EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

ヒストリア・北方文化博物館「ライトさんと二人の文吉館長」の書籍が刊行された

2019年08月31日 | 伊予松山歴史散策

北方文化博物館は、昭和21年越後の豪農第七代当主伊藤文吉とGHQ新潟進駐軍民間情報教育部長ライト中尉、この二人の出会いで生まれた。 

私が尊敬する、新潟県新潟市江南区沢海にある、北方文化博物館・神田勝郎館長が、北方文化博物館創立70周年記念誌として刊行された「北方文化博物館と澤海の風景」に次いで発行された「ヒストリア・北方文化博物館(ライトさんと二人の文吉館長)」の歴史書で、令和元年5月1日付で刊行され早速私に贈って頂いた。 

北方文化博物館は、江戸時代中期から初代が身を起こし、代を重ね富を築き越後随一の豪農の伊藤家である。
明治に入り全盛期には1市4郡64ヶ町村に1370町歩あり昭和に入り新潟県下一の3万俵の収穫があった。
大東亜戦争終了後、GHQ(連合国最高司令官総司令部・最高司令長官マッカーサー元帥)により農地は解放され伊藤家の家屋は、GHQ新潟司令本部として接収される予定であった。
GHQ司令本部から配属された民間情報教育部長に命じられたライト中尉が伊藤家の調査に訪れた。
(この調査にはもう一つの意味があった。それは、旧日本陸軍の隠匿物資があると言う情報でその調査も兼ねていた。)

 ライト中尉は、通訳を介して調査の説明をしたとき、素晴らしい綺麗な発音の英語で返答があった。・・中略・・ライト中尉の事は後で説明します。
ライト中尉は、伊藤文吉七代当主が母校ペンシルバニア大学の先輩とわかり交流を深めることになる。
ライト中尉は、伊藤家を価値ある文化遺産と位置付け、以降、北方文化博物館開設に絶大な支援を与えることとなる。北方文化博物館は、戦後、アメリカと日本の友情による絆が芽吹いた場所となるのである。

 柳宗悦、バーナード・リーチ、浜田庄司、司馬遼太郎も訪れ建物は勿論、所蔵している美術品の素晴らしさに絶賛し司馬遼太郎は、博物館でなく、美術館と評している。
この書籍は、194Pの構成で残念ながら非売品である。

書籍は、新潟県立図書館・新潟市立図書館に納本してあると思いますので、他の図書館との資料貸出制度(相互貸借)を利用して是非一読されて下さい。
書籍最後の章に、北方文化博物館・佐藤隆男副館長が執筆されている「八代文吉館長とともに三十五年」の記事が心に残る文章である。

では、「ヒストリア・北方文化博物館(ライトさんと二人の文吉館長)」の概要を紹介いします。

 

表紙を開けると、標題紙「ヒストリア・北方文化博物館(ライトさんと二人の文吉館長)」が出て来る。
そして平成15年7月24日、今生天皇・皇后両陛下が皇太子殿下、同妃殿下時代に北方文化博物館を訪れた時に八代文吉館長がご案内された写真が出て来る。

昭和24年5月、今から70年前の越後最大の豪農、伊藤邸の大玄関と主屋で、GHQ新潟司令部が調査した時の資料写真。アメリカ国立公文書館所蔵。・・が出て来る。

北方文化博物館の多行松と大玄関。
下の写真は、財団法人に移行した現在の旧伊藤邸主屋。

日米友情の記念碑と旧伊藤主屋の玄関。

下の写真は、八代館長伊藤文吉の念願叶った「日米友好の記念碑」。

北方文化博物館、集古館で2000俵を収納した米蔵。

終戦前まで作業場であったが、北方文化博物館となってからは、売店地酒館となっている。

下の写真は、六代伊藤文吉の設計により建築された「三楽亭」。

36年振りに再会したライトさんと八代文吉北方文化博物館長。

下の写真は、左が伊藤家七代伊藤文吉、北方文化博物館初代館長。

右が、GHQ新潟進駐軍民間情報教育部長ライト中尉。

次に、新潟市長、中原八一の「刊行を祝す」が掲載されている。

書籍「ヒストリア・北方文化博物館(ライトさんと二人の文吉館長)」の目次。

柳宗悦

GHQより史蹟文化振興会の、振興が軍国主義を振興する恐れありとして名称変更を求められ、親交のあった、柳宗悦・イギリス人の陶芸家のバーナード・リーチ・の助言を受けて、スウェーデン・ストックホルムにある、北方博物館に文化を付け加えて「北方文化博物館」と名称を変更した。(ストックホルムにある、北方博物館の了解を得て名称利用)

北方文化博物館を世界にその知名度を広めた柳宗悦で、七代伊藤文吉と親交があったので助言をした。

イギリスの陶芸家「バーナード・リーチ」

柳宗悦がイギリスの陶芸家「バーナード・リーチ」をつれて、昭和28年10月12日、北方文化博物館を訪れその時、「私がこれまで見た中で最も魅力ある家宅であると絶賛した。」

上の画像は、昭和63年10月22日、36振りに北方文化博物館を訪れ日米友情の記念碑建立式典に臨んだライトさん。

ライトさんについて

昭和20年8月28日、連合軍は日本本土に進駐を始めた。(昭和20年8月30日、マッカーサー総司令長官が専用機「バターン号」で沖縄から厚木に到着した。)ラルフ・ライト中尉は、当初GHQ本部から青森県担当としての内示があったが、此れを辞退、次は、埼玉県担当、此れも辞退、そして新潟県担当はとの打診があり何故か新潟を了承したそうだ。
新潟に赴任したライト中尉は、米陸軍第8軍第27師団新潟軍政部、民間情報教育部長としての任務で、新潟県下の文化や教育改革が主な任務であった。

 昭和20年10月、ライト中尉は伊藤家を調査に訪れた。(伊藤家の調査にはもう一つの意味があった。それは、旧陸軍の隠匿物資があると言う情報でその調査も兼ねていた。)ライト中尉は、通訳を介して調査の説明をしたとき、素晴らしい綺麗な発音の英語で文吉から返答があった。ライト中尉は、ミスター伊藤その英語は何処でマスターされましたかと問うと、文吉は、私は、アメリカ合衆国のペンシルべニア大学に留学しその卒業性で、そこで英語を身に付けたことを説明した。(ドナルド・ジョン・トランプ、現米国大統領もペンシルべニア大学卒である。ペンシルバニア大学は米国第4位にランクされる名門大学。)

 するとライト中尉もペンシルバニア大学卒業生で、伊藤文吉は、ライト中尉の先輩にあたる事になり、それからライト中尉と伊藤文吉の友情が育まれ交友が始まった。第八代となる伊藤文吉は17歳中学生の時であった。
ペンシルべニア大学の校風は、先輩後輩を互いに尊敬しあうことを大切にする大学であったのでライト中尉は、先輩文吉を敬い建物を文化財としての価値あるもの、そして所蔵している美術品等々を、新潟引いては日本の文化財として残す努力を考え、新潟県知事から、マッカーサー総司令長官に伊藤家を博物館として存続させる請願書を提出した。その事務手続き全てライト中尉が行ったのである。 

マッカーサー総司令官は、伊藤家の博物館開設を許可した。
マッカーサーは、公立にすると運営にはいろいろと支障を来す事があるから、私立として開館し自由に運用出来る方が良いとアドバイスがあった。
昭和20年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した。荒んだ中で、昭和21年、史蹟文化振興会として博物館が開設された。今年が71周年である。

昭和24年8月10日、GHQより史蹟文化振興会の、振興が軍国主義を振興する恐れありとして名称変更を求められ、親交のあった、柳宗悦・イギリス人の陶芸家のバーナード・リーチ・人間国宝の陶芸家、浜田庄司、の助言を受けて、スウェーデン・ストックホルムにある、北方民族博物館の許可を得て北方文化博物館と改名した。
昭和24年ライト中尉が日本を去る時、第七代伊藤文吉、初代北方文化博物館長は、ライト中尉を館に招き送別会の宴を行い、中庭に記念の碑を建設する用意をしたが、ライト中尉は、私一人の力でなく多くの人々の支援があり、北方文化博物館は開設出来たのでその様な特別な行為はしない様にと言われ帰国した。

昭和33年、第七代伊藤文吉先代が亡くなり、第八代伊藤文吉・北方文化博物館長は、美術品所蔵倉庫からライト中尉の記念碑を建立する銅板が見つかり、それからライト中尉探しが始まった。しかしライト中尉の消息を行うも困難を来した。ある時、マンスフイールド駐日大使が来館した時ライト中尉探しを依頼。
アメリカは個人情報保護が厳しくそう簡単に探し出す事は難しく、太平洋に落とした一粒の真珠を探し出すくらい困難な事であった。

しかしその後ミネソタ州ロチェスターの高校の校長さんをされている事が判明、第八代伊藤文吉館長はミネソタ州に飛び36年振りに再会をした。
美術品所蔵倉庫からライト中尉の記念碑を建立する予定であった銅板を基に記念碑の設立委員会を発足、ライトさんと第七代伊藤文吉館長さんのリレーフ制作、リレーフは東京芸術大学名誉教授、千野茂先生の作だそうです。

除幕式は、昭和63年10月22日に行われ、主賓にライトさんご夫妻とお嬢さん、ライトさんを探しだしたパリッシュ夫妻が米国から来館して盛大に挙行された。翌日の新潟日報に大見出しで報道されたとある。
ライト中尉が担当する都道府県が、新潟県以外に赴任していたならば、北方文化博物館は開設されてなく、伊藤家は解体されていたのではないか?人との出会いは不思議なご縁がある。

ライト中尉の本来の務めは教育改革であったそうだが何故か伊藤家を博物館とし位置づけ解体を免れたのは、軍服を着た教育者ライト中尉であたからなしえた事であったと私は思う。
戦後全国初の、マッカーサー総司令長官お墨付けの私立博物館第1号「北方文化博物館」の誕生であった。

財団法人北方文化博物館が戦後民間第一号の博物館として認可されたのは昭和21年2月12日の事であった。
戦後荒廃した中で、当時博物館として国の許可を得るには、米国駐留軍新潟軍政部民間情報教育部長・ラルフ・ライト中尉と先代館長、七代伊藤文吉の劇的な出会いがあった。

博物館が地域文化の紹介の拠点として、その名を全国に知られるようになった。
昭和63年10月22日、北方文化博物館にラルフ・ライト中尉と先代館長、七代伊藤文吉記念碑を建立し、両氏の功績と日米友情の証を後世に伝える事にした。

記念碑には、東山魁夷が「古い家のない町は 思い出の無い人間と 同じである」と揮毫されている。

日米友情の記念碑「ラルフ・ライトと先代館長、七代伊藤文吉の碑文。

記念碑の左側に、囲いで揮毫されている言葉が、東山魁夷が「古い家のない町は 思い出の無い人間と 同じである」と揮毫されている。

七代伊藤文吉館長の略歴。

ラルフ・E・ライト(Ralph・Edwin・Wright-Peterson)さんの略歴。

北方文化博物館と名称変更した理由。

昭和21年2月12日、財団法人史跡文化振興会として許可を得て開館したが、振興の意味がGHQに軍国主義を振興するとの意味に解され名称変更を余儀なくされた。

変更には、柳宗悦、浜田庄司、バーナード・リーチの方々からの助言を得て、スウェーデンのストックホルムにある世界最古のスカンセン野外博物館の一郭にノルデスカ・ムジ―(北方博物館)がある。この施設の了解を得て、北方博物館に文化を付けて「北方文化博物館」と名称変更をした。新潟市の北方文化博物館とノルデスカ・ムジ―(北方博物館)とは親子関係にある。

佐藤隆男北方文化博物館副館長が「八代文吉館長とともに三十五年」と題して記述がある。

最後の記述に「根底には人間が好きという、人間伊藤文吉は、徳を以て人を感化し人を育てて来た。この上のない魅力ある人物である。私は多くの薫陶を受けて育ってきた一人であるが、個性豊かで鋭い感覚を持ち、世界的視野にたち、ウイットに富む話術と聡明なる人物に終焉を迎えるまでお仕えさせていただいたことに誇りに思う。二度とこのような人物にはあうことはないだろう。
八代文吉館長が生前、素封家伊藤家の時代は終わった。代々続く文吉襲名は、私の代で終わりにする。と遺言を残し「LAST文吉」となって、平成28年10月25日、89歳でこの世を去った。と、佐藤隆男北方文化博物館副館長は書かれている。

ライトさんと七代・八代伊藤文吉館長の思いを受け継ぎ活動を続ける北方文化博物館を支えるメンバー。

書籍「ヒストリア・北方文化博物館(ライトさんと二人の文吉館長)」裏表紙。

司馬遼太郎が書いた「風塵抄」の中に北方文化博物館の事を書いている。

司馬遼太郎の「風塵抄」で書かれている「日本文化を守っている第八代伊藤文吉北方文化博物館長」の事項で「明治の陸羯南は、今の時代でこのような思想的実行者として存在しているのかと思った。と記述している。

今まで掲載されたことのない、日本経済新聞に北方文化博物館の記事が掲載され、日経新聞の記者に言われたそうです。「前代未聞」ですと。

各社マスコミに話題を様々な形でいつも提供している北方文化博物館ですが、日経新聞だけは皆無でした。ということで、これは記念すべきすごいことだとスタッフ一同驚いているそうです。令和元年8月16日の日本経済新聞です。

「ライトさんと七代・八代伊藤文吉館長」の思いを受け継ぎ活動を続ける北方文化博物館・神田勝郎館長。日米友情の記念碑の前にて

神田勝郎館長さんとの出会いは、北方文化博物館に隣接する日枝神社境内にある、秋山好古が揮毫し建立された「忠魂碑」の所在情報を頂き取材に行った事が切っ掛けでご厚情を頂いています。

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四天王寺とハルカスに行って来ました

2019年08月20日 | 伊予松山歴史散策

令和元年6月4日~6日にかけて、四天王寺・法隆寺・東寺・の拝観を予定しておりましたが、法隆寺に時間を掛け過ぎて東寺に行く時間が無くなり次回に行く事にしました。

さて

四天王寺拝観は6月4日に伺った。その目的は、日本最古の官寺であることと(創建者が聖徳太子)そして日本3大俳人の一人である「松尾芭蕉」の墓参りであった。芭蕉の墓所は数ヶ所あるが、その一つが四天王寺にある。
四天王寺が創建されたのは、今から1400余年前の推古元年(593年)聖徳太子が鎮護国家と衆生救済のため仏教の守護である四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)を安置し建立された日本仏法最初の官寺である。

寺の敷地は、33,000坪(約11万㎡・甲子園球場の3倍の広さ)寺は創建以来度重なる戦火天災に遭遇し、その都度再建を重ねて来たが、常に寺域と伽藍配置は飛鳥時代当初の姿を伝え、境内全域が国指定の史跡になっている。慶長19年(1614)11月~12月の大坂冬の陣と、慶長20年(1615)夏の陣の戦いで焼失したが文化9年(1812)に再建された伽藍は、昭和20年3月14日、大阪大空襲で伽藍の大半が焼失した。
昭和38年10月飛鳥時代創建当初の様式で再現復興し現在に至っている。

注:四天王寺発行の「四天王寺のお話」から引用

四天王寺の正面玄関は南大門であるが、多くの参拝者はこの西大門(石鳥居門)から入るので私も此処から入った。

石鳥居は、創建当時は木造の鳥居であったが、永仁2年(1294)忍性上人が勅を奉じて石造に造り替えたのが現在の鳥居で高さ8,5m、鳥居には、高さ1、5m、横幅1、1mの扁額が掲げられている。

扁額には「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と書かれているそうです。

そして
四天王寺は寺院なのに何故の鳥居があるのでしょうか?
四天王寺の鳥居は、「日本三大鳥居」の1つとされ、残りの2つは、吉野の「銅の鳥居(かねのとりい)」と、宮島・厳島神社の「朱丹の大鳥居」で、四天王寺の鳥居は石造鳥居としては日本最古だそうです。

大きさ:縦(高さ)1.5m、横1.1m

素 材:青銅(銅製)

鋳造年:嘉暦元年(1326)

建立以降

扁額の文字は:釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心

石鳥居に掲げられている扁額は、扁額裏の銘によると、嘉暦元年(1326)の鋳造とされている。
中央の揮毫は、「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と書かれていて、内容は「釈迦如来が仏法を説く所であり、ここが極楽の入口である」という意味だそうです。
阿弥陀如来が納める極楽浄土は「西方浄土(さいほうじょうど)」とも呼ばれ、西にあるとされますので、四天王寺の西の入口を、極楽浄土の入口と見立てたというわけだそうです。

なお、鳥居は建立後7回修理をしているそうです。

 

鳥居には画像の掲示板が掲示してあった。

令和4年厳修 聖徳太子 千四百年御聖忌 総本山 四天王寺と揮毫されていた。

西門の石鳥居を潜ると引導石が置かれている。

引導石の説明版。

西門をくぐるとすぐ右側に石棚で囲まれた「引導石」と呼ばれる石台がある。
四天王寺発行の「四天王寺のお話」によれば葬送の時、しばらく棺を鳥居の前に置き、聖徳太子の引導鐘を三打うてば、聖徳太子自らこの引導石の上に影向(ようごう)され安養の浄土にお導き下さると伝えられています。・・とある。

手を清めて参拝をする。

四天王寺は、日本仏教の最古の官寺であるから多くの偉人僧侶がきております。

西門には、親鸞上人の立像が建立してあった。
日蓮上人
道元禅師
法然上人
伝教大師(最澄)
聖徳太子
弘法大師(空海・香川県善通寺市生まれ)
栄西禅師
親鸞上人
一遍上人(愛媛県松山市生まれ)
以上の僧侶が来ている。

西門を潜ると広々とした境内で色んな催し物が行われていた。

拝観料を支払い、中心伽藍を拝観した。

逆光で見た五重塔と金堂。

順光で見た五重塔と金堂と講堂。
聖徳太子が創建したが度重なる戦災・火災で焼失した伽藍、そのつど再建されてきたが、現在の塔は、昭和38年創建した8度目の再建で、造りは鉄筋コンクリート造り(屋根は本瓦葺)である。

金堂で、昭和36年3月再建。

金堂内には、四天王寺御本尊の巨大な仏像 救世観世音菩薩像(ぐぜかんぜおんぼさつ)が椅子に座られ、右足を左膝の上に上げている姿がある。
周囲の四方に四天王像南「増長天」、西「廣目天」、東「持國天」、北「多聞天」建物内部は周囲の三方の壁にお釈迦様の一生を描いてある。
北側に位置する講堂には2体の巨大な仏像が並んでおり、西側には阿弥陀如来坐像の金色の巨大な大仏東側には十一面観世音菩薩立像 中央にある案内書きには、「四天王寺は、聖徳太子が創建した日本最初の大寺です。
聖徳太子は日本仏教の父祖として各宗派及びその開祖にとって深い信仰の対象でし た。
八宗の祖すべてが聖徳太子に深い尊敬と思慕を寄せていたのです。
四天王寺から頂いた資料に記載されている。
八宗(はっしゅう)とは、ウエーブで調べてみると以下の様に記述してあった。

※八つの宗旨を表すのではなく、全ての大乗仏教の宗旨・宗派のこと。大乗八宗の祖龍樹菩薩と呼ぶ場合はこちらの意味。
※中国八宗と呼ぶ場合の八宗は、法相宗・禅宗・密宗・法華宗・天台宗・三論宗・律宗・華厳宗のことを言う。

※平安時代までに日本に伝わった仏教の八つの宗旨のこと。
俱舎・成実・律・法相・三論・華厳の「南都六宗」に天台・真言を加えたもの。疑然著の『八宗綱要』における八宗はこちらの意味。

※日本の代表的な仏教の八つの宗旨のこと。日本八宗ともいう。
天台宗真言宗浄土宗浄土真宗本願寺派真宗大谷派臨済宗曹洞宗日蓮宗をさす。一般にはこちらの意味で使用される。
上記の様に記述してあった。

昭和38年創建した8度目の再建で、造りは鉄筋コンクリート造。
五重塔は中に入場できるそうで、最上階から回り全部の景色を見渡せ、内部はらせん階段になっていてその階段周囲には無数の金色の小さな位牌があいうえお順にずらっと階段の周を取巻いている。・・と寺の説明資料にある。

※今回は下調べが不十分で五重塔に入場出来る事を知らずに行きましたので上がっていません。・・残念!!

元三大師堂で、伺った時は女性が、お百度参りをしていた。

乾門手前左手に「松尾芭蕉」の墓がある。

芭蕉の墓所は、畿内に数ヶ所あるが、その一つが四天王寺にある。

今回の四天王寺拝観の目的の一つが松尾芭蕉の墓参りです。
俳句の世界に多大な影響を与えた三大俳人の一人松尾芭蕉の墓が四天王寺霊園にある。
俳句は、世界で一番短い短詩系文学で、中でも松尾芭蕉・正岡子規は、ズバ抜けた才能があり後に俳聖として崇められ「日本三大俳人」と言われている。
その三大俳人の一人松尾芭蕉の句碑が、松山市内に7基もある。何故7基もあるのかその訳を調べている。

伊予松山15万石、第4代藩主の松平定直が松尾芭蕉の門下、宝井其角の門に入り、三嘯(さんしょう)と号し、元禄5年(1692)には芭蕉、基角ら6人で連句の座を自邸で催している。
三大俳人の一人、小林一茶も松山へ寛政7年(1795)と寛政8~9年にかけて二度も松山を訪れ、全国的に有名だった俳人で松山の造酒屋、栗田樗堂を訪ねている。小林一茶の句碑も松山には、4基ある。

 松山が俳句王国と呼ばれるのは句碑が300以上もあるという全国的にも珍しい地域であり、しかも正岡子規ゆかりの史蹟が多く、子規記念博物館があり、俳句ポストが92ヵ所置かれ俳句に興味のある人にとってはメッカとなっている。
なお、県外に14ヶ所(その内法隆寺周辺に3ヶ所設置)外国に5ヵ所設置されている。

※伊予松山15万石、第4代藩主の松平定直時代に起きた大きな事件が赤穂浪士の吉良邸討ち入りで、伊予松山藩は、大石主税・堀部安兵衛・大高源吾ほか7名を預かった。
松尾芭蕉の門下、宝井其角の逸話の一つとして、赤穂浪士前夜、四十七士の一人・大高源吾と会い、煤竹売りに身をやつした姿を憐れんで「年の瀬や 水の流れと 人の身は」と詠んだ。これに対して源吾は、「あした待たるる その宝船」と返して、討ち入り決行をほのめかしたとされる(忠臣蔵の外伝『松浦の太鼓』)。ドラマ忠臣蔵には必ず出て来るシーンである。

この様な出来事があり松山に松尾芭蕉の句碑が7基もあるのかも?・・です。

松尾芭蕉の墓の説明版。

松尾芭蕉は、正保元年(1644)~元禄7年(1694)11月28日逝去、享年50歳。
本名:忠右衛門宗房
出身地:三重県伊賀市
芭蕉が活躍したのは、江戸時代前期で芭蕉の有名な代表句は

古池や蛙飛びこむ水の音 

閑さや岩にしみ入る蝉の声 

五月雨をあつめて早し最上川 

※芭蕉の母親は、伊予宇和島藩の生まれである。

四天王寺を参拝した後「あべのハルカス、60階300m展望台」に行った。そこから見た四天王寺。

あべのハルカスは日本のいにしえのことば「晴るかす」から名づけられたそうです。
おぼつかなく思ひつめたること、すこしはるささむ

平安時代初期の歌物語「伊勢物語」の一節で、晴るかすは「晴らす、晴れ晴れとさせる」という日本のいにしえの意味で使われていて、これになぞって「ハルカス」と命名したそうです。

あべのハルカス資料より引用。

あべのハルカス、60階300m展望台から見た長居競技場。

「ハルカス300」は、日本一の高さ300mのビル「あべのハルカス」の展望台60階からみた大阪湾、気候条件が良ければ、六甲山系、明石海峡大橋から淡路島、関西国際空港なども一望出来るそうです。

「ハルカス300」から見た奈良方面で、下部がJR天王寺駅。

 

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2019・全英女子オープンゴルフ、渋野日向子選手 優勝おめでとう!!

2019年08月10日 | 伊予松山歴史散策

全英女子オープンを制し、日本人としては昭和52年の全米女子プロ選手権で勝った樋口久子さん以来となる42年ぶりのメジャー優勝を成し遂げた渋野日向子。
逆転優勝を決めた最終18番のバーディーは凄い出来事でした。

近々の日本女子選手の活躍は、昨年の冬季オリンピックで女子スピードスケート500m、小平奈緒選手の金メダル獲得と、今回の全英女子オープンで優勝した渋野日向子選手である。

渋野日向子選手を育てたご両親と、小中高校時代によき指導者に恵まれた事に尽きる。そして地元岡山の人達の支援であるが、何といっても渋野日向子選手の人柄の良さである。

私の次男は岡山県倉敷にいます関係で嬉しさを感じます。

優勝トロフィーを受け笑顔が素敵な渋野日向子選手。

帰国後直ちに記者会見、会場には大勢の記者とカメラが勢ぞろい。

緊張も無く自然体の応答、普通の選手では出来ない心境である。

大勢の記者とカメラが勢ぞろいの中で、記者会見が始まった。

全英オープン2日目終了後に外国人女性記者から「あなたはスマイル・シンデレラね」とよばれた。

その通りのスマイルで記者会見ははじまった。

記者からの質問を受ける態度は、臆する事なく、緊張感もなく自然体で、素直な受け答えする言葉の内容が素晴らしく清々しく感じ取れた。

そして質問する記者に対してキチンと身体全体を記者に向けての受け答え、笑顔を交えながら、初めての大勢の中での記者会見とは思えない見事であった。

これぞプロ、若いのにしっかりしていた。

両親の家庭の躾(家庭教育の成果かも)技術の指導と並行してプロ選手としての身だしなみもしっかりと身に付けて成長している様に見受けられた。

社団法人日本記者クラブでの会見は、プロスポーツ選手では最年少で、ゴルフ界では初めての名誉ある会見だそうです。

日本記者クラブでの会見で、初めに司会者から、日本記者クラブの事は知っていますかの問いに「ハイ・知っております。」と答えた。

それから質疑応答が始まったが、質問に対して応答は素早く返答を整理しててきぱきと分からない事は「分からないと」素直に回答していたその有様が観ていて、初めての大勢の記者の前で堂々とした言葉が素晴らしかった。

書道の腕前は、準二段だそうです。

字が上手な人は頭脳明晰である。

お菓子を口にくわえて、振りながら食べる姿が中継で映し出されましたがカメラに気付くと、お菓子をくわえたまま、カメラ目線でニッコリ笑うシーンも凄い。

全英女子オープンという大舞台で、こんなに自由に振る舞う選手がかつて存在したでしょうか? 中継で解説を務めた樋口久子さんは「私たちの頃では考えられないですね」と、その強心臓ぶりに感嘆していた。
どんな味がするお菓子かと思い買いに行きましたが何処のスーパーマーケットも売り切れでした。

試合中次のホールに移動する時、ギャラリーから握手を求められると気軽に握手をし、ハイタッチをし、せがまれると気軽にサインをし、調子に乗っている時に使用している手袋を差し上げる・・手になじんでいるのに、新しい手袋は手になじんでなく大変なのに考えられないことをいとも簡単にやってのける。・・あるベテランの女子プロは、考えられない事だ、これまでの日本選手にはいなかったタイプの選手だ。・・と言った。

そして

優勝を決めたロングパット、プレーの早さこれと決めたら打つ度胸の良さ。

逆転優勝を決めた最終18番のバーディーは凄い出来事でした。

優勝した時のポーズも変なガッツポーズでなく爽やかなポーズで、涙の無い優勝であった。
ともすれば日本人は男女ともに直ぐ涙を出すが、渋野日向子選手は泣かなかった芯の強い女性である様に伺えた。

最新の女子世界ランキング。

渋野日向子選手一気に14位にランクされた。

今でもゴルフよりも大好きなソフトボール、小学校時代の渋野日向子選手、左打ちだそうで、これも理由があってのこと。

小学校時代の渋野日向子選手はエースで、憧れの人は、上野由岐子選手だそうです。

記者会見での質問で、以前はソフトボールが大好きと言われましたが、今は如何ですかの質問に、ちゅうちょなしに「ソフトボールですと答えた。

今日から「2019」北海道meijiカップ頑張って下さい。

渋野日向子選手全英オープンで優勝した結果、日本女子ゴルフ界では社会現象が起こっているそうだ。

女子プロゴルファーの中には濃い化粧で、芸能人がゴルフをしているような選手がいるが、渋野日向子選手は薄化粧で好感がもてる。

「2019」北海道 meijiカップ第一日を、ツーアンダー(-2)で終了し、ギャラリーからサインを求められ、それに気持ちよく答える渋野日向子選手、それを取材する沢山のカメラマン。

普通の選手はギャラリーとの距離感があるが、渋野日向子選手にはそれが無く、反対に親近感がある。

母親は娘、日向子は美人系でないので笑顔をたやさないようにと躾けたそうだ。いやいやお母さんは謙遜して美人系でないと言われたが、いい顔をされていますよ。芯の強い、まさにプロとしての心構えが若いのに出来ている。
人との会話に醸し出される顔が素敵です。

インタビューの言葉が自然体で聴いていて非常に感じがよく 応援したくなる選手である。

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法隆寺に行ってきました:その6(終) 千年の和釘その命・白鷹幸伯鍛冶師

2019年08月01日 | 伊予松山歴史散策

法隆寺に行って来ました:その6(最後)は千年の和釘を製作した平成の名工・白鷹幸伯鍛冶師としました。

ゆく秋の 大和の国の薬師寺の 塔の上なる 一ひらの雲 (国文学者:佐佐木信綱)

 現在の法隆寺は再建されたものだが、それでも1300年を超えて、びくともせず建っている。薬師寺で唯一残った東塔も1200年の風雪に耐えて建っている

薬師寺金堂・西塔等々の建造物の再建も千年先の未来を見据えた壮大な再建工事が昭和43年からはじまった。
その棟梁が宮大工・西岡常一、彼が棟梁でその下に日本各地から一流の職人が集められた。

瓦職人・左官・水煙職・その他の名工がこれらの中で、和釘造りを任されたのが伊予松山の鍛冶職人、白鷹幸伯である。

 

白鷹幸伯は、昭和10年8月6日、愛媛県温泉郡堀江村大字堀江(現、愛媛県松山市堀江町)の土佐鍛冶師の家系に生まれ、平成29年6月6日、くも膜下出血で逝去、享年81歳であった。

生前「僕は鍛冶の名人でもなければ達人でもありません。四国の田舎に住む、雑で未熟な野鍛冶です。何も大したことはしよらんかった」と口癖のように言っていた。
 白鷹さんの父親は、伊予松山地方の野鍛冶。地鉄に鋼をつけて鍛え、くわや、建築金物などの道具を製作していた。

白鷹幸伯さんは、高校卒業後、一度は家業を手伝うものの、26歳で上京、日本橋の老舗の刃物商「木屋」に勤めながら、弁護士を目指すため中央大学法学部に入学した。木屋在職中、法隆寺の修復や薬師寺再建に携わる西岡常一棟梁と偶然に出会い、その後の白鷹の人生を大きく方向転換させた。

「西岡さんと出会わなければ、松山に帰ってきても、目先の客相手に包丁くらいしか作らなかっただろう。でも、西岡さんと出会ったおかげで、鍛冶屋としての夢が持てるようになりました」と言った。
 家業を継いでいた土佐鍛冶の長兄の急逝もあり、白鷹は故郷愛媛県松山に帰郷し、鍛冶を再開した。

西岡棟梁から古代大工道具の復元や和釘の指導を受ける中、法隆寺の修復、薬師寺西塔再建のための和釘製作を求められる。しかも、桧と同様、千年はもつ釘を作る様西岡棟梁に求められた。
千年の和釘を作るには、現代の製鉄所から作られた鋼では、錆びやすく千年も持つ和釘ができない。

白鷹は、東北大学名誉教授・井垣謙三に教わり純度の高い鉄でできた釘はさびにくく腐らないことを突き止めた。しかし純度の高い鉄は高価で、量も少なく手に入りにくいため白鷹は途方にくれた。
そんな折、日本鋼管福山製鉄所(現JFE)が貴重な文化遺産を守る有意義な事業だとして、炭素の含有率が0.1%の古代鉄に近い高純度鉄(SLCM材・特殊鋼)を製造し、採算度外視して白鷹幸伯に用意してくれた。

 西岡常一棟梁との出会い、高純度鉄、そして白鷹の技術。こうして、千年の釘は再現された。まず、薬師寺西塔用の和釘が6,990本を一人で鍛造した。その後、薬師寺回廊や大講堂など、約2万本を鍛造した。「いろいろな鉄を集めて、叩いてみたり曲げてみたり試行錯誤したが、最後は純度の高い特殊鋼と鍛冶屋の特殊な技法が決め手となった。」
鋳造した和釘をもって薬師寺に行き実際に打ち込んでみて出来具合を試してみた。

法隆寺や薬師寺再建に使われた和釘には一つ一つ日本鋼管福山製鉄所(現JFE)の刻印が施された。
白鷹幸伯は西岡常一棟梁と共に歩み縁の下の力持ちとして素晴らしい一生を過ごし、千年の和釘を作り上げた鍛冶師であった。

小学校5年生国語教科書に「千年の釘にいどむ」が教材になっている。

参考文献:白鷹幸伯 「鉄、千年のいのち」

     四十雀会 「写真集・匠の日々」千年の釘 鍛冶 白鷹幸伯の軌跡」

     松山市教育委員会 「語り継ぎたいふるさと松山百は Ⅵ」広がる故郷の心

西岡常一棟梁の要請で最高の技法で千年の和釘を製作する白鷹幸伯鍛冶師。

白鷹幸伯鍛冶師が建築業界やマスコミから存在を知られるようになったのは、薬師寺金堂・西塔の再建、最後の宮大工と称えられた西岡常一棟梁から桧材と同様に千年保てる和釘の鋳造をもとめられ、以降20年の間に中門、回廊、大講堂に使われた27、000本を鋳造した。
それから伊予松山の白鷹幸伯の名声がはじまった。

平成の名工白鷹幸伯鍛冶師は、平成29年6月6日逝去されたが、釘の技伝承は長男、興光が見事に受け継いでいる。

平成29年12月26日、道後温泉に新しく出来た飛鳥乃湯に、道後温泉のシンボル巨大な「湯玉」の装飾壁画を支えているのは、白鷹幸伯の長男、白鷹興光が鋳造した700本の和釘が使われている。

白鷹幸伯は生前必ず、4月11日、白鷹幸伯の人生の師、故西岡常一棟梁の命日、白鷹は毎年西岡棟梁の遺徳を偲ぶ法要(木魂会忌)に参列した。

日本鋼管福山製鉄所(現JFE)が貴重な文化遺産を守る有意義な事業だとして、炭素の含有率が0.1%の古代鉄に近い高純度鉄(SLCM材・特殊鋼)を製造し、採算度外視して白鷹幸伯に用意してくれた特殊鋼で千年の和釘を製作した。和釘鋳造は、いい素材だけでは出来ない。特殊鋼を炉で熱する時の温度、叩きの強弱等々熟年の技が必要である。

平成の名工白鷹幸伯が鋳造した色んな形の千年の和釘。

樹齢千年の檜を使い再建する薬師寺西塔が千年の間建ち続ける間、釘もまた同じ年月、その木を支えねばならない釘を造った。

西岡常一棟梁から示された和釘。

西岡常一棟梁から送られた書簡の一部。

白鷹幸伯鍛冶師は和釘に「願奉 萬民豊楽 荘厳國土」と刻印した。

豊かな経済と福祉国土の建設や基盤の安定を願いを籠めて・・白鷹は和釘を造った。

日本鋼管福山製鉄所(現JFE)が貴重な文化遺産を守る有意義な事業だとして、炭素の含有率が0.1%の古代鉄に近い高純度鉄(SLCM材・特殊鋼)を製造し、採算度外視して白鷹幸伯に用意してくれた日本鋼管福山製鉄所へ感謝を込めて和釘に「NKK SLCM材」の刻印をした。

注:平成8年3月、松山市コミュニティーセンターで白鷹幸伯さんにお願いして講演会を開催しました。その時、白鷹さんは数本の鋳造された和釘を持参されました。講演終了後その和釘の一つを私に下さいました。

その時の和釘を今回掲載しようと探しましたが何処にしまい込んだのか見つかりません。日本鋼管福山製鉄所の刻印がされていましたのは覚えています。
よく探し見つかりましたら桐箱を作り床の間に飾り大切に保管します。

 

4月11日は、西岡常一棟梁の命日、白鷹幸伯の人生の師である。

白鷹幸伯は、生前必ず毎年西岡棟梁の遺徳を偲ぶ法要(木魂会忌)に忘れることなく参列し。
そして薬師寺を訪れ日本の優秀な職人たちが造り上げた建造物を眺めていた。

しかし白鷹幸伯が造った千年の和釘は外からは見る事は出来ない。これぞ誠の縁の下の力持ちの技である。

薬師寺金堂で、高田好胤管主が命がけで再建構想を練り上げ、西岡常一棟梁がその構想に答え、白鷹幸伯鍛冶師が千年の和釘を造り上げ高田好胤管主の念願を叶えた。日本の匠の技の結集である。

薬師寺大講堂で、中には薬師寺再建に関する資料も展示されているが、小学校5年生の国語の教科書に「千年の釘にいどむ」と題して教材として掲載されている。・・この教科書が展示されている。

小学校5年生の国語の教科書に、白鷹幸伯の「千年の釘にいどむ」と題して教材として掲載されている。・・この教科書が薬師寺大講堂に展示されている。

薬師寺の関係者の了解を得て撮影した。

小学校5年生の国語の教科書に、白鷹幸伯の「千年の釘にいどむ」と題して掲載されている。・・この教科書が展示されている。

薬師寺の関係者の了解を得て撮影した。

小学校5年生の国語の教科書の表題誌。

和釘造りの第一人者であった白鷹幸伯は、奈良・室生寺や山口・錦帯橋・松山城天守平成の大修復工事、大洲城復元・愛媛県武道館建設にも携わった。

愛媛県武道館は、愛媛県産の木を使ったオール木造の巨大な建築なので白鷹幸伯の千年の和釘が必要であった。

注:平成10年9月22日台風7号で、女人高野室生寺の五重塔が大きな被害を受けた。その修復工事に使われた和釘は白鷹幸伯鍛冶師が鋳造した。

法隆寺iセンター2階に展示されている白鷹幸伯の「千年の釘」と説明資料文。

法隆寺iセンター2階に展示されている白鷹幸伯の「千年の釘」。

松山城小天守に展示してある和釘と木組み展示。

白鷹幸伯鍛冶師作品の資料展示館紹介。

白鷹幸伯さんの作品、資料館が神戸市と西条市にあるが、出身地である松山市には残念ながら資料館も展示館もない。

もし千年の和釘が工芸品であれば、重要無形文化財の保持者に指定されたかも?
和釘だから使われると外から見ることが出来ない釘だからか。
しかし文部省は多大な鍛冶師として教科書に取り上げた。

人間国宝に指定されてもいいくらいに多くの賞を受賞している。主な賞は下記の通り。

伝統的技術者賞(平成9年)

吉川英治文化賞(平成13年)

愛媛県功労賞(平成16年)

日本建築学会文化賞(17年)

テレビ愛媛賞(平成17年)

地域文化振興賞・文部科学大臣賞(平成18年)

読売あをによし賞(平成21年)

 

コメント (6)
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