EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

伊予路松山にも春の気配訪れる

2017年01月27日 | 伊予松山歴史散策

年末から年明けに掛けて、日本列島は温暖であったが1月15日以降急激に寒波襲来、日本列島は冷蔵庫に化した。

松山でも、1月26日は、最低気温零下1度まで下がり今季最も寒い朝であった。

しかしそれまで温暖であったためか私の散歩道には菜の花が咲きだしました。そして水仙も咲いております。

画像は昨日撮りました。私の毎日の散歩コースです。

 画像は、私が散歩をする川附川(川幅12m)で、画像には映っていないが、右手に小野川(川幅22m)が流れていて天山町と東石井町境界の国道33号線天山橋で合流するこの道を歩いている。

 

川附川の堤防には、「愛リバー・サポータ実施区域地区」に指定され松山市天山町内会と松山市東石井町内会が堤防を管理している。

 国道33号線天山橋東側に「伊丹十三記念館」がある。館長は奥さんの、宮本信子さんで時々おいでになる。川附川は、伊丹十三記念館前で小野川と合流し、石手川、重信川に流れ瀬戸内海に流れ出る。

 

堤防には早くも菜の花が沢山咲いていました。菜の花をアップしてみるとこんなに綺麗な花びらを付けていた。何だか春の気配を感じた。

水仙も満開でした。

水仙をアップで撮ってみました。散歩する皆さんもスマホで撮影されておりました。

 川附川の沿道には未だ収穫されてない甘夏間が沢山実を付けていました。

 

お天気のいい日には、私の散歩道にはこんな素晴らしい景色も見ることが出来ます。石鎚山で、昨日はこんなに綺麗に見えました。

 

 

 

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石鎚山も真っ白

2017年01月23日 | 伊予松山歴史散策

画像のように我が家の玄関から素晴らしい姿の石鎚山が眺望出来ていたが、昨年10月に我が家の前に大きなイチゴ栽培のビニールハウスが建てられて見えなくなった。残念な事である。

昨年10月に我が家の前に大きなイチゴ栽培のビニールハウスが建てられ石鎚山が見えなくなった。ビニールハウス。

古くから修験道の山として知られる石鎚山は、日本七霊山の一つで、日本古来の山岳信仰や信仰登山の盛んな霊峰である。日本七霊山は、富士山・立山・白山・大峰山・釈迦ヶ岳・大山・石鎚山を言う。昨年10月までは我が家の玄関から観えていたが、大きなイチゴ栽培のビニールハウスが建てられて見えなくなった。残念な事である。

さて、その石鎚山であるが、年末から年明けに掛けて例年になく気温が高く石鎚山には積雪がなかったが、17日以降JA全域に寒波襲来日本列島は冷え込み、西日本最高峰「石鎚山・1982m」も真っ白になった。

17日以降大寒波襲来で石鎚山も真っ白である。

画像中心に三角形の地点が「弥山・1974m」で最高峰である天狗岳(1982m)は雲が掛かっている所にある。

石鎚山、弥山にある「石鎚神社山頂社」で、山小屋も社の北側にある。

地元の人々は、石鎚山を「石鎚さんと呼ぶ、さんは、山のさんでなく、呼び名のさんである。

私の友人が撮影した「石鎚山・天狗岳・1982m」。

 

 

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 秋山兄弟生誕地 開館12年が経過 

2017年01月20日 | 伊予松山歴史散策

生家の概要は下記の通りです。

 1、 所在地  松山市歩行町二丁目3番地6

        公益財団法人 常盤同郷会「管理運営母体」

2、 敷地面積 829,74平方メートル(250,99坪)

3、 生家    造瓦葺平屋建 95,65平方メートル(28,93坪)

4、 武道場   木造瓦葺平屋建 183,13平方メートル(55,39坪)

寛永12年(1635)第3代将軍徳川家光は、伊勢国桑名藩主松平定行を伊予松山藩主として15万石で転封の命を下した。(松平定行は、徳川家康の異父同母の弟の子供)この時、秋山の祖は、今治藩士であった。

秋山は何故、伊予松山藩士となった詳細は不明です。

現在の生誕地に居住したのは、藩政末期の天保年間(約182年前)といわれています。

 好古が北豫中学校長時代に住んでいたのは、誕生当時の家に(4部屋と土間・台所の質素な家)若干手を加えただけのものだといわれています。当時の設計図は無く、秋山家の子孫の方から伝聞、特に好古が住んでいた当時度々訪問していた親戚の石井悦子さん(群馬県在住)や好古四女・米田治子さん(故人)から聞き取り調査及び当時の写真を参考にして建設しました。建物の位置は、銅像建設の為当時より北側に寄せて再建しています。

秋山兄弟生誕地が開館して1月19日で12年が過ぎます。

坂の上の雲の放映時と比べると来館者は減りましたが、それでも県内外から秋山兄弟を愛する皆さんはお越しになります。

特に何故か関東の方が多い様です。

平成15年当時、関東の方々からよく伺った言葉が、松山の方は正岡子規については、子規記念博物館を建設して顕彰しているのに、秋山好古・眞之の顕彰を何故しないのかとお叱りを受けたことがありました。

また、東京出身で、現在ドイツに在住されているご婦人が、平成17年1月18日、NHKの朝のニュース番組「おはよう日本」で松山の秋山兄弟生誕地の整備が完成し、19日から一般公開の事を知り、ドイツに帰る前にと思い、今朝の羽田発1便で松山に来て、松山空港からタクシーにのり「秋山兄弟生誕地」に行って下さいと告げると、なんと運転手は秋山兄弟生誕地の所在地を知らない・・松山の人は何をしているのですかと、酷く叱られた事を未だに鮮明に覚えている。・・このご婦人は「私は秋山好古さんの生き方に感銘している一人です。」と言われ東京に帰られた。

これからも秋山好古・眞之の顕彰に努めたいと思います。

秋山兄弟生誕地には、現在18名の研究員が奉仕活動で来館した方々をご案内しています。

12年前の秋山兄弟生誕地を画像で振り返ってみました。

秋山好古騎馬像。

好古は生前記念碑や銅像等々の建設はしないようにと告げて没した。

しかし輝かしい功績を後世に伝えようと、関係者が昭和12年道後公園に建設した。

昭和19年、大東亜戦争の金属供出により潰されました。今回の整備事業として復元しました。

秋山眞之の胸像。

大正14年9月30日、秋山眞之が海軍大学校の教官時代、教え子たちが醵金をしてイタリアの彫刻家に依頼し、制作されイタリアから送られて来た秋山眞之胸像の贈呈式が横浜で行われた。

眞之胸像は、秋山眞之の季子夫人に贈呈され、その後季子夫人は海軍に寄贈された。

大東亜戦争開戦前に海軍は、秋山邸に返還し、戦前、戦中は秋山邸で保管をし、戦後再び海上自衛隊に返した。現在は、東京都目黒の自衛隊幹部学校の4階に保管展示してある。

秋山生誕地の秋山眞之の胸像は、防衛庁(現、防衛省)の許可を得て複製したものである。

東京都目黒の自衛隊幹部学校の4階に保管展示してある「秋山眞之の胸像」。

室内用に制作されたので台座は木製で、秋山兄弟生誕地は屋外に設置するために台座は花崗岩にしました。

平成17年5月12日、自衛隊幹部学校の許可を得て撮影しました。

秋山宗家第10代、秋山哲兒氏の揮毫で、秋山兄弟生誕地入口に掲示してある。

一時期伊予鉄バスが運行していた「松山回遊ループバス」のバス乗り場であったが、数年前に廃止となった。

ご来館者の皆様にお知らせも12年前の事となった。

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」ロケが決定。

秋山眞之を演じる「本木雅弘さん」が平成19年10月11日来館されました。

本木さんは、礼儀正しく、言葉遣いが丁寧で、字が綺麗(書道7段)そして3年間「坂の上の雲」一筋であられた事にビックリでした。

本木さんは凄いお人です。

平成19年10月11日来館されました時に書かれた本木さんの書です。

平成20年2月12日、秋山兄弟生誕地で、NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」の番宣ロケを行った時の記念写真。

 

 

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秋山好古生誕158年祭

2017年01月09日 | 伊予松山歴史散策


『坂の上の雲』の主人公の一人である「秋山好古」の生誕158年祭が本日、平成29年1月9日、秋山兄弟生誕地で中村愛媛県知事さん代理の、愛媛県スポーツ振興課、水口洋課長さん、野志松山市長さん代理の西泉彰雄松山市副市長さんのご臨席の下厳かに行われた。
好古は、安政6年1月7日、現在の松山市歩行町二丁目3番地6に伊予松山藩士徒歩目付けの父、秋山久敬、母・貞の三男として誕生、幼名信三郎、元服して好古となった。正式には、秋山信三郎好古である。
好古の命名は、父久敬が論語の、子(し)日(のたま)わく、述(の)べて作(つく)らず、信(しん)じて古(いにしえ)を
好(この)む。竊(ひそ)に我(わ)が老彭(ろうほう)に比(ひ)す。により父久敬が命名した。
親しい人々は愛称で、信さんと呼んでいた。16歳のとき、福沢諭吉の「学問のすすめ」を読み、共感し青少年の教育推進に教育者を目指し大阪師範学校(現、大阪教育大学)に学び卒業後、名古屋師範学校付属小学校に赴任した。しかし同校にいた伊予松山の先輩、和久正辰教務官と名古屋鎮台山本忠彰武官の強い勧めで教員を辞任し、陸軍士官学校に入学、卒業後日本の騎兵隊を創設、日本騎兵の父と言われた。
その後、近衛師団長、教育総監を歴任、大正12年元帥に推薦されるもこれを辞退、大元帥(大正天皇)は驚いた。未だかって元帥を辞退した者はいなかったからだ。大元帥は元帥を辞退した秋山好古大将に、特旨として官位従二位を与え好古は、官位従二位を拝命し大正13年郷里の伊豫松山から強い要望に答え北豫中学校長(現、愛媛県立松山北高校)として昭和5年3月まで本来の教育者として勤務し、故郷の青少年の教育に尽くし同年3月北豫中学校長を辞任、11月4日東京・陸軍軍医学校で永眠(享年72歳)現在東京青山霊園に眠っている。
生誕158年祭は、秋山兄弟武道場で、秋山兄弟柔道部・合気道部の稽古初めも行い記念の餅搗きを行った。県内外から秋山兄弟(好古・眞之)お愛好者が駆けつ盛大に行われた。また偶然来館したお客さんに搗きたてのお餅を振舞い美味しく賞味する事が出来いい時に秋山邸に来たものだと喜んでいた。全国の秋山フアンは、好古さんは生誕158年になるのか、生前はお国のためにご尽力されご苦労様でしたと、好古騎馬像に対して言葉を掛ける来館者もいた。
註:秋山好古の信条、「簡単、明瞭、質素、倹約、そして人は心穏やかで豊かであり、元気な間は、働くべき、仕事はその気で探せば幾らでもある。」
座右の銘は「独立自尊」であった。
好古は、父の教え守り、勉強すれば貧しい人間にはならない、そして大きくなった暁には、私利私欲を捨て、世の為・人の為・故郷の為に役に立つ人間になりなさい。・・母の教え貫き72歳を全うした。元帥を辞退したのも、母の教えの一つ「私利私欲を捨てて」が何時も脳裏に有ったのではないかと私は思う。!


画像は、秋山好古生誕158年祭の様子である。


秋山好古生誕158年祭に際し、千葉県習志野市、習志野騎兵連隊史跡保存会代表、三橋正文さんから寄贈していただいた好古さんのカラー肖像画を舞台に掲示し式典を開催した。


秋山好古生誕158年祭開催にあたり挨拶をする、公益財団法人常磐同郷会、平松昇理事長。(財団法人常磐同郷会は、秋山兄弟生誕地の管理運営母体)


秋山好古生誕158年祭で挨拶をされる、西泉彰雄松山市副市長さん。
常磐同郷会武道部の合気道・柔道部の生徒、指導者に対し錬成され立派な青少年に育成されることを祈念しますと共に、秋山兄弟生誕地の運営ご苦労様・・と挨拶された。
また本年は愛媛国体開催の年皆さんと一緒に開催が成功に終わる様ご協力下さいと述べられた。


秋山好古生誕158年祭会場。


秋山好古生誕158年祭の進行司会をする、常磐同郷会藤島理事。


秋山好古生誕158年祭にちなんで、秋山兄弟武道部「合気道・柔道部」の二人に、松山白鷺ライオンズ俱楽部から表彰状が贈られた。表彰理由は、昨年皆勤で練習に励んだ事です。


松山白鷺ライオンズ俱楽部の梅林哲次会長から年間優秀者の表彰状が贈られた。
二人とも小学生で、一人は、柔道部・藤田奈央未さんと、合気道部・渡邊優作君、二人ともおめでとうございます。・・今年も頑張って!!


平松昇理事長が、柔道部・合気道部の稽古初めに先立ち鏡開きを行った。
平松昇理事長も柔道有段者。


今年も生誕祭を祝し「ネッツトヨタ瀬戸内の伊予水軍太鼓」の皆さんが特別出演、生誕祭を祝った。


来賓一同が見守る中、常磐同郷会武道部「柔道部・合気道」の稽古初め。


来賓一同と一緒に常磐同郷会武道部「柔道部・合気道」の稽古初めの記念写真。


秋山好古生誕158年祭のお祝いの餅を搗く、常磐同郷会、藤島理事。
午前中、降雨で屋外での祝いの餅つきが心配されていましたが、幸いに雨は止み予定通り餅つきが出来ました。平成11年秋山兄弟生誕地の再建完成後、毎年1月に好古生誕祭を開催していますが雨が降った事がなく好天の下行われています。


秋山好古生誕158年祭のお祝いの餅を搗く、常磐同郷会評議員、・田坂市議会議員。


お祝いの餅を作る秋山兄弟研究員、女性軍達。




武道場の外では大勢の秋山兄弟愛好者が訪れ「秋山好古生誕158年祭」を祝った。


平生29年1月10日付の愛媛新聞に掲載された記事。
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初 詣

2017年01月03日 | 伊予松山歴史散策
本日(1月3日)午後、我が家の守護神社である日尾八幡神社に初詣に行って来た。
今年も松山は年末から気温は高く過ごしやすい年明けとなった。
私の正月の過ごし方は、毎年駅伝を見て過ごすのが恒例となっており、今年も元旦は、実業団駅伝、2日、3日は、関東大学箱根駅伝をTV観戦、今年の箱根は往路、復路も一昨年の様な体調を崩し大崩れする選手も無く無事終了。青山学院大の素晴らしい走り、3連勝を往復完全優勝で飾った。(往路・復路完全優勝3連覇は戦後初で、史上2回目の快挙とか!!)
昨年、駒沢大学の最終区の10区を、愛媛県立松山北高等学校出身の、中村佳樹選手が走り応援した。松山北高等学の前身は、北豫中学で、秋山好古校長が文武両道の教育を奨励した下地がある。そして私の親父が北豫中学で好古校長の教えを頂き、長男も松山北高等学卒業、そんな縁が有り中村選手を応援したが、今年4年生、駒沢大学の主力選手として活躍してくれると期待していたが、残念補欠になった。
しかし、愛媛県出身の学生3名が箱根で活躍し、中でも宇和島東高校出身で神奈川大学の2区を区間賞の快挙で走り抜けた「鈴木健吾選手」アッパレ!!であった。時間は、歴代8位の成績、来年4年生楽しみである。
また昨年は、日本大学女子駅伝大会で松山大学が初優勝、これもアッパレ!!

関東大学箱根駅伝に出た、元上武大学駅伝部監督、花田勝彦さんの苦言。
それは10区最終区を走った選手の髪型、あれはスポーツを志している選手とは思えない、もっとスポーツを行う人間として身だしなみを考えて貰いたい。
花田監督は、早稲田大学時代から見ている。早稲田三羽烏「武井・櫛部・花田」の一人で、今や指導者来年は、身だしなみも考え心技一体の選手指導をして予選会を勝ち抜き本戦に出て下さい。・・・ですが、最近の駅伝選手は、髪は「ボサボサ」監督、コーチは優勝を目指して指導オンリーで身だしなみの指導は行ってないのか?今年も東洋大学のアンカーの髪は「喝」だ。
さて、東京箱根間往復大学駅伝も終わり、昨年のお礼を心にして初詣に出掛けた。多くの氏子達が家族ずれで氏神様である「日尾八幡神社に来ていた。
愛媛県は、今年、平成29年9月30日(土)~10月10日(火)まで第72回国民体育大会が64年ぶりに開催されます。今年は県民挙げて歴史に残る開催盛会を祈り、今年も家族一同元気で過ごせますようにとお祈りをし、そして南海地震が起こらない事をお願いして帰った。


神社の所在は、松山市南久米町、旧国道11号線沿いに位置する。
神社入口に、注連石があり左に「魚躍」右が「鳥舞」で、書道家三輪田米山の揮毫である。米山は、日尾八幡神社神官三輪田清敏の長男である。
また、東京都千代田区にある私立の中高一貫校、三輪田学園中学校・高等学校は、日尾八幡神社神官三輪田清政の3男、元綱の妻、眞佐子が明治20年(1887)開校した。眞佐子は、京都中条次郎の長女。
社号石 「県社日尾八幡大神」・注連石「鳥舞」「魚躍」は米山が揮毫したものである。


日尾八幡大神の神門。


日尾八幡大神の神門にある「社号額」で揮毫は、三輪田米山である。
米山は、この神社で生誕した。


注連石、鳥居を潜り神門左に大きな「忠魂碑」がある。
久米地区から出兵され、日清・日露・大東亜戦争(太平洋戦争)で戦死された御霊をお祀りしている。建立は、昭和35年10月である。忠魂碑、忠霊碑、招魂碑等々は戊辰戦争時官軍として忠義のために戦い戦死した兵士の霊魂を祀る石碑で江戸時代にはなかった。大東亜戦争で戦死された御霊を祀ることは、戦後許されるのは、昭和27年4月28日発効のサンフランシスコ講和条約以降である。この立派な忠魂碑、揮毫は誰がしたのか書かれていない。
忠魂碑裏面には、久米地区から出兵され、日清・日露・大東亜戦争で戦死された兵士の名前が刻印されている。


神門を潜り石段、147段を登り社殿に向かう。年配の方は途中で休みながらの初詣である。


石段の中程、左側に「黒田霊社」がある。
黒田霊社は、下記の事項にある「黒田九兵衛」を祭る祠である。
慶長5年(1600)9月15日伊予国の関ヶ原の戦いと言われる、刈屋畑の戦いがあった。
伊予史料叢書によると「佃次郎兵衛伊予国松前城を守る事」の項があってこの戦の展開振りを次の様に伝えている。「佃次郎兵衛十成は、加藤嘉明の先手の士の大将なり。関ヶ原の戦いの時、嘉明は伊予の松前を出て関東に打ち向かわれし、一成に堅固に守れと黒田九兵衛下知して松前に留守居たり。毛利輝元の命を受けた兵、村上掃部、能島内匠、曽根兵庫、宍戸善右衛門等、松前を取らんと支度しけり。能島村上は河野の一族なる故、招かざる人々従いなん。豫州を攻め取らん事・・とある。」刈屋畑の戦いは、激戦であり戦いは23日まで続き久米の如来院(現・松山市南久米町)まで及び佃一成はこの戦いで深手を負った。如来院には、平岡・村上連合軍が拠守した。嘉明の留守隊の隊将、は如来院を攻撃して陥れたが、九兵衛は壮烈な戦死を遂げた。村人達は九兵衛の死を哀れんで、その霊を祀るため黒田宮と称する小さな祠が日尾八幡神社の側に建てられてとあるが現在は見る事は出来ない。・・近年日尾八幡神社内に再建されたのが画像の祠である。


神門を潜り石段、147段を登り社殿に向かう。


147段の石段を上り拝殿に辿り着く、画像は日尾八幡神社の拝殿、本殿で、祭神は天御中主大神、天照皇大神、月夜見大神の神々が祀られている。


拝殿内部で、ある家族が祈祷を受けていた。


拝殿左側、春日大社入口には、おみくじを頂く特設を設置、今年の正月は気温が高く好天で巫女さんも楽であっただろう!!
カメラを向けるとポーズを取ってくれた。


おみくじを頂き、中を確認して、おみくじを結んでいた。


普段は開門してない社も正月は開門して参拝が出来る。
この社は「天照大神」の社殿。


本殿の中の西側にある春日大社の社殿で、ここも普段は戸が閉まっているが、正月は門は開けてあり中には入れないが拝む事が出来る。
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