EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

電動自転車サイクリング 9(最終)

2010年06月01日 | 往年の名車 メグロ
電動自転車サイクリング 9(最終)

今回の電動アシスト自転車の歴史散策の最後は、未だに残る大東亜戦争の傷跡松山市南吉田町にある「零式戦闘機」「紫電」「紫電改」の格納庫(掩体:戦闘機を敵弾から守る格納庫)で3個残っている。

ここに紹介する、戦闘機の格納庫は、零式戦闘機、紫電、紫電改を敵機襲撃から保護するためのものです。
海軍松山航空隊は、ハワイ真珠湾奇襲攻撃をするために、ここ松山で訓練を極秘で実施していた。
訓練の場所は、西宇和郡瀬戸町三机だそうです。(愛媛県佐田岬半島の中頃伊予灘に面した所)
ここは、真珠湾によく似た湾で、「ニイタカヤマノボレ」命令発信その日のため訓練が行われたそうです。

それから、終戦間近の海軍航空隊は、三四三航空隊を編成しその司令官に「源田 実」海軍大佐が航空隊指令官として任命され、隊の編成は横須賀であったが、訓練基地は松山が一番いいと源田大佐の意向で急遽松山に決定したそうです。・・此れは先ほど書いた。
20年5月4日初めてB-29による松山攻撃が始まりその後10日、14日の攻撃で松山飛行場一部使用不能と記述がある。

 その後松山大空襲があった。時、昭和20年7月26日午後11時08分に始まり27日午前1時13分頃まで約2時間余り爆撃は継続、攻撃要領は、大都市に対するものと同じ方法で行われ、攻撃の先頭部隊は無数の小型焼夷弾を投下次いで、後続の部隊が大型の焼夷弾を投下した。

これで松山は一夜にして焼け野原と化した。
ご紹介したこの「掩体」(えんたい)は 物の経緯、事情の分からない人々はなんだろうと不思議に思い、そして見逃してしまうのではないかと思う。
此れは、太平洋戦争の遺物の一つとして保存し後世に悲惨な出来事を語り伝えて行かねばならない。

世は正に日本は平和そのもの、これでいいのであろうか?
しかし沖縄県の皆様は未だに戦争の被害者で、基地問題で沖縄県以外の県知事は誰も基地の引き受けをしようとしない。(橋下・大阪府知事だけが引受表明)沖縄県の方には本当にご苦労を掛けている。

党派を超えて全国会議員&官僚ともども基地問題を真剣に考え沖縄の負担軽減をすべきである。

秋山眞之・児玉源太郎がもう少し長生きしておれば太平洋戦争は阻止していたと思う。・・秋山眞之は米国と事を構えると日本は滅びるから絶対にしてはならぬと、箱根の山下汽船社長の別荘で亡くなるまで日本の行方を心配していたとある。49歳の若さで亡くなった。

戦争は後世にまで尾を引き国民は苦しむ、戦争は絶対にしてはならない行為である。
私は、(共産党員でも社民・民主・自民でもない)誤解の無い為に記載した。

画像は、今も現存する松山市にある掩体で、他は解体されたが頑丈に出来ている為解体費がかかり一つは農家が農機具の倉庫として使用している。

追記:松山城北地区が未だ残っているので次の機会に行ってみる。
この地区は、いろんな史跡がある。また折を見て
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電動自転車サイクリング 8

2010年06月01日 | 往年の名車 メグロ
電動自転車サイクリング 8


画像は、旧海軍松山航空隊の弾薬庫で現在2個が現存している。
管理は愛媛県と松山市がしている。
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電動自転車サイクリング 7

2010年06月01日 | 往年の名車 メグロ
電動自転車サイクリング 7
 
三津浜地区は、戦災にあってなく(松山の空襲は昭和20年7月26日)古い家屋が残っており、登録有形文化財(文化庁)指定の家屋が数件ある。
その内の木村邸では、第2・4土曜日・日曜日に一般公開している。
さて、帰りは旧海軍松山航空隊の跡地を通り帰る事にした。

昭和19年に海軍は、源田実海軍大佐に最強の航空隊を造るよう命じた。
源田実海軍大佐は、ドイツ空軍を参考に世界最強の航空隊を結成すべく横須賀で編成した。現地は松山市がいいとして基地を海軍松山航空隊においた。

昭和19年12月源田大佐司令官松山基地に赴任、搭乗員120名整備士その外総勢3000名の編隊で、「零戦」はもとより新鋭機「紫電改」が配備され集団戦法の訓練が行われた。
飛行隊は、三四三航空隊(別命 剣道隊)司令 源田大佐、戦闘三○一飛行隊(新撰組)、戦闘四○七飛行隊(天誅組)戦闘七○一飛行隊(維新組)偵察第四飛行隊(奇兵隊)戦闘四○一飛行隊(極天組)と編成とある。(松山市発行の、松山城は残ったより)
しかし事態は急変し集団戦法の訓練もそこそこに米機動部隊が早くも察知松山飛行場を攻撃、沖縄上陸作戦に先立ち四国上空で多数の米機と松山上空で大空中戦が行われた。

私も幼心に覚えている、印象に残っているのは、真っ黒な艦載機、グラマン機がきて機銃射撃をされた事を。

現在、松山航空隊のあった入口に画像の記念碑が建立されている。傍には碑文もある。
急変した状況下軍は、特別攻撃隊を編成、志半ばにして特攻隊に命令された隊員は鹿児島県の鹿屋基地・知覧基地にと配属され帰らぬ人となった。

現在松山空港は2000m級の滑走路を有しジャンボ機が離着陸出来、市の中心部から僅か15分で行ける地方空港は松山市のみである。
これは、戦前あった海軍松山航空隊の滑走路を基盤にして海上と陸地部を拡張して出来たものである。

また、源田実氏は、松山が何故好きだったのか亡くなるのも松山市の病院でなくなった。それも不思議に8月15日終戦記念日に。(明治37年8月16日生まれ平成元年8月15日 享年84歳)現役時代源田サーカスと言われた名パイロット

画像は、松山航空隊のあった入口に建立されている記念碑。
若い血潮の予科練の、七つボタンは桜に錨、今日も飛ぶ飛ぶ霞が浦にゃでかい希望の雲が湧く・・昭和18年作曲された予科練の歌
作詞:西條八十
作曲:古関裕而

この若い予科練の皆さんの魂が未だこの記念碑に籠められている。

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電動自転車サイクリング 6

2010年06月01日 | 往年の名車 メグロ
電動自転車サイクリング 6
 
秋山兄弟の銅像がある、梅津寺を後に三津浜地区に移動、ここで造り酒屋の家屋を利用改造して営んでいる居酒屋兼ラーメンの店があり昼食はここのラーメンを食べた。
家屋は、大きな部材を使った立派な家で屋根裏の梁等々が丸見えで風情のある店であった。

この地区は、藩政時代伊予松山藩主が参勤交代時にここから船で行き来し、また物資の輸送も行われた場所である。

秋山好古、眞之、正岡子規、夏目漱石達もここ汽船乗り場から大阪や東京へと旅立った所である。
NHK坂の上の雲の場面に出てくる正岡子規の妹「律」が眞之を追っかけて松山の自宅から汽船乗り場まで駆ける場面があり直ぐ近くに感じるが、実はかなりの距離がある。走っていけるような距離ではないのである。

現在は、汽船乗り場は埋め立てられ住宅地になっている。
ただ、松山市教育委員会が設置している案内標識があるだけである。

画像は、秋山好古、眞之、正岡子規、夏目漱石達利用した「汽船のりば跡」。

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電動自転車サイクリング 5

2010年06月01日 | 往年の名車 メグロ
電動自転車サイクリング 5
 
眞之の銅像(昭和38年5月12日に復元され四国88ヶ所第51番札所石手寺の駐車場に建立されたのを昭和43年9月この地に移転設置したものである。)
だけでは寂しいだろうと篤志家一同が昭和45年1月に建立した。

好古は生前、家族や親しい人々に、持ち家はいらない、私が無くなったらお墓は造らないように、銅像等造らないように、と言っていたので、特にお墓は造ってない。
墓所は、東京の青山霊園にあるが、秋山家と書かれた墓石を造り、母貞子、好古の兄則久、その他家族と一緒に青山霊園に眠っている。大げさな、陸軍大将従二位勲一等功二級といった墓石は造ってない・・・好古が言い残した言葉を守って。

銅像も弟眞之は昭和6年に建造されているが、好古については、関係者がもうそろそろ銅像を建造しても好古さん許してくれるだろうとの事で昭和11年に造った。(道後公園に騎馬像として)
地元松山の一部の者は、好古さんは晩年落ちぶれて・・といわれる人がいるが、あえて落ちぶれた生活をしたのである。

大正12年元帥に推薦されるもこれを辞退した。現在自分があるのは、日清・日露戦線で共に戦い私は生きている。此れは優秀な部下と、優秀な軍馬のお陰である。優秀な戦死した部下や残された家族の皆さんの事を考えると華美な生活など出来ない。ましてや元帥など頂けない・・と言った。

これを聞いた明治天皇は特旨として同年に官位従二位を与えたのである。
好古は、陸軍の最高幹部にまでなった人物であるがあ努めて生活は質素に徹した。(最高幹部は、陸軍大臣・参謀総長・教育総監で好古は、大正9年教育総監を拝命している)

軍人は、ややもすると贅沢をしすぎる恩給等で生活するのはダメ、人間元気な内は仕事をしないといけない・・との考えをつねに持っていた。そこに大正13年に郷里の松山から北予中学(現在 愛媛県立松山北高等学校)の校長の依頼があり、小学校の経験はあるが中学校はない、私でよければいいよと受け単身赴任で松山に帰った。

校長は、昭和5年3月まで勤めた。この姿を見た人たちが、晩年落ちぶれてといったのである。(辞任の理由は体調を崩したため)同年11月4日東京の陸軍病院で亡くなった。享年72歳
以上のような事柄で銅像の建造が遅れたのである。

画像は、昭和45年1月に建立し、立像で日露戦線の激戦地であった満州を見つめて立っている。

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