EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

西部ニューギニア・戦死没者慰霊観音菩薩

2011年02月27日 | 往年の名車 メグロ
西部ニューギニア・戦死没者慰霊観音菩薩

真珠湾奇襲攻撃訓練場所のあった三机湾の近くに田部地区(愛媛県西宇和郡伊方町田部)があり、ここに西部ニューギニアで戦死没者慰霊観音菩薩が建立されている。

太平洋戦争末期の昭和18年11月陸軍教育総監は関東軍に公主嶺でわが国初めての海上機動旅団を編成した。(米軍の海兵隊に当てる部隊である)
海上機動旅団は、第1旅団(駆・カケル)第2旅団(巡・メグル)第3旅団(轟・トドロキ)第4旅団(攘・ハラウ)が編成、第1第2旅団は南方作戦、第3第4旅団が北方作戦に編成装備、第2旅団はシンガポールで隷下に入る予定であったが、命令変更により西部ニューギニアに転用されたため遂に隷下に入れなかった。

ここに紹介する西部ニューギニアで戦死没者慰霊観音菩薩は、海上機動旅団第2旅団機動第1大隊、同第2大隊、同第3大隊、旅団衛生隊、同工兵隊、第35師団輜重隊、同歩兵第220連隊各隊、野戦高射砲第54大隊、同第74大隊第2中隊、雪第3531部隊田島隊、に所属する多くの隊員が、祖国の繁栄と家族の安全を心に抱戦い西部ニューギニア、ソロン地区防衛の任にあたり草蒸す屍、水漬く屍と散華された戦友の御霊を慰めし、世界平和と民族友好の絆として、戦友、遺族、有志の浄財により、現地日本人の手でニューギニア西端ソロン・バナナ台に建立、昭和62年6月第1次巡拝慰霊団によって開眼供養を執行したが、平成15年8月異教徒の暴挙により大損害を蒙った為、在ソロン水産会社邦人の協力を得て、富山県高岡市に帰還修復後、洋上遥か南溟の地、ソロンに続く宇和海の景勝を望む佐田岬の高台に再建立した。

尚、機動第1大隊659桂の英霊の中、96命は愛媛県出身であり、温厚な信仰心の厚いお国柄ゆえ最適地と決め、平成16年4月25日、茲に祀ることとした。
海上機動旅団第2旅団機動第1大隊
ソロン観音像保存会一同
観音像建立、慰霊巡拝世話人 石井 春義(二名津出身)

ここから少し私の親父のことを書く、親父は明治43年1月7日生まれで昭和4年3月愛媛県松山市の北豫中学校卒業、昭和5年12月10日関東軍歩兵第80連隊に入隊した。
親父は、秋山好古が北豫中学校長の時教えを頂いた生徒であるし、奇しくも生まれが1月7日と好古校長と同じである。
そして昭和19年6月18日に海上機動旅団第2旅団機動第3大隊隊員として、ニューギニア・エフマン島に上陸し第1中隊に挺身隊が編成された。

名称は浅井挺身隊とされ、指揮班・第1小隊・第2小隊・重機機関銃分隊・5号無線分隊の編成となり親父は第2小隊長として北岸作戦、マル飛行場攻撃の任に就いた。
この作戦のため親父は米軍情報収集のため、将校斥候長として任を命じられた。

隊員は先ず身体強固、忍耐力、俊敏性、能力豊な隊員6名を選任、親父と7名が敵陣に入り情報収集をした。途中米軍兵のタバコの火と蛍の火とを間違え米軍と遭遇敵の照明弾打ち上げにより、暗闇が一瞬にして真昼の如くに様変わり機関銃の攻撃で親父は腹部に敵弾を受け戦死した。昭和20年4月28日の出来事だった。
この時親父は、35歳で、もし生存し元気でいれば今年101歳である。

隊員は銃弾を受けたが軽傷で司令部に6名全員帰還情報を持ち帰り隊長に報告、目的のマル飛行場攻撃は成功したそうだ。
報告を聞いた隊長は、隊員各位に君達はなぜ仙波斥候長を連れて帰らなかったと激怒したそうだ。
隊員の皆さんは終戦後ニューギニアから全員元気で内地に復員され現在も健在である。親父の戦死の詳細はつい先日、平成7年に戦友会が佐賀市で開催された時に初めて関係者から話を聞き分かった。

親父は未だニューギニアの密林の中で祖国に帰ることが出来ず眠っている。
遺骨収集にも場所も不明である。帰って来たのは親指の爪のみで、親父の親兄弟達は、誰の爪か分からないと言っていたが、平成7年に戦友会佐賀市開催時に斥候に行った隊員さんから仙波さんのお父さんの親指の爪は私が切り取ったので間違いないと言って頂き初めて親父の爪である事が分かった。

隊員さん曰く、現地に行きたいから案内を頼まれてもお父さんが眠っている場所は分からないと言われた。しかし今思うと斥候に行った隊員の皆さん元気で内地に復員出来てよかった・・犠牲者は親父だけで、責任者であるから・・終戦は昭和20年8月15日だが西部ニューギニアから内地に復員出来た兵士の方々は、昭和21年5月6日であった。帰りの船はオランダの船で名古屋港に上陸した。
この間は連合軍が準備した仮設の収容所で生活した。仮設収容所建設は連合軍の指示で日本兵が造り、あまりにも早く上手に造り上げたため驚いていたそうだ。
では、観音菩薩と関連の画像を見て下さい。


平成15年8月異教徒の暴挙により大損害を受けた為、在ソロン水産会社邦人の協力を得て、富山県高岡市に帰還修復後、洋上遥か南溟の地、ソロンに続く宇和海の景勝を望む佐田岬の高台に再建立開眼法要前の観音菩薩像と開眼法要準備をする関係者



平成16年4月25日ニューギニアから帰還修復完了した戦死没者慰霊観音菩薩の開眼入魂法要


ニューギニアから生還された旧関東軍歩兵第36大隊(海上機動旅団第2旅団機動第3大隊)の隊員さんで3年前まで全国各地で戦死した戦友の供養を兼ねて戦友会をしていたが現在は高齢のため中止した。
平成18年5月18日戦友会を親父の墓参を兼ねて松山市で開催した時に観音菩薩像に参り戦友のご冥福を祈った福島県在住のエフマン戦友会会長さん(戦後福島県のある町の教育長をされた)


旧関東軍部隊の方々・・親父の墓参をして頂きました・・皆さん当時は20過ぎの若者大事な青春をお国の為に捧げた・・お元気で長生きをして下さい、写真右二人は二世
右に秋山好古と陸軍大学校同期の仙波太郎の墓所がある(陸軍の三太郎:宇都宮太郎・桂太郎のち内閣総理大臣)


皆さんを秋山兄弟生誕地にご案内、好古騎馬像前で記念写真、秋山兄弟生誕地事務局が日章旗を用意して頂きました


この画像は、平成23年2月22日、私がお参りに行き撮りました


観音菩薩像と台座、説明版等々、穏やかな面持ちで遥か彼方のニューギニアで眠る英霊を祈っている


観音菩薩台座に刻印されている関係部隊名

昭和18年11月、海上機動旅団を編成し満州を留守にした関東軍の移動は誤りであったのではないか??
関東軍の任務は、ソ連との国境警備と南満州鉄道の守備目的の他、内地から開拓団として渡満していた国民の生命を守る任もあったはずだ。
昭和14年4月25日ソ連スターリン立会いの下、日本国は松岡洋右外相、ソ連外相モロトフが日ソ中立条約(日ソ不可侵条約)を締結したが、ソ連は昭和20年4月5日条約を破棄し満州に侵攻した。関東軍が駐留していたならば、侵攻したソ連に対し抑止力があっただろうし、満州奥地にいた開拓団にも被害は無かったのではないか、戦後日本内地に肉親探しに帰った中国孤児も出なかったのではないか、当時の日本陸軍教育総監、参謀総長、陸軍大臣、最高責任者である内閣総理大臣の大きな誤りでその責任は大である。
関東軍が満州にいたならば、満州にいた日本国民の被害、特に孤児等はなかっただろう、また内地に命懸けで身体一つで引き上げて帰った人はまだいい方で亡くなられた人たちの悲劇は計り知れないものがある。
また、北方領土問題も現在のような事になってなかったかも??


建立場所は、国道197号線の直ぐ傍に建立されている(伊予鉄バス田部バス停の直ぐ近く)・・当初の建立は、瀬戸町にある「道の駅瀬戸農業公園」に建立をお願いした処、瀬戸町の許可が下りず困っていたところ、地元の有志家が建立地の提供申し出がありこの地に建立出来た・・御国の為に尽くし、命を捧げた方々の英霊をお祀りの意味を篭めて造り上げた観音菩薩、何故瀬戸町議会は反対したのでしょう??軍人を祀る事に抵抗があるのか??心が無い!!ダブル喝
このような事柄は今後忘れられて行くのであろうか
昨日行ってみると菩薩は綺麗に磨かれていた。
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三机湾・・真珠湾奇襲攻撃訓練の場所

2011年02月23日 | 往年の名車 メグロ

三机湾・・真珠湾奇襲攻撃訓練の場所

以前から是非行ってみたいところであったが行く機会がなく昨日急に思い立って三机に行って来た。
三机の場所は、岬13里といわれる佐田岬半島(日本で一番長い半島)を縦走する頂上線(国道197号)のメロディーラインのほぼ中央に位置し戦争中は西宇和郡三机村、その後西宇和郡瀬戸町、そして西宇和郡伊方町となって現在に至っている。
三机が有名なのは、太平洋戦争開戦2年前の昭和14年頃から日本海軍は秘密兵器、特殊潜航艇の訓練基地として三机湾を選び、極秘で訓練を開始した。

最初のうちは1ヶ月おきに1週間から10日位の滞在だったが、日米間の雲行きがあやしくなった昭和16年の春頃から泊り込みとなり、訓練も激しくなったと言われている。
三机湾の沖には母艦「千代田」が止まり、潜航艇は厳重に布袋をかぶせ、超極秘の訓練で地元の人たちは知る由もなかった。
士官の宿舎となった石宮旅館、と松本旅館の関係者以外の一般の人々との接触は特になかった。

開戦前に石宮旅館に泊まった士官は、九軍神の中の4人(岩佐・横山・古野・広尾)を初め、捕虜第1号となった酒巻和男さん、シドーニ・マダガスカルを攻撃した秋枝・中馬・乙坂・松尾中尉・伴少尉・訓練中事故死した神田少尉・教官の八巻大尉の12名岩宮旅館の女将は、二人の娘さんと、士官達のお世話をしたそうで、毎朝8時頃弁当を持って出て行き、夕方6時頃帰るという普通のサラリーマンのような生活だった。士官たちは訓練の内容は知らされてなかったが「近々死地に赴く身」である事はほのめかしていたと言う。軍神達はみんな朗らかで、底抜けに明るく、規律正しい好青年ばかりで夕食後、岩宮さんら家族とトランプや将棋を楽しみ1週間に一度は無礼講で酒を飲み楽しんでいたが10時になるとピシャリと止め休んだと言っていた。

軍神のリーダーであった岩佐中佐は、郷里の前橋に婚約者がいたが、休暇で帰郷した際に親にも相手にも理由を告げず婚約を破談にして帰って来た。「死んで行くのに結婚しては相手を傷つける事になるからね」と岩宮さんに話したと言う。
昭和16年11月軍神達は休暇で帰郷し、休暇があけ軍神達が帰ってきてから数日後に三机湾沖に黒い船体を見せた母艦「千代田」が突然姿を消し再び帰ってこなかった。
4ヵ月後昭和17年3月6日九人の真珠湾での戦死が報じられた。

この時はじめて三机の人々は、特殊潜航艇の訓練が三机湾で行われ、九軍神が三机から巣立って行った事を知ったのである。

以上瀬戸町教育委員会発行「三机と九軍神」から引用。

註1:九軍神と言われているが10名の士官が人間魚雷として真珠湾の米戦艦に体当たりし戦死したがその内一名は米軍情報収集を目的として潜航し生還している。戦死した士官が九名なので「九軍神」と呼んでいる。

註2:三机湾が特殊潜航艇の訓練基地として選ばれた理由は、真珠湾と地形や水深がよく似ているため海軍の極秘の訓練基地に選ばれ、昭和16年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃で特殊潜航艇に乗り込み湾内の米軍艦隊に肉弾攻撃を行い戦死した「九軍神」が日夜猛訓練に励んだ縁の地で、昭和40年、九軍神の遺族が三机を訪れたのを機に、「広く世界の平和を呼びかける礎石とすべく」須賀の森の一角に昭和41年8月に佐藤栄作総理の揮毫で慰霊碑を建立した。

註3:三机の近くに田部地区がある、ここに太平洋戦争末期、関東軍が満州から陸軍教育総監発令で昭和19年3月31日海上機動旅団を結成(米軍の海兵に当たる部隊)西部ニューギニアで戦死された御霊を供養する観音菩薩が建立されてる。この事は次のブログで紹介する。

註4:藩政時、この地は宇和島藩の領地で、九州諸藩の大名達が参勤交代時に立ち寄り神社に航海の安全祈願と休息に立ち寄った。また遊郭も3ヶ所あった。


三机湾に面した須賀の森(現 須賀公園)に昭和41年8月内閣総理大臣 佐藤栄作揮毫の「大東亜戦争九軍神慰霊碑」が、三机から「世界の平和を呼びかける礎石とすべく」記念碑が建立された。


須画公園にある記念碑等々全体画像。


大東亜戦争九軍神慰霊碑前に建立されている九軍神の紹介・左から
岩佐直治中佐   (前橋市出身   ・海軍兵学校・65期生・戦死当時26歳)
横山正治少佐   (鹿児島市出身  ・海軍兵学校・67期生・戦死当時22歳)
古野繁実少佐   (福岡県遠賀郡出身・海軍兵学校・67期生・戦死当時23歳)
広尾 彰大尉   (鳥栖市出身   ・海軍兵学校・68期生・戦死当時21歳)
横山薫範少尉   (鳥取県東伯郡出身・海軍水雷学校    ・戦死当時24歳)
佐々木直吉特務少尉(島根県那賀郡出身・海軍水雷学     ・戦死当時28歳)
上田 定兵曹長  (広島県山県郡出身・海軍水雷学     ・戦死当時25歳)
片山義雄兵曹長  (岡山県赤盤郡出身・海軍水雷学     ・戦死当時23歳)
稲垣 清兵曹長  (三重県一志郡出身・海軍水雷学校高等科 ・戦死当時26歳)
註:説明版には、お名前と当時の階級&戦死当時の年齢が刻印されていて出身地・卒業学校名は記載されてない。・・別の資料を基に記載した。


これが三机湾で、昨日権現山展望台から撮った・・どうせ撮るならいい天気の時に撮りたかったので数日前から天気予報を見ながら昨日(2月22日)に決めた・・正解であった・国道197号線は佐田岬半島の尾根に建設しているため宇和海と伊予灘から吹き上げる風が何時も10m前後の風が吹いているが、昨日は快晴無風の絶好の天候で車を運転していても冷房がいる位の天候であった。
ここで真珠湾奇襲攻撃に備えて極秘で訓練をした湾である。・・はるか沖合いに軍港呉港がある。


真珠湾攻撃に用いられた「甲標的丁型(蛟龍)」人間魚雷と呼ばれたもので、他に物資輸送用に用いられた「特型運貨筒」等々で終戦までに230隻製造したとある。
画像は、旧海軍江田島の海軍兵学校「現在は、海上自衛隊、幹部候補生学校・第一術科学校・江田島警務分遺隊となっている」に展示している特殊潜航艇で、平成19年10月秋山兄弟生誕地研究員の研修で行った時に撮った。
全長:17.2m 直径:1.3m 安全潜航深度:250m 速力:水上 7.5ノット 水中 10.0ノット 乗員:2名と説明がある。


三机湾の上にある四国電力管理の風力発電装置で佐田岬半島に58機ある。
羽の長さが29,5mあり、風車が回転する音が結構大きく、近くの住民は騒音で熟睡出来ないと対策を申し立てていたがそのごどうなったのか??


須賀公園からみた三机湾。


瀬戸町公民館2Fロービーに展示してある九軍神の遺影と関係写真等々。


特殊潜航艇の訓練に従事した士官達が宿舎とした旅館 まつもと・・現在も営業している。


特殊潜航艇の訓練に従事した士官達が宿舎とした いわみや旅館 ・・現在も営業している。


昨日、撮影している時に出会った三机の地元の人で、三机湾を背に当時の事を話してくれました。・・途中、兄さん立って話すと疲れるので座っもいいかな・・と一言断りをして座った。・・礼儀正しい御仁であった。・・幼少時家庭での躾を見に付けておられた感じ。
御仁曰く、小学校2年生の時に急に海軍の人たちが来て騒がしくなり、特殊潜航艇の姿は見る事が出来なかった。・・浮上する時は周囲を漁船で囲み見えなかったそうだ。・・訓練もあっただろうが、それよりも呉軍港よりもここが安全なので潜航艇を隠し保管の目的の方が大きかったのではないかと語った。


藩政時代にあった侍番所跡の石碑が建立してあった。
説明には、三机港は天然の良港で古来より避難港として要港であった。
宇和島藩主が参勤交代の途中休息及び宿泊され、特に須賀八幡宮へは九州諸藩も航海祈願に参拝されるなど重要な港であった。
そのため宇和島藩は役人の他三名の下番人を置き、鉄砲、槍等々を置き常備しその治安をした。
そんな関係で出来たのでは??遊郭が3ヶ所あったそうだ。・・昨日出会った人に教えて頂いた。


画像は、四国電力が運営管理している四国唯一の原子力発電所「伊方原子力発電所」である。
最近伊方原発も、プルサーマル利用の原発が稼働しており、昨日行ってみるとプルサーマル利用反対の懸垂幕が目に付いた。・・伊方町は原発誘致で補助金・交付金が下り裕福な自治体である。・・ともすれば大事故が起こるかも知れない原発と人畜には害の無い風力発電の両面を持つ町である。

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道後温泉本館外観周辺建造物

2011年02月17日 | 往年の名車 メグロ
松山市の道後温泉は、日本三古湯の一つでその中でも最古の温泉と言われている。
日本三古湯(にほんさんことう)とは、日本で古くからの歴史がある温泉のことで日本三古湯には2つの選ばれ方がある。
いずれも長い歴史を有し、開湯伝説では神話の時代から続くとされる温泉地もある。

日本書紀、風土記などに登場することに基づいた三古湯 「道後温泉(愛媛県)、有馬温泉(兵庫県)、白浜温泉(和歌山県)」の3つ。

延喜式神名帳に基づく三古湯「道後温泉、有馬温泉、いわき湯本温泉(福島県)」の3つ。
夏目漱石の小説『坊つちやん』は明治38年に描かれ、愛媛県の代表的な観光地となっている。

今日、道後温泉ガイド当番日であったのでガイド終了後本館外側の構造物を撮って来たので紹介しよう。


道後温泉シンボル の扁額で、「道後温泉」は昭和25年6月5日に獅子文六の小説、愛媛県津島町を舞台にした「てんやわんや」の映画ロケの際、道後温泉の証しとなるものがなく映画会社からの提案で松山市出身の村田英鳳画伯によって製作され掲示された
現在の扁額は、額に傷みが生じたため、昭和61年に村田画伯により2代目の扁額として作成し掛替えられた


中央の建造物は、道後温泉本館のシンボル「振鷺閣」で中に刻太鼓が設置されていて朝6時に6回、昼12時に12回、夕方6時に6回女子職員が」刻太鼓を打つ
平成8年当時環境庁から「日本の音風景百選に指定されている


道後温泉のシンボルマーク「宝珠(ほう‐しゅ)」


本館正面玄関左右に設置されているガス灯


ガス灯の内部


玉の石・・御湯かけ祈願
本館北側にある「玉の石」で由来は、大国主命(おおくにしのみこと)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の逸話にありますように、道後温泉の霊妙不可思議な効力の象徴であります。道後温泉の御湯をかけながら「病気平癒」「縁結び」「商売繁盛」等の願い事を唱え二礼二拍一令の拝礼をされることにより必ずや神様にその意が通じるものと存じます。・・・と説明版に書かれている。道後温泉に行かれたときは是非祈願して見て下さい。


「玉の石・・御湯かけ祈願」のお湯で正に道後温泉の源泉で湯気が立ってます


玉の石・・御湯かけ祈願を後方から見た所


最近全国の観光地でよく見る人力車・・道後温泉にも本館と道後温泉駅前で待機している


道後温泉本館に併設されている皇族専用の浴室があるが浴室にはこの「御成門」からお入りになる(全国でも唯一道後温泉本館に造られている)


道後温泉本館全体画像で、明治27年4月10日本館1・2・3湯が改築され現在の三階楼となる・・平成6年12月には、近代和風建築としてのすばらしさと保存状態のよさから、温泉の建造物としては全国初で国の重要文化財に指定された
画像右手の銅版葺の建物が皇室専用の浴場である
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バレンタインデー

2011年02月13日 | 往年の名車 メグロ
バレンタインデー
2月14日は、バレンタインデー日本でも男女の愛の誓いの日とされる。
もともと、269年にローマ皇帝の迫害下で殉教した聖ウァレンティヌス(テルニのバレンタイン)に由来する記念日であるとされているが!!

日本でも、バレンタインデーの習慣が定着している。ただし、その内容は日本独自の発展を遂げたものとなっている。戦前に来日した外国人によって一部行われ、戦後まもなく流通業界や製菓業界によって販売促進のために普及が試みられたが、日本社会に定着したのは、昭和50年代前半であった。女性が男性に親愛の情を込めてチョコレートを贈与するという「日本型バレンタインデー」の様式が成立したのもこの頃であった。

今日所用で松山三越に行ってみると1階の特設売り場がバレンタインデーで贈り物にするチョコレートを買い求める女性客でごった返していた。

画像は松山三越でチョコレートを買う女性達と四国一の繁華街「大街道」を買い物に来た人々。


松山三越1F売り場・・ここは7Fまで吹き抜けの売り場


2Fからの画像


店員さん大忙し!!


種類が多すぎどれにしようか品定め


以前はこんなに種類は無かったのに年々増えますね・・ハィ


店員さんお勘定お願いします・・ハィ//ありがとうございました


四国一の繁華街「大街道商店街」を闊歩する松山市民・・いいお買い物が出来ましたか??
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松山市周辺の山々雪化粧

2011年02月11日 | 往年の名車 メグロ
松山市周辺の山々雪化粧

2月になり松山市も最高気温10度を超える暖かさが戻って来ていたが、今朝起床してみると我が家から見える山々が今年初めての大雪で(平地には積雪なし)画像の様な雪化粧カメラ持参で我が家の近くの東山(標高50m)に登りシャッターを押した。・・午前7時30分過ぎに

松山市は昨日の天気予報では、降雪が出ていた。
西日本最高峰の石鎚山(1982m)の画像も撮りたかったが残念雲に覆われて姿を見る事が出来なかった。
平地にも積雪があれば、秋山兄弟生誕、秋山好古騎馬像の雪化粧を撮りたかったが降雪がなかった。・・平地は雨だった。
今朝の松山市内の最低気温は2,5度でした。


我が家からの画像(北東方向・・高縄山系800mm)こんな雪化粧は今季初めて


東山(松山市東石井三丁目・標高50mm)からの風景(南方向・・四国山地・高知県方向・・1000mm級)今季初の雪化粧


高知県方向の四国山地1000m・・この雪は昨晩9時頃から降雪が始まったそうです


これは南西方向で伊予市の山々今年初の積雪


松山市三坂峠国道33号線高知市に行く山越え(土佐街道)1000m級の四国山地で山頂付近には降雪はあったが山麓までの降雪は今季初である


松山市窪野町・久谷町で山麓までの降雪は今季初である・・近くに霊場四国88ヶ所の札所第46番浄瑠璃寺がある
420mmレンズで撮影



これは北東方向で奥道後温泉の上にある山でここにはロープウエイがある
山頂付近に鉄塔が2本見える少し下にロープウエイ山頂駅舎がある
ちょうど大型の鳥が飛来してきた・・何と松山の山々が雪化粧している・・絶景かな・・と見ている様な感


東山にカメラを持って登っていると鳩の番鳥と逢った・・お早う、今朝は松山市周辺の山々は雪化粧よ・・寒い朝だけど今日も元気に過ごしましょう・・こんな会話をしているような仕草・・愛らしい姿・・左が雄で右が雌でしょうか??

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