真珠湾奇襲攻撃訓練場所のあった三机湾の近くに田部地区(愛媛県西宇和郡伊方町田部)があり、ここに西部ニューギニアで戦死没者慰霊観音菩薩が建立されている。
太平洋戦争末期の昭和18年11月陸軍教育総監は関東軍に公主嶺でわが国初めての海上機動旅団を編成した。(米軍の海兵隊に当てる部隊である)
海上機動旅団は、第1旅団(駆・カケル)第2旅団(巡・メグル)第3旅団(轟・トドロキ)第4旅団(攘・ハラウ)が編成、第1第2旅団は南方作戦、第3第4旅団が北方作戦に編成装備、第2旅団はシンガポールで隷下に入る予定であったが、命令変更により西部ニューギニアに転用されたため遂に隷下に入れなかった。
ここに紹介する西部ニューギニアで戦死没者慰霊観音菩薩は、海上機動旅団第2旅団機動第1大隊、同第2大隊、同第3大隊、旅団衛生隊、同工兵隊、第35師団輜重隊、同歩兵第220連隊各隊、野戦高射砲第54大隊、同第74大隊第2中隊、雪第3531部隊田島隊、に所属する多くの隊員が、祖国の繁栄と家族の安全を心に抱戦い西部ニューギニア、ソロン地区防衛の任にあたり草蒸す屍、水漬く屍と散華された戦友の御霊を慰めし、世界平和と民族友好の絆として、戦友、遺族、有志の浄財により、現地日本人の手でニューギニア西端ソロン・バナナ台に建立、昭和62年6月第1次巡拝慰霊団によって開眼供養を執行したが、平成15年8月異教徒の暴挙により大損害を蒙った為、在ソロン水産会社邦人の協力を得て、富山県高岡市に帰還修復後、洋上遥か南溟の地、ソロンに続く宇和海の景勝を望む佐田岬の高台に再建立した。
尚、機動第1大隊659桂の英霊の中、96命は愛媛県出身であり、温厚な信仰心の厚いお国柄ゆえ最適地と決め、平成16年4月25日、茲に祀ることとした。
海上機動旅団第2旅団機動第1大隊
ソロン観音像保存会一同
観音像建立、慰霊巡拝世話人 石井 春義(二名津出身)
ここから少し私の親父のことを書く、親父は明治43年1月7日生まれで昭和4年3月愛媛県松山市の北豫中学校卒業、昭和5年12月10日関東軍歩兵第80連隊に入隊した。
親父は、秋山好古が北豫中学校長の時教えを頂いた生徒であるし、奇しくも生まれが1月7日と好古校長と同じである。
そして昭和19年6月18日に海上機動旅団第2旅団機動第3大隊隊員として、ニューギニア・エフマン島に上陸し第1中隊に挺身隊が編成された。
名称は浅井挺身隊とされ、指揮班・第1小隊・第2小隊・重機機関銃分隊・5号無線分隊の編成となり親父は第2小隊長として北岸作戦、マル飛行場攻撃の任に就いた。
この作戦のため親父は米軍情報収集のため、将校斥候長として任を命じられた。
隊員は先ず身体強固、忍耐力、俊敏性、能力豊な隊員6名を選任、親父と7名が敵陣に入り情報収集をした。途中米軍兵のタバコの火と蛍の火とを間違え米軍と遭遇敵の照明弾打ち上げにより、暗闇が一瞬にして真昼の如くに様変わり機関銃の攻撃で親父は腹部に敵弾を受け戦死した。昭和20年4月28日の出来事だった。
この時親父は、35歳で、もし生存し元気でいれば今年101歳である。
隊員は銃弾を受けたが軽傷で司令部に6名全員帰還情報を持ち帰り隊長に報告、目的のマル飛行場攻撃は成功したそうだ。
報告を聞いた隊長は、隊員各位に君達はなぜ仙波斥候長を連れて帰らなかったと激怒したそうだ。
隊員の皆さんは終戦後ニューギニアから全員元気で内地に復員され現在も健在である。親父の戦死の詳細はつい先日、平成7年に戦友会が佐賀市で開催された時に初めて関係者から話を聞き分かった。
親父は未だニューギニアの密林の中で祖国に帰ることが出来ず眠っている。
遺骨収集にも場所も不明である。帰って来たのは親指の爪のみで、親父の親兄弟達は、誰の爪か分からないと言っていたが、平成7年に戦友会佐賀市開催時に斥候に行った隊員さんから仙波さんのお父さんの親指の爪は私が切り取ったので間違いないと言って頂き初めて親父の爪である事が分かった。
隊員さん曰く、現地に行きたいから案内を頼まれてもお父さんが眠っている場所は分からないと言われた。しかし今思うと斥候に行った隊員の皆さん元気で内地に復員出来てよかった・・犠牲者は親父だけで、責任者であるから・・終戦は昭和20年8月15日だが西部ニューギニアから内地に復員出来た兵士の方々は、昭和21年5月6日であった。帰りの船はオランダの船で名古屋港に上陸した。
この間は連合軍が準備した仮設の収容所で生活した。仮設収容所建設は連合軍の指示で日本兵が造り、あまりにも早く上手に造り上げたため驚いていたそうだ。
では、観音菩薩と関連の画像を見て下さい。
平成15年8月異教徒の暴挙により大損害を受けた為、在ソロン水産会社邦人の協力を得て、富山県高岡市に帰還修復後、洋上遥か南溟の地、ソロンに続く宇和海の景勝を望む佐田岬の高台に再建立開眼法要前の観音菩薩像と開眼法要準備をする関係者
平成16年4月25日ニューギニアから帰還修復完了した戦死没者慰霊観音菩薩の開眼入魂法要
ニューギニアから生還された旧関東軍歩兵第36大隊(海上機動旅団第2旅団機動第3大隊)の隊員さんで3年前まで全国各地で戦死した戦友の供養を兼ねて戦友会をしていたが現在は高齢のため中止した。
平成18年5月18日戦友会を親父の墓参を兼ねて松山市で開催した時に観音菩薩像に参り戦友のご冥福を祈った福島県在住のエフマン戦友会会長さん(戦後福島県のある町の教育長をされた)
旧関東軍部隊の方々・・親父の墓参をして頂きました・・皆さん当時は20過ぎの若者大事な青春をお国の為に捧げた・・お元気で長生きをして下さい、写真右二人は二世
右に秋山好古と陸軍大学校同期の仙波太郎の墓所がある(陸軍の三太郎:宇都宮太郎・桂太郎のち内閣総理大臣)
皆さんを秋山兄弟生誕地にご案内、好古騎馬像前で記念写真、秋山兄弟生誕地事務局が日章旗を用意して頂きました
この画像は、平成23年2月22日、私がお参りに行き撮りました
観音菩薩像と台座、説明版等々、穏やかな面持ちで遥か彼方のニューギニアで眠る英霊を祈っている
観音菩薩台座に刻印されている関係部隊名
昭和18年11月、海上機動旅団を編成し満州を留守にした関東軍の移動は誤りであったのではないか??
関東軍の任務は、ソ連との国境警備と南満州鉄道の守備目的の他、内地から開拓団として渡満していた国民の生命を守る任もあったはずだ。
昭和14年4月25日ソ連スターリン立会いの下、日本国は松岡洋右外相、ソ連外相モロトフが日ソ中立条約(日ソ不可侵条約)を締結したが、ソ連は昭和20年4月5日条約を破棄し満州に侵攻した。関東軍が駐留していたならば、侵攻したソ連に対し抑止力があっただろうし、満州奥地にいた開拓団にも被害は無かったのではないか、戦後日本内地に肉親探しに帰った中国孤児も出なかったのではないか、当時の日本陸軍教育総監、参謀総長、陸軍大臣、最高責任者である内閣総理大臣の大きな誤りでその責任は大である。
関東軍が満州にいたならば、満州にいた日本国民の被害、特に孤児等はなかっただろう、また内地に命懸けで身体一つで引き上げて帰った人はまだいい方で亡くなられた人たちの悲劇は計り知れないものがある。
また、北方領土問題も現在のような事になってなかったかも??
建立場所は、国道197号線の直ぐ傍に建立されている(伊予鉄バス田部バス停の直ぐ近く)・・当初の建立は、瀬戸町にある「道の駅瀬戸農業公園」に建立をお願いした処、瀬戸町の許可が下りず困っていたところ、地元の有志家が建立地の提供申し出がありこの地に建立出来た・・御国の為に尽くし、命を捧げた方々の英霊をお祀りの意味を篭めて造り上げた観音菩薩、何故瀬戸町議会は反対したのでしょう??軍人を祀る事に抵抗があるのか??心が無い!!ダブル喝
このような事柄は今後忘れられて行くのであろうか
昨日行ってみると菩薩は綺麗に磨かれていた。