秋山好古揮毫の石碑調査を初めて16年、その間各方面の方々から好古が揮毫した石碑情報を頂きました。その数53基発見され、昨年10月京都市右京区在住の左賀秀機さんから連絡頂いた京都市の石碑以外の52基全て取材を終えまして、皆さんに見て頂き、コメントを頂いております。
そして取材にお世話になりました方々を中心に今回ブログを更新しております。
これから紹介いたします長野県安曇野市豊科にある「内田與作の墓石」ですが、好古が揮毫しました石碑で唯一の墓石であります。
安曇野市の取材には知人の、東京都稲毛市在住の「葛原 等氏」、東京都武蔵村山市在
住の「小島 郁生氏」が取材の手伝いに駆けつけてくれました。そして取材の結果は
愛媛新聞が記事として新聞に掲載して頂きました。・・感謝です。
取材時に大変お世話になりました「内田與作騎兵隊員」のご遺族の方と、情報提供して頂いた神奈川県平塚市の添田吉則・敬子夫妻にお礼申し上げます。
画像はその時の状況です。
取材に先駆けて、内田與作隊員の墓参をさせて頂きました。
お墓に一礼し、秋山好古揮毫の石碑写真集第2版を献本いたしました。
秋山好古揮毫の石碑写真集第2版です。
第2版には48基までの石碑が収録されています。
お墓参りの後、内田家現当主「写真真ん中、内田勝仁さん・右、内田勝仁さんのお姉さんの荻原 鈴子さん」と好古揮毫石碑の説明をいたしました。
内田與作墓石の前で、「右、内田勝仁さん・中、内田勝仁さんのお姉さんの荻原 鈴子さんと、私です。」
秋山兄弟生誕地仕様の内部資料です。
墓石の三面には、内田與作騎兵隊員の事柄が書かれていました。
撰文者は、陸軍騎兵大尉 稲垣三郎で、退役後は、日本体育学校、現日本体育大学学長を務めた方です。
墓石左側に、陸軍騎兵大佐従五位勲四等功三級
秋山好古 謹書題標字
陸軍騎兵大尉正七位勲六等功五級
稲垣三郎 謹撰並書
明治三十五年壬寅一月十一日
と書かれています。・・好古44歳の時であります。
内田與作の石塔、「正八位内田與作墓」と好古が揮毫し、石塔3面には内田與作さんが従軍し戦死するまでの経緯を、内田與作隊員の直属の上官であった、稲垣三郎大尉が撰文しています。
秋山好古は余程の事でないと揮毫はしなかったが、自分の支配下の優秀な騎兵隊を戦死に至らせたのは自分の責任大である事を自覚して揮毫したものと考えます。
53基の石碑の内、漢詩で哀悼の撰文を認めて石碑として建立されているものが全国に3基あります。その一つです。
内田與作騎兵隊員の墓石三面に書かれている謹書です。
内田與作騎兵隊員の墓石三面に書かれている謹書を現代語に訳した文書で、訳したのは、神奈川県平塚市の添田敬子氏で、放送大学卒業論文に「日清戦争における戦没兵士遺族の行動と心情」で
副題が「秋山好古揮毫の添田賢次郎招魂碑建立の軌跡」で、その一部です。
取材終了後、荻原 鈴子さんに案内して頂き、黒澤明監督の「水車のある村」の撮影が行われた舞台となったところを見学して帰路につきました。
いつまでも残したい 安曇野原風景の説明板。
東京都世田谷区池尻にある秋山好古が建立した日清戦争で秋山好古配下の騎兵隊15名が戦死した招魂碑です。
東京都世田谷区池尻にある秋山好古が建立した日清戦争で秋山好古配下の騎兵隊15名が戦死した招魂碑の裏面で、内田與作騎兵隊員の名前が刻印されています。
内田與作騎兵隊員の遺族の方はこの石碑の存在はご存じなかった。
内田與作さんの子孫の内田勝仁さん、荻原 鈴子さんが是非お参りに行きたいとの事で、私の友人である、東京都武蔵村山市在住の「小島 郁生氏」がご案内しました。
小島氏は、安曇野市で世田谷区池尻の招魂碑のお参りをする時はご案内しますと約束していましたので荻原 鈴子さんをご案内しました。
東京都世田谷区池尻にある秋山好古が建立した日清戦争で秋山好古配下の騎兵隊15名が戦死した招魂碑の裏面に書かれている。
令和2年10月1日現在秋山好古が揮毫した石碑一覧です。
53番の京都市右京区の石碑は未調査で、コロナが収束したら取材に行きます。
長野県安曇野市豊科にある、故内田與作騎兵隊員の子孫の「荻原 鈴子さん」が秋山兄弟生誕地にお越しになられました。
荻原 鈴子さんをご案内する、秋山兄弟生誕地運営委員長・宇都宮良二さん。
秋山兄弟生誕地に掲示してある秋山好古揮毫石碑写真展示前で、荻原 鈴子さんの左に見える写真が、長野県安曇野市豊科にある、内田與作騎兵隊員の石塔です。
秋山両将の石碑の前で。
秋山好古騎馬像の前で記念の写真を。
この日は時より小雨がぱらつく天候でしたが、現存12天守の一つ、松山城をご案内いたしました。
長野県安曇野市豊科に発見された内田與作騎兵隊員の石塔について愛媛新聞が取り上げて頂き新聞に掲載されました。