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秋山好古 揮毫石碑 宇和島市吉田町「忠魂碑」再記

2011年07月01日 | 秋山好古 揮毫石碑 宇和島市吉田町「忠魂
 平成21年12月4日大阪から秋山兄弟生誕地に来られた(宇和島市吉田町出身)方から吉田町の安楽寺さんに秋山好古揮毫の「忠魂碑」がありますとお教え頂きました。早速、安楽寺さんに所在を確認したところ「あります」との連絡を頂き、平成21年12月6日取材に行ってきた。この時撮った画像がPCから削除され画像を失ったので、本日、平成23年6月30日再び写真撮影に行ってきた。

大正13年に建立し場所は、小学校の傍で、昭和20年11月に米英部隊が進駐して来てこれを見た将校から「連合国最高司令官マッカーサーの命令で撤去せよ」と撤去指示が出され、その時住職曰く、「私が罪を被るからわが寺に引き取り再建立する」と言われそれから安楽寺が護って来たと今日伺った。

安楽寺に行って見ると、山下亀三郎氏寄進の注連石があり由来を伺うと、山下家と安楽寺は、親戚同様の付き合いをしていると聞き、帰りに山下家にも寄ってみた。山下亀三郎氏は、庄屋山下家7人兄弟の末っ子で、山下汽船の創業者であり、秋山眞之は彼の箱根の別荘で亡くなったのである。眞之とは、生前深い交友があった。

忠魂碑を建立に当たって好古に揮毫依頼をしたのはたぶん山下亀三郎氏がお願いしたのではないですかと奥さんに伺うと「そうでしょうね」と語った。

また、好古揮毫石碑の話を聞くと戦後進駐軍の命令で撤去廃棄された好古揮毫の石碑が沢山あったのではないかと思った。愛媛県護国神社の石碑も松山市立清水小学校校庭にあった石碑「天壌無窮」は進駐軍の命令で撤去命令排除されたものである。・・・これは義務教育の場に揮毫者「陸軍大将」肩書きの揮毫石碑があるのはGHQとしては許しがたい事項だったのではないかと思う。

奥さん曰く、「現代の人々はこの時代のことなど関心がなくなりました。今回NHKで坂の上の雲が放映される事は、時代を振り返り良きものはどしどし取り入れて立派な国づくりの一翼になればいいですね」と語った。
私も同感である。これからも好古揮毫の石碑調査を継続して行く心構えを強くした。

平成23年6月30日に再度写真取材をした。

1.碑   文 :  忠魂碑
2.所 在 地:  宇和島市吉田町河内甲371  安楽寺
3.揮 毫 者:  陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者:  記載無し
5.建立年月日: 大正13年11月 
6.碑石大きさ: 高さ 1m56㎝  横幅 82㎝  厚さ 21㎝

昭和20年11月に米英部隊が進駐して来てこれを見た将校から「連合国最高司令官マッカーサーの命令で撤去せよ」と撤去指示が出され、その時住職曰く、「私が罪を被るからわが寺に引き取り再建立する」と言われそれから安楽寺が護って来たと伺った。・・・現在も安楽寺で祀っている。平成23年6月30日撮影。


安楽寺本堂。(臨済宗妙心寺派)


喜佐方小学校の表示板。


喜佐方小学校で、大正13年11月ここ小学校に建立された。


昭和48年5月27日、日清・日露・大東亜戦争戦役で戦死された合同忠霊塔が建立された。ある関係者が安楽寺住職に忠霊塔が出来たから忠魂碑はいらないのでは・・と言葉を発したら・・住職曰く忠霊塔とは訳が違うのだ・・と激怒されたそうだ。


山下亀三郎さんの生家。


宇和島市立簡野道明記念吉田町図書館の表示板。昨日6月30日伺ったら、月末整理休館日であった。


簡野道明記念吉田町図書館建設当時の館長さんが安楽寺の住職さんで、見学に来る方々は、館長さんが住職さんだから寺院様式で建築されたのですね・・と質問されるそうです。
図書館の建物は、明暦3年(1657)宇和島藩初代藩主、伊達秀宗の5男、伊達宗純が3万石を分地され、伊予吉田藩を立藩、翌万治元年(1658)伊予吉田藩の陣屋を築いた。昭和61年陣屋跡に漢学者、簡野道明を記念して京都市の二条城を参考にして陣屋風の建物として建てられた。・・と言われている。
また館長さんは、図書館建設の為に別府大学で司書の資格を修得され建設に尽力された。・・とも聞いた。

註:簡野道明(かんのどうめい):(本名:かんのみちあき) 慶応元年(1865~1938)
吉田町出身の漢学者であり、漢和辞典「字源」の著者である。

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