現在、松山市南吉田町には、旧海軍松山航空隊の掩体壕「戦闘機格納庫」が3基現存するが、そ
の一つが平成30年5月18日、松山市指定有形文化財に指定された。
先日(7月24日)21年振りに、整備された有形文化財指定「掩体壕(戦闘機格納庫)」を見学に行って来た。
21年前は、田園地帯にあり遠くから見ることが出来たが、今回行ってみるとすっかり様変わりし、掩体壕周囲は、開発され住宅地帯に変貌し、特に現在松山外環状道路の建設工事真っ最中で、掩体壕を探すのに一苦労した。
現地に行ってみると若いご夫婦が見学に来ていた。
では、掩体壕「戦闘機格納庫」を見て下さい。
21年前の画像を交えてご紹介します。
当時、掩体壕は63基建設されていたが、現在は3基が現存している。
その一つが、松山市指定有形文化財に指定された。
所在地は、松山市南吉田町1020番地4。
松山外環状道路空港線(建設中)の取り付け道路に標識がある。
松山外環状道路空港線の建設工事道路の左側に説明板が設置してあるが、表示版が小さくうっかりしていると見過ごしてしまう。
そして駐車場が無いから気を付けて行って下さい。
松山市指定有形文化財「掩体壕」の説明板。
松山外環状道路空港線建設工事中道路から、スロープを降りると整備された「掩体壕」に行くことが出来る。
掩体壕には駐車場が無いから気を付けて行って下さい。
正面から見た掩体壕。
正面左から見た掩体壕。
掩体壕前に設置してある説明板。
掩体壕「格納庫」の説明図面。
掩体壕側面図。戦闘機は図面のように格納されていた。
掩体壕正面図。
掩体壕内部。
この掩体壕は、三四三航空隊の掩体壕の一つで、編成は次のようなものである。
三四三航空隊(属名:剣部隊)指令:源田 実大佐、その下に、戦闘三○一飛行隊(新撰組)、戦闘四○七飛行隊(天誅組)、戦闘七○一飛行隊(維新組)、偵察第四飛行隊(奇兵隊)、戦闘四○一飛行隊(極天組)が昭和19年12月正式に編成された時の戦闘四○一飛行隊(極天組)の掩体壕の一つで、掩体壕には現在も
「極天組」「四○一飛行隊」の文字が残っている。
掩体壕内部に設置されている「戦闘四○一飛行隊(極天組)」の説明文でこれが掲示してある。
掩体壕内部に設置されている、松山海軍航空隊基地の説明文。
松山市指定有形文化財に指定された「掩体壕」の後方部で周囲は開発され住宅地に変貌していた。
地主さんが野菜を栽培していた。
文化財の指定を受ける前の現状で周囲は畑であった。
平成12年8月15日、撮影。
平成12年8月15日撮影で、文化財の指定を受ける前までは、農業用倉庫として使用され、当
時の原型で残っており、松山海軍航空基地の歴史や悲惨な戦争を語り継ぎ、平和の尊さを伝える貴重な資料として松山市は文化財に指定した。
文化財の指定は受けてないが、指定を受けた掩体壕から南西方向にある現存3基の内の一つ。
この掩体壕も文化財の指定は受けてないが、指定を受けた掩体壕から南東方向にある現存3基の内の一つ。
松山市北吉田町にある「松山海軍航空隊」の記念碑。
旧松山海軍航空隊
松山海軍航空隊は、昭和16年海軍呉建築部により工事が開始され、昭和18年10月に第一期工事が完了し松山海軍航空基地として使用開始された。
昭和19年4月に第二期工事として、掩体、隧道、誘導路の工事が行われた。
昭和20年連合軍に接収され、朝鮮動乱時には米英軍が使用、昭和27年に民間空港として整備現在は2500m滑走路に整備しジャンボジェットが就航、また国際便も就航するに至っている。
昭和41年に全日空のYS11が着陸に失敗し伊予灘に墜落、乗務員乗客全員死亡と言う悲惨な事故が起こった。
50万都市の空港で県庁、市役所から15分で空港に行けるのは全国でも松山空港だけであり非常に利便性のいい空港である。
画像の松山航空隊跡石碑で、松山市北吉田町、帝人(株)松山事業所入口に再建立されている。
「以前は木製だったと記憶している」
記念石碑の横に碑文がある。
碑 文
茲は松山海軍航空隊跡地なり大東亜戦争中この地に海軍飛行豫科錬習生あり搭乗員たらんとして日夜厳しき教育と訓練に耐へ必勝の信念を以て敵に當らんとこの隊門を出ず。
時に戦雲愈々急を告げ米軍の侵攻本土決戦の様相を呈す。
遂に隊員盡く一死以て國に報いんとある者は特攻要員にある者は沿岸防備員と隊を去り國難に殉ぜんとす。
終戦、幾星霜往時の姿すでに無しとは言へこの地、松山海軍航空隊は我等豫科錬の夢の跡也以て隊址碑を建立す・・とある。
画像の「松山海軍航空隊跡」石碑には、平成13年6月1日再建立
松山空甲飛14期生
世話人 愛媛松空会
熊本松空会
と揮毫されている。
旧松山海軍航空隊と言えば「源田 実」さんです。
終戦間近の海軍航空隊は、三四三航空隊を編成しその司令官に「源田 実」海軍大佐が航空隊指令官として任命され、隊の編成は神奈川県横須賀であったが、訓練基地は松山が一番いいと源田大佐の意向で急遽松山に決定したそうです。
源田大佐は、昭和20年1月15日に松山に赴任しここで世界最強の航空隊を結成することを目的にしており、戦線で活躍する優秀なパイロット、撃墜王と呼ばれるゼロ戦パイロット達でこれを紫電改の訓練と、ドイツ空軍が始めた集団戦法の訓練が目的で、パイロット1200名その他整備兵等関係兵士総勢3000名の編成航空隊でした。
三四三航空隊の編成は次のようなもので、三四三航空隊(属名:剣部隊)指令:源田大佐、その下に、戦闘三○一飛行隊(新撰組)、戦闘四○七飛行隊(天誅組)、戦闘七○一飛行隊(維新組)、偵察第四飛行隊(奇兵隊)、戦闘四○一飛行隊(極天組)が昭和19年12月正式に編成され、昭和20年1月15日に源田航空隊指令が松山に赴任した。
しかし初期訓練、集団戦法訓練をする間もなく、20年3月13日米機動部隊が松山飛行場などを沖縄上陸作戦に先立って四国沖に接近、3月19日松山航空隊は編成早々四国上空で多数の米機と大空中線のため遂に紫電改の発進の時が来た。紫電改51機が松山飛行場を一斉に飛び立った。
この日、飛来したのは、約150機のグラマン機で、42機を撃墜、この日初めてグラマン機の一部が松山飛行場を攻撃したそうです。
この時私は6歳でしたが空中戦をみた。そしてその様子が記憶にあります。
米国は、優秀な世界最強の零式戦闘機に対抗する戦闘機を開発、それがグラマンF6F、F4Uでこれに打ち勝つために、紫電改を製機した。
しかし、米国はすでにその先を見込んで昭和17年9月にB-29の製作に取り組んでいたそうです。
このB-29を使い日本本土を攻撃するには航続距離550Km(爆弾搭載4トン)これに必要な滑走路は、マリアナ、サイパン、グァム、テニアンに建設する必要があった。
それが、ミッドウエー海戦でこれが日本の敗戦が決まったのも同然であったのではないでしょうか。
米国は、この四国での空中戦で手痛いダメージを受け改めてB-29の必要性を感じたそうです。(B-29、スーパー・フォートレス、空飛ぶ要塞と呼ばれた。)
20年5月4日初めてB-29による松山攻撃が始まりその後10日、14日の攻撃で松山飛行場一部使用不能と記述がある。
その後松山大空襲があった。
時、昭和20年7月26日午後11時08分に始まり27日午前1時13分頃まで約2時間余り爆撃は継続、攻撃要領は、大都市に対するものと同じ方法で行われ、攻撃の先頭部隊は無数の小型焼夷弾を投下次いで、後続の部隊が大型の焼夷弾を投下した。
これで松山は一夜にして焼け野原と化した。
但し、松山城は攻撃から外されていたそうです。・・しかし焼夷弾は投下され城郭の一部は被害を被った。
東京大空襲(昭和20年3月9日)から約4ヶ月後の事である。
画像は、松山大空襲で残ったのがご紹介した「掩体壕」格納庫です。
物の経緯、事情の分からない人々はなんだろうと不思議に思い、そして見逃してしまうのではないかと思います。
此れは、太平洋戦争の遺物の一つとして保存し後世に悲惨な出来事を語り伝えて行かねばならない。
現在、三個の格納庫が松山市に残って降ります。
今年もまた終戦の日が来る。
参考文献「松山城は残った」松山大空襲の記録より、一部引用
明治37年(1904年)8月16日、広島県山県郡加計町(現・広島県山県郡安芸太田町)で酒造・農業を営む源田春七の次男として生まれた。
第44回目の終戦の日でもある平成元年(1989年)8月15日、愛媛県松山市南高井町にある南高井病院で脳血栓のため逝去、享年84歳であった。
源田 実さんは、何故か松山がお気に入りで晩年も松山で過ごされ、松山で逝去された。
第72回国民体育大会「愛顔(えがお)つなぐえひめ国体」の総合開会式でブルーインパルスの祝賀飛行がされた。
指揮官も、この事を承知して祝賀飛行を披露したと思う。
昭和34年7月18日、第3代航空幕僚長として活躍された。
ブルーインパルスは、福岡県築城基地から飛行してきて、東温市にある愛媛大学医学部上空でUターンし、開会式会場(愛媛県総合運動公園陸上競技場)上空を目指し飛行。
源田 実さんは、体調を崩し343航空隊空の思い出の地である松山で療養していたが、85歳の誕生日を迎える前日、第44回目の終戦日でもある平成元年(1989年)8月15日、愛媛県松山市南高井町の南高井病院で逝去された。ブルーインパルスは、南高井病院の真上上空から白いスモークを出し総合開会式上空を祝賀飛行した。
平成29年10月6日、第72回国民体育大会「愛顔(えがお)つなぐえひめ国体」の総合開会式が行われ、愛媛県総合運動公園陸上競技場式上空手前、源田 実さんの魂が宿る南高井病院上空から白いスモークを出しながら総合開会式上空を祝賀飛行した。
源田 実さんの魂が宿る南高井病院から「ありがとう・第4航空団に所属する「第11飛行隊」に言葉を贈ったと思う。
源田 実さんが育てた「ブルーインパルス」見事な祝賀飛行であった。