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松山市城北地区歴史散策 4
画像は、来迎寺墓地にあるロシア兵の墓地である。
青地林宗墓所のすぐ東に位置している。
明治37、38年日露戦争の捕虜の大部分が松山市に収容され、当時の城北練兵場(現在は愛媛大学その他学校施設が出来た)に大簡易式の病院が建てられて診療にあたった。
捕虜兵は近くの寺院が収容場所となった。市内上流婦人が看護を引き受け、時にはピクニック、道後温泉入浴等々厚く持て成したので捕虜になった兵たちは松山の収容所希望が多かったとある。
ある時神戸市のロシア領事館に松山収容所の食事が悪いと苦情があり、領事官が松山に来て調査したが何の不具合も無く、松山の食事は充分すぎる位いい、贅沢言うべからずと言って神戸に帰ったとある。
また兵と看護をする若き女性と恋の芽生えもあったとか言われている。
このような持て成しの心が世界に知られるところとなり、最近ではロシアからゆかりの人が訪れ日露友好の架け橋となっている。
墓地は、篤志家の地元夫人、地元中学生達が清掃活動を行っており墓地には草等々は生えて無く365日献花が絶えない。
墓石は全部、兵士の故郷ロシアを向いて建立している。
画像は、来迎寺墓地にあるロシア兵の墓地である。
青地林宗墓所のすぐ東に位置している。
明治37、38年日露戦争の捕虜の大部分が松山市に収容され、当時の城北練兵場(現在は愛媛大学その他学校施設が出来た)に大簡易式の病院が建てられて診療にあたった。
捕虜兵は近くの寺院が収容場所となった。市内上流婦人が看護を引き受け、時にはピクニック、道後温泉入浴等々厚く持て成したので捕虜になった兵たちは松山の収容所希望が多かったとある。
ある時神戸市のロシア領事館に松山収容所の食事が悪いと苦情があり、領事官が松山に来て調査したが何の不具合も無く、松山の食事は充分すぎる位いい、贅沢言うべからずと言って神戸に帰ったとある。
また兵と看護をする若き女性と恋の芽生えもあったとか言われている。
このような持て成しの心が世界に知られるところとなり、最近ではロシアからゆかりの人が訪れ日露友好の架け橋となっている。
墓地は、篤志家の地元夫人、地元中学生達が清掃活動を行っており墓地には草等々は生えて無く365日献花が絶えない。
墓石は全部、兵士の故郷ロシアを向いて建立している。
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