EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

日尾八幡神社 夏越祭

2013年07月30日 | 伊予松山歴史散策
愛媛の夏祭りは石鎚神社のお山開きから始まり、松山市の夏祭りは、全国でも珍しい鐘馗さんをご本尊としている「鐘馗寺」の夏祭りが毎年7月11、12日に開催され、この日を境に夏の衣替えが行われ市内各神社で夏祭り(輪越し)が開催される。
我が家の氏神様は、日尾八幡神社(松山市鷹子町)。
日尾八幡神社(松山市鷹子町)の夏越祭、松山では、(輪越・名越とも言う)が7月30日行われ今年も行ってきた。日尾八幡神社の夏越祭は、前もって各町内の宮総代が氏子の各家庭に、紙で作った形代(かたしろ)を家族の人数分を配り、形代に息を吹きかけ身体の悪い所を擦り名前を書いて一晩床に敷き、夏越祭に行きお祓いをする。
夏越祭は夏の恐ろしい伝染病や水の災難を防ぐことができると考えられ行われてきた年中行事の一つ。
神社での輪のくぐり方は、まず、向かって左側の茅輪を中心より1回まわって
次は、向かって右側の茅輪を中心より1回まわります。
そして、もう一回左側の茅輪を中心から1回まわったら神前にて二礼二拍手一礼します。紙にかかれた形代は、ここにある三方の上にお供えして終了。
12月を「年越し」と呼ぶのに対し、7月を「夏越し」と呼んだ。
「水無月の 夏越の祓い する人は
         千歳の命 延ぶというなり」・・とある。
日尾八幡神社は、神官三輪田清敏の長男として生まれた江戸末期から明治にかけての書家三輪田米山で有名である。
神社の祭礼は、春祭りと秋祭りを基本とし、夏祭りは後につくられた。
日本は、農業立国を国是としてきたので農耕の折り目ごとに祭りや年中行事を設け生活のリズムを作ってきたとある。
註:先日27日、来住廃寺跡史跡で開催された「常味裕司」さんの、野外コンサート時に頂いた資料に次のような記述があった。
伊予豆比古命(椿神社)と伊予比売命(日尾八幡神社)に残された教通の神事の謎。
日尾八幡神社の社伝によると、「伊予比売命」は「伊予豆比古命」と共に伊予国独自の地神で、久米郡の祖神として、今の小野谷小屋峠に奉祀されていた。伊予比売命と伊予豆比古命の神は、非常に仲のいい御夫婦であったと言われている。ところが神様にも天災と言うものがあり、往時、洪水のためにお社と共に二柱の神霊が再三に渡り流出し、女神の「伊予比売命」の御神霊は、当時の日瀬里村(現 北窪田町)まで流れて、竜神が渕で引き上げられ、やがて日尾八幡神社へ他の主神と共に合祀された。この時、男の神様「伊予豆比古命」の御霊は天山村の縦渕へ流れ着き、そこから居合村に遷られ、現在の「伊予豆比古命(椿神社)」となったと伝えられている。


日尾八幡神社の注連石と朱色の鳥居・・注連石に書かれている文字は、三輪田米山の揮毫である。


神にお告げをする太鼓を打ち午後4時楼門(神門)に造られた祭壇で平成25年夏越し祭りの神事を行う。


楼門に特設された祭殿に、三輪田宮司が祝詞を捧げる。


各町内の宮総代が夏越し行事の手伝いに来ている。総代達にお払いを行う。


日尾八幡神社の夏越、形代(かたしろ)で、夏越で日頃から知らず知らずに犯した罪穢れや、いっさいの災厄を祓い除くのが夏越蔡。形代に氏名・生年月日を記載し息を吹きかけ、身体を撫でて布団に敷いて就眠し、7月30日の神社へ持って行き御祓い清めて健康と繁栄を祈願する。


神事も終り、最初に宮司が輪を潜り続いて宮総代達が今夏季を無事過ごせるようにと輪を潜る、そして氏子達も輪を潜り夏の無事を祈願する。


氏子達も、宮司に一礼して輪を潜る。








夜店も出点・・大賑やかに、神社前は旧国道11号線、久米地区の松山東警察安全協会の会員が出て交通整理をして安全を確保。

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常味裕司・来住廃寺跡「一夜限りのアラビアン ナイト」

2013年07月29日 | 伊予松山歴史散策
我が家の近くに7世紀時代の古代寺院跡の国指定史蹟があり、27日(土)史蹟内特設野外会場で日本を代表するウード奏者、常味 裕司(つねみ ゆうじ)さんのトーク&ライブが開催された。
常味 裕司(つねみ ゆうじ)さんは、アラブ音楽の楽器、ウードの演奏家・奏者。東京都出身。明治大学卒で、日本のみならず、東アジア地域におけるウード演奏家のパイオニア、第一人者と称される。スーダンのウード演奏家のハムザ・エル=ディン平成18年、アラブ世界を代表するチュニジアのウード演奏家のアリ・スリティ(チュニス国立音楽院ウード科教授・の巨匠たちから学ぶ。国内では日本人ウード奏者の輩出にも寄与している。また、宇崎竜童と活動を共にするなど、各ジャンルへ影響を与え続けている。全国各地での演奏活動のほか、都内の各国大使館での演奏も数多い。NHKの新・シルクロードではアラブ音楽の監修を行なっている。またNHK大河ドラマ「竜馬伝」にも音楽参加、映画等にも出演されている凄い方である。

参考までに
下記の資料は、松山市文化財課が作成した資料のです。
久米官衙遺跡群(くめかんがいせきぐん)は、松山市の東部にある来住台地に立地する古代の官衙(かんが)関連遺跡と古代寺院跡で、現在は住宅地域の中にある。昭和54年に7世紀中葉以降創建の古代寺院として来住廃寺跡が国指定を受けた。その後の発掘調査の進展により、台地上には7世紀前葉から平安時代に至る官衙関連遺跡が広範囲に展開することが明らかになり、平成15年に久米官衙遺跡群(くめかんがいせきぐん)として追加指定及び名称変更がなされた。
官衙(かんが)関連遺跡は、官衙(かんが)政庁施設、正倉遺構、回廊状遺構が区画性をもって造営されていることが明らかとなっている。回廊状遺構は、来住廃寺より先立つ施設で、方一町(一辺約109m)規模の大きさで南辺中央に八脚門が取り付く。回廊状遺構の西部には7世紀中葉頃に造られた正倉遺構が8世紀前半に外濠を設けて拡張され、内部に総柱建物跡などがある。この正倉遺構の北東部に政庁関連施設があり、7世紀前葉に長舎囲い建物の施設が、7世紀中葉からは「久米評」に関連する政庁施設が、更に8世紀の建物群もあり、律令体制の成立前後から確立期にいたる地方官衙(かんが)の在り方を示す貴重な遺跡群である。


常味 裕司さんが演奏する「一夜限りのアラビアンナイト」の案内チラシ。


文化財課が作成している遺跡説明書。






その記念碑。


特設野外会場。コンサート会場は、来住廃寺金堂跡前に設営された。


常味 裕司さんのトーク。お話もお上手。・・演奏の前に常味さんの了解を得て写真を撮らせて頂いた。


由緒ある史蹟での演奏、最初は礼拝の曲を演奏されて演奏会が始まった。


ウード楽器を説明。




そして打楽器も説明され打楽器演奏もされた。


約2時間のウード演奏、聴衆者は始めて聞くウードで奏でる音楽に聞き入っていた。

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全国高校野球選手権愛媛大会 決勝戦

2013年07月28日 | 伊予松山歴史散策
第95回全国高校野球選手権愛媛大会は昨日(7月27日)決勝戦が松山市の坊ちゃん球場で行われ第一シードの済美高等学校対、第三シードの愛媛県立今治西高等学校が対戦5対2で済美高等学校が愛媛県代表となった。
5年振り4回目の甲子園出場を決めた。
愛媛県代表はここ数年1回戦敗退今年こそは1回戦突破してほしい。
今年は、春の選抜大会準優勝投手、安楽投手が健在、是非春の屈辱を晴らし優勝を目指しガンバって下さい。健闘を祈る。
注目の的は、2年生投手、安楽で準決勝戦、川之江戦で157kmの剛速球を投げ球場内がどよめいた。愛媛県野球史上最高の投手で、甲子園での戦いが楽しみである。
私の知る限りの愛媛県の豪腕投手は、松山商業の空谷投手(中日に入団)、南宇和高校の藤田投手(南海に入団)、西条高校の秋山投手(現 阪神在籍)が愛媛の豪腕投手であったが、その先輩達を遥かに上回る超豪腕投手である。

註:済美高等学校は、明治34年に創設された女子校で、野球部は平成14年の男女共学時に創部し、4年目で選抜出場して決勝戦で愛工大名電を倒し初出場初優勝の偉業を成し遂げた。夏も甲子園で決勝まで進んだが、駒大苫小牧にやぶれ準優勝の成績を甲子園に残した。

第95回全国高校野球選手権大会愛媛大会決勝戦は済美高等学校対今治西高等学校が対戦。今年は天候に恵まれ予定通りの決勝戦が行われた。


いよいよ試合開始、綺麗に整備された内野。


両校が試合前の挨拶。


優勝した済美高等学校のメンバー。


試合は5対2で済美高等学校優勝、両校選手が健闘を讃えあい試合終了した。


愛媛県大会全試合一人で投げぬいた安楽投手と、決勝戦の試合経過。


嬉しい優勝旗を受ける。これが甲子園への切符。


5対3で愛媛県代表を勝ち取った済美ナイン。


準決勝戦、川之江高校との対戦で球速157kmを記録した安楽投手。


準決勝戦、川之江高校との対戦で球速157kmを記録した安楽投手。それも外角低めにストライク。


準決勝戦、川之江高校との対戦で球速157kmを記録した安楽投手の記録が電光掲示板に標示。愛媛県の野球史上初めて快挙。


愛媛県は野球の盛んな所で、正岡子規が子供達に野球を教え、一時期は松山商業が愛媛を代表する学校であった。そのご夏の甲子園大会ではこの所初戦敗退・・今年は安楽君が汚名挽回してくれると信じている。


愛媛県大会ベスト8の残った高校。
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暑中お見舞い申し上げます

2013年07月27日 | 伊予松山歴史散策


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昭和20年7月26日、松山大空襲から68年 その2

2013年07月26日 | 伊予松山歴史散策
今日7月26日は、松山大空襲があった日である。
慶長5年(1600年)加藤嘉明は、関ヶ原の戦いで武勲を上げ徳川家康から伊予国20万石を拝領し慶長8年(1603年)10月この地を「松山」とすると称してから長い年月を掛けて築き挙げてきた松山の街は、343年後の・・・・・
昭和20年7月26日午後11時08分に始まり27日午前1時13分頃まで約2時間余り爆撃され一夜にして街は焼け野原と化した。
わが国は、外国との戦いは明治27年7月から同28年3月に掛けて朝鮮半島をめぐって行われた清国の戦い、日清戦争と、明治37年2月から同38年9月に掛けて行われた帝国ロシアとの間でロシア帝国南下政策により発生した戦い。
そして、日本最悪の戦争が始まった。昭和12年7月7日北支事変が起こり、昭和16年12月8日マレー半島侵攻、真珠湾攻撃で日本は米英に対して宣戦布告、これはアジア諸国における欧米の植民地支配の打倒を目指したと日本は理由づけた。日本は大東亜戦争と呼び、米英等連合国は、第二次世界大戦・太平洋戦線と呼んだ。GHQは大東亜戦争の用語を使用禁止した。そして昭和20年8月14日ポツダム宣言受諾して戦争は無条件降伏して終焉した。

建国以来最悪の状態となり国民は悲惨な日々を過ごしことになった。何故こんな国民不在の戦いを当時の政府は起したのか、その真相は明らかにされてなく、その歴史も国民には教えられていない。この事は日露戦争の時も真実は明かされなかった。日清戦争、日露戦争は戦うのは職業軍人同士の戦いであったが、第一次世界大戦から市民を巻き込む戦いとなり、大東亜戦争(第二次世界大戦・太平洋戦線)はまさに市民を巻き込んだ戦争となった。沖縄での県民の悲劇、広島、長崎の原爆悲劇、そしてソビエト軍が行ったシベリヤに抑留し厳寒環境下で満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられた事、こんな悲劇を生む戦争は今後絶対に起してはならぬ事である。昭和20年8月15日を戦没者を追悼し平和を祈念する日としているが、もっと早く戦争を止めるべきだった。日露戦争の時は、政治家が軍隊を支配して終戦をいい時期に講和する事が出来たが、先の戦いは軍人が政治家となり無謀な指導をした事が最大の過ちであった。そして無謀な戦争の指導者が靖国神社に祀られている可笑しな事である。

昭和26年9月8日、サンフランシスコ講話条約締結、昭和27年4月28日に発効され戦後日本の主権が回復し連合国からの支配から独立し、やっと戦争が終結した。それまでは日本は植民地であった。このようの事を引き起した当事者、A級戦犯達が靖国神社に合祀、これを参拝する政治家も変である。千鳥ケ淵戦没者墓苑に国民の代表たる首相は、4月28日戦争が終結した日に祖国の為に戦死した英霊にお参りして二度と過ちは起さない、そして現在の、未来の平和な国を創っていくことを誓うのが本来の姿ではないか!!靖国神社の参拝をするのであれば先の大戦のA級戦犯達を靖国神社から出すべきである。・・と私は思う。
これから画像を掲載するものは松山の市民団体が忘れてはならない先の戦いの悲劇を後世に伝えて行こうと10年前から地道な活動をしている一端である。


第11回、平和展開催チラシ。


松山市総合コミュニティセンター展示室で開催されている。7月28日まで展示される松山市主催の平和資料展と合わせて開催。


撮影はした日(7月24日)開催展示準備中であったが許可を得て撮らせてもらった。


松山市の立花橋から見た焼失された松山の街、奥に愛媛県本庁舎と、松山市役所庁舎、日本銀行松山支店、県立図書館が残り、図書館はGHQの指令本部として昭和27年4月まで接収される。奥に見える山裾は、松山城。














出征していく兵士の無事を祈った千人針と寄せ書き。


昭和19年発行当時の地図。


大海令第一号。


帝人松山工場入口に建立されている、松山海軍航空隊跡の石碑。
以前は木製だったが平成13年に石碑に作り変えられた。


松山海軍航空隊跡の石碑碑文。


記念碑を建立した世話人。


松山海軍航空隊跡の石碑の北側にも画像の石碑がある。


その碑文。


現在も松山空港近くにある防空壕で弾薬庫としても使われた。・・昨日7月25日撮影。


現在も松山空港近くにある戦闘機格納庫「掩体」(えんたい)」で3体現存している。
零式戦闘機、紫電改も格納されていた。
物の経緯、事情の分からない人々はなんだろうと不思議に思い、そして見逃してしまうのではないか!!
此れは、太平洋戦争の遺物の一つとして保存し後世に悲惨な出来事を語り伝えて行かねばならない。


戦闘機格納庫「掩体」(えんたい)」の後方。



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