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秋山好古揮毫石碑を訪ねて 13、愛媛県西条市丹原町の石碑「忠魂碑」

2019年01月31日 | 伊予松山歴史散策

愛媛県西条市丹原町得能、常石山山頂にある、得能通綱の忠魂碑

 得能通綱は、伊予国の守護、河野一族の一人で、勤皇方として新田義貞とともに後醍醐天皇に忠義を尽くし戦い、延元2年(1337年)3月6日北国・金ヵ崎城で足利尊氏軍との壮絶な戦いで戦死した。その忠魂碑である。(宗家・河野は鎌倉幕府方であった。)

 秋山好古揮毫の石碑は全国に52基発見されているが、一番高い標高163mにあり、歴史的にも一番古い歴史上の人物の忠魂碑、そして唯一秋山好古が除幕式に臨席し、自分が揮毫した石碑をみたのもこの石碑のみである。貴重なる石碑を関係する場所も交えて訪ねてみよう。

 1.  文 忠魂碑

2.所 在 地: 西条市丹原町得能 「常石山城跡」

3.揮 毫 者: 陸軍大将 秋山好古 (北豫中学校長)

4.建 立 者: 記載無し

5.建立年月日: 昭和 5年 4月 4日 

6.碑石大きさ: 高さ・2m00㎝  幅・ 1m33  

参考資料: 常石山:標高 163,4m・麓から徒歩約20分

 忠魂碑は、得能通綱が築いた居城「常石山城跡」である常石山山頂に、後醍醐天皇に忠義を尽くしたその心を称えて建立した。

 

伊予国の守護、河野通信の子通俊の領地が、丹原得能(現、愛媛県西条市丹原町得能)にあったので通俊は得能を名乗り、その城を常石山に定めた。
常石城主、得能通綱(通俊の孫)は周桑の人々を卒いて勤皇の兵を挙げ、同じ河野氏から出た土居通増と連合して、北条時直の大軍を星ノ岡(愛媛県松山市星岡町)で撃退大破した。
昭和3年の御大典記念として常石山山頂に得能通綱公の忠魂碑を建立することになり、碑文「忠魂碑」の揮毫を北豫中学校長、秋山好古に依頼したのである。

建立には、得能地区の老若男女が総出で、小学校の綱引きの綱を石碑に巻き、コロをしいて常石山山頂(163m)まで引き上げた。
好古もこの地を訪れ、地元民が準備した馬で常石山に登り除幕式典に臨席した。
(当時、秋山好古は片足の動脈が閉塞し足が悪く山頂に登るのは困難であったので馬で登った。)

秋山好古揮毫の石碑の中で歴史の一番古い忠魂碑。

 土居・得能氏の史跡
場所:松山市土居町・土居遊園地「萬福寺西」

星ノ岡古戦場「記念碑」
場所:松山市星岡一丁目1番8号「雲門寺」の山頂

古戦の塚
場所:東温市下林甲2616番地「築島神社」

忠魂碑(揮毫:秋山好古)
場所:西条市丹原町常石山山頂

歴史の一番古い忠魂碑の裏面で、銘文は元愛媛県立図書館長菅菊太郎氏の作で、当時の徳田村長大西虎市氏の筆である。(得能通綱の事柄が書かれている。)

昭和5年4月4日、除幕式に臨席した秋山好古。

昭和天皇の御大典(昭和3年)記念事業として得能通綱の忠魂碑が建立された。
秋山好古揮毫の石碑は全国に52基発見されているが、一番高い標高163mの山頂にあり、歴史的にも一番古い歴史上の人物の忠魂碑、そして唯一秋山好古が除幕式に臨席し、自分が揮毫した石碑を見たのもこの石碑のみである。

昭和5年4月9日、秋山好古は6年3ヵ月務めた北豫中学校長を体調不良のため辞任、東京に帰る途中幼少時代からの親友、大阪市の新田長次郎を訪ね同年11月4日、東京の陸軍医学病院で逝去した。
享年72歳の人生教師として社会に出発し、教師で人生を閉じた。立派な一生であった。

得能通綱の忠魂碑の前にあるご大典記念碑。(昭和天皇即位記念)

土居通増の勤王之碑。(場所:松山市土居町・土居町遊園)

ここからは、得能通綱とともに後醍醐天皇に尽くした伊予の勤王の旗頭として活躍した土居通増の地を訪ねてみよう。

土居通増の五輪塔。

土居町遊園地内には沢山の記念碑が建立されている。

その中の一つ、「土居町は歴史と文化でつくる町」の石碑が、土居得能650年を記念して建立された。
「土居町は歴史と文化でつくる町」の裏面に、土居得能650年記念碑建立者の名前が書かれている。

土居得能650年記念の一つ。

土居得能650年を記念に作られたタイムカプセル。
昭和61年(1986年)5月5日、開封は50年先と揮毫されている。
50年後は、2036年、元号は変わり○○年5月5日である。

土居氏の古蹟地(現在は、松山市土居町・土居町遊園地となっている。)

鎌倉時代の末期、幕府の力が弱まってきたころ、後醍醐天皇はもう一度、天皇が政治を行なう為に実権を取りもどそうと討幕を計画し戦いを起こした。 
元弘3年(1333年)3月12日、伊予国でも幕府方と宮方に分かれて激しい戦いが行なわれ河野一族の久米郡(松山市土居町)の土居通増と桑村郡得能(西条市丹原町)得能通綱は宮方についた。(宗家・河野は幕府方である。)

瀬戸内の宮方の取り締まりに来ていた幕府方の長門探題長官、北条時直は、元弘3年(1333年)2月2日越智郡の石井浜(現、今治市近見)に上陸、土居氏・得能氏と戦い敗退した。
軍を立て直し同年3月12日に水居津(現、松山市今出か三津付近)に上陸した北条時直は宮方の中心である星ノ岡城を占領したが、土居・得能らの連合軍の攻撃開始で激戦となり戦線は平井付近(現、松山市平井町)まで及んだ。
「愛媛県東温市下林の築島神社に南北朝古戦の塚がある。」

その時の戦場になったのが、宮方の土居氏の館から2Kmはなれた「星ノ岡の戦い」で宮方が勝った。
この戦いが全国に波及して元弘3年(1333年)12月北条高時は自害して鎌倉幕府滅んだ。
 北条時直と伊予の朝廷方の旗頭、土居・得能軍との戦いの場所は、現在の石井・久米・小野地区に及ぶ大合戦で、此れが星ノ岡の合戦であり、この時の戦いを後世に伝えるために仙波太郎陸軍中将が建立した「星岡表忠之碑」が星岡山山頂にある。場所は、松山市星岡一丁目町1番「星ノ岡山頂」

土居氏の古蹟地には、土居・得能勤王之碑・土居兵庫守霊廟・土居通増公供養等・五輪墓がある。(松山市土居町・土居遊園地)

戦いの中心となった星岡山とその付近。
元弘3年(1333年)3月12日に伊予国でも幕府方と宮方に分かれて激しい戦いが行なわれ河野一族の久米郡(松山市土居町)の土居通増と桑村郡得能(西条市丹原町)得能通綱は宮方についた。

戦場となった星岡山南面側で、標高75,4m。

戦場(星岡山)北面側の星岡山で現在は星乃岡温泉となっている。

星之岡温泉に開示してある「星之岡古戦場」の説明板。

古戦場「星岡山」登山表示板。
山頂は標高75,4mである。

伊予国でも幕府方と宮方に分かれて激しい戦いが行なわれ河野一族(幕府方)の居城が河野通盛が築城した湯築城で、現在は国史跡・湯築城跡で道後公園として市民の憩いの場となっている。管理は愛媛県が行っている。

湯築城を南方面から見た画像、後ろに見えるビル群は道後温泉のホテル群で、城跡の裏手に子規記念博物館がある。
中世の城が平地に築城された事は非常に珍しく、防御するには大変である。

湯築城跡の模型。
湯築城跡の模型で湯築城資料館に展示してあり見学出来る。ボランティアガイドも居り案内してくれる。

日本100名城第80番に指定されている。
興国3年(1342)に躯綱氏が城を攻撃したと記録があるので、この頃までに河野通盛によって築城された。
その後、全国統一を目指す羽柴秀吉の命を受けた、小早川隆影が河野道直を打ち破り、河野氏の伊予の支配は終わる1585年である。
小早川隆影が湯築城主となり、その後福島正則が城主となり湯築最後の城主が福島正則であった。
その後、安土桃山時代は終焉し江戸時代となり、政治の中心は、加藤嘉明が築城した松山城に移り、湯築城は廃城となる。

仙波太郎陸軍中将が建立した「星岡表忠之碑」
星岡山山頂に建立されている。

松山市教育委員会が設置している「星岡古戦場」の説明板。

「星岡表忠之碑」を建立した仙波太郎陸軍中将。

仙波太郎は星岡古戦場の近く、松山市福音寺町で生まれ、秋山好古とは陸軍大学校の第1期生で、一時期陸軍の三太郎と言われた一人である。(宇都宮太郎・桂太郎・仙波太郎)

退役後夫人、矢野たまの出身地である岐阜県加納町に居住した。
大正9年5月、岐阜県加納町から衆議院議員に当選わが国の社会教育に貢献、彼は質実剛健で正義の士あって真に軍人の典型的であり、しかも単なる軍人に終わった人でなく常に豊富な学識と社会的常識とを保持し、正確な判断と処理となし得た立派な社会人でもあった。

墓所は、岐阜県加納町と生誕地、松山市福音寺町の土亀山にあり、その一角に昨年4月13日、正岡子規が詠んだ句「凩に はひつくばるや 土亀山」の句碑が建立された。

仙波太郎陸軍中将の墓。
秋山兄弟生誕地の女性研究員ある一人の女性が奉仕で墓の清掃をしている。
仙波太郎の関係者は松山には在住しておらず、皆さん岐阜市におられる。

昨年4月13日、建立された正岡子規の句碑。
正岡子規の句
「凩に はひつくばるや 土亀山」 明治25年 冬の終わりに詠んだ句
「しくるるや 右は土亀山 星が岡」明治28年に詠んだ句

1、      句   碑:正岡子規生誕150周年記念
2、      碑   文:凩に はひつくばるや 土亀山  明治25年
          しくるるや 右は土亀山 星が岡 明治28年
3、      建 立 者:松山市福音寺町川付自治会
4、      所 在 地:松山市福音寺町753番地12「土亀山」
5、      建立年月日:平成30年4月13日
6、      碑の大きさは:高さ1m16cm 横幅1m20cm 厚さ27cm
7、      石   材:花崗岩

旧伊予松山藩15万石、久松家当主である久松定謨を支えた秋山好古陸軍大将と仙波太郎陸軍中将。

 朝敵とされた伊予松山15万石出身の、秋山好古・久松定謨・仙波太郎の3人は、大正時代、天皇と宮城、首都東京を警衛する部隊の東京衛戍司令長官に同じ時期にこの3名は任命された。まったく不思議である。
画像は、左から、秋山好古(近衛師団長)・久松定謨(近衛第1連隊長)・仙波太郎(歩兵第1師団長)

秋山好古・第13代近衛師団長    :大正4年2月15日~大正5年8月17日迄

仙波太郎・第10代歩兵第1師団長:大正4年2月15日~大正5年8月18日迄

久松定謨・第19代近衛第1連隊長:大正3年5月11日~大正5年8月18日迄

この3名が天皇と宮城、首都東京を警衛した。

愛媛県東温市下林にある築島神社境内には、南北朝時代、松山市星岡町にある星岡山を中心に繰り広げられた戦いで亡くなった方のお塚がある。

楠木正成公の騎馬像

皇居の南東の一角に、花崗岩の台座に据えられた立派な騎馬姿の武者像が楠正成の銅像である。
この銅像は、愛媛県新居浜市別子銅山を開いた住友家が、開山200年の記念として企画し、東京美術学校に依頼し作成し、宮内庁へ献納したもので、高村光雲など東京美術学校の職員らにより当時の技術の粋を集めて作成され、明治33年7月に完成し献納されたものである。

本体の高さは4mあり、台座を加えると約8mになり、また本体部の重さは、約6、7tと言われている。
楠木正成の騎馬像は、皇居の方を向いている。
楠正成は南朝方の後醍醐天皇につき命を捧げた武将である。

現天皇は北朝方、楠木正成は今の天皇家にとって政敵ということになるが、宮内庁は古い昔のこと・・で建立されたのでしょか?何故皇居の方を向いているのか?である。
大東亜戦争終焉前、昭和18年8月12日金属類回収令が発令され、全国津々浦々の金属類回収が行われた。
由緒ある銅像も回収が行われ、秋山好古の騎馬像も金属類回収で潰された。しかし、西郷隆盛・大村益次郎・楠木正成の銅像は潰されなかった。・・・何故か?

 

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秋山好古揮毫石碑を訪ねて 12、愛媛県宇和島市吉田町の石碑「忠魂碑」

2019年01月23日 | 伊予松山歴史散策

              愛媛県宇和島市吉田町の石碑「忠魂碑

愛媛県宇和島市吉田町は、旧北宇和郡吉田町で藩政時代は伊予宇和島藩10万石、藩主は、仙台藩主伊達政宗の庶長子、伊達秀宗、その後宇和島藩は秀宗の5男伊達宗純に3万石を分知して伊予吉田藩を創設した地である。
宗家・宇和島藩は富国強兵政策とり、高野長英・村田蔵六(後の大村益次郎)らを招き藩の繁栄を計った。

幕末幕政にも関与、福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬と並び幕末の四賢侯と称され、その背景にした伊予吉田藩であった。伊予吉田藩には、慶応元年4月9日、伊予吉田藩江戸屋敷で誕生した簡野道明がいる。
4歳の時伊予国吉田(現在の愛媛県宇和島市吉田町)に戻り、小学校に入ってから漢学・習字を学び、中学を卒業後小学校の教員を経て愛媛県師範学校に入学する。

卒業後は愛媛県南予地区で教鞭を執り、その後、漢和辞典「字源」を編集し刊行した有名な人を輩出した土地柄である。
また石原慎太郎、石原裕次郎の父、石原潔(愛媛県大洲市出身)が勤務した山下汽船(現商船三井)の創業者、山下亀三郎の出身地でもある。
そして、吉田町は、日本有数の温州みかんの産地で、平成30年7月に発生した平成最大の「西日本豪雨」で大きな被害があった地区でもある。

そんな由緒ある地に、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部・最高司令官・マッカーサー元帥)の命令で撤去の対象となった秋山好古が揮毫した石碑「忠魂碑」があり、その石碑を訪ねることにする。

1.    文  忠魂碑

2.所 在 地:  宇和島市吉田町河内甲371番地  安楽寺

3.揮 毫 者:  陸軍大将 秋山好古

4.建 立 者:  記載無し

5.建立年月日:  大正13年11月 

6.碑石大きさ:  高さ 1m56㎝  横幅 82㎝  厚さ 21㎝

7.石碑の由来:   大正13年に建立した当時の場所は、小学校の前にあった。

  忠魂碑は、日清日露戦争でこの地区から出征し護国の為に戦死をされた霊を祀る為に建立された碑である。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部・最高司令官・マッカーサー元帥)は、忠魂碑は戦争を賛美し教育的な意図をもって、小中学校の敷地内に立てられたものもあった。特に軍人が揮毫した石碑・扁額の撤去命令が下された。
愛媛県下でも秋山好古が揮毫した石碑・扁額が撤去に該当した石碑が3基、扁額が2面ある。喜佐方小学校前の忠魂碑も撤去の対象となった。

この地の安楽寺の奥山住職は、GHQの撤去命令が下されたが命令に反し、危険もかえりみず「私が罪を被るから、我が寺に引き取り我が命に代えてでも保存する」と断言されそれ以来、安楽寺がこの石碑を守り現在に至っている。
安楽寺は、吉田町出身で山下汽船(現・商船三井の創業者・山下亀三郎の本家とは、親戚同様の交際がある寺である。
中にはGHQの撤去命令を恐れ石碑は倒され地中に埋められたりした石碑はたくさんあったと言われている

安楽寺奥山住職の奥様曰く・・
「好古にこの忠魂碑の揮毫依頼をしたのは、亀三郎さんですか」と、安楽寺奥山住職の奥様に聞くと「そうです」と答え、さらに「現代の人々はこの時代のことなど関心がなくなりました。NHKで坂の上の雲が放映されるので、時代を振り返り、良いものはどしどし取り入れて立派な国づくりの一助になればいいですね」と述べられた。

註:忠魂碑の揮毫は大正13年なので、秋山好古が北豫中学校長として赴任した年なので松山の自宅(現秋山兄弟生誕地)で揮毫したのである。

安楽時にある忠魂碑の裏面で「大正13年11月」建立と刻まれている。

宇和島市立喜佐方公民館から徒歩で約10分の所に安楽時がある。

18段の石段を上がると安楽時の境内に辿り着く。

臨済宗妙心寺派安楽寺本殿で、忠魂碑は本殿の右手に大切に保存されている。

安楽寺住職(我が命に代えても我が寺で保存をすると言われた先代奥山昭典住職の息子さん)

臨済宗妙心寺派安楽寺の表札。

安楽寺境内入口には、山下汽船の創業者、山下亀三郎が寄進した石柱があり、石柱には「横浜市 山下亀三郎と揮毫されている。

現在の宇和島市立喜佐方小学校で、GHQの撤去命令が下された忠魂碑は学校の前にあった。

現在の宇和島市立喜佐方小学校の校札。

宇和島市立喜佐方公民館。

現在、喜佐方公民館横には忠霊塔が建立されている。
日清・日露・大東亜戦争にこの地から出征し戦死された方々の合同慰霊碑で、ある人が安楽寺の奥山住職に、忠霊塔が建立されたので、安楽寺の「忠魂碑」はもういらないのではないかと言ったら、住職は、何を言いうのだ、忠霊塔と我が寺にある忠魂碑は意味が違うのだと言って激怒されたと住職の奥さんは言っておられた。

戦後建立された忠霊塔で、喜佐方地区から日清・日露・大東亜戦争にこの地から出征し戦死された方々のお名前が記載されている。

昭和48年12月27日建立された忠霊塔の裏面にある碑文。

 

ここで山下亀三郎について触れておく。

山下亀三郎は、旧吉田藩伊予北宇和河内村(後の喜佐方村・現在の愛媛県宇和島市吉田町)出身で、亀三郎は、「自分が少しでも国家の役に立てる人間になれたのは母のおかげである」として人材育成、特に女性の教育に力を注ぎ、山下実科高等女学校(現、愛媛県立吉田高等学校)や第二山下実科高等女学校(現、愛媛県立三瓶高等学校)を設立した。また、故郷の小学校や図書館への寄付や道路やトンネル、運河の建設など公共事業にも尽力した。

山下家は、この地区の庄屋で亀三郎は山下家の7人兄弟の末子として慶応3年4月9日に生まれた。日本の三大船成金の一人で、勝田銀次郎、内田信也、山下亀三郎を言う。山下汽船は現在商船三井となっている。
東郷元帥の名参謀秋山眞之とも親しい間柄であったので日露戦争が間近にせまっており民間船も徴用される事を察知、山下は喜佐方丸を購入これが山下汽船の大きな発展の原点となった。 

石原慎太郎・裕次郎の父親、石原潔は愛媛県大洲市の出身で、山下汽船に勤務した。石原一家が逗子で最初に住んだ家は山下汽船創業者山下亀三郎の別邸であった。山下亀三郎は、秋山眞之が「日本は中国との貿易を活発にしなければならない」と話すのを聞いて汽船会社を創業し大成功した。船舶事業で財を成した、勝田銀次郎、内田 信也と並ぶ三大船成金の一人である。

秋山眞之は、小田原にいた山形有朋を訪ねるために、山下亀三郎の小田原の別荘に滞在していたが、そこで持病の盲腸炎が悪化して腹膜炎を併発し、大正7年2月4日、亀三郎らに見守られながら49歳で死去した。当時小田原には腹膜炎を治す医者が居なかったそうだ。

何故眞之は小田原に居たのか、それは山県有朋にこれから日本の国造りは山県さんが中心になって行われます。その中で米国とだけは事を構えない日本を創って下さい。物量豊かな米国と事を構えると(戦争)日本は滅びます。・・この事をお願いに・・山県有朋は小田原の別宅に居たからである。

その時に読んだ辞世の句が不生不滅明けて鴉の三羽かな」三羽とは、正岡子規と清水則遠、と秋山眞之の事で、この三人は、松山中学時代の同級生、末は博士か大臣かと大きな志を抱き東京大学を目指し上京した友人を指している。三人とも若くして逝去した。

現在秋山眞之は、神奈川県鎌倉霊園に、正岡子規は東京都北区田端の大龍寺に、清水則遠は東京都台東区谷中霊園に眠っている

安楽寺の帰りに山下亀三郎の実家を訪れた。画像全部が山下家の屋敷である。

 

山下家の傍に大雷神社がある。
神社の注連石は亀三郎が寄進している。

大雷神社の拝殿内部。

神社拝殿側から見た山下亀三郎が寄進した注連石で、裏面に山下亀三郎の名前と寄進した年月日が刻印されている。
注連石の裏面には、横浜港 喜佐方丸船主 山下亀三郎と刻印されている。

宇和島市立簡野道明記念吉田町図書館。

図書館の建物は寺院風である。初代の奥山昭典館長が、命がけで守った「忠魂碑」の保存者、安楽寺の住職で、奥山住職が館長だから寺院風に造ったのかと視察に来た人達から言われるそうだが、図書館建設委員から京都二条城を模して建築したそうだ。
何故二条城なのかは?で簡野道明の寄付により図書館は開館した。

註:簡野道明は、伊予吉田藩には、慶応元年4月9日、伊予吉田藩江戸屋敷で誕生した
4歳の時伊予国吉田(現在の愛媛県宇和島市吉田町)に戻り、小学校に入ってから漢学・習字を学び、中学を卒業後小学校の教員を経て愛媛県師範学校に入学する。
卒業後は愛媛県南予地区で教鞭を執り、その後、漢和辞典「字源」を編集し刊行した有名な人物である。

宇和島市立簡野道明記念吉田町図書館表札。

画像は、秋山眞之が逝去した場所で、小田原の山下亀三郎の別宅。

秋山眞之は、小田原にいた山形有朋を訪ねるために、山下亀三郎の小田原の別荘に滞在していたが、そこで持病の盲腸炎が悪化して腹膜炎を併発し、大正7年2月4日、亀三郎らに見守られながら49歳で死去した。
その時に読んだ句が不生不滅明けて鴉の三羽かな」三羽とは、正岡子規と清水則遠、と秋山眞之の事で、この三人は、松山中学時代の同級生、末は博士か大臣かと大きな志を抱き東京大学を目指し上京した友人を指している。三人とも若くして逝去した。

現在秋山眞之は、神奈川県鎌倉霊園に、正岡子規は東京都北区田端の大龍寺に、清水則遠は東京都台東区谷中霊園に眠っている何故眞之は小田原に居たのか、それは山県有朋にこれから日本の国造りは山県さんが中心になって行われます。その中で米国とだけは事を構えない日本を創って下さい。物量豊かな米国と事を構えると(戦争)日本は滅びます。・・この事をお願いに・・山県有朋は小田原の別宅に居たからである。

東郷元帥の名参謀として最も信頼の大きかった秋山眞之、惜しい人物を早く亡くしたものだ。
元日本海軍連合艦隊司令長官・海軍大将東郷平八郎元帥は、秋山眞之の銅像建設にあたり贈った言葉が「智謀湧如」である。

 

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秋山好古揮毫石碑を訪ねて 11、愛媛県松山市高浜町の石碑「摂政宮殿下特別大演習御野立場」

2019年01月15日 | 伊予松山歴史散策

年表によると昭和天皇は松山に四度行啓されている。

皇太子時代、つまり摂政宮として、大正11年11月14日、温泉郡新濱村高浜沖(現 松山市高浜町)で日本陸海軍の大演習が行われ、此れを観閲の為、昭和天皇が摂政宮時代に大正天皇の御名代として松山に行啓された。
摂政宮殿下は、駆逐艦「谷風」でお越しになり萬翠荘に宿泊された。
象徴(人間)天皇となられ、戦後の全国巡幸せられ、摂政宮時代を入れ松山には下記4回来られた。

第1回目は、大正11年11月14日、    摂政宮時代、陸海軍松山大演習観閲行啓

第2回目は、昭和25年 3月17日~20日、戦後の復興巡幸

第3回目は、昭和28年10月22日、    第8回国民体育大会開会式行幸啓

第4回目は、昭和41年 4月17日、    第17回全国植樹祭行幸啓

これから訪ねる石碑「摂政宮殿下特別大演習御野立場」は、大正11年11月14日に行われた日本陸海軍の大演習を観閲された場所、荒神山に皇太子のご成婚記念として大正13年1月温泉郡新濱村が建立した記念碑である。
石碑は、軍の大演習があった方向に向けて建立されている。

1.    文  摂政宮殿下特別大演習野立場

2.所 在 地:  松山市高浜町二丁目乙74番地29  荒神山 標高27m

3.揮 毫 者:  陸軍大将 秋山好古

4.建 立 者:  温泉郡新濱村

5.建立年月日:  大正13年1月 (皇太子のご成婚記念)

6.碑石大きさ:  高さ 2m 97㎝ 横幅 99㎝ 厚み 36cm

荒神山山頂。
皇太子殿下(摂政宮殿下)が結婚された記念に大正13年1月、記念碑を建立した。
伊予鉄道高浜駅から徒歩10分標高27mの場所にある。

摂政宮殿下特別大演習御野立場の石碑で、石碑左側面に、建立年月日 大正13年1月が刻まれている。

皇太子殿下が結婚された記念に荒神山山頂に建立された「摂政宮殿下特別大演習御野立場の石碑」。
石碑裏面に「為御成婚奉祝記念建之 大正十三年一月 新濱村」と揮毫されている。
陸海軍の大演習が行われ、摂政宮殿下が観閲された場所に建っている。
伊予鉄道高浜駅から徒歩10分、標高27mの場所にある。

荒神山山頂の風景。
以前は、地元高浜地区ボランティア団体「ひまわり会・代表・宮部 富光さん」の会員が毎週清掃活動をしており何時も綺麗に整備されていた。

 海南新聞:大正11年11月15日付の記事、大正11年11月14日、摂政宮殿下は陸海軍の大演習が温泉郡新濱村高浜沖で行われこの大演習を荒神山山頂から観閲された。
「海南新聞:大正11年11月15日付の記事」荒神山に上られる皇太子殿下。
下の画像は、観閲されるお席、玉座。
海南新聞は、現在の愛媛新聞である。

 大演習をこの荒神山山頂から観閲された。
画像は、観閲されるお席(玉座)。

荒神山山頂から見た現在の画像。
四十島(左に小さく見える島)高浜港から船が出港しているが、ここで大正11年11月14日 昭和天皇が皇太子時代に陸海軍の大演習が行われた場所。

夏目漱石、坊ちゃんに出てくるターナー島「青島」「愛称、ターナー島」で、その奥は興居島。
島の名前、四十島 俗名、ターナー島・・である。
高浜沖、四十島付近で大正11年11月14日、日本陸海軍の大演習が行われ、観閲に摂政宮(後の昭和天皇)が大正天皇の名代として行啓された。(大正天皇は御身が弱く地方には行幸されなく殆ど摂政宮殿下が名代として行啓されていた)観閲された場所が高浜の荒神山でここに秋山好古が揮毫した記念碑が建っている。

四十島について:
1、 所在地は、松山市高浜一丁目115番地。
2、地目は、土地の種類は(堤塘・ていとう=土手)として法務局に登記されている。
3、位置は、高浜港から500m・黒岩海岸から200m沖合。
4、所有者は、平成17年7月8日、愛媛県から松山市に移管。
  平成17年11月18日、国指定登録記念物に指定。
5、成り立ち、地殻変動で地上に出来た。年代は不明。
6、松の復活、20数年前に松が枯れ、今後この島には松は生息出来ないと大学の権威者が言われた事に対して、なにくそ魂でいろいろと研究された当時高浜小学校の理科の先生「北岡先生」が25年の歳月を掛けて自費で船を調達し松を植栽、毎日のように水を与え育て上げ立派な松になっている。24本あり平成17年国登録記念物に指定。
松は根から有機酸を出し岩に食い込み育っている。

成り立ちは、花崗閃緑岩の大小三つの岩が連なって出来ており、高さ8m 面積1200平方m(363坪)、島の周り約140m。
地質がもろく、波浪や海流の影響を受け、年々細っている・・その内消滅するのではないかと心配している。
後方は興居島で、元読売巨人軍投手、西本 聖の出身地である。

ターナー島の由来の説明版が設置されている。

 高浜港の後方にある荒神山山頂に秋山好古が揮毫した「摂政宮殿下特別大演習御野立場の石碑」がある。

大正11年11月14日、日本陸軍の大演習が行われ此れを観閲の為、昭和天皇が摂政宮時代に大正天皇の名代で松山に来られ、この時に萬翠荘に宿泊された。
摂政宮は、駆逐艦「谷風」でお越しになった。

松山城南側山麓に萬翠荘(旧伊予松山藩主久松定謨が大正11年松山の別宅として建築)がある。
松山市では一番古い鉄筋コンクリート造りで、木子七郎が設計したフランス式の建物である。
久松定謨は明治23年フランスの陸軍士官学校に留学、のち台湾総督にもなった人物であり、フランスの陸軍士官学校留学に随行役で行ったのが秋山好古である。

大正11年11月14日、日本陸軍の大演習が行われ此れを観閲の為、摂政宮時代に大正天皇の名代で松山に来られ、この時に萬翠荘に宿泊された。
この時、萬翠荘は建築真っ最中で、摂政宮殿下の宿舎とするために突貫工事で完成を急いだ。
摂政宮殿下は2階のお部屋に泊まられた。

萬翠荘は、昭和20年11月から暫く連合軍司令官の宿舎として使われた時代もあった。
設計は、建築家木子七郎で、代々宮大工の家系に生まれ、東京帝国大学建築科を卒業、日本の主要な建造物300余りを手がけた驚くべき建築家である。
東京放送局愛宕山放送所、東郷侯爵目黒本邸、大阪国技館、そして日本の赤十字病院の大部分を設計している。

夫人が愛媛出身の新田長次郎の娘であったという縁で、愛媛県では愛媛県庁、鍵谷カナ頌功堂など数多くの建物が残されている。
秋山好古と縁がある新潟の旧新潟県庁舎も木子七郎の設計で,建物様式も愛媛県庁舎とよく似ていた。

萬翆荘は平成23年11月29日、重要文化財第2580号として指定された。

萬翠荘を建築した旧伊予松山藩主・伯爵久松定謨。 

松山城南側山麓に萬翠荘(旧伊予松山藩主久松定謨が大正11年松山の別宅として建築)がある。
松山市では一番古い鉄筋コンクリート造りで、木子七郎が設計したフランス式の建物である。
久松定謨は明治23年フランスの陸軍士官学校に留学、のち台湾総督にもなった人物であり、フランスの陸軍士官学校留学に随行役で行ったのが秋山好古である。

画像は、フランスの陸軍士官学校に留学に随行役で行った時の秋山好古(32歳)と久松定謨(24歳)であった。

明治23年1月29日、旧伊予松山藩藩主、久松定謨はフランスへ留学した。
元殿様が一人で外国に行かすわけにはいかない。そこで旧藩士がお供として随行し、その随行者に好古が指名されたのである。
好古には迷惑な話であった。すでに、陸軍はドイツ式で軍備を始めている。ドイツとフランスでは正反対な事が多く、いまさらフランス留学などしたらかえって混乱するのではないだろうか。それに、帰国したら自分だけがフランス流となってしまい、周囲から浮き上がってしまうのではないか。

そんな心配が好古の頭をよぎった。おまけに、費用は自前である。しかし、好古の性格では嫌とは言えなかった。好古は渡仏したのである。(費用に関しては、途中から官費に切り替わった。)
 フランス留学の収穫は「馬術」であった。フランス人は「ドイツ馬術は人間を木か鉄だと思っている」と悪評していた。

実際、好古が調べてみたところ、ドイツの馬術は見た目の凛々しさを重視しすぎるあまり、騎乗者の負担が大きく疲れやすいものであったらしい。後にフランス訪問に来た陸軍中将・内務大臣山県有朋に、好古は馬術のみはフランス式を採用することを直訴し、山県も好古に一任した。好古は、フランス様式馬術を取り入れ日本の騎兵を育てたのである。

 

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秋山好古生誕160年祭開催

2019年01月07日 | 伊予松山歴史散策

安政6年1月7日、伊予松山藩士の家系に生まれた秋山好古、今年で生誕160年になる。
この時代は、激動の時で開国か鎖国かで大変な時期、好古が生まれた翌年3月3日、大老井伊直弼が桜田門の前、豊後杵築藩松平家上屋敷前で暗殺された。
豊後杵築藩松平家上屋敷跡は現在警視庁舎となっている。(豊後杵築藩松平家、譜代大名・3万2千石)

それから戊辰戦争が始まり、伊予松山は朝敵とされ新政府に制裁金15万両を課せられその調達に苦慮した。
そんな中、現在の松山市歩行町二丁目3番地6に伊予松山藩15万石、藩士徒歩目付けの父、秋山久敬、母・貞の三男として誕生、幼名信三郎、元服して好古となった。正式には、秋山信三郎好古である。

好古の命名は、父久敬が論語の、子(し)日(のたま)わく、述(の)べて作(つく)らず、信(しん)じて古(いにしえ)を好(この)む。竊(ひそ)に我(わ)が老彭(ろうほう)に比(ひ)す。により父久敬が命名した。
親しい人々は愛称で、信さんと呼んでいた。
16歳のとき、福沢諭吉の「学問のすすめ」を読み、共感し青少年の教育推進に教育者を目指し大阪師範学校(現、大阪教育大学)に学び卒業後、名古屋師範学校付属小学校に赴任した。 

しかし同校にいた伊予松山の先輩、和久正辰教務官と名古屋鎮台山本忠彰武官の強い勧めで軍人を目指す事になり、教員を辞任し、陸軍士官学校に入学、時あたかも大激震の西南戦争が勃発した明治10年であった。
卒業後日本の騎兵隊を創設、日本騎兵の父と言われた。 

その後、近衛師団長、教育総監を歴任、大正12年元帥に推薦されるもこれを辞退、大元帥(大正天皇)は驚いた。
未だかって元帥を辞退した者はいなかったからだ。
大元帥は元帥を辞退した秋山好古大将に、特旨として官位従二位を与え好古は、官位従二位を拝命し、大正13年郷里の伊豫松山から強い要望に答え北豫中学校長(現、愛媛県立松山北高校)として昭和5年3月まで本来の教育者として勤務し、故郷の青少年の教育に尽くし同年3月北豫中学校長を辞任、11月4日東京・陸軍軍医学校で永眠(享年72歳)現在東京青山霊園に眠っている。 

西郷隆盛を表した言葉に「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末(しまつ)に困るもの也」と言う言葉があるが、秋山好古も「名誉、名声もいらない、元帥もいらぬと言うような無心の人は、使命感で動く」西郷隆盛は靖国神社には祭神されていませんが、秋山好古も靖国神社には祭神されていない。
秋山好古の信条、「簡単、明瞭、質素、倹約、そして人は心穏やかで豊かであり、元気な間は、働くべき、仕事はその気で探せば幾らでもある。」

座右の銘は「独立自尊」であった。
好古は、父の教え守り、勉強すれば貧しい人間にはならない、そして大きくなった暁には、私利私欲を捨て、世の為・人の為・故郷の為に役に立つ人間になりなさい。・・母の教え貫き72歳を全うした。元帥を辞退したのも、母の教えの一つ「私利私欲を捨てて」が何時も脳裏に有ったのではないかと私は思う!!

秋山好古生誕160年祭は、中村時広愛媛県知事、野志克人松山市長をお迎えして第1部・第2部・第3部に分けて開催された。

秋山好古生誕160年祭第1部開催にあたり挨拶をする、公益財団法人常磐同郷会、山崎 薫理事長。(財団法人常磐同郷会は、秋山兄弟生誕地の管理運営母体)
山崎理事長の横に飾ってある秋山好古のカラー肖像画は、千葉県習志野市、習志野騎兵連隊史跡保存会代表、三橋正文さんから寄贈していただいた全国に二つしかない貴重な肖像画を舞台に掲示し式典を開催した。その一つは、千葉県習志野市、習志野騎兵連隊史跡保存会にある。

なお今年は、節目の160年祭とあって、好古が幼少時に学んだ藩校「明教館・現在の愛媛県立松山東高等学校」好古が校長を務めた「北豫中学校・現在の愛媛県立松山北高等学校」両校の校長先生も秋山好古生誕160年祭に臨席していただいた。

秋山好古生誕160年祭で挨拶をされる、中村時広愛媛県知事さん。
多忙なスケジュールの中時間をつくりお越し下さり毎年秋山好古生誕を開催され秋山好古を顕彰される皆様を誇りに思います。・・と述べられた。中村時広愛媛県知事さんが松山市長時代に、小説坂の上の雲を基軸とした街づくりをしてきた仕掛け人です。秋山兄弟生誕地には大変理解のある知事さんであります。

秋山好古生誕160年祭で挨拶をされる、野志克人松山市長さん。
中村時広愛媛県知事さんが松山市長時代に、小説坂の上の雲を基軸とした街づくりを行い、現在は野志克人松山市長さんが引き継ぎ活動されています。

秋山好古生誕160年祭で秋山家を代表してお礼のご挨拶をされる秋山好史さん。(秋山好古の孫)
毎年秋山宗家第10代秋山哲兒さんがお越しになりご挨拶されておりましたが体調を崩され今年は秋山好央さんが名代として来られました。お顔付、体付きは祖父秋山好古さんによく似ておられました。

秋山好古生誕160年祭開式前の左から中村時広愛媛県知事、野志克人松山市長、秋山好史氏、新田長彦氏(新田長次郎氏の曾孫・ニッタ(株)の名誉顧問)各氏。

秋山好古生誕160年祭第2部。
恒例の秋山兄弟生誕地武道場(合気道・柔道部)の稽古始を行っている。その鏡開きの式で秋山兄弟生誕地武道場合気道部、鈴木師範が気合い込めての鏡開きの式が行われた。

鏡開きの式後、秋山兄弟生誕地武道場(合気道・柔道部)の稽古始が行われた。

秋山好古生誕160年祭第2部終了後、野志克人松山市長を囲んで記念写真を撮った。

秋山好古生誕160年記念行事、第3部。
「人間秋山好古・受け継がれる想い」日・中・露、座談会開催要項。

秋山好古生誕160年祭第3部の開式。
日本・中国・ロシヤから見た座談会「人間秋山好古・受け継がれる想い」と題してパネラーは、秋山好史氏、邢 東風氏、シャクマトフ・ディミトリで司会進行は常盤同郷山崎理事長が行った。聴講者は150名で熱心に聴講していた。

秋山好古生誕160年祭、第3部生誕160年記念日中露座談会のパネラーの皆さん。
右から山崎常盤会理事長、秋山好央氏、愛媛大学法文学部教授・邢 東風氏(中国思想史・仏教史)、愛媛大学院理工学研究科教授・シャクマトフ・ディミトリ氏。

会場の武道場は冷暖房施設がなくストーブで暖を取り熱心に講話を参加者は聴いておられた。

秋山兄弟生誕地の前庭では大勢の方々が秋山好古生誕160年祭のお祝いに来られた。
恒例の記念の餅つきが行われ、搗き立てのお餅を美味しそうに食べていた。県外から観光に来られた方々はいい時に来ましたと喜んでいた。松山の方々はお国の為に働いた秋山兄弟を顕彰する姿が素晴らしいと語っていた。

秋山好古生誕160年祭、記念の餅を秋山好古騎馬像の前で餅をつきあげる。

つきあがったお餅を、秋山兄弟生誕地の女性研究員が手際よく仕上げる。

地元新聞「愛媛新聞」秋山好古生誕160年祭の記事。

前項に 安政6年1月7日、伊予松山藩士の家系に生まれた秋山好古、今年で生誕160年になる。
この時代は、激動の時で開国か鎖国かで大変な時期、好古が生まれた翌年3月3日、大老井伊直弼が桜田門の前、豊後杵築藩松平家上屋敷前で暗殺された。豊後杵築藩松平家上屋敷跡は現在警視庁舎となっている。(豊後杵築藩松平家、譜代大名・3万2千石)と付記しましたので桜田門を画像で辿ってみたいと思います。

画像は、映画の製作を実現させたのは「水戸藩開藩四百年記念『桜田門外ノ変』映画化支援の会」である。

 画像は、現在の皇居桜田門。

これからの皇居桜田門の画像は、平成17年1月25日、旧江戸城大手門前から右回りに皇居を一周した時の画像で、徳川御三卿、清水家、田安家跡(現日本武道館北当たり)も訪れた。
丁度千鳥ヶ淵当たりで昼食の時間帯になり食事をしようと食事処を探すもなく、英国大使館近くにあったレストランでカレーライスを食べた記憶が蘇った。

 

 映画のオープンセットの桜田門。
画像は、茨城県水戸市に作られた日本最大級の規模を誇る映画のオープンセットが茨城県に出現!「桜田門外ノ変」と呼ばれる歴史の大きな転換点での出来事で、この「桜田門外ノ変」が映画化され、茨城県水戸市に国内最大級のオープンロケセットが建設された。

私が伺ったのは東日本大震災のあった平成23年8月28日に行き撮った画像です。
水戸藩藩校弘道館も地震被害で封鎖されており見学出来なかった。

警視庁舎方向から見た、現在の皇居桜田門。

映画のオープンセットの桜田門。

 井伊直弼が襲撃された現場に映画のオープンセットとして置かれてあった。
その現場は、豊後杵築藩松平家上屋敷前、現在警視庁舎となっている。(豊後杵築藩松平家、譜代大名・3万2千石)

井伊直弼の屋敷前から見た襲撃現場。(映画のオープンセット)

映画のオープンセット桜田門前から見た、豊後杵築藩松平家上屋敷と奥に井伊直弼の屋敷を見る。

現在の桜田門内側から見た警視庁舎。 

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