EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

伊予松山城 年末大掃除

2010年12月29日 | 往年の名車 メグロ
伊予松山城 年末大掃除

年中無休の「伊予松山城」で、一日だけ本壇天守を終日臨時休業して、年末大掃除を今日(12月29日)松山城指定管理者職員20名が、一年の埃と煤払いを行い、床の間に注連飾りとお供え物を献上し神事を行い、新年を迎える準備をした。


今日12月29日終日臨時休業して年末大掃除が行われた本壇天守をはじめ格城郭建造物。


伊予松山城本壇天守最上階(160m)から見た本丸と松山平野、今日は寒波襲来で、どんよりとした天候、四国山地の山々は雪化粧している。


年中無休の松山城を今日(12月29日)本壇のみ臨時休業して、松山城指定管理会社職員20名が一年の埃、煤払いをする作業初めの訓示をする代表者。



伊予松山城本丸は標高132mにあり、これに石垣を築き本壇を造り天守がある。
天守最上階は標高160mある。天守の煤払いをする職員。


画像は、松山城本壇、天守最上階の煤払いを行う職員。


松山観光ボランティアガイドの会、その他の松山城奉仕活動の皆さん約200名が参加して、伊予松山城本丸周辺を清掃し、新年松山城に来られる方々が気持ちよく観光できる準備をした。


天守最上階で行われた年末大掃除の取材に来た松山市内のマスコミ関係者。


全国の城の中でも床の間を有する天守は少ない。床の間に新年を迎える注連縄を飾り付ける職員。


天守最上階にある「床の間」に注連縄、お供え物を献上し、指定管理会社の代表者が、今年無事観光事業が終える事が出来た感謝の礼と、新たな年も無事故でお客様をお迎え出来る事を祈願した。


伊予松山城は、1602年1月15日に築城開始された。
画像は、野原櫓、松山城で一番古い建造物「慶長年間建造・国指定重要文化財」
普段は内部公開していないが3月まで土・日・祝日に公開している。


画像は、松山城で一番古い建造物「野原櫓内部」




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日本名城紀行 江戸城

2010年12月24日 | 往年の名車 メグロ
日本名城紀行 江戸城

応仁の乱が起こり、戦国時代に入り世は下克上時代、これを平和な世にしようと信長、秀吉が奮起した。
天正18年(1590)、小田原の役において秀吉が関東を支配していた北条氏を滅ぼした後、家康に関東への領地替えを命じた(関東移封)。家康は長年の根拠地を失ったものの、最大の領地を得ることとなり、豊臣政権の下で五大老の筆頭となった。
家康は、関東でいずれ来るであろう家康時代の基盤を創って焦らずその時を待った。

秀吉没後の慶長5年(1600)、家康は関ヶ原の戦いにおいて勝利し、その覇権を決定づけ慶長8年(1603)には、家康は後陽成天皇から征夷大将軍に任命され、武蔵国江戸(現・東京都千代田区)の江戸城に幕府(江戸幕府、徳川幕府)を開いて、鎌倉、室町時代以来の長期政権の基盤を確立させた。

慶長10年(1605年)に三男・徳川秀忠へ征夷大将軍職を譲り、駿河国駿府(現・静岡県静岡市葵区)の駿府城に隠居した後も、「大御所」として政治・軍事に大きな影響力を保持した。慶長19年(1614年)から慶長20年(1615年)にかけて行った大坂の役(大坂冬の陣、大坂夏の陣)においても、終始指揮を主導して豊臣氏を滅ぼし、幕府の統治体制を盤石なものとした。
江戸城は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となり、天下普請の度重なる大拡張工事が行われ、最後に万治3年(1660)に神田川御茶ノ水の拡幅工事が行なわれ、一連の天下普請は終了する。

明治維新後の東京宮城(きゅうじょう)・皇居となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。
なお、江戸時代最大の規模であった天守は、明暦3年(1657) 明暦の大火により天守は焼失。町の復興を優先し、また経済的な理由から天守は再建されなかった。
江戸城 概要

通  称:千代田城
城郭構造:輪郭式平山城
天守構造:連立式層塔型5層5階地下1階(1606年築)
     独立式層塔型5層5階地下1階(1621年再)
     独立式層塔型5層5階地下1階(1635年再)
     (いずれも非現存)連結式層塔型、大天守は5層5階地下1階
築城主 :太田道灌
改修者 :徳川家康・秀忠・家光・宮内省・宮内庁
城 主 :太田氏・後北条氏・徳川将軍家・天皇家 
築城年 :長禄元年(1457)

昭和31年(1956)3月26日 外堀跡が「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定、昭和35年(1960)5月20日「江戸城跡」として国の特別史跡に指定された。
現在、桜田門、田安門、清水門(以上は、国の重要文化財に指定されている)が遺構として現存している

江戸城(現、皇居東御苑)は幾度となく訪れているが、平成17年1月17日カメラ3台持参で午前10時に大手門から午後3時40分まで散策した。途中清水門散策時に12時を迎え昼食をしようと思い探すも食堂がなく、千鳥ヶ渕交差点近くの(パラグアイ大使館近く)のレストランでカレーを食べた。(外国人がよく来るのか大盛りであった)

江戸城大手門


江戸時代最大の天守があった江戸城の天守台
現在見る天守石垣は第8代将軍吉宗が瀬戸内の花崗岩で積み替えたもの、正面黒っぽい石は伊豆石で、家光時代の石垣


巨石で築いた天守台で上部黒く見える石は、大奥が炎上した安政の大火で焼けたもの。


天守台から見た本丸・大奥・中奥・一番奥が、表御殿


松の廊下跡、元禄14年3月14日(1701)江戸城本丸大廊下(通称松の廊下)にて、浅野内匠頭が吉良義央を脇差でもって刃傷に及んだ場所。


平河門枡形、渡り櫓門の奥に高麗形式の、不浄門がある。


不浄門
平河門枡形内に出入りとは逆方向の濠水に接するように開く高麗門がある。城内で起こった犯罪人、死者等不浄なものを城内より水上輸送するための不浄門で、全国で唯一存在する。松の廊下で吉良に刃傷に及んだ浅野内匠頭名長矩はこの門から出された。


清水門:徳川御三卿(第8代将軍徳川吉宗が次男・宗武、三男・宗尹を取り立てて別家させたのが御三卿の起こりで、田安家・一橋家・清水家である。さらに、吉宗の長男である第9代将軍徳川家重が、自身の次男・重好を別家させることで、三家の体制が確立した。家格は徳川御三家に次ぐ)の一つ清水家の門


徳川御三卿の一つ田安家の門で、旧屋敷跡が現在の武道館 


乾門:皇室の通用門
この門は明治になってから建てられた京風の門で、御所がある旧西の丸の裏門にあたり、皇居の乾(いぬい)の方角にあるので、 この名がついたそうで、皇居の北西にある門、坂下門の反対側にあたる


千鳥ケ淵戦没者墓苑(ちどりがふちせんぼつしゃぼえん)
東京都千代田区三番町にある「無名戦没者の墓」である。第二次世界大戦の折に海外で死亡した日本の軍人・一般人のうち、身元が不明の遺骨を安置するため、昭和34年(1959)につくられた。「千鳥ヶ淵」とも表記される。


半蔵門:この門は、江戸時代には吹上御庭と呼ばれ、隠居した先代将軍や、将軍継嗣などの住居とされた。現在は吹上(フキアゲ)御苑と呼ばれ、御所(今上天皇の住居)、吹上大宮御所(かつての香淳皇后の住居)、宮中三殿、生物学御研究所、天皇が田植えをする水田などがある。天皇や各皇族の皇居への日常の出入りには、主にこの門が用いられている。一般人の通行は認められていない。太平洋戦争で旧来の門は焼失し、現在の門は和田倉門の高麗門を移築したもので警護が特に厳しく写真撮影する時も警察官から注意される。


半蔵門入口側から見た警視庁


警視庁側から見た桜田門


桜田門から見た警視庁


皇居:二重橋(正門鉄門)、石橋の奥にあり、伏見櫓の下にある


皇居:皇居正門、石橋(正門石橋)


江戸城の石垣に使用されている標準的な石










 











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私から見た日本三名城郭紀行 3 名古屋城

2010年12月21日 | 往年の名車 メグロ
私から見た日本三名城郭紀行 3 名古屋城

名古屋城・・・この城が建つ前にこの場所に那古野城があり、この城で織田信長が生まれたとされている。
徳川家康は、慶長14年(1609年)に、九男義直の尾張藩の居城として、名古屋に城を築くことを決定。慶長15年(1610年)、西国諸大名による天下普請で築城が開始した。
普請奉行は加藤清正、作事奉行は小堀政一、大工頭は中井正清であった。縄張は篠山城に酷似しており、藤堂高虎によるといわている。
天守台石垣は加藤清正が築き、慶長17年(1612年)に大天守が完成した。
名古屋城
徳川御三家の尾張名古屋城昭和27年3月29日に国指定特別史跡・名古屋城跡は、面積:98ヘクタールが「特別史跡名古屋跡」に指定されている

概 要
城郭構造:梯郭式平城
天守構造:連結式層塔型、大天守は5層5階地下1階
昭和34年外観復元(SRC:鉄骨鉄筋コンクリート構造)
築城主 :徳川 家康
築城年 :1610年2月(慶長15年)
廃城年 :明治4年


織田信長誕生の城、那古野城を元に徳川家康が九男義直のために天下普請で築城徳川御三家の尾張徳川17代明治維新まで存続した。
熊本・大坂城とともに日本三名城と称され、私もそれに倣って熊本、大坂。名古屋を紀行した。
名古屋は、昭和37年に始めて訪れ今回が5回目である。

圧巻は、清正が手がけた大天守台で江戸城は別としてこの天守台が一番だと何時も感心する。
天守台、西側、北側の高さが20mあるそうだが(北側の石垣が少し膨らんでいるのが心配・400年の風雪に耐えて来たのだから仕方のない事だろうが)各城の天守台を見てきたが沢山の刻印があり中には、扇子、軍配等々が珍しい。
清正は、天守台を3ヶ月で完成したそうである。

明治6年明治新政府が下した廃城例により14代徳川家慶勝は廃却を申し出たが、中村重遠大佐の尽力で免れた。(たしか姫路城も中村重遠大佐の尽力で残ったのでは??)
昨年12月8日に行った時は、本丸御殿復元の整地は出来ていたが、現在工事は始まっているのであろうか??
完成は平成34年とか・・・・元気であれば行ってみたい。

城内は、明治になり名古屋鎮台が設置、明治5年に歩兵第6聯隊になった記念碑がある。
また、坂の上の雲の主人公の一人である、秋山好古が教師として赴任した名古屋師範学校付属小学校もこの地であった。
昭和20年5月14日、名古屋空襲で天守焼失、昭和34年10月外観復元として再建された立派な天守である。


JR名古屋駅ツインタワーから見た名古屋城天守


西の丸方向から見た天守


御深井丸側から見た清正が築いた天守台、と天守


本丸側からの天守、昭和34年地元商店街市民、全国からの醵金によって外観復元された


小天守から、目隠し用の塀を通り大天守に渡る通路


名古屋城のシンボル「金の鯱」、84%以上の純金で造られ高さ2,7mあったそうだが、現在のものは復元されたもので、復興天守建造のときに、日本国内に数えるほどしか残っていなかった鎚金師で大阪造幣局職員の手により復元製造された。一対に使用された金の重量は88kgである。北側に雄の鯱、南に雌の鯱を上げている。


天守に上っている同じ大きさの模型で、石膏で造り上に金粉を塗っている鯱が天守内に展示されている


天守から見た本丸御殿復元予定地


天守台は清正が担当して築かれた携わった石工達に関係する刻印が沢山残っている・・こんなに多くの刻印が残っている天守台は名古屋城以外では見た事がない


天守台石垣に残る沢山の刻印


名古屋城にも巨石がある・・清正が運び築いた・・しかし巨石の説明版には、この石垣は黒田長政の担当場だったので伝説ではなかろうかとある・・私は清正が運び清正の許可を得て此処に築いたのだと思う


昭和20年5月14日名古屋空襲で焼失する前の名古屋城本丸御殿と大・小天守


昭和20年5月14日名古屋空襲、焼夷弾投下で大火災を起こし焼失した本丸御殿跡と残った大・小天守台


名古屋城築城に大貢献した加藤清正像が名古屋能楽堂傍に建立されている















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私から見た日本三名城郭紀行 2 大坂城

2010年12月20日 | 往年の名車 メグロ
私から見た日本三名城郭紀行 2 大坂城

大坂城
国指定特別史跡・大坂城跡大坂城公園は、面積:107ヘクタールあり、この
うち73ヘクタールが「特別史跡大坂城跡」に指定されている昭和以降、各地で建てられた復興天守の第一号である。
大阪は、度々伺っているが、デジカメ持参で平成20年4月13日・8月25日に伺った。

大坂城は、豊臣氏が築城した当初の城と、落城後に徳川氏が再建した城とで縄張や構造が変更されていて、現在地表から見ることができる縄張はすべて、江戸時代のものである。ただし、堀の位置、門の位置などは秀吉時代と基本的に大きな違いはないとされている。
天守
大坂城の天守は現在までに三度造営されているが、いずれも外観、位置等が異なる。
初代天守(豊臣大坂城)
天守は、複合式若しくは連結式望楼型5層6階地下2階であったと考えられており、外観は、黒漆塗りの下見板張りで、漆喰壁部分も灰色の暗色を用いて、金具や、瓦(金箔瓦)などに施された金を目立たせたと考えられている。一説には、壁板に金の彫刻を施していたというものもある。

立説には、大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)、大坂冬の陣図屏風、大坂城図屏風などが参考にされている場合が多い。特に大坂夏の陣図と冬の陣図では天守の姿が大きく異なっているため、夏の陣のものは再建または改築されたものであると言われ、それに沿った復元案も研究者などから出されている(三浦正幸説)。黒田屏風の姿に近い宮上茂隆の復元案は、大坂城天守閣内の豊臣大坂城再現模型のモデルにもなっている。
二代天守(徳川大坂城)
徳川氏が再建した大坂城の天守は、現在見られる復興天守(大阪城天守閣)の位置とほぼ同じである。江戸城の本丸・初代天守の配置関係と同配置に建てられたと見られている。
天守台は、大天守台の南に小天守台を設けているが小天守は造られずに、天守曲輪のような状態であった。天守へは、本丸御殿からの二階廊下が現在の外接エレベータの位置に架けられていた。建物は独立式層塔型5層5階地下1階で、江戸城天守(初期)を細身にしたような外観で、白漆喰塗籠の壁面であったとみられている。最上層屋根は銅瓦(銅板で造られた本瓦型の金属瓦)葺で、以下は本瓦葺であったという。高さは天守台を含めて58.32mあったとみられている。この事から江戸城の初代天守の縮小移築との説もある。

天守の図面は、内閣文庫所蔵の「大坂御城御天守図(内閣指図)」と、大坂願生寺所蔵の「大坂御天守指図(願生寺指図)」の二つがある。二つの指図は相違しており、どちらかの内部、外観を参考に復元案が出されている。内閣指図の外観は二条城天守とほぼ同じ破風パターンで願生寺指図の外観は名古屋城天守や江戸城天守とほぼ同じ破風パターンである。
復興天守
現在大阪市の象徴となっているのが、大阪城天守閣である。昭和3年に当時の大阪市長関一氏によって再建が提唱され、市民の醵金により昭和6年に竣工した。この市民の寄付には、申し込みが殺到し、僅か半年で目標額の150万円(当時)が集まった。昭和以降、各地で建てられた復興天守の第一号である。

建物は、徳川大坂城の天守台石垣に新たに鉄筋鉄骨コンクリートで基礎をした上に、鉄骨鉄筋コンクリート造りサスベンション工法を用いて建てられた。高さは54.8m(天守台・鯱を含む)。天守閣の中は大阪城天守閣という博物館になっている。
外観は、絵図(大坂夏の陣図屏風)を基に新たに設計されたものである。大坂城の天守は、豊臣大坂城と徳川大坂城のそれぞれで建っていた場所も外観もまったく異なるが、復興天守閣では1層から4層までは徳川時代風の白漆喰壁とした一方、5層目は豊臣時代風に黒漆に金箔で虎や鶴(絵図では白鷺)の絵を描いている。この折衷に対しては諸々議論があり、豊臣時代の形式に統一するべきとする意見もある。

平成8年から平成9年にかけて、平成の大改修が行われた。この時、建物全体に改修の手が加えられ、構造は阪神・淡路・大震災級の揺れにも耐えられるように補強され、外観は壁の塗り替え、傷んだ屋根瓦の取り替えや鯱・鬼瓦の金箔の押し直しが行われた。また、身体障害者や高齢者、団体観光客向けにエレベータが小天守台西側(御殿二階廊下跡)に取り付けられた。
豊臣時代・徳川時代の天守がいずれも30数年で焼失したのに比べ、昭和の天守は建設後70年を超え、最も長命の天守になった。平成9年、国の登録有形文化財に登録されている。施行は大林組で、たしか名古屋城も大林であったと記憶している。
東京墨田区に建設途上の「東京スカイツリー・電波塔」も大林組、この会社は特殊建設には特技とする技法が培われている。

豊臣秀吉
尾張国愛知郡中村郷中中村(現在の名古屋市中村区)で生まれ名は、藤吉郎といわれ、その後木下藤吉郎秀吉、羽柴秀吉、関白職を賜る為、藤原秀吉となり、天正14年(1586)9月朝廷から関白職を賜り、姓も豊臣を賜った。それまで藤・橘・源・平氏であったが新たに豊臣が加わり5氏と言われた。百姓の出から天下人まで上り詰めた豊臣秀吉、日本で一番出世した人物で築いた城も一番大きな城であった。
秀吉の辞世の句「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」

加藤が運んだ巨石

清正は、秀吉の遠縁に当たり、豊臣家に生涯尽くした。秀吉が下し朝鮮出兵にも付き合い、本当に忠義の人。
城内に「肥後石」と呼ばれる33畳ほどもの石があるが、昭和34年の本格的学術調査まで、城内No.2の巨石で清正が運んだもの、と言われてき。徳川大坂城を築くとき、命により諸大名が持ち場を競ったことを、ずっと誰も知らなかった。

肥後石は、高さ5.5メートル、最長部の長さ14メートル、約33畳・120トンもあります。巨石ランキングNo.1(蛸石)はもうちょっとだけ大きく、岡山の池田家が担当した。


昭和になり日本で最初に復興天守として再建された大坂城天守、昭和6年市民の醵金で造られ、4層までが徳川時代で、5層が豊臣時代の複合型天守


現代大阪市のシンボル「大坂城天守」南面下から仰ぎ見た


北側から見た天守


昭和20年の大阪大空襲で1トン爆弾が投下され、爆風で天守台の石垣がずれた


大坂城大手門「高麗門」ここにも大きな石が使われている


大手門左側の石垣、大阪城の石垣は大手門向って左側から積み始め10年掛けて大手門右側まで積み上げた。よく見ると大手左と、右側の石の積み方が違う


10年掛けて積み上げた大手右側の石垣、よく観察すると石積の違いがよく分かる


32m「水面から24m、水深6m基礎の根石を含めると32m」の高石垣日本の城郭の中で一番高い石垣、二番目の高石垣は、藤堂高虎が築いた伊賀上野城の高石垣(29,7m)である・・日本一の石垣にするため大坂城の高石垣は32mにした



大坂城には巨石が沢山あるが、桜門枡形にある「蛸石」がNO1である
大きさは高さ5m・横11,7m・面積59,43㎡、岡山藩池田忠雄が備前大島から切り出し石垣を築いた


大坂城には巨石が沢山あるが、NO2の石で京橋門枡形にある「肥後石」で大きさは高さ5m・横14m・面積54,17㎡、熊本藩加藤清正が小豆島から切り出し石垣を築いた


大坂城でNO3番目に大きい巨石で桜門枡形にある「振袖石」、大きさは高さ4,2m・横13、5m・面積53,85㎡、岡山藩池田忠雄が備前大島から切り出し石垣を築いた


大坂城天守北側の下にある秀頼・淀の自刃の碑


KKR大阪からみた大坂城


大坂城本丸にある秀吉時代の史跡調査用の立坑(普段は鉄製の蓋がされている)


香川県小豆島にある大坂城残石公園に展示してある、切り出した石を筏に積んで大坂城に運んだ当時の様子、また大坂城に運ばれて行くはずであった残石が沢山残っている


香川県小豆島に残る大坂城石垣石切丁場の今も残る巨石





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私から見た日本三名城郭紀行 1 熊本城

2010年12月17日 | 往年の名車 メグロ
私から見た日本三名城郭紀行 1 熊本城

現存12天守紀行を尋ね歩いて来た。
次は、私一存による日本三名城郭を紀行してみた。
近世の城郭創建の原点となった安土城、その後江戸時代初期にかけて城が築城されてきた。その中で築城の名人と謳われた、加藤清正、藤堂高虎の名が出てくる。
名城には、いろいろと諸説があるが私なりに文献、資料を参考にして名古屋城・大阪城・熊本城を日本三名城と設定し再度デジカメを持って紀行する事にした。

何故日本三名城と呼ばれるかとある資料を紐解いてみると、江戸時代初期、城造りの名人と言われた加藤清正、藤堂高虎によって普請が行われた城のうち、特に石垣の美しさをもって名古屋城、大阪城、熊本城を日本三名城と呼ぶようになったそうだ。
当時の基準では、城のよしあしは、建築(作事)よりも石垣(普請)にあったようだ。

私の独断と偏見で、名古屋城・大阪城・熊本城にした。
この三条城は、数10年前に行きましたが、持参したカメラがデジカメ時代でなかったのとゆっくり時間を掛けて紀行出来なかったので改めて紀行することにした。
では、先ずは熊本城です。

熊本城
昭和30年に国指定特別史跡・熊本城跡は、面積:98ヘクタールが「特別史跡熊本城跡」に指定されている
昭和35年の熊本国体開催に合わせ熊本市は、一般からの寄付を募り1億8000万円の費用をかけ外観復元で大小天守を再建し大天守の内部は、熊本市立熊本博物館の分館となっている。
築城400年を記念して本丸御殿が今年4月完成したのを機会に4回目の訪問である。
一回目は、昭和37年開催された熊本博覧会の時で二回目が昭和60年、三回目が平成16年7月16日そして今回平成20年9月24日・25日に行った。

城郭構造:梯郭式平城:(本丸を城郭の片隅に配置し、他の曲輪ではしごのように囲む縄張である)
天守構造:連結式望楼型、大天守は5層6階地下1階:昭和35年外観復元
築城主 :加藤 清正
築城年 :1607年
廃城年 :明治7年
熊本城は、豊臣秀吉に仕えた加藤清正が安土桃山時代、天正16年(1588)に肥後北半国を与えられ、隈本城に入城し天正19年に茶臼山に新たな城を築城開始した。

途中文禄・慶長の役で中断したが城が完成したのは慶長12年(1607)で、この時、隈本から熊本に改名した。
清正は、幼少時代から、ねね「政所」にくま、くまと可愛がられ生涯忘れる事はなかった。
本丸御殿の建設も大坂で変が起こった時には豊臣秀頼を迎えるために創建したといわれており、難攻といわれた大坂城は家康の攻略にあって落城したが、熊本城は不落であった。 
城は明治まで残っていたが明治10年西南戦争の時焼失し、焼失の原因は一説には、熊本鎮台司令官、谷 干城が官軍兵の決意をかためるためみずから火を放って焼いたという。

西郷軍の包囲猛攻にあいながらびくともしなかったのは、さすが清正が築いた名城と賞賛され西郷隆盛曰く、官軍に負けたのではなく加藤清正公に負けたと言われたとか??
現在、宇土櫓を始め12基の櫓が現存し清正が築いた高石垣もほぼ完全な形で残っている。門、続き塀等々の復元が進んでいる熊本城である。
平成20年9月25日、本丸御殿が復元されたので訪れた。


冠木門の頬当御門・本丸中心部を顔に見立てて顔に付ける小具足の名をつけたといわれる。正面玄関入城券・ガイドの出発地点。


清正流の天守台に建つ本丸正面からの大・小天守・高さ57,8m
清正は、熊本城築城に要する費用の殆どは貿易で捻出し、住民の負担を軽減したといわれている。平成10年4月「熊本城復元整備基金」を創設し賛同し寄附金をした者には城主と称し氏名を天守に掲示している。


石垣天端より大きいな大天守一階:天守台より大きい長い土台材が敷かれ、石垣より大きい一階が建った。忍者返しに使われた。


鉄串忍返:小天守の一階石垣と接する所には両刃の鑓刃が下方を向いて設置され外部からの侵入を防ぐ忍者返しがある。


二様の石垣:清正時代の緩やかな扇の勾配(右)と細川時代の急勾配の石垣


宇土櫓に設けた、犬走状の帯曲輪:地質的に水掘や高石垣が築けない所に城側面に設け敵を引き付け近距離攻撃をする。
宇土櫓は、他藩の天守並みの天守建築櫓で国指定の重要文化財である。


高石垣:高さ25mの高石垣30度から始まり中間で55度、天端では75度になる武者返しと呼ばれている。熊本城は地盤が軟弱であったために石垣の裾を広く緩やかな勾配にして石垣の座りをよくした技法である。


長塀と石垣・石垣、長塀の長が242、44mで日本一である。塀の下を川に沿って歩く事が出来、坪井川は内濠であった。


本丸御殿:防御を考えて地下に玄関を設営した。


本丸御殿、大御台所:良質な木材をふんだんに使い凄い台所である。


本丸御殿、昭君之間:大坂で変が起こった時には豊臣秀頼を迎えるために創建した豪壮な特別な部屋


























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