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EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

旧海軍松山航空隊・掩体壕(戦闘機格納庫)松山市指定有形文化財に指定される

2021年07月30日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

現在、松山市南吉田町には、旧海軍松山航空隊の掩体壕「戦闘機格納庫」が3基現存するが、そ

の一つが平成30年5月18日、松山市指定有形文化財に指定された。

先日(7月24日)21年振りに、整備された有形文化財指定「掩体壕(戦闘機格納庫)」を見学に行って来た。

21年前は、田園地帯にあり遠くから見ることが出来たが、今回行ってみるとすっかり様変わりし、掩体壕周囲は、開発され住宅地帯に変貌し、特に現在松山外環状道路の建設工事真っ最中で、掩体壕を探すのに一苦労した。

現地に行ってみると若いご夫婦が見学に来ていた。

では、掩体壕「戦闘機格納庫」を見て下さい。

21年前の画像を交えてご紹介します。

当時、掩体壕は63基建設されていたが、現在は3基が現存している。

その一つが、松山市指定有形文化財に指定された。

所在地は、松山市南吉田町1020番地4。

松山外環状道路空港線(建設中)の取り付け道路に標識がある。

松山外環状道路空港線の建設工事道路の左側に説明板が設置してあるが、表示版が小さくうっかりしていると見過ごしてしまう。

そして駐車場が無いから気を付けて行って下さい。

松山市指定有形文化財「掩体壕」の説明板。

松山外環状道路空港線建設工事中道路から、スロープを降りると整備された「掩体壕」に行くことが出来る。

掩体壕には駐車場が無いから気を付けて行って下さい。

正面から見た掩体壕。

正面左から見た掩体壕。

掩体壕前に設置してある説明板。

掩体壕「格納庫」の説明図面。

掩体壕側面図。戦闘機は図面のように格納されていた。

掩体壕正面図。

掩体壕内部。

この掩体壕は、三四三航空隊の掩体壕の一つで、編成は次のようなものである。

三四三航空隊(属名:剣部隊)指令:源田 実大佐、その下に、戦闘三○一飛行隊(新撰組)、戦闘四○七飛行隊(天誅組)、戦闘七○一飛行隊(維新組)、偵察第四飛行隊(奇兵隊)、戦闘四○一飛行隊(極天組)が昭和19年12月正式に編成された時の戦闘四○一飛行隊(極天組)の掩体壕の一つで、掩体壕には現在も

「極天組」「四○一飛行隊」の文字が残っている。

掩体壕内部に設置されている「戦闘四○一飛行隊(極天組)」の説明文でこれが掲示してある。

掩体壕内部に設置されている、松山海軍航空隊基地の説明文。

松山市指定有形文化財に指定された「掩体壕」の後方部で周囲は開発され住宅地に変貌していた。

地主さんが野菜を栽培していた。

文化財の指定を受ける前の現状で周囲は畑であった。

平成12年8月15日、撮影。

平成12年8月15日撮影で、文化財の指定を受ける前までは、農業用倉庫として使用され、当

時の原型で残っており、松山海軍航空基地の歴史や悲惨な戦争を語り継ぎ、平和の尊さを伝える貴重な資料として松山市は文化財に指定した。

文化財の指定は受けてないが、指定を受けた掩体壕から南西方向にある現存3基の内の一つ。

この掩体壕も文化財の指定は受けてないが、指定を受けた掩体壕から南東方向にある現存3基の内の一つ。

松山市北吉田町にある「松山海軍航空隊」の記念碑。

旧松山海軍航空隊

 松山海軍航空隊は、昭和16年海軍呉建築部により工事が開始され、昭和18年10月に第一期工事が完了し松山海軍航空基地として使用開始された。

昭和19年4月に第二期工事として、掩体、隧道、誘導路の工事が行われた。

昭和20年連合軍に接収され、朝鮮動乱時には米英軍が使用、昭和27年に民間空港として整備現在は2500m滑走路に整備しジャンボジェットが就航、また国際便も就航するに至っている。

昭和41年に全日空のYS11が着陸に失敗し伊予灘に墜落、乗務員乗客全員死亡と言う悲惨な事故が起こった。

50万都市の空港で県庁、市役所から15分で空港に行けるのは全国でも松山空港だけであり非常に利便性のいい空港である。

画像の松山航空隊跡石碑で、松山市北吉田町、帝人(株)松山事業所入口に再建立されている。

「以前は木製だったと記憶している」

記念石碑の横に碑文がある。

碑   文

茲は松山海軍航空隊跡地なり大東亜戦争中この地に海軍飛行豫科錬習生あり搭乗員たらんとして日夜厳しき教育と訓練に耐へ必勝の信念を以て敵に當らんとこの隊門を出ず。

時に戦雲愈々急を告げ米軍の侵攻本土決戦の様相を呈す。

遂に隊員盡く一死以て國に報いんとある者は特攻要員にある者は沿岸防備員と隊を去り國難に殉ぜんとす。

終戦、幾星霜往時の姿すでに無しとは言へこの地、松山海軍航空隊は我等豫科錬の夢の跡也以て隊址碑を建立す・・とある。

画像の「松山海軍航空隊跡」石碑には、平成13年6月1日再建立

松山空甲飛14期生

世話人 愛媛松空会

    熊本松空会

と揮毫されている。

旧松山海軍航空隊と言えば「源田 実」さんです。

終戦間近の海軍航空隊は、三四三航空隊を編成しその司令官に「源田 実」海軍大佐が航空隊指令官として任命され、隊の編成は神奈川県横須賀であったが、訓練基地は松山が一番いいと源田大佐の意向で急遽松山に決定したそうです。

 源田大佐は、昭和20年1月15日に松山に赴任しここで世界最強の航空隊を結成することを目的にしており、戦線で活躍する優秀なパイロット、撃墜王と呼ばれるゼロ戦パイロット達でこれを紫電改の訓練と、ドイツ空軍が始めた集団戦法の訓練が目的で、パイロット1200名その他整備兵等関係兵士総勢3000名の編成航空隊でした。

 三四三航空隊の編成は次のようなもので、三四三航空隊(属名:剣部隊)指令:源田大佐、その下に、戦闘三○一飛行隊(新撰組)、戦闘四○七飛行隊(天誅組)、戦闘七○一飛行隊(維新組)、偵察第四飛行隊(奇兵隊)、戦闘四○一飛行隊(極天組)が昭和19年12月正式に編成され、昭和20年1月15日に源田航空隊指令が松山に赴任した。

しかし初期訓練、集団戦法訓練をする間もなく、20年3月13日米機動部隊が松山飛行場などを沖縄上陸作戦に先立って四国沖に接近、3月19日松山航空隊は編成早々四国上空で多数の米機と大空中線のため遂に紫電改の発進の時が来た。紫電改51機が松山飛行場を一斉に飛び立った。

この日、飛来したのは、約150機のグラマン機で、42機を撃墜、この日初めてグラマン機の一部が松山飛行場を攻撃したそうです。

 この時私は6歳でしたが空中戦をみた。そしてその様子が記憶にあります。

 米国は、優秀な世界最強の零式戦闘機に対抗する戦闘機を開発、それがグラマンF6F、F4Uでこれに打ち勝つために、紫電改を製機した。

しかし、米国はすでにその先を見込んで昭和17年9月にB-29の製作に取り組んでいたそうです。

 このB-29を使い日本本土を攻撃するには航続距離550Km(爆弾搭載4トン)これに必要な滑走路は、マリアナ、サイパン、グァム、テニアンに建設する必要があった。

 それが、ミッドウエー海戦でこれが日本の敗戦が決まったのも同然であったのではないでしょうか。

 米国は、この四国での空中戦で手痛いダメージを受け改めてB-29の必要性を感じたそうです。(B-29、スーパー・フォートレス、空飛ぶ要塞と呼ばれた。)

 20年5月4日初めてB-29による松山攻撃が始まりその後10日、14日の攻撃で松山飛行場一部使用不能と記述がある。

 その後松山大空襲があった。

時、昭和20年7月26日午後11時08分に始まり27日午前1時13分頃まで約2時間余り爆撃は継続、攻撃要領は、大都市に対するものと同じ方法で行われ、攻撃の先頭部隊は無数の小型焼夷弾を投下次いで、後続の部隊が大型の焼夷弾を投下した。

 これで松山は一夜にして焼け野原と化した。

 但し、松山城は攻撃から外されていたそうです。・・しかし焼夷弾は投下され城郭の一部は被害を被った。

 東京大空襲(昭和20年3月9日)から約4ヶ月後の事である。

 画像は、松山大空襲で残ったのがご紹介した「掩体壕」格納庫です。

 物の経緯、事情の分からない人々はなんだろうと不思議に思い、そして見逃してしまうのではないかと思います。

 此れは、太平洋戦争の遺物の一つとして保存し後世に悲惨な出来事を語り伝えて行かねばならない。

現在、三個の格納庫が松山市に残って降ります。

今年もまた終戦の日が来る。

参考文献「松山城は残った」松山大空襲の記録より、一部引用

明治37年(1904年)8月16日、広島県山県郡加計町(現・広島県山県郡安芸太田町)で酒造・農業を営む源田春七の次男として生まれた。

第44回目の終戦の日でもある平成元年(1989年)8月15日、愛媛県松山市南高井町にある南高井病院で脳血栓のため逝去、享年84歳であった。

源田 実さんは、何故か松山がお気に入りで晩年も松山で過ごされ、松山で逝去された。

第72回国民体育大会「愛顔(えがお)つなぐえひめ国体」の総合開会式でブルーインパルスの祝賀飛行がされた。

指揮官も、この事を承知して祝賀飛行を披露したと思う。

昭和34年7月18日、第3代航空幕僚長として活躍された。

ブルーインパルスは、福岡県築城基地から飛行してきて、東温市にある愛媛大学医学部上空でUターンし、開会式会場(愛媛県総合運動公園陸上競技場)上空を目指し飛行。

源田 実さんは、体調を崩し343航空隊空の思い出の地である松山で療養していたが、85歳の誕生日を迎える前日、第44回目の終戦日でもある平成元年(1989年)8月15日、愛媛県松山市南高井町の南高井病院で逝去された。ブルーインパルスは、南高井病院の真上上空から白いスモークを出し総合開会式上空を祝賀飛行した。

平成29年10月6日、第72回国民体育大会「愛顔(えがお)つなぐえひめ国体」の総合開会式が行われ、愛媛県総合運動公園陸上競技場式上空手前、源田 実さんの魂が宿る南高井病院上空から白いスモークを出しながら総合開会式上空を祝賀飛行した。

源田 実さんの魂が宿る南高井病院から「ありがとう・第4航空団に所属する「第11飛行隊」に言葉を贈ったと思う。

源田 実さんが育てた「ブルーインパルス」見事な祝賀飛行であった。

 

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秋山好古揮毫石碑・取材にご協力頂いた方々 その18 松山市久保田町 靴脱天満宮の石碑

2021年07月20日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

石碑は、

安楽寺住職の奥さんが秋山兄弟生誕地にお越しになり、秋山好古が揮毫した石碑の存在を伝えに来て頂いた。
所在地は、松山市久保田町56番地にあり、履脱天満宮と安楽寺が同一境内内に同居している。

菅原道真縁の神社「履(くつ)脱天満宮(ぬぎてんまんぐう)」には社号碑が2基ある。

一つは、秋山好古が揮毫した石碑である。

1.碑    文: 履脱天満宮

2.所 在 地: 松山市久保田町58番地 

3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古

4.建 立 者: 久保田

5.建立年月日: 明治44年 6月 

6.碑石大きさ: 高さ・1m68㎝ 横幅・84㎝ 厚み・24cm

秋山好古揮毫「履脱天満宮」石碑の裏面。

もう一つの社号碑は、菅原勝成が揮毫した「履脱天満宮」の石碑である。

菅原勝成とは、

旧伊予松山15万石、第14代藩主・松平(久松)勝成の事で、履脱天満宮は菅原道真が滞在した神社だと言い伝えがあり、松平(久松家)は菅原道真を祖とする故、敢えて菅原姓で揮毫した。

もう一つの「履脱天満宮」社号碑で揮毫者の菅原勝成の姓名が読み取れる。

建立の時期は、菅原勝成の肩書に正三位とあり、官位正三位は、明治25年7月に叙任せられているからこの時期に揮毫されたのではないでしょうか。なお勝成は、明治45年2月に逝去している。そして廃藩置県は明治4年に施行されている。

秋山好古揮毫のもう一つの「履脱天満宮」は明治44年6月に建立されている。

明治新政府は、伊予松山の松平の姓を旧姓の久松氏に復するように指令し即日これに従い久松に戻した。

松平と久松・菅原との関係は最後に記します。

神社正面には、「履脱天満宮」の社号碑が2基並んで建立されている。

菅原道真が福岡の大宰府に流されるとき、瀬戸内海を航海途中遭難して愛媛県今治市桜井の海岸に漂着した。その後陸路を西下し、松山市北久米町の辰岡天満宮で休憩し、松山市久保田町の神社で長期間滞留した。

桜井海岸から、履脱天満宮に行く途中休憩した松山市北久米町の辰岡天満宮。

辰岡天満宮は、星岡古戦場の一番北側の丘にあり、松山学院高等学校(旧、松山城南高等学校)

正門の西側に天満宮神社はある。

辰岡天満宮本殿左にある菅原道真が休息のため座ったと言い伝えのある「腰掛けの石」。

菅原道真縁の今治市桜井にある綱敷天満宮。

社伝によると、菅原道真が太宰府へ左遷される途中、燧灘の桜井海岸沖で嵐に遭ったが、現宮司(菅氏)の祖先である広川修善と里人に助けられて志島ヶ浦に辿り着き、急なことで敷物が無く、漁網を敷いて敷物の代わりとしたことから「綱敷」の社名が付いたとされる。
鮮魚を里人が献上されるなどの厚意に感じた道真は梶柄に自像を刻み「私は菅原道真である。もし私が無事帰洛できたなら、この像を証拠として都を訪ねなさい。私が配地で没したと耳にしたなら、この像を素波神(そばがみ)と称し祀るように」と述べたとある。

履脱天満宮。

長い参道で、菅原道真が亡くなって 1000年の記念事業として、明治36年に九州の太宰府になぞらえて松並木や池が作られたそうだ。

この神社は、松山空港の東1.5km程の辺りにあり、田園風景の中に住宅地も見えると言った所に鎮座している。

長い参道を歩くと注連石があり聖域に入りその左側に、伊予松山 第14代藩主・松平勝成(久松)が揮毫した履脱天満宮の社号碑が建立されている。

境内には、菅原道真縁のものがあるのでご案内します。

菅原道真は、よほど 居心地がよかったのか長居となり、都から蔵人頭三位中将紀久朝が勅使として下向し、道真に早く大宰府に向かうように伝えた。道真は神社から400m~500m西の川まで出迎えたが、この時あやまって履が脱げたという。

里の人は、神社を履脱天満宮と呼ぶようになり、この川に掛かる橋を勅使橋と言うになった。

道真は、現在の松山市西垣生町の海岸から(松山空港の南地区)船出をし、大宰府に向かった。この浜から船出をする時、見送る里人に「今出るよ」と声を掛けたので西垣生の浜を「今出」と呼ぶのだと言う。

拝殿前に、勅使橋にあったとされる大きな石が展示してある。

写真は勅使橋にあった石で、道真がこの地に逗留し過ぎたことで都から「大宰府に赴任を促す目的で」勅使が派遣され、その勅使を迎えた橋が勅使橋で、元々この橋は現在地よりも西側にある洗地川に架かっていたものを昭和62年に天満宮に移設、保存されている。当時の洗地川は狭い小川であったことから、この石橋で十分な役目を果たしていたようです。


勅使橋の説明板が設置してある。

菅原道真公が亡くなって 1000年の記念事業として、明治36年に九州の太宰府になぞらえて拝殿前の一段と高いところに「一千年祭碑」が建立されている。
揮毫者は、大宰府 宮小路 康文・太宰府天満宮の神職家である。

境内には、菅原道真が滞在中「星占い」をしたという松山七不思議のひとつ「占い池」がある。

画像はその池である。

履脱天満宮と同居する安楽寺本堂で、その奥左に庫裏がある。

安楽寺にある11面観音(一木造り立像)は文科省総合調査の際認められ平安朝の作として愛媛県指定の文化財となっている。

安楽寺は長保元年(999)創建といわれる。

木造11面観音立像の説明板で、松山市教育委員会設置。

履脱天満宮の拝殿で、その前には梅の木が植えられている。

履脱天満宮は長保元年(999年)に一条天皇が社殿を建立し、道真を祀って履脱天満宮と称したとされ、永正元年(1504年)には豪族・河野通篤が土地を寄進、江戸時代になって、松山藩主松平家が社殿を再建し、代々の藩主が参拝して祖先神として厚く敬ったとされている。
「履脱」の由来は、道真が今治を出て陸路で大宰府に向かう途中、歩き疲れて靴を脱ぎ、その場所でくつろいだことが名前の由来の一つとされている。
結局、道真はこの場所が気に入り、その後3年間も留まることになり、都ではあまりにも逗留の長い道真に対して、勅使がおもむき大宰府に向かうように促したと言われている。
このように今治と松山の天満宮は道真伝説による深いご縁で繋がっている。
さらに松山藩主、松平(久松)の祖先が菅原道真本人にたどりつくことも興味深い歴史である。

その一つが、社号碑「履脱天満宮」の揮毫者が、菅原勝茂(旧伊予松山15万石藩主第14代松平勝茂)である。

拝殿内部には、地元の済美高等学校美術部の生徒が制作した大きな絵馬が奉納されている。

境内には松山市教育委員会設置の履脱天満宮の謂れが表記されている。

秋山好古揮毫石碑・取材にご協力頂いた方々のシリーズは、一度お休みをして、履脱天満宮の近くにある大東亜戦争の遺物、ゼロ戦、紫電改等々の格納庫(掩体壕)が3基残っている。

平成30年5月18日、松山市指定有形文化財に指定されたので久しぶりに訪ねてみましたので次回ご案内します。
航空自衛隊ブルーインパルスの育ての親「源田実大佐」が一時期在籍した旧海軍松山航空隊当時建設された格納庫(掩体壕)である。

伊予松山藩主松平(久松)家の祖先は菅原道真であり簡単にその関係を述べておく。

延喜元年(901)菅原道真は、大宰府に流され、その時一族は安古居(あごい)(愛知県知多郡阿久比町)に同じように流された。
道真の死後宇多上皇は、道真は無実であったとして許し、遺族を京都に戻した。
道真の長男、高規(たかのり)は喜んで京都に帰ったが、その子雅(まさ)規(のり)は、9歳の時から安古居に住み、良くなじんでいるからと言って父について帰らず住み付き、後に地頭守護職になった。
この雅規の幼名が「久松丸」であった。
雅規の後、14代目の定道が菅原姓を捨てて、久松姓を名乗りこれが久松姓の起こりである。

愛知県知多郡阿久比町には、「久松家発祥の地」の石碑が建立されている。
建立者は、松平勝(かつ)成(しげ)(伊予松山城主第14代・(久松定謨(さだこと)の祖父)である。履脱天満宮の社号碑を揮毫した菅原勝成の事である。

次に、久松家と松平家について

三河国の松平(徳川)家康は、永禄9年(1566年)、朝廷から従五位下・三河守の叙任を受け、同時に許可を受け「徳川」に改姓した。

伊予松山三代目藩主、松平定行の父は、久松定勝で母は伝通院(於大の方)、伝通院は、初め松平広忠に嫁ぎ松平家康を生んだ。

伝通院の実家は、尾張国刈屋城主、水野忠政の娘で、兄の水野信元は、松平広忠の反対派であった織田信長方につき、広忠は怒り伝通院を離縁させた。

17歳であった伝通院は、その後久松俊勝と再婚して久松定勝が誕生した。

定勝は、家康と異父同母弟で、定勝の次男・定行が伊予松山三代目藩主、松平(久松)定行である。

定行は、徳川家康より、家門に准じて松平氏の称号と三つ葉葵を賜い明治維新まで松平姓を名乗った。明治新政府は、伊予松山の松平の姓を旧姓の久松氏に復するように指令し即日これを実施した。

現在、東京都港区の済海寺にある、伊予松山15万石藩主久松家東京の菩提寺から松山市の久松家の菩提寺大林寺に墓を移転する事で大きな話題となった。(末尾に新聞記事掲載)

旧伊予松山藩主・久松家の墓所に関する記事が愛媛新聞に掲載された。

 

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秋山好古揮毫石碑・取材にご協力頂いた方々 その17 松山市河中町 両新田神社の石碑

2021年07月10日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

秋山好古揮毫石碑の取材で一番苦労して探した石碑である。

松山市河中町在住の方から両新田神社に、秋山好古揮毫の石碑があります、と連絡を頂いた。

その時、神社の鳥居にありますとは連絡はなかった。

早速神社に行き、記念碑の所在を境内くまなく調査したが碑はなく、あきらめて取材のカメラや三脚を片付け境内を出て鳥居を潜りふと振り返ると、なんと鳥居の社号額が好古の揮毫碑であった。

その時声が聞こえた感じがした。

「仙波君、私が揮毫したのは社号碑でここにあるよ。振り返ってみなさい」と好古さんが囁いた言葉が聞こえたように感じた。

それ以来、地上はもとより、空間にも気を付けて探すよう心がけている。

好古が揮毫した鳥居の社号額は2基ある中の一つである。

1.碑     文 :両新田神社

2.所  在  地:松山市河中町295番地「両新田(りょうにった)神社(じんじゃ) 鳥居」

3.揮  毫  者:陸軍大将 秋山好古

4.建  立  者:記載無し

5.建立年月日:大正14年 

6.社号額大きさ:縦・80㎝  横・50㎝  厚み・15㎝

両新田神社の由来:

南北朝時代(1336年~1392年)、関東地方の武将新田義貞の三男・新田義宗と義弟、脇屋善治は各地を転戦したが、応永10年(1403年)11月、四国に落ち延び、当地山麓で死亡したと伝えられる。

義宗と善治が戦死した場所には諸説がある。しかし後年、両将を弔うため、源氏系の伊予の武将河野通直は天文17年(1548年)3月18日、二廟を建立し「上新田廟」「下新田廟」としたが、その後二廟は合祀され「両新田神社」と改めた。

鳥居にある「両新田神社の社号碑には新田氏の家紋「一つ引両」が書かれている。

鳥居をくぐり一礼して神社の聖域に入り、注連石の奥に「両新田神社」の石碑が目に入った。
この石碑が好古さん揮毫の石碑と思い、近づきよく見ると違っていた。

そして境内をくまなく探すも見つからなかった。

両新田神社の社号碑の揮毫は、秋山好古以外の方であった。

石碑散策の中で大きな椿の木を見つけた。

昭和48年8月19日、松山市指定の天然記念物で、愛媛県第一の大きな「ヤブツバキ」である。根回り5,1m、高さ10m、枝張りは東西に13m、南北に14,5mの樹形で4月終わり頃の花盛りには、全株無数の花に被われ見事な美しさである。(松山市の文化財より引用)

この椿は「新田椿」とも呼ばれ、南北朝時代、上野国で戦いに敗れた新田義宗・義弟の脇屋義治らが四国まで落ち延びてきた時の悲しい伝説がある。義宗が遠路の旅の疲れで歩くのもままならぬ様子をみて、家来が道脇の木を切りそれを杖にした。義宗は杖にすがり歩き、ようやくこの地までたどり着いて、杖を地にさした。ところが木は根を張り、芽がでてやがて立派に育ったのがこの椿と言われている。(伊予路の文化より引用)

松山市・松山市教育委員会が設置している「市指定・天然記念物・ツバキ」の説明板。

境内には、新田義宗が腰を掛けて休んだと言われる「義宗腰掛けの石」がある。

記念碑の所在を境内くまなく探すも碑はなく、あきらめて取材のカメラや三脚を片付け境

内を出て鳥居を潜りふと振り返ると、なんと鳥居の社号額が好古の揮毫石碑であった。

その時「仙波君、私が揮毫したのは社号碑でここにあるよ。振り返ってみなさい」と好古さんが囁いた声が聞こえたように感じた。

さて、両新田神社のある、松山市河中町では、毎年お盆の8月15日に川施餓鬼が行われている。

この地区の戦いで戦死した七人の武将の霊を供養する祈祷が行われる。
今から436年前、天正13年(1585年)土佐の長宗我部元親は四国統一のため伊予国に侵攻、伊予国守護、河野通直の居城、湯築城(現、道後公園)の支城、奥之城がこの地域にあった。土佐国(長宗我部軍)との合戦時、この地区を流れる石手川で激戦となり、同城7人の武将達は深手を負い石手川で戦死した。

この7人武将の魂を慰めるための供養行事が川施餓鬼である。その後、豊臣秀吉の四国平定の戦いに、小早川隆景を伊予国に配し平定後、伊予国守護は小早川隆景となり、その後福島正則が守護となりが正則は居城を今治に移し湯築城は廃城となった。

川施餓鬼は、明治天皇が崩御された時に中止されたが、平成4年に日浦公民館主催行事とした復活した。

川施餓鬼の見せ場は、7人武将が描かれた武者幟(高さ12メートル、重さ30キロ)を担ぎ、鐘や太鼓に合わせて石手川を練り歩き、武将の供養と五穀豊穣・無病息災を祈願する。また当日は、魚のつかみどり大会や、お楽しみ抽選会も合わせて実施さる。

地区には、両新田神社があり、新田義宗・脇屋善治両名の供養も合わせて行われているのではないでしょうか。

川施餓鬼行事は、コロナが蔓延している折中断されています。

祈祷が終わると、地元日浦小学校の生徒たちが打ち鳴らす伊予水軍太鼓で行事が始まる。

武者幟は、高さ12m、重さ30Kgあるので担ぎ移動するのは大変である。

武者幟は、下部から約1m位な場所に孟宗竹を十文字にくくり付け4人が担ぎ川を上り移動する。そして重心を保つために先端に縄を四方に張り、幟が倒れないようにバランスを取る。

武者幟を4本の引縄でバランスを撮る、担ぎ手とロープの引き手の阿吽の呼吸が必要で、画像のように傾くと元の姿に戻すのは一苦労である。

武者幟が最終地点に達すると、その後は子供たちが楽しみにしている「魚のつかみどり大会」や「お楽しみ抽選会」が合わせて実施さる。

松山市河中町(日浦地区)は、山間の集落で松山市の一番北東の地に有り、隣接は今治市である。

ここからは、両新田神社縁の新田神社がある、群馬県太田市金山町、金山城跡に行ってみましょう。

画像は、平成24年5月22日、神奈川県平塚市にある秋山好古揮毫石碑取材の前日に行った時の画像です。

金山城、南曲輪にある日本100名城認定記念碑で、平成24年5月22日に撮影した。

神奈川県平塚市に秋山好古揮毫の石碑が発見され、その取材にお世話になる平塚市の添田氏と日時の約束をしていた。

一日速く松山を出て日本100名城巡りをするため、群馬県太田市にある金山城と、栃木県足利市にある第15番、足利氏館(鑁阿寺)と足利学校を見学した。

金山城は、日本100名城第17番目の指定で、私は79番目の紀行である。

東京駅から上越新幹線で高崎駅下車、それからJR両毛線で伊勢崎に東武伊勢崎線で群馬県太田市に11時19分に着いた。この頃から雨天となりその後雨は降り続いた。

太田駅からタクシーで金山城&新田神社―タクシーを待たせておき足利氏館&足利学校見学、この日は東京を発つ時は曇天だったが太田市に着く前から雨天になった。
太田駅からタクシーで金山城まで、駐車場でタクシーを待たせ約1時間30分雨天の中を散策し休憩所に置いてある100名城スタンプを押した。

皆さん、スタンプの保管状態が悪いと悪評判であったが私が行った時はいい状態であった。取り替えたのだろう。
直ぐ傍にある新田義貞縁の「新田神社」をお参りし駐車場に下山、太田駅に出て東武電車で足利市駅経由で足利氏館に行くよりは、タクシーで直接移動した方が時間の無駄が無いと思いタクシーを利用した。

タクシーの運転手さん、日本100名城第15番、足利氏館跡の所在一をご存じでなく無線で確認して行ってもらった。

結構タクシー料金は高かった。運転手さんは、長距離有難うございます・・この後もいい旅が出来ますようにとお見送りの言葉が帰ってきた。

この日は、東京スカイツリーの営業開始日で、大安であった。

境内には新田義貞一族の系図が表示してあった。

石段を上がるといよいよ新田神社が見えてくる。鳥居を潜り一礼して境内に入る。

雨天で、標高の高いところうにある新田神社は霧がかかり幻想的に拝殿が見えた。

新田神社拝殿。

新田神社のある金山城は、中世の城跡でどの城も土で造られていたと言うことが通説であるが、金山城は、沢山の石垣が残っており、その保存手入れが行き届き中世の城跡とは思えぬ遺構である。

金山城の休憩所には「イノシシ注意」の張り紙があった。・・休憩所に入ると若いカップルが雨宿りしていた。・・その二人から何処から来られましたと、問われ、四国愛媛県松山市からと応えると、遠路ご苦労様と労いの言葉を頂き、お城巡りですか、よければスタンプ帳見せて欲しいとの由、凄いですね金山城は何城目ですか・・79城目です。・・後少しですね頑張って100名城達成して下さいとエールの言葉が返って来た。

金山城からタクシーで、日本100名城第15番、足利氏館(鑁阿寺)に移動。

画像は、足利氏館跡と足利学校の位置関係。

日本100名城第15番、足利氏館(鑁阿寺)と足利学校を見聞し、東武伊勢崎線、足利市駅発15時43分「特急・りょうもう30号浅草行き」で16時55分に東京スカイツリー駅で下車、スカイツリーのライトアップを撮る予定であった。

行動は予定通りだったが、天候は違った・・生憎雨天となった。

吾妻橋から片手で傘を持ち片手でシャッターをおした・・上部は雲の中、殆どスカイツリーは雲と霧とで確認できず・・下部が少し見えるだけであった。

雨天だったので諦めてホテルに帰った・・ホテルの窓には横殴りの激しい雨が降っていた。

夜風が出たので雲が途切れたのか、翌日の新聞画像には午後7時9分撮影とあった、雅でライトアップされた綺麗な画像が載せてあった。

プロのカメラマンは必ず見えることを信じ待機していたのだ。・・流石プロ!!

開業日の特別演出として、通常営業では一日交代点灯で「粋」と江戸紫の「雅」が日替わりでライトアップされる計画ですが、開業記念に30分毎に切り替え点灯されたそうだ。・・撮れなく残念!!

平成24年5月22日、営業開始した東京スカイツリーで、画像は、営業2日目の23日に撮った。
営業開始日は、本降りの降雨で東京スカイツリーは雨雲に遮られ見えなかった。

報道関係者のカメラマンたちは、雲が途切れて必ず見えることを信じて待機していた。

趣味で撮る私としてはカメラを雨に濡らすわけにはいかないし現状では見えるとは思わなかった。・・営業2日目は、天候はよかった。

営業開始2日目(平成24年5月23日)の東京スカイツリー、高さ634m。
二日目は天候は回復しよく見えた。

 

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