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松山市内の銅像巡り10 村上霽月 像

2014年05月28日 | 伊予松山歴史散策
村上霽月 像

村上霽月は、愛媛県伊予郡西垣生(現・松山市西垣生町)に明治2年8月9日生まれる。父・久太郎、母・ナヲの長男で、本名半太郎。祖父の時代財をなした家である。松山中学より、明治20年、第一高等中学校に入学したが、家庭の事情で明治24年退学、父の興した今出絣株式会社社長に就任、この年11月頃より句作を始める。明治26年より新聞「日本」に投句を始め、4月、大阪で「蕪村句集」上巻を入手、子規よりも早く蕪村を知り心酔する。明治28年9月より愚陀佛庵にいた子規との交際が深くなり、10月7日、子規は今出霽月邸を訪う。
霽月は子規とは、2歳年下で、虚子とは7歳年上である。学校の先輩である子規や鳴雪の指導を受けた。
明治29年3月1日には、漱石と虚子が霽月を訪ね、三人で「神仙体」と称する句を作り、東京の「めさまし草」巻3に載せる。霽月は本来経済人で、伊予農業銀行頭取、今出産業信用組合長、県信用組合連合会長、県信用購買利用組合連合会長、愛媛銀行頭取などの要職を務め、その傍ら句作活動に励んだが、昭和20年、産業組合事業の第一線より引退した。松山市南堀端の農協会館入口には、村上霽月胸像がある。
昭和21年2月5日、逝去、78歳であった。


松山市南堀端の農協会館正面玄関。


松山市南堀端の農協会館入口にある村上霽月(半太郎)の像。
昭和45年霽月生誕100年を記念して、46年10月1日、建立した。


松山市南堀端の農協会館入口にある村上霽月(半太郎)像の後ろ姿。


松山市南堀端の農協会館入口にある村上霽月(半太郎)像、裏面の揮毫。


松山市南堀端の農協会館入口にある村上霽月(半太郎)像裏面下に、霽月の功績が書かれている。揮毫は、愛媛県知事・白石春樹。白石知事は、久松定武氏の跡を継ぎ、昭和46年1月28日就任、昭和58年1月27日辞任、4期務めた。


村上霽月邸にある、村上半太郎翁頌徳碑。
揮毫者は、全国農業協同組合中央会会長 荷見 安、立派な石碑である。



村上霽月邸長屋門で、旧長屋派は老朽化で解体され平成元年復元された。


村上霽月の墓所、長楽寺にある霽月の石碑。


松山市立垣生中学校にある霽月の句碑。
句は「第一峰に立てば炎天なかりけり」


御幸町(松山大学御幸キャンパス)傍に来迎寺ある足立重信の墓所に二つの灯篭がある。右に内藤鳴雪の句が刻まれていて、左に、村上霽月の句が刻まれている。
句は「寶川伊豫川の秋の出水哉」・・寶川は、現在の石手川、伊豫川は現在の重信川の古称で、改修前のこれらの川を偲んで詠んだ句、大正14年建立。
献灯碑脚に句が刻まれているものとしては、異色のものである。


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