EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

第17回全国障害者スポーツ大会~愛顔(えがお)つなぐえひめ大会開会される

2017年10月30日 | 伊予松山歴史散策

第17回全国障害者スポーツ大会~愛顔(えがお)つなぐえひめ大会開会式にご臨席になる皇太子殿下をお迎えする関係者と貴賓席。

 10月28日(土)、第17回全国障害者スポーツ大会~愛顔(えがお)つなぐえひめ大会が雨天の中、皇太子殿下をお迎えして日本国内最大の障害者スポーツ大会が愛媛県総合運動公園で開会式が行われました。

式典は、全国47都道府県と20の政令都市から参加した役員・選手2千人の皆さんと、地元の式典演技出演者、大会を陰から支えるボランティア、2万2千人が参加して盛大に行われました。

開会式は、開催県である、中村時広愛媛知事の開催宣言、文部科学大臣の祝辞、皇太子殿下のお言葉を頂き選手・役員の入場行進が始まり、最後に愛媛県選手団230人が入場しました。台風22号の影響で雨天の中、雨具を着用して入場となりました。

選手入場時には、昨年開催の岩手県からは、「東日本大震災復興の架け橋・いわて国体、多くのご支援・暖かいご声援ありがとうございました」。そして来年開催地、福井県からは、「福井しあわせ元気大会、来年は福井でお会いしましょう」。愛媛県からは、「愛顔(えがお)つなぐえひめ大会・ようこそ愛媛へ」の横断幕を掲げて入場した。

生憎台風22号の影響で雨天のため一部の競技が中止となり、この日の為に日々練習してきた技が発揮できず残念であった事でしょう。

なお、第17回全国障害者スポーツ大会~愛顔(えがお)つなぐえひめ大会は10月30日(月曜日)午前中まで開催され、午後から閉会式を愛媛県総合運動公園で行われます。

第17回全国障害者スポーツ大会「愛顔(えがお)つなぐえひめ国体」の開会式、選手役員の入場を先導する愛媛県警察音楽隊の女子隊員。・・雨天の中雨具を身に着けずの演技です。

第16回、昨年開催の岩手県からお礼の横断幕。

第18回、来年開催地福井県からは横断幕を持って入場行進。

地元愛媛県から、歓迎の言葉でお持て成しの横断幕を持って入場行進。

全国47都道府県と20の政令都市から参加した役員・選手2千人の皆さんが一つのフイルドに集結。

全国47都道府県と20の政令都市から参加した役員・選手2千人の皆さんに対して歓迎の挨拶と、開会宣言をする、中村時広愛媛県知事。

皇太子殿下からのお言葉を頂く。

皇太子殿下の御来県は、平成20年開催の全国育樹祭依頼9年振りです。

全国47都道府県と20の政令都市の団旗が、半円形に集まり選手宣誓をする。

第17回全国障害者スポーツ大会「愛顔(えがお)つなぐえひめ国体」の開会式で選手を代表して選手宣誓をする愛媛県選手の男子・池田 斉選手 女子・谷岡 真帆選手。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

EEK紀行・画像で回顧 現存12天守 5 国宝彦根城天守

2017年10月27日 | 伊予松山歴史散策

平成19年5月15日と平成22年3月20日に伺いました。

今年のNHK大河ドラマ「おんな城主直虎」の舞台となった彦根城、多くの観光客で賑わった事でしょう。

関ヶ原の戦いで、井伊の赤備えで戦い、武勲をあげ18万石を拝領、その後35万石になり、筆頭譜代大名として国替えがなかった井伊家、優遇されたのには色んな諸説があります。

幕末、大老井伊直弼が有名で、最近では、国宝、彦根城築城400年祭で登場したマスコット「ひこにゃん」各地で活躍する「ご当地ゆるキャラ」の元祖で有名ですが、一時期著作権でもめていました。

さて、彦根城に帰ります

明治6年、明治新政府は廃城令を公布、一番最初に取壊命令が出されたのが彦根城と言われています。

解体の危機にみまわれた彦根城は、明治天皇が明治11年10月、北陸巡幸を終え、彦根を通られたときに、保存するようにと大命を下されました。

一説には、随行した大隈重信がその消失を惜しみ、天皇に保存を直訴して残ったとする説。 また一説には、天皇が近江町長沢の福田寺で小休止されたとき、住持攝専夫人で、天皇の従妹に当たるかね子が直訴したとも言われています。

彦根山(別名・金(こん)亀(き)城(じょう)、標高136m)に天下普請で築城された天守です。

私の故郷、伊予松山城の山も勝山(別名・金(きん)亀(き)城(じょう)、標高132m)と言い、遠くから見るとよく似ています。(天守の造りは全く異なりますが)

 

北国、東国と大坂を結ぶ重要な地点、大坂に馳せ参じる外様大名を彦根城で食い止め、大坂への補給路も断ち切る目的があった。徳川家康の命令で12家の大名たちの負担により完成した城です。

彦根城天守入口、多門櫓から入ります。

徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至った彦根藩の象徴の城。

そして一度も国替えがなかった大名です。

天守妻側の切妻破風と唐破風、華灯窓があり、絢爛豪華な天守で、廃城を免れ国宝として現存天守の中では破風、華灯窓が沢山あり手の込んだ造りの天守、大隈重信も、この天守を破却するのは忍び難いと思ったのではないでしょうか。

私が伺った時には画像の様な掲示板で告知してありました。

太鼓門続櫓。

野面積みで積まれた横矢掛の石垣。

本丸に入る最後の門「太鼓門」

廊下橋(片方が落ちることで、敵が渡れないようにする。)

天秤櫓。

玄宮園から天守を望むのが一番綺麗と言われている彦根天守。

現存12天守の平山城の中で一番高い所にある天守、標高136mにあり、次が伊予松山城天守で132mの山頂にあります。

彦根城には、登り石垣があるそうですが、私は見聞せずに帰りました。

何方か、城の何処にあるのかお教え下さいませんか。

登り石垣は、彦根城・洲本城・伊予松山城の三カ所しかない貴重な石垣です。洲本城の登り石垣は現存しないそうです。伊予松山城の登り石垣は最大で、南側の登り石垣は完全に当時のまま現存しています。

天守内の階段で、現存天守の階段はどれも急な階段です。

井伊直弼生誕地の碑、滋賀県彦根市・楽々園にありました。

開国の英傑井伊直弼、文化12年(1815)10月29日に父直中の14男としてこの屋敷で生まれました。

彦根城の京橋口の角を曲がると、江戸時代の城下町風の街並みが目に飛び込んで来ます。白壁と黒格子で統一された350mの街並みは、夢京橋キャッスルロードと言い、正式名称は夢京橋商店街と呼ぶそうです。

夢京橋キャッスルロードの辻には、石碑が建立してあります。

夢京橋キャッスルロード中程にあるお店「たかさご」。

 

たかさごの店主、北村久雄さんです。お元気ですか、その節は色々とお世話になりました。

夢京橋キャッスルロードの整備に当たり、リーダーシップをとったのは小児科の診療所を開業していたお医者さんで、この人なくしては夢京橋も実現しませんでした。こうして「夢京橋キャッスルロード」は整備された。と・・話して頂きました。

たかさご(北村久雄さん)の玄関には鍾馗さんが揚がっていました。親子の鍾馗さん初めて見ました。

北村さんに大津市にも鍾馗さんが数体ある事を教えて頂き、平成22年9月9日、新潟市の帰りに写真を撮りに行きました。この時は松山から車で新潟市に行き帰りは、日本100名城(一条谷城・小諸城・松代城・高遠城・岩村城・長篠城・岡崎城・岐阜城・小谷城・安土城・観音寺城・篠山城・竹田城)を見学して帰りました。なお、一条谷城は新潟に行く途中に行きました。新潟には、平成22年9月8日、新潟市江南区沢海にある、北方文化博物館で秋山好古と新潟の人々と題しての講演会(講師は、現、北方文化博物館・神田館長)がありその出席のために行きました。

なおこの時伺った城は、後日回顧日本100名城巡りとしてブログに掲載したいと思っています。

 私のブログタイトルは、昨年まで「鍾馗さんと名城巡り&秋山好古揮毫石碑紀行」と言う長い表示でしたが、今年1月1日から、「EEKの紀行春夏秋冬」に変更しました。鍾馗さんも、名城巡りも、そして好古揮毫石碑も殆ど調査が終わりましたのでタイトル変更しました。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山岸良二先生、秋山兄弟生誕地で講演される

2017年10月20日 | 伊予松山歴史散策

予てより計画しておりました山岸良二先生の講演会が、10月18日(水曜日)午後2時より秋山兄生誕地武道場で開催されました。

定員70名で着席を準備していましたが、90名の参加者があり盛大な講演会でした。

講師の山岸先生は、日本考古学協会全国理事で、千葉県習志野市文化財審議会会長をされており、昨年まで東邦大学付属東邦中・高等学校の教諭をされておられました。

現在は、引き続き東邦大学付属東邦中・高校講師としてまた、昭和女子大学教授、放送大学の講師として活躍されておられます。

山岸先生は、習志野騎兵連隊についての研究では第一人者で、特に秋山好古に関しては奥深く研究をされておられます。

日本騎兵の父と呼ばれた秋山好古は、千葉県習志野から騎兵第一騎兵旅団長として騎兵隊を率いて日露戦争に出征し、遼陽、黒溝台、奉天の戦いで奮戦激闘し、日本の勝利に大きな貢献をしました。

今回の講演演題は、「秋山好古と習志野騎兵旅団」で好古を軸にその人物に迫る大変貴重な講話であり参加者は熱心に聴講されていました。

松山市民の知らない好古の凄さを改めて確信した思いでした。

なお、今回の講演会には習志野市から、山岸先生と奥様、習志野騎兵連隊史跡保存会代表で、習志野市大久保商店街理事長の三橋正文さん、習志野郷土史普及会の平野さん、習志野市商店連合会事務局長、竹内昌子さんの5人が秋山邸にお越しになられました。

翌日の10月19日(木曜日)午前中は、大正13年3月から昭和5年3月まで務めた北豫中学校(現、愛媛県立松山北高等学校)を視察、午後は、現存12天守の一つ伊予松山城を見学され、夕方空路帰路になられました。

画像はその様子です。

松山市歩行町二丁目3番地6にある秋山兄弟生誕地で、画像左側の建物が武道場です。講演会はこの建物で開催されました。

生誕地の土地は、伊予松山藩主から頂き、江戸時代から変わっていない敷地です。

講演会会場の秋山兄弟生誕地武道場入り口に掲示した案内板。

秋山好古の信条「簡単・明瞭・質素・倹約」の指針に基き、手作りの案内板です。

開場前の秋山兄弟生誕地武道場内部です。

秋山眞之が提唱して創設された「松山同郷会」名残の武道場で、現在は柔道と合気道の錬成をしています。

講演会開場前の秋山兄弟生誕地武道場内部です。

定刻の午後2時、講演会に先立ち挨拶を述べる常磐同郷会、平松昇理事長。

今回の講演会の後援をして頂いた、習志野騎兵連隊史跡保存会会長・千葉県習志野市大久保商店街理事長、三橋正文さんが、講師の山岸先生の紹介とご挨拶をされた。

挨拶をされる習志野騎兵連隊史跡保存会会長・千葉県習志野市大久保商店街理事長、三橋正文理事長。

講師の山岸先生の紹介をされる三橋正文さん。

 講演をされる、山岸先生。

 演題は「秋山好古と習志野騎兵旅団」

秋山兄弟生誕地武道場が一杯になった講演会場。

松山市民が知らない秋山好古の神髄が語られ、参加者は熱心に山岸先生の話に聞きほれていました。

山岸先生は、参加者一人一人に詳しい資料を作成して分かりやすい講話をされた。

熱弁を振るい講話をされる山岸先生、聞く方も真剣です。

習志野騎兵第14連隊の連隊旗を復元しその説明をされた。

当時騎兵連隊は、171連隊あったが、習志野には、第13・14・15・16連隊が駐屯しており、この4連隊が突出して精鋭の騎兵隊であった。有事になると騎兵第一旅団、第二旅団として編成され活躍した。特に日露戦争で一番の激戦、黒溝台を制したのは、秋山好古が率いた騎兵第一旅団(秋山騎兵支隊)の大活躍があったからだと話された。

騎兵第13連隊・14連隊は、平時は近衛師団に属し、精鋭の騎兵連隊であった。有事になると、騎兵第一旅団として編成された。

秋山兄弟生誕地で活動している研究員、受付を担当しました。

 秋山兄弟生誕地で活動している研究員、各位受付、会場案内等々を担当した。

習志野騎兵連隊史跡保存会の方達と秋山兄弟生誕地の役員。

左側の男性が、習志野騎兵連隊史跡保存会三橋正文会長、右側の男性が山岸先生、平成24年10月31日、習志野騎兵連隊跡を視察研修に伺った時お世話になりました秋山兄弟生誕地の研究員各位。松山での記念にと写真に収めました。

講演会の翌日10月19日、伊予松山城見学された習志野市の皆さん。

NHKドラマ「坂の上の雲」この場所で、秋山好古を演じた「阿部寛さん」秋山眞之を演じられた「本木雅弘さん」正岡子規を演じた「香川照之さん」の3人にが撮影した場所で一枚。

NHKドラマ「坂の上の雲」に出て来る画像です。

後方の天守が伊予松山城天守。

習志野騎兵連隊史跡保存会の皆さんをご案内しここで撮りました。

過密スケージュールの中、松山名物の宇和島風タイ飯を食されました。

時間がなく、ゆっくりと美味しく味合う事が出来なかったと思います。

習志野にお帰りになる三越松山店前のバス停までお見送りをしました最後の写真。中身の濃い素晴らしい講演有難うございました。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブルーインパルス(青い衝撃)についての学習

2017年10月13日 | 伊予松山歴史散策

9月30日、愛媛国体開会式で祝賀飛行をしたブルーインパルスの雄姿が私の脳裏に強く残り少し勉強しようと思い色んな資料を紐解いてみました。

ブルーインパルスの前身は、旧日本海軍航空隊の戦闘機分隊長だった小林淑人大尉が、国民の前で曲技飛行を実施したのが始まりで、昭和8年源田実が戦闘機分隊に配属され、編隊特殊飛行チームを受け継ぎ、編隊特殊飛行チームは「源田サーカス」という通称が定着していたそうです。

その後、戦争の激化と共に編隊特殊飛行は行なわれなくなり、戦後(サンフランシスコ講和条約以降が戦後と私は考えている。)昭和25年、朝鮮戦争勃発の時マッカーサー元帥の指示により警察予備隊が組織され、昭和27年10月15日、浜松に航空学校が設立、昭和29年5月松島基地で飛行訓練が始まり、同年7月1日、航空自衛隊が発足しました。

そして源田実の尽力で、現在のブルーインパルスが誕生し、航空自衛隊本来の活動以外の一つとして「ブルーインパルスの」展示飛行を行うことになったとあります。

有名になった展示飛行は、昭和39年東京オリンピック開会式で五輪を描き、昭和45年の大阪万国博覧会では、"EXPO'70" の文字を描き、平成10年、長野オリンピックでも展示飛行をしました。

この様に航空自衛隊の航空祭や国民的な大きな行事などで、華麗なアクロバット飛行(展示飛行)を披露する専門のチーム、それがブルーインパルスで、正式名称は、宮城県松島基地にある第4航空団に所属する「第11飛行隊」、最初の名称は、浜松基地の近くを流れる天竜川にちなんで、天竜の愛称となる予定であったが、「インパルス・ブルー」とした。しかし語呂が悪く、逆にして「ブルーインパルス・(青い衝撃)」としたそうです。

私の同級生も、5人が航空自衛隊に入隊、一人は殉職、二人は除隊し他の職種に付き一人は、定年退官後もいい技術を身に着けていたため後輩の指導者として岐阜各務原基地で活躍していました。

画像は、私の学生時代の後輩、東京都武蔵村山市在住の小島氏が、平成27年11月3日、航空自衛隊入間基地祭で撮影した画像で、承諾引用しました。

青と白の6機の機体が、大空で飛行する様は壮大です。

9月30日、愛媛国体開会式で祝賀飛行をしたブルーインパルスを見ようと、開会式会場近くのいろんな場所から多くの松山市民が初めてブルーインパルスを観戦しました。天候は快晴であったので最高の祝賀飛行を見る事が出来ました。

画像には、ブールインパルスの飛行形態をアップしてますが、私にはその名前が分かりませんので説明は記載しておりません。

撮影した小島氏の撮影技量に敬服、何といっても好天気の条件下で撮影出来たことが一番です。

なお、最後の3枚は私が撮影した画像です。

ブルーインパルスの飛行場所で、展示飛行が行われるのは、各地の航空自衛隊の基地で行われる「航空祭」が主で、国民的な行事への参加とあります。愛媛国体開会式で祝賀飛行は、国民的な行事に該当しての飛行であった。展示飛行が出来る視界は、目視で8Km以上が必要でそれ以下では行われないそうです。

ブルーインパルスの国体での展示飛行は、平成24年8月の「ぎふ清流国体」、平成25年9月の「スポーツ祭東京 2013」、平成26年10月の「長崎がんばらんば国体」、平成27年9月の「紀の国わかやま国体」、平成28年年9月の「希望郷いわて国体」の各開会式で祝賀飛行をしています。そして平成29年9月の「愛顔(えがお)つなぐえひめ国体」の5回目の展示飛行が行われました。

愛媛県では平成11年5月に行われた「瀬戸内しまなみ海道開通式典」での展示飛行以来、18年ぶりの実施でした。

青空をバックに、白いスモークを出しながら迫って来る機体迫力満点。

画像の飛行形態は、「デルタ・ダーティ・ローパス」で、9月30日、第72回国民体育大会・愛媛国体開会式で祝賀飛行をした飛行形態です。会場の司会者が、ブルーインパルスが祝賀飛行を披露します。演目は「デルタ・ダーティ・ローパス」と言う飛行演目ですと司会者から説明がありました。天皇皇后両陛下も開場から観閲されました。

平成27年11月3日、航空自衛隊入間基地祭の様子。

多くの親子ずれの航空愛好者が伺えます。青空背景に行われるアクロバット飛行、空挺団の落下傘訓練披露、日頃の航空自衛隊の訓練から体得した技量を国民に知って頂くいい機会、そして我が国を空から防衛する最前線で活躍している航空自衛隊。上空で展示飛行するパイロットは、花形であるが、地上部隊の支援があっての事。

千葉県習志野陸上自衛隊「第一空挺団」から、航空自衛隊入間基地祭に応援飛行。

千葉県習志野陸上自衛隊最強部隊として名高い「第一空挺団」。部隊は、日本で唯一の空挺部隊であり、精鋭揃いの猛者が所属しています。陸上自衛隊でも特別視されるこの最強エリートといわれています。隊員になるには、厳しい制約がありそれをクリアした精鋭部隊だそうです。

習志野駐屯地の中に秋山好古が揮毫した「軍馬慰霊の碑」が建立してあります。

此れからの画像は、平成24年10月31日、秋山兄弟生誕地の研究員を引率して研修に伺った陸上自衛隊習志野駐屯地での画像で私が撮影したものです。

平成24年10月31日、第一空廷団(千葉県船橋市)の正面玄関で、習志野駐屯地正面玄関門柱左には「第一空廷団」の表示板があります。

習志野駐屯地正面玄関右側門柱には「陸上自衛隊習志野駐屯地」と「航空自衛隊習志野分屯基地」の表示板があります。

陸上自衛隊習志野駐屯地の正面玄関で撮影、駐屯地内部の建物、施設等々が写らない様に・・が撮影条件でした。

画像左端は、秋山好古の孫、秋山哲兒さんです。

陸上自衛隊習志野駐屯地内の「空挺館・旧御馬見所」前に、秋山好古が揮毫した「軍馬慰霊之碑」があります。その前で、秋山兄弟生誕地の研究員が研修に行った時の画像です。秋山好古が昭和5年3月、北豫中学校(現、愛媛県立松山北高等学校)校長を辞任し東京に帰り、習志野からの依頼で「軍馬慰霊之碑」を昭和5年10月5日に揮毫し、石碑の建立は同年11月、この時好古は、陸軍病院で逝去していた。この文字が好古の絶筆となりました。大正時代この地に陸軍騎兵学校があり、好古は第二代目の陸軍騎兵学校長を務めていました。秋山好古ともご縁のある地です。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

えひめ国体終了・愛媛県の成績天皇杯・皇后杯共に第2位

2017年10月11日 | 伊予松山歴史散策

平成29年9月30日(土)、第72回国民体育大会愛媛国体総合開会式で競技が始まり、各都道府県から参加した選手の皆さんは、郷土の栄誉のために持てる力を発揮した戦いが10月10日に終了、秋篠宮両陛下をお迎えして、快晴の秋晴れの下予定の競技は無事終了し閉会式が行われた。

そして、TV画像で天皇皇后陛下が来県された三日間を回顧してみた。

総合開会式前日、9月29日特別機で松山にお越しになられた両陛下。

松山空港にお着きになられ、大勢の愛媛県民の出迎えに手を振られる陛下。

宿泊される松山全日空ホテル、此処に二泊されました。

宿泊先の松山全日空ホテル前に大勢の愛媛県民が提灯を持ってお出迎えをした。

大勢の愛媛県民の出迎えに対して、ホテルの窓から手を振られてお出になられた。

9月30日、第72回国民体育大会総合開会式にご臨席され、都道府県の選手団に拍手で迎えられた。

10月1日午前中、日本最古の温泉「道後温泉本館・国指定重要文化財」を見学され、出迎えた地元小学生に美智子妃殿下は優しいお言葉を送られた。午後、愛媛県武道館で剣道競技を視察、その後松山空港からお帰りになられた。

両陛下は、3日間過密スケジュールをこなされて午後3時過ぎ松山を後にされた。

松山空港で見送りに来た愛媛県民に対してお別れの挨拶をされた。

画像の通り3日間で10万人の県民が両陛下のお出迎えをしたそうです。

第72回国民体育大会・愛媛大会の総合開会式と陸上競技&総合閉会式が行われた愛媛県陸上競技場で、昭和55年開催の全国高等学校総合体育大会時に建設された。

愛媛大会の総合開会式に祝賀飛行を披露したブルーインパルス。

ブルーインパルスの育ての親、源田実さん、昭和19年、海軍松山航空隊剣隊司令官として松山に在籍していた。

源田実さんは、世界最強の航空隊を編隊する事を大きな目標を立てて横須賀で、三四三航空隊を結成、現地は、源田さんの好きな松山航空基地がいいと言う事で、松山海軍航空基地に置いた。当時松山には、最新鋭の隊員1500名(操縦者・整備士)がいたと言われている。

三四三航空隊の編成は次のようなもので、三四三航空隊(属名:剣部隊)指令:源田大佐、その下に、戦闘三〇一飛行隊(新撰組)、戦闘四〇七飛行隊(天誅組)、戦闘七〇一飛行隊(維新組)、偵察第四飛行隊(奇兵隊)、戦闘四〇一飛行隊(極天組)が昭和19年12月正式に編成され、昭和20年1月15日に源田航空隊指令が松山に赴任した。

源田実さんは、何故か松山がお気に入りで晩年も松山で過ごされ、松山で逝去された。

ブルーインパルスの指揮官も、この事を承知して祝賀飛行を披露した。

10月10日、愛媛国体全ての行事が終了し秋篠宮殿下、妃殿下をお迎えして閉会式が秋晴れの下晴れやかに挙行された。

さて、天皇杯・皇后杯の結果は。

成績は画像の通り、愛媛県は過去最大の成績を収めた。

第二位で天皇杯を受ける愛媛県。

第二位で皇后杯を受ける愛媛県女子選手代表・・笑顔で。

閉会式最後の行事、日本国民体育大会旗の受渡し、中村愛媛県知事から次回開催地の西川福井県知事の・・お願いします・・有難うございましたの言葉が掛けられたのでは。

健闘を讃えて中村時広愛媛県知事と愛媛県選手団との記念撮影。

愛媛県選手団、役員の皆さんご苦労様でした。

閉会式後、画像の言葉を発表された。

愛媛県選手団の先頭に立って天皇杯・皇后杯第一位を目指してきた指導者である。

中村知事は、愛媛発展の為によく仕事をされる知事さんです。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする