしていた。
日露戦争後は、忠魂碑となり、招魂碑と言う言葉を使わなくなる。

靖国神社も初めは、東京招魂社と言っていた。明治5年東京招魂社が建てられ、明治12年、靖国神社に改称、地方の招魂社は、昭和14年、護国神社に改称された。

今治市大三島町野々江の招魂碑の建立された年月日は不明であるが、石碑裏面に野々江地区から日清・日露戦争に出征し戦死された7名の方々の名前が刻印されている。

建立年は、やはり昭和天皇の御大典記念として建立したのではないか?ですが。

招魂碑裏面で、野々江地区から日清・日露戦争に出征し戦死された7名の方々の名前が刻印されている。野々江は、当時愛媛県越智郡岡山村野々江と称していた。

今治市大三島町野々江甲6536番地に鎮座する「野々江八幡神社」で正面には立派な大島石で造った社号碑が建立されている。野々江八幡神社は大山祇神社の南約1kmにあり、旧越智郡岡山村の村社であった。

大三島町は、昭和30年3月31日、越智郡鏡村と宮浦村が合併し、大三島町となる。

その後昭和31年9月23日、岡山村が合併。

大三島町は、平成17年1月16日、菊間町、大西町、波方町、玉川町、朝倉村、吉海町、宮窪町、伯方町、上浦町、関前町と合併して今治市となり、大三島町の自治体としては消滅した。

社殿には石段を上り行くが、聖域を示す注連石の右側に「招魂碑」は建立されている。

忠魂碑とは、

忠魂碑とは、戦死者の慰霊碑で。

日露戦争前には記念碑,招魂碑と呼ばれるものが建てられたが,忠魂碑として日本全国に広がっていくのは日露戦争以後のことで,大正・昭和天皇の即位記念事業として,市町村の在郷軍人分会が献金を募集し,小学校の一角に建立したものが多い。
碑文題額の揮毫者は帝国在郷軍人会会長の一戸兵衛や鈴木荘六、東郷平八郎の例が多く,除幕式は慰霊祭を兼ねて3月10日の陸軍記念日に挙行されていた。

陸軍記念日

3月10日は、戦前我が国では陸軍記念日であった。
これは、明治38年3月10日に、日露戦争の奉天会戦で大日本帝国陸軍が勝利し、奉天を占領して奉天城に入城した日で、明治39年3月10日が第1回陸軍記念日である。

招魂碑の取材も一段落し、越智課長さんのご案内で越智喜平さん宅をご案内頂き秋山好古揮毫の軸物・扁額等々を拝見させて頂いた。

越智喜平氏は、大三島町(旧岡山村)から公用で度々松山に伺い、その都度秋山好古北豫中学校長宅を訪れていた。そして揮毫をお願いした。

好古は、あなたの気質が気に入ったと言われ揮毫してくれたと先代から聞いております。我が家の家宝として大切に保存致しておりますと現当主は言われた。・・この時好古は余程ご機嫌が良かったのだろう!!気持ちよく揮毫をしたのだから。

御先神社と好古が揮毫された未だ表装されていなかった。

好古が揮毫した大切なものをこの護り巻紙に巻き、越智喜平氏に贈ったのでしょう。
大切に保存されていた。

秋山好古が揮毫した書を軸物に表装しその収納箱で、箱書きされていた。

初めて見た貴重なものである。

そしてもう一つ貴重な扁額を拝見した。

岩倉具徳の揮毫「忠烈」で揮毫者は、岩倉具視の孫である。

肩書に「従三位男爵 岩倉具徳と書かれている。

岩倉具徳が大山祇神社参拝に来られた時に、越智家がお世話をし、その御礼に揮毫されたのではないかと推察する。

ここから本題から外れ寄り道をします。(伊藤博文のことについて)

大三島町には凄い神社があります。

それは、大山祇神社です。

御祭神は、大山積大神で天照大神の兄君にあたり吾國の國主、木花開邪姫命を后妃とせられ我が国の建国の大神様で、古来より地神海神兼備の霊神、日本民族の総氏神として日本総鎮守と御社名申し上げた。歴代朝廷の崇敬厚く、延喜時代伊予国の一宮に定められ、明治の管制により四国唯一の国幣大社に定められた。(愛媛県神社誌から引用)

また、宝物館には、武将が使った全国の国宝・国の重要文化財の指定を受けた武具類の約8割が所蔵保管展示されており、中でも源義経が源平合戦に大勝を収めた後奉納した国宝「赤絲威鎧」が有名である。

近代においても、日本の初代総理大臣・伊藤博文、旧帝國海軍連合艦隊司令長官・山本五十六をはじめとして、政治や軍事の第一人者たちの参拝があった。現在でも、海上自衛隊・海上保安庁の幹部などの参拝があるそうです。

大山祇神社の説明板。

初代内閣総理大臣、伊藤博文が明治42年3月14日、松山を訪問した時、3月22日に大山祇神社を参拝され揮毫した石碑が大山祇神社入口建立されている。

そして境内回廊には、第23代内閣総理大臣・清浦奎吾が秋山好古、新田長次郎の案内で大山祇神社を参拝した記念の写真が開示してある。

神社正面入口にある伊藤博文が公の場で揮毫した最後の書「大日本総鎮守大山衹神社」の石碑が建立されている。

伊予市灘町にある「五色浜神社」の社号額。

明治初年まで伊豫稲荷神社境外末社。明治の初め、天神社と住吉神社が合併して五色濱神社と改称し村社に列せられた。
 神宝は菅原道真公の自画像と伊藤博文の書いた社号額である。

五色濱神社の社号額は、初代内閣総理大臣、伊藤博文元勲が明治42年3月14日に松山に来られたとき、郡中(現、伊予市)を訪れ揮毫された。

五色濱神社の前には郡中発展に多大な功績があった「藤谷豊城」翁の銅像があり台座に秋山好古が「藤谷豊城翁」と揮毫している。

「藤谷豊城」翁の銅像。

参考資料:

藤谷豊城は、(安政6―昭和8年)安政6年6月29日、大洲藩士稲葉六良右衛門の第三子として誕生、明治8年10月郡中藤谷家の養子として入籍した。明治11年には20歳で町会議員その後郡連合会議員、町政・郡政に参画すること40年の長きに及び、この間郡中銀行・南予鉄道会社・伊予汽船会社設立に参画など地方の振興に寄与した。 明治44年2月郡中町長に就任するや苦しい財政事情を克服して郡中港の大改修を実施しこれが郡中の発展の根源になった。港南の地に五色濱神社の建立を計り、町内各社も合祀して完成した。藤谷豊城の功績を顕彰して大正13年10月五色濱神社前に銅像を建立したが太平洋戦争に金属供出で消失、昭和48年3月28日再建立された。

五色浜神社の説明板。

伊予市の伊予灘に面した五色浜海岸「五色浜のねがい石」の説明石碑。

伊藤博文の栽松記念碑。

松山市梅津寺駅東に画像の記念碑がある。

その近くに松が植えられている。

この松は、明治42年3月に伊藤博文公と有志の寄付を得て種を蒔き育てられたもので、この由来を後世に伝えるために昭和5年に建立されたのが栽松石碑である。
伊藤博文公は平安末期から戦国時代にかけて伊予の守護、豪族河野氏の一族の子孫にあたり、道後温泉を訪れた際に「当国は即ち祖先の故郷なり」と演説した。

満州から帰りましたら、再び松山に来て先祖の河野通直の300回忌を行いたくその説はお世話になりますが宜しくと挨拶した。

伊藤博文の栽松記念碑の説明板。

松山近郊には伊藤博文は色んな痕跡を残している。

明治42年3月、松山道後温泉に来訪した時の記念のお手植えの松と紹介された時期があったが、伊藤博文からのご喜捨の一部で松の種を蒔き育てた松である。松は沢山あったが松食い虫被害で枯れ、現存はこの1本のみとなった。
所在地は、伊予鉄道高浜線梅津寺駅東にあり、伊藤博文の栽松記念碑はこれより80m程東にある。

伊藤博文の栽松記念碑の説明板の上にある丘には「秋山好古・秋山眞之」兄弟の銅像がある。

伊藤博文の栽松記念碑、説明板、松の木、丘にある「秋山好古・秋山眞之」兄弟の銅像がある直ぐ側を画像のような電車が走っている。

梅津寺駅まえにある梅津寺公園には、明治28年松山中学英語教師として赴任した夏目漱石が実際に乗車した坊ちゃん列車が保存展示されている。

昭和42年10月14日、日本国有鉄道から「鉄道記念物」として指定された。

復活し市内電車の軌道営業運転している坊っちゃん列車。 

伊予鉄道が、平成13年にディーゼル方式を採用した坊っちゃん列車の復元を発表、運行開始した。列車は、往時の坊っちゃん列車をモデルにディーゼル動力方式を採用、汽笛は同社OBの協力を得、制服も当時のものを復元するなど、できるだけ本格的なものにしようとして外観復元した。

煙突からは水蒸気を使用したダミーの煙を出す発煙装置を採用する等の工夫がなされている。

第1編成車両:ディーゼル機関車D1形 1 + 客車ハ1形 1・2

第2編成車両:ディーゼル機関車D2形 14 + ハ31形 31

製 作 所 :新潟鐵工所 (新潟市)

明治42年3月14日、松山道後温泉に来訪した伊藤博文元勲が人力車で道後温泉街を行く。

伊予の守護、豪族河野氏の一族、伊藤博文の祖先である「林淡路守通起」の記念碑が淡路ヶ峠に建立されている。

場所は、松山市畑寺町で明治42年3月に松山に来た伊藤博文は、道後から淡路ヶ峠を仰ぎ見たとある資料に記述がある。

淡路ヶ峠の説明板。

淡路ヶ峠は標高275mで大きな立派な展望デッキがある。

淡路ヶ峠標高275mの展望デッキからの眺望で、松山平野が一望できる。

風景を撮影するには午前中が良い、午後は逆光となる。

福岡市博多湾にある「史跡 元寇防塁」石碑。

伊予守護、河野通有が鎌倉幕府の命により蒙古襲来弘安の役で博多湾に出征の際、大山祇神社に戦勝祈願をした時の大絵馬も宝物館に展示されている。
博多湾では、蒙古と勇敢に戦い「河野通有は、石築地の前に陣を張って決死の覚悟で戦ったことから、「河野の後築地」と称賛された。その伊予守護、河野氏の末裔が、初代内閣総理大臣、伊藤博文である。

写真は、私の友人福岡県春日市在住の「尾上 五男氏」に頼んで撮影し送ってもらった。

復元された元寇防塁。

蒙古襲来(元寇)日本を守るために備えて築かれた元寇防塁、蒙古の襲来を受けた鎌倉幕府は、建治2年(1276)に博多湾の海岸線に石築地(いしついじ)を築いて再度の来襲に備えることにした。これを元寇防塁(げんこうぼうるい)と呼ぶ。

防塁の一部は築造時の高さに復元され、見学できるようになっている。

元寇との戦いの最前線であった福岡・博多には,今でも数多くの蒙古襲来に関係する史跡が残っており画像の防塁もその一つである。

伊藤博文の祖に当たる伊予国守護、河野通有は防塁の前に陣を張り勇敢に戦った。歴史書にも出てくる河野の後築地として有名である。

写真は、福岡県春日市在住の「尾上 五男氏」撮影。

大山祇神社境内回廊には、大正14年5月6日、第23代内閣総理大臣・清浦奎吾が秋山好古、新田長次郎の案内で大山祇神社を参拝した記念の写真が開示してある。回廊に展示してあるので大分傷んでいる。

秋山兄弟生誕地所蔵の「第23代内閣総理大臣・清浦奎吾が秋山好古、新田長次郎の案内で大山祇神社を参拝した記念の写真」

秋山兄弟生誕地所蔵の「第23代内閣総理大臣・清浦奎吾が秋山好古、新田長次郎の案内で大山祇神社を参拝した記念の写真」4名をピックアップ。

左から「秋山好古・清浦奎吾・新田長次郎・愛媛県知事、佐竹義文」

広島県竹原市本町一丁目16番22号にある真言宗醍醐派長生寺。

長生寺の住職さんで、伊予国最後の守護河野通直の説明を通直の墓所前で伺った。

長生寺は度々災害で本堂や伽藍は崩壊し再建して来たが、河野通直の墓所は災害の被害には遭遇せず当時のまま残っているとの由。

註:初代内閣総理大臣、伊藤博文の祖は河野氏で、満州ハルピンから帰ったら先祖の河野通直の300回忌を松山市で行うと言われ満州に行かれたが、明治42年10月26日、ハルピンの駅で暗殺された。

その後親族が相集まり400回忌の法要をここ長生寺でされたそうだ。その時伊藤博文の法要も一緒にされたのではないでしょうか。

広島県竹原市本町一丁目16番22号、長生寺にある、最後の伊予守護・河野通直の墓所。

広島県竹原市観光協会が設置している「伊予守護・河野通直の墓」説明板。

長生寺に祀られている能島村上元吉と河野通直の位牌。

画像右が河野通直の位牌で、左の村上元吉の位牌と形がそっくりで新しい。

河野通直400回忌の法要をここ長生寺でされたそうだ。その時通直の位牌がなく村上元吉の位牌を模して作ったと住職から伺った。

平成15年5月12日、長生寺を訪問した時住職と談話その時許可を頂き撮影した村上元吉と河野通直の位牌。

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秋山好古揮毫石碑・取材にご協力頂いた方々 その14 愛媛県今治市宮窪町の石碑 2基

2021年06月10日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

今回紹介する石碑は、今治市石材振興会会長さんから頂いた情報をもとに取材した石碑で、今治市宮窪町余所国の両社明神社と、今治市宮窪町宮窪の尾形八幡神社中村祝詞場(御旅所)の石碑です。

情報を頂いた今治市石材振興会会長さんに改めてお礼申し上げます。

平成17年7月、今治市石材振興会会長さんが秋山兄弟生誕地にお越しになり、秋山好古揮毫の石碑写真展をご覧になった。

秋山好古が揮毫した石碑が今治市宮窪町余所国の両社明神社と宮窪の尾形八幡神社中村祝詞場(御旅所)にあるから取材に行かれて下さいと助言を頂いた。
秋山兄弟生誕地では、奉仕活動として研究員18名が来館して頂いた方々に対してご案内をしている。研究員各位は、二ヶ月に一度館内研修と、年に一度館外研修を実施し何時も研鑽している。

これからの画像は

平成21年度の研修で、9月14日に実施したその回想である。

研修地は、今治市の村上水軍博物館、今治市宮窪町余所国の両社明神社、同市宮窪町宮窪の尾形八幡神社御旅所にある忠魂碑2基を研修の地とした。

            窪町余所国・両社明神社の石碑「忠魂碑」

1.碑   文 :忠魂碑

2.所 在 地:今治市宮窪町余所国甲248番地 両社明神社

3.揮 毫 者:陸軍大将 秋山好古

4.建 立 者:村上 幸造

5.建立年月日:大正15年 吉祥日 

6.碑石大きさ:高さ・2m97㎝ 横幅・2m14㎝ 厚み・24cm

今治市宮窪町余所国・両社明神社。

この地は、村上水軍の本拠地の地で、古来より河野・村上両家の崇敬が篤い神社である。

三島村上水軍は、能島村上水軍・因島村上水軍・来島村上水軍とあり、因島村上水軍は小早川氏に属し、来島村上水軍は伊予国の河野氏に属していた。

能島村上水軍は、単独で行動しており、能島に能島城を構え能島村上水軍として活動し一番勢力の強い水軍であり三島村上水軍の本家である。

秋山家も村上水軍の一族であるとあると伝えられている。

註:このことは、昭和11年に刊行された伝記・秋山好古に付記されている。

秋山兄弟生誕地研究員の館外研修会の地、今治市宮窪町余所国・両社明神社好古揮毫石碑「忠魂碑」の前で。

慶長5年(1600)9月15日、伊予の関ヶ原と言われる大きな戦いがあった。

元・村上水軍一同が伊予守護河野氏の領地奪回に興居島に上陸し、古三津を中心にした戦いであった。その中に秋山良久(秋山内膳正良久)が居た。

久米の如来院(松山市南久米)の戦いで秋山良久(秋山内膳正良久)が戦死するが、もしかすると秋山家と何らかの関係がある家系ではないか?

秋山家初代・秋山信久は、今治城主藤堂高吉に仕えていたがその後、伊予松山藩主松平定行の時にその家臣として召し抱えられ、代々徒目付の家格を持って相次いで来た。

第6代秋山平五郎久敬の5男、淳五郎眞之は、明治32年頃(当時は海軍大尉)胃腸を患い入院していた。

その時、小笠原長生(後の海軍中将子爵・佐賀県出身、海兵14期、眞之は海兵17期)に、眞之は退屈なので面白い本があれば貸してくれと頼んだ。「小笠原長生の家系は江戸幕府老中の家柄にあった。」「野島流海賊古法」と言う写本を貸した。

この書籍を読み眞之は入院中、古代水軍研究の機会を得た。

それが秋山流軍学の基礎となり、日露戦争日本海海戦の戦略に、伊予村上水軍の戦法を参考にして作戦を練り上げた。

丁字戦法もその一つである。

参考事項:秋山家は代々長男の名前には「久」が使われていた。秋山好古は三男であるが長男に、「則久」が命名されていた。次男が他家に養子に行ったため三男好古が家督を継ぎ、以後「久」の付く嗣子がなくなった。好古の長男には好の字を使い信好と命名した。

忠魂碑の裏面で、大正15年吉祥日、村上幸造と書かれている。

村上幸造氏も村上水軍の末裔である。

この年は、秋山好古が北豫中学校校長に就任して2年目であった。

誰に頼まれて揮毫したのかは不明である。

両社明神社の拝殿で、内部には大元帥(昭和天皇)の御影入りの駆逐艦「追風」が掲示して

あった。昭和9年この近くの海域で大演習が有った時の記念で献納された。

昭和9年大演習が有った時の記念の献納写真で拝殿に掲げてある。

次の研修地、村上水軍博物館に移動した。

慶長5年(1600)9月15日、関ヶ原の戦いがあったが、伊予でも戦いがあり伊予の関ヶ原の戦いと言われた。

村上水軍、村上武吉・元吉親子が、元伊予守護であった河野氏の領地奪回に攻めて来た。

その時の様子の古文書が発見され愛媛新聞が掲載した記事で、東京新聞にも掲載された。

愛媛新聞が掲載した内容。

松山城北之郭で、大正9年この地に第6尋常小学校が建設されることなり取壊された。場所は、平和通り、ホテル泰平あたり。

伊予松山藩20万石、初代藩主、加藤嘉明は関ヶ原の戦い(嘉明は当時、伊予松前城に居た。)当時は10万石で、この地から3000人の兵を率いて関ケ原の戦いに東軍の武将として参戦し武勲をあげた。
村上水軍、村上武吉・元吉親子軍は、2500人の兵を率いて嘉明の留守に侵攻してきた。村上軍勢に領地を奪われていたら関ヶ原の戦いで武勲を上げた加藤嘉明は帰る地がなかった。

加藤嘉明の重臣で松前城の留守居役、佃 十成は、村上水軍、河野氏の旧臣らの軍勢を夜襲をもって撃退して松前城と領地を護った。

佃 十成は、この戦功によって、松山城築城時に、城主加藤嘉明は城の北山麓に家老付重臣として取り立て立派な北郭(屋敷)を構え与え、久万山に6000石の所領を佃 十成に与えた。

加藤嘉明は、徳川家康から武勲を認められ20万石を拝領し、慶長7年(1602)勝山に松山城を築城した。徳川家康が征夷大将軍になる1年前である。慶長8年10月松前城から新居を松山城に移しその時嘉明は、この地を松山と呼ぶことにし、松山という地名が公式に誕生した。

慶長8年(1603)徳川家康は征夷大将軍となり、江戸幕府を開幕し、伊予国を加藤嘉明に20万石を、藤堂高虎にも20万石を与え伊予国は2藩で江戸開海幕を迎えた。
幕末、伊予国は8藩に分裂した。松山・今治・宇和島・大洲・吉田・新谷・小松・西条の各藩になり明治維新を迎えた。

幕末伊予国の各藩の石高は、「松山藩15万石・今治藩3万5千石・宇和島藩10万石・吉田藩3万石・大洲藩6万石・新谷藩1万石・小松藩1万石・西条藩2万5千石」であった。

広島県竹原市にある長生寺の境内の一角に「村上元吉」の供養塔がある。

長生寺は、天正15年豊臣秀吉の四国征伐で、伊予に攻めてきた小早川軍に敗れ、小早川隆景の指示で竹原にのがれていた伊予の最後の守護・河野通直が病没したのをいたみ、小早川隆景が建立し、寺領として二百石を寄進して開山した真言宗の寺である。

能島村上元吉の墓(市史跡)の説明板。

平成21年9月14日、秋山兄弟生誕地研究員の研修会を今治市立村上博物館にて実施その時の記念写真。

秋山兄弟生誕地研究員研修最後の地は、今治市宮窪町宮窪にある尾形八幡神社御旅所の忠魂碑である。

平成13年3月24日、15時28分に発生した芸予地震 震度6弱、今治市宮窪町は震度5弱であった。その時の影響で忠魂碑が傾いた。

画像は、芸予地震発生前の忠魂碑。

 

今治市宮窪町宮窪、尾形八幡神社・中村祝詞場の石碑・忠魂碑

1.碑   文 : 忠魂碑

2.所 在 地: 今治市宮窪町宮窪甲4、654番地 中村祝詞場 (御旅所) 

3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古

4.建 立 者: 記載無し

5.建立年月日: 昭和 3年 11月 

6.碑石大きさ: 高さ・3m00㎝  幅・ 1m5㎝  

尾形八幡神社は、鎌倉時代の弘安の役で殊勲のあった、河野通有の崇敬厚く、後に能島城主村上家の歴代崇敬社となり、そして今治城主の祈願社となった神社である。

 

今治市宮窪町宮窪の石碑・忠魂碑のある現地に行ってみるとなんと石碑は横になり工事中であった。

芸予地震、その時の影響で忠魂碑が傾き修復のため石碑の基礎からの工事をしていた。

修復工事をする石材会社は、秋山兄弟生誕地にある秋山両将遺邸の碑(芸予地震で倒壊)の修復を行った会社で、秋山兄弟生誕地の故・宇都宮良二運営委員長とは面識があった。
工事責任者は工事を一時中断してその経緯を説明して頂き思わぬ良い研修が出来た。

工事を一時中断して経緯の説明を聞く研究員。

技師の説明を聞く研究員。

基礎の台座石を削り。

忠魂碑の下部も水平に研磨して鉄筋を差し込む穴を開けた。

芸予地震で石碑が傾き平成21年9月、石碑の台座を修復し再建立した忠魂碑。

撮影は、平成21年11月23日。

忠魂碑の揮毫を依頼した人物は不明である。

建立は、昭和3年だから昭和天皇御大典を記念し日清日露戦役で戦死された方々の天皇への忠義を称える意味の忠魂碑が全国各地に建立された。その一つで秋山好古が北豫中学校長を辞任する2年前の揮毫である。

天皇は大東亜戦争終戦までは大元帥であった。

 

予定していた研修は全て終わり最後に、今治市吉海町南浦、亀老山の頂上標高307.8mの展望公園に行き、眺望を楽しんだ。
この地は、瀬戸内海国立公園に指定されている場所で、西瀬戸自動車道愛称しまなみ海道)があり、瀬戸内海国立公園の中で最も美しいと言われている場所である。その地に世界初三連吊橋「来島海峡大橋」や日本三大急潮のひとつ「来島海峡」の潮流を見ることが出来る。

亀老山中腹には村上水軍の元祖である、村上義弘の墓所もある。

註:令和3年5月27日、午後11時頃愛媛県今治市沖の来島海峡西口で外国船「パイオニア号と日本の貨物船「白虎」が衝突、白虎が沈没した場所が画像の後方である。

来島海峡大橋。

瀬戸内海国立公園の中で最も美しいと言われている場所に、世界初三連吊橋「来島海峡大橋」が建設された。(西瀬戸自動車道・愛称しまなみ海道・今治市~尾道市59,4km)平成18年4月29日開通。

村上水軍の元祖である、村上義弘の墓所。

村上水軍の元祖である、村上義弘の墓所説明石碑。

秋山兄弟生誕地の裏庭には「「秋山両将遺邸之碑」がある。

石碑は、秋山兄弟生誕地整備事業の前は、表に(正面入口側にあった)。

平成13年3月24日、15時28分に発生した芸予地震震度6弱、松山市は震度5強であった。

「秋山両将遺邸之碑」は、震度5強の揺れに耐えきれず倒壊し崩れた。

当時は秋山兄弟生誕地整備事業中であり、急遽理事会を開き「秋山両将遺邸之碑」を新しい石材で復元することを審議その結果復元することに決定した。

石材センターに復元依頼すると、倒壊して複数に割れているが、少し目障りになるが修復することが可能であると回答があった。

松山市の石材センターは最新の技術と最新の接着剤を用いて修復した。

石碑に沢山のひび割れと、似つかぬ物質が付着しているのは石碑修復の跡である。

平成17年1月19日、秋山兄弟生誕地の開館に間に合った。

最新の技術と最新の接着剤を用いて修復完了した「秋山両将遺邸之碑」。

画像は、開館3日前撮影の石碑である。(開館は、平成17年1月19日)

題額の「秋山両将遺邸之碑」揮毫は、陸軍大将・南次郎で、碑文は井上要の撰文である。

南 次郎は、大分県国東郡高田の出身で家系は藩士、そして秋山好古の後輩で騎兵の最強部隊、騎兵13連隊の隊員あった。

騎兵13連隊は、平時は近衛師団に属し、有事となると騎兵14連隊とともに騎兵第一旅団に編成され活動した。

南 次郎は、大正3年1月20日、騎兵第13連隊長に就任、歴代の連隊長で一番厳しい隊長であったと言われ、特に礼節に厳しかったとある。
大東亜戦争では、満州事変の総責任者として極東裁判で終身刑に処され、巣鴨の東京拘置所に収監されるも大病になり、マッカーサー元帥極東軍総司令長官の特別な計らいで、拘置所外で治療を受け回復、81歳の長寿を全うした。

平成25年10月、鎌倉から南 次郎の子孫の方が秋山兄弟生誕地に来られこの石碑を案内した。
すると、尊敬していた秋山好古さんの生家に南 次郎が書いた石碑がある事は知らずに来ました。来てよかったと喜んでおられた。

千葉県習志野市、東邦大学構内にある南次郎が揮毫した六角柱の立派な碑があり、「武勇・信義・質素・忠節・禮儀」の文字が揮毫されている石碑があることを南さんご子息はご存じなかったのでご案内しておいた。

南 次郎の子孫の方に紹介した石碑。

東邦大学習志野キャンパス学内にある南 次郎が揮毫した石碑六角柱で「武勇・信義・質素・忠節・禮儀」の文字が揮毫されている立派な石碑が建立されている。

東邦大学習志野キャンパス学内にある南 次郎が揮毫した石碑六角柱。

大学の構内にあるので許可を得ないと見学できない。

平成24年10月31日秋山兄弟生誕地県外研修で南 次郎の揮毫石碑を検証する研究員、案内は、習志野騎兵連隊史跡保存会の皆さんにして頂いた。

 

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