EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

秋山好古揮毫石碑を訪ねて 6-1、千葉県鎌ヶ谷市石碑、上野・浅草界隈散策

2018年11月30日 | 伊予松山歴史散策

画像は、JR上野駅

上野駅は、東京駅や新宿駅と違った駅で、故郷を感じさせる哀愁を漂わせる雰囲気のある駅である。
千葉県鎌ヶ谷市の道野辺八幡神社を訪問し上野に戻って来た。
上野駅は超久しぶりである。
所用で秋田市に行く時、東北新幹線乗車の為上野駅に来たとき以来で、当時の東北新幹線は上野発であった。
長いエスカレーターで地下深く降りた覚えがある。
30年も前の事であるが。
鎌ヶ谷市から上野駅周辺を散策、構内で寝起きをしている吾人が数人おり、どんな事情があるのか都心の大きな構内不思議な光景であった。
その後浅草界隈散策に行った。

平成23年6月10日、新潟県魚沼市の石碑取材後、上越新幹線の浦佐駅まで車で送って頂き、浦佐駅発:東京行13時49分発のMXAとき326号に乗車、上野駅で下車宿泊、翌日千葉県鎌ヶ谷市道野辺神社に眠っている秋山好古揮毫の石碑の再建立依頼に伺った。
その時宿泊したホテルである。
ホテルの隣が東京地下鉄本社ビルであった。

ホテルから見たJR上野駅。

ホテルは、JR上野駅前で立地条件は最高に利便性の高いホテルであった。
しかし眠りについてからが大変であった。
ホテルの前に首都高速道路があり、深夜になるとパトカー🚔のサイレンの音、救急車のサイレンの音で安眠出来なく困った。

上野駅といえば・・これが頭に浮かぶ 

上野駅広小路口前のガード下に「あゝ上野駅」の歌碑が建立されていた。
当時無名の若手歌手だった井沢八郎が歌った。
本人も歌手を志して青森県から単身上京した井沢自身の人生も重なり空前の大ヒットとなった。
昭和55年カラオケ専用装置が置かれ歌集のトップに掲載されたのが「ああ上野駅」であった。
最近は「ああ・・」の付く曲が多くなり、ああ上野駅は後の方に掲載される様になった。

昭和35年代に集団就職列車に乗って上京した若者の応援歌「ああ上野駅」の歌碑が平成15年7月6日建てられた。
場所はもちろんJR上野駅前、多くの県人が歌碑の前で目頭を熱くするという。
私が写真を撮っている時も年配の人が感慨深そう、懐かしそうに銅像を眺めていた。
昭和29年4月5日、中学を卒業したばかりの少年少女622人を乗せた、8両編成の就職専用列車が青森駅から上野駅に向けて出発した。
集団就職列車の第一号であった。
戦後の日本の繁栄を支えた方々、ご苦労様でした。

歌碑の一番下に設置されている「ああ上野駅」の歌碑の由来。

若手歌手だった井沢八郎が歌い有名になった曲「あゝ上野駅」の歌詞。

上野駅広小路口前のガード下に「あゝ上野駅」の歌碑が建立されている。

1、どこかに故郷の 香りを乗せて 入る列車の なつかしさ
上野は おいらの 心の駅だ くじけちゃならない 人生が
あの日ここから 始まった

2、就職列車に 揺られて着いた 遠いあの夜を 思い出す
上野は おいらの 心の駅だ 配達帰りの 自転車を
止めて聞いてる 国なまり

3、ホームの時計を 見つめていたら 母の笑顔に なってきた
上野は おいらの 心の駅だ お店の仕事は 辛いけど
胸にゃでっかい 夢がある

上野から浅草に行き東京スカイツリーをカメラに収めた。
当時は未だ建設中で最後の作業真っ最中であった。
その後神奈川県平塚市の秋山好古揮毫の石碑調査に行った時が、東京スカイツリー開業した初日であった。

平成24年5月23日、開業2日目の東京スカイツリーで、神奈川県平塚市の秋山好古揮毫の石碑調査に行った時に撮った。

平成24年5月23日、開業2日目の東京スカイツリーで、神奈川県平塚市の秋山好古揮毫の石碑調査に行った時に、吾妻橋・浅草水上バス乗り場から撮った。
開業初日(5月22日)は降雨が酷く写真を撮れる状態ではなかった。

 

浅草の雷門、大勢の観光客が記念の写真を撮っていた。

浅草のシンボルマーク「大提灯・雷門」江戸文字匠の大家、橘 右之吉さんが揮毫された。

大提灯・雷門は、直径3.6m、高さ4.5m、重さ750kg、松下電器(現パナソニック)の創業者松下幸之助氏が昭和35年に大提灯を寄進したそうです。

浅草宝蔵門にも橘さん揮毫の提灯がある。
提灯は高さ約3.7メートル、幅約2.7メートル、重さ約400キロ。
製作費は約400万円といわれ、中央区の日本橋小舟町の有志が町内の個人や商店、企業約190件の寄付を集め実現した。

約340年前、同町の魚河岸商人の信徒らが提灯を奉納したのが切っ掛けで同町が受け継がれている。
現存の提灯は、江戸開府400年を期に新調奉納されたそうだ。
現在の宝蔵門は、昭和39年ホテルニューオータニの創業者、大谷米太郎氏の寄進により再建されたとある。
宝蔵門の建築様式は、鉄筋コンクリート造りで、屋根瓦はチタン製で造られている。

浅草宝蔵門にある「小舟町」の提灯の下部に彫刻されている彫り物。
彫り物は「龍」で一枚の板で彫られている。

浅草寺本堂正面に掲示されている大提灯、「志ん橋」も江戸文字の大家「橘 右之吉さん」が揮毫、この大提灯は東京新橋組合の有志が奉納したもので、提灯にはその東京新橋組合にちなんで、「志ん橋」と大きく書かれている。
平成22年12月本堂の大提灯が10年ぶりに新調されたそうだ。
提灯は、京都の「高橋提灯」が製作し、鳥取県の手すき和紙、京都・丹波産の竹が使われていて、直径3.5メートル、高さ4.5メートル、重さ約600キロあるそうです。

浅草寺本堂の屋根瓦もチタン製で葺かれている!!

浅草の大提灯「雷門・小舟町・志ん橋」を揮毫された江戸文字書家、橘 右之吉さん。(松山三越で撮影)

橘 右之吉(たちばな うのきち)さん来松・橘流寄席文字・江戸文字書家、三越松山店で撮影させて頂きました。

橘さんは、株式会社UNOS 代表、江戸趣味雑俳「つ花連」同人/投扇興「綾香連」にも属され、昭和25年東京台東区生まれ、橘流寄席文字家元・橘右近に師事し、昭和44年年に正式な一門継承者として認められ「橘右之吉」の筆名を認可される。
神社や寺などで見かけるミニ千社札は右之吉が考案したもので、柘植の板に漆で文字を書いた「消し札」と呼ばれる携帯ストラップが人気を得ている。・・と紹介している。・・私も愛用している。

現在は寄席等の伝統的な仕事に加え、浅草賀神社、柴又帝釈天、湯島天満神社等社寺、浅草観光連盟、京都市観光協会、東都のれん会等の開催ポスターのタイトル筆耕と企画デザインから、本やCDジャケットのタイトル、イベントタイトル、企業名や商品名等その作品は、お台場の人気温泉「大江戸温泉物語」、デニーズの和風店舗「七福・弁天庵」などロゴダイプとして、また女優山口智子氏のプロデュースのもと、江戸風俗や文化を語る「暦作成委員会by KAKITSUBATA」に参画し、江戸東京博物館をはじめ、トークイベントも各所で開かれている。


有名なのは、浅草寺本堂、浅草雷門・宝蔵門の大提灯の文字は橘さんの揮毫である。
私は、以前橘 右之吉さんの工房を訪れお茶をご馳走して頂いた。
毎年松山市の三越デパートで実技公開されている。
平成21年9月22日、には秋山兄弟生誕にお越し頂いき写真を撮らせて頂いた。
江戸文字書家の大家でありながら気さくで、礼儀正しいお人柄で近寄りやすい芸術家である。橘 右之吉さんに造ってもらった柘植の板に漆でコールサインを書いて頂き愛用している。
橘さん曰く、ローマ字の江戸文字を書くことがあまり無いので良く覚えています・・との由。
この年も松山市でお逢い出来てよかった。

松山市の三越デパートで江戸文字匠の技を披露する「橘 右之吉」さん。

画像は、松山三越で江戸文字匠の技を披露している多忙な時間をさいて秋山兄弟生誕地にお越し頂き撮らせて頂いた。
秋山眞之胸像の前で江戸文字書家・橘 右之吉さんです。

お忙しい時間をとって頂き秋山兄弟生誕地、秋山好古騎馬像の前で江戸文字書家・橘 右之吉さんです。

匠の街道を往く「江戸文字書家・橘 右之吉さんです」

工房「UNOS」代表橘 右之吉さん

江戸文字書家・橘 右之吉さんが私に記念にと揮毫して頂いた「濤」

 

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秋山好古揮毫石碑を訪ねて 6、千葉県鎌ヶ谷市道野辺神社境内に眠る石碑「記念碑」

2018年11月24日 | 伊予松山歴史散策

平成23年6月10日、新潟県魚沼市の石碑取材後、神田北方文化博物館館長さんが上越新幹線、浦佐駅まで車で送って頂き、浦佐駅発:東京行13時49分発のMXAとき326号に乗車、上野駅で下車宿泊、翌日千葉県鎌ヶ谷市道野辺神社に眠っている秋山好古揮毫の石碑の再建立依頼に伺った。 

千葉県鎌ヶ谷市は、全国ではあまり知名度の高い自治体ではなかったが、平成18年、夏の高校野球、早稲田実業の斎藤佑樹投手と3連覇を狙う駒大苫小牧の決勝は引き分け再試合に田中将大投手との投げ合いは壮絶であった。
斎藤佑樹投手が、北海道日本ハムファイターズにドラフト1位指名で入団した。
鎌ヶ谷市には、日ハム二軍球場があり、斎藤佑樹投手が入団し二軍練習の有様が、一時期毎日詳細にTV報道されてから一躍有名になった。
その後大谷選手が入団し、今年は秋田県立金足農業高等学校の吉田 輝星投手がドラフト1位指名で入団したから日ハム2軍球場直ぐ近くにある道野辺神社界隈は、再び賑やかになる事でしょう。

さて、
本題である秋山好古揮毫の石碑について。
秋山好古揮毫の石碑は、千葉県八千代市がある調査を道野辺八幡宮でしていた時偶然に発見したそうで、碑文の読み、意味、石碑発見と経緯は、八千代市立郷土博物館 主任学芸員さんから情報を頂きました。
道野辺八幡宮は、鎌ヶ谷市の総守護神、また千葉県の規範神社として多くの人々より崇敬されている神社で、八幡神社は、通称:道野辺八幡宮(みちのべはちまんぐう)と言われ、〒273-0113 千葉県鎌ヶ谷市道野辺中央五丁目6番10号にあり、御祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)です。

この神社の境内奥に、秋山好古が揮毫した石碑が三つに折れ18年間眠っています。
私が、道野辺八幡神社を訪れたのは、三つに折れた秋山好古が揮毫した石碑を早く再建立して頂きたく北山英彦宮司さんにお願いに伺い、なぜこの神社に好古揮毫の石碑が運ばれて来たのかその経緯を伺いました。
それは、千葉県習志野市の大規模農家の息子さんが日露戦争に騎兵隊として従軍し、戦死され、父親は後世にその戦役を何らかの形で残しておこうと考え、上官であった秋山好古に書をお願いした。
好古は本来教育者であり非常に部下思いの優しい心の持ち主で、大阪師範学校を卒業後名古屋師範学校付属小学校の教員をしていたが、伊予松山出身の和久教務官の強い勧めで軍人にさせられた。


好古の人生の中で軍人生活が長く、軍服という「甲冑」を着ていた時期が長かっただけで、身体の中身は教育者であった。
揮毫依頼を受けた兵士の名前は「織戸清太郎」で、明治38年4月28日戦争地「二道家子」で名誉の戦死をしたのである。
織戸清太郎騎兵隊員の当時の階級は、騎兵14連隊 騎兵伍長で、心身強靭・勇敢で優秀な騎兵隊員であったため好古は、凄い漢詩で揮毫し家族の願いを叶え書き贈った。

※    揮毫した漢詩は

「征馬振鬣 深入険土 一死鴻毛 躬冒弾雨 貞珉勒功 永抑其武」

意味、読みは、註3を参照して下さい。
揮毫当時の秋山好古の階級は、陸軍少将 正五位勲二等であった。
好古は、織戸騎兵伍長の勇士を讃え最高の意を漢詩で表現し書き上げた。
揮毫は、当初石碑にする予定でなかったが、後に家族の思いが募り石碑として屋敷に建立したそうだ。
18年前織戸家はある事情で石碑を撤去し道野辺八幡神社に預けた。

北山宮司は、石碑再建立をすべき石工さんに石碑に穴を開け鉄柱を入れ込む工法を相談するも石質がもろく適用できず、思案していたところステンレス製の枠を造りそれに入れ込む工法で再建立する事を考案、近い内に必ず再建立いたします・・とお約束を頂いた。
除幕式には連絡しますとも言って頂いた。・・その時は取材に伺いますのでご連絡下さいとお願いした。
北山宮司さんは、再建立時には除幕式もする予定ですので決定しましたら連絡いたしま。・・説明版も敷設いたしますとお約束頂いて帰った。
再建立した石碑の傍に説明版を設置して後世に伝えていきたいと宮司は付け加えられた。
なお、石碑の長さが約1,8mで厚さは薄く三分割されて境内奥深い場所に眠っていて碑文は下にしているため見えない。

出来るだけ早く日の目の当たる場所に再建立して頂きたく、出来ればNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲・第三部」が12月から放映される、それまでにお願いしたいものだ。
なお石は、宮城県仙台市産で石質は非常に柔らかいそうだ。
再建立時には除幕式もする予定ですので決定しましたら連絡いたします・・説明版も敷設しいたしますとお約束頂いて帰った。

私が道野辺八幡神社に伺い北山宮司さんに石碑の再建立をお願いしてから7年が経過したが何か重大な事が発覚し再建立が出来ない事情が起こったのでしょぅか未だ再建立されていないのである。
道野辺八幡神社の帰り浅草界隈を散策し帰路に着いた。

かつて習志野の織戸家にあった撤去前の石碑。
(写真提供:習志野騎兵連隊史跡保存会代表・三橋正文氏)

千葉県鎌ヶ谷市道野辺神社に眠る記念碑

 

1、碑    文:  征馬振鬣 深入険土 一死鴻毛 躬冒弾雨 貞珉勒功 永抑其武

2、所    在:  鎌ヶ谷市 道野辺神社

3、揮 毫 者: 陸軍少将 秋山好古

4.建 立 者: 織戸 家

5.建立年月日: 不明 

6.碑石大きさ:  高さ 計測不能   横幅 計測不能  厚さ 計測不能 

7.石碑の由来
揮毫した秋山好古の階級は、陸軍少将正五位勲二等で好古は、織戸清太郎騎兵伍長の勇士を讃え最高の意を漢詩で表現し書き上げた。(全国で2番目に古い揮毫)揮毫は、当初石碑にする予定でなかったが、後に遺族の思いが募り石碑として屋敷内に建立したそうだ。
18年前織戸家はある事情で石碑を撤去し道野辺八幡宮に預けた。
北山宮司は、石碑再建立をするために、石碑に穴を開け鉄柱を入れ込む工法を石工に相談したが、石質がもろく適用できず思案していたところに、ステンレス製の枠を造りそれに入れ込む工法で再建立する事を考案し、「必ず再建立いたします」とお約束を頂いた。また、除幕式には連絡しますとも言っていただき、石碑の傍に説明版を設置して後世に伝えていきたいと宮司は付け加えられた。
この石碑は長さが約1,8mで、厚さは薄く3分割されて境内に横たわり、碑文は下側になっているため見えない。
出来るだけ早く日の目の当たる場所に再建立して頂きたい。
12月からNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲 第三部」が放映されるが、その前までに建立できれば最高に喜ばしい。

註1:現在好古揮毫の石碑は全国に48基発見されているが、道野辺八幡神社の石碑は、2番目に古い石碑で個人的に揮毫した石碑は2基目である。
註2:この石碑の発見は、千葉県八千代市職員が偶然に発見したそうで、碑文の読み、意味、石碑発見とその経緯は、八千代市立郷土博物館主任学芸員さんにご教示いただいた。
註3:征馬振鬣 深入険土 一死鴻毛 躬冒弾雨 貞珉勒功 永抑其武

   読み:せいばたてがみをふるい、ふかくけんどにいる。

      いっしはこうもうたり、みづからだんうをおかす

      ていびんにこうをろくし、ながくそのぶをあおぐ。

   意味:軍馬はたてがみを振るわせて、敵のふところ深く進撃する。

      自分の命を鳥の羽よりも軽んじて、自ら弾雨の中を突き進んでいく。

      この石碑にこの功績を刻み、永遠にその武勲を仰ぐ。

   神社の駐車場の奥深くに三つに割れた石碑が寝むっています。

6月10日、新潟県魚沼市の帰りに鎌ヶ谷市の道野辺神社を訪れて北山宮司さんと面談した。
そして境内に眠っている好古揮毫石碑、早期の再建立をお願いした。
宮司さんは必ず建立いたします。再建立除幕式もする予定ですので決定しましたら連絡いたします・・説明版も敷設いたしますとお約束頂いて帰った。

かつて習志野の織戸家にあった石碑 
(写真提供:習志野騎兵連隊史跡保存会代表・三橋正文氏)

習志野の織戸家にあった石碑で、揮毫者秋山好古の名前が見える。
(写真提供:習志野騎兵連隊史跡保存会代表・三橋正文氏)

鎌ヶ谷市道野辺八幡神社の拝殿、伺った日は雨天であった。

道野辺八幡神社の御由緒

道野辺八幡神社の応接室、この部屋で北山宮司から石碑の再建立計画について伺った。
再建立の時期は、NHKスペシャルドラマ坂の上の雲第3部放映前にと伺う事が出来たがそのご7年が経過したが再建立はされてない。何か特別な事が起こったのか再建立はされてない。

道野辺八幡神社の参道

道野辺八幡神社の駐車場で、うっそうと茂った木々の中、奥深い所に石碑は眠っていた。

秋山好古が、織戸清太郎騎兵伍長のために揮毫した石碑で道野辺八幡神社の奥深い所に石碑は三分割され横たわっている。
北山宮司さんの許可を得て撮影した。

三分割された石碑は18年間この状態それから7年経過した。

早く再建立して頂きたい。

千葉県八千代市職員さんが偶然に発見したそうで、碑文の読み、意味、石碑発見とその経緯は、八千代市立郷土博物館主任学芸員さんから頂いた資料である。

 

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秋山好古揮毫石碑を訪ねて 5、新潟県魚沼市堀之内竜光の石碑「戦役記念碑」

2018年11月18日 | 伊予松山歴史散策

魚沼市堀之内竜光の石碑「戦役記念碑」取材の前日、現・北方文化博物館、神田館長が発行された「秋山好古と新潟の人びと」刊行お祝いの会が北方文化博物館で開催され、これに参列し、翌日魚沼市の石碑「戦役記念碑」取材に行った3回目の新潟の旅である。

平成23年6月8日、神田北方文化博物館館長が発行された書籍で、この書籍の本印刷に掛かろうとしていた矢先に、新潟県柏崎市在住の柴野亮氏から、新潟県魚沼市堀之内竜光にある天満神社境内に好古揮毫の石碑が存在すると写真を添えて書簡が秋山兄弟生誕地に届いた。

直ちに、神田勝郎氏に印刷中止と、魚沼市堀之内竜光の秋山好古揮毫の石碑の所在確認を依頼し確認ができ、書籍「秋山好古と新潟の人びと」に追加原稿としてP138~139に書き加えられ書籍が完成した。

書籍発行記念祝賀会が平成23年6月9日北方文化博物館で開催されこの宴に参加し、翌日魚沼市堀之内竜光の石碑「戦役記念碑」取材に行った。

魚沼市堀之内竜光の石碑「戦役記念碑」

1.  文 戦役記念

2.所 在 地: 新潟県魚沼市堀之内竜光・天満天神社

3.揮 毫 者: 陸軍中将 秋山好古

4.建 立 者: 日露戦線に従軍した23名の有志

5.建立年月日: 大正3年8月 

6.碑石大きさ: 高さ・1m55cm 横幅・70cm 厚さ・48cm  

7.石碑の由来:

明治37・38年、魚沼市堀之内竜光地区から日露戦線に出兵し従軍した23名の有志の方々が大正3年8月秋山好古に揮毫を依頼した。
揮毫は、従軍した記念として「戦役記念」とし碑を建立した。
平成21年11月6日、新潟県新潟市江南区沢海日枝神社境内に秋山好古揮毫石碑が発見され、日本海唯一の石碑発見でNHK松山放送局も新潟市に取材に行き放映し、平成22年5月19日、新潟日報新聞も大きく報じた。
この事については秋山好古揮毫石碑を訪ねて 4、新潟市の忠魂碑の通りである。


平成22年5月19日付の新潟日報新聞に新潟市江南区沢海の秋山好古揮毫石碑発見の新聞記事を読まれた新潟県柏崎市在住の柴野亮氏から、新潟県魚沼市堀之内竜光にある天満神社境内に好古揮毫の石碑が存在すると写真を添えて書簡が秋山兄弟生誕地に届いた。
奇しくも私が好古揮毫の石碑を専任で調査を始めた切っ掛けが、平成17年5月5日に起きた大きな出来事から6年目の同じ月日であった。
さて、魚沼市の石碑は柴野氏が平成16年9月11日に発見したそうだがが、同年10月23日震度7の新潟中越大地震が発生した。


もしかすると石碑は倒壊していると思いますので調査確認して下さいと付記されていた。
早速、新潟市の北方文化博物館佐藤統括室長(現 専務理事)と、元横越コミュニティ協議会会長、(現 北方文化博物館館長)神田勝郎氏に調査を依頼した。
神田氏は、直ちに魚沼市に赴き現地調査をして頂き確認が取れた。
その結果中越大地震で倒壊したが、平成20年8月に全国から頂いた義援金の一部で再建立して保存されていると速報が届いた。
平成23年6月10日、新潟市から神田勝郎氏の車で魚沼市の現地取材に行った。
現地では松山市から取材に来るということで、魚沼市役所職員さん、魚沼市ケーブルテレビさん、新潟日報新聞記者さん、地元の方々が集まって頂き大歓迎を受け感動した。
松山と新潟とは江戸時代から不思議なご縁がある。江戸時代越後沢海藩主が伊予松山初代藩主、加藤嘉明から4代目の明英(あきひで)の弟政親(まさちか)が沢海藩4代藩主として沢海の溝口家に養子入りしている。

そして秋山好古が大正2年、第13師団長として新潟県高田に駐屯、そしてこの時期に愛媛県知事、伊澤多喜男氏が新潟県知事に転任、好古は伊澤知事を愛媛県での実績を重く評価して新潟県民に紹介している。
また昭和5年信濃川の洪水を防ぎ住民の被害を助けた内務官僚(土木技師)宮本武之輔(松山市出身)、最近では松山市の歌「この街で」の作曲者、新井満氏も新潟市の方である。
取材が終わった後、魚沼市役所の職員さん曰く、この石碑がそんなに立派な石碑とは知らなかった。後日、説明版を設置しますと言われた。
秋山好古が中将時代の揮毫石碑は、新潟市、魚沼市にある2基の石碑だけである。

戦役記念碑の裏面には、旧新潟県北魚沼郡堀之内町大字竜光地区から日露戦争に戦役従軍された23名の氏名が刻まれている。

秋山好古揮毫の石碑「戦役記念」が建立されている、この地区の氏神様・天満神社。

秋山好古揮毫の石碑「戦役記念」の前で魚沼市ケーブルテレビ、瀧澤さんの取材を受ける神田勝郎氏(現・北方文化博物館館長)。

新潟日報新聞、鈴木記者と(左)魚沼市ケーブルテレビ瀧澤記者の取材を受ける神田勝郎氏(現・北方文化博物館館長)。

天満神社境内で、秋山好古揮毫の石碑「戦役記念」は、地震倒壊以前は写真後方(皆さんが並んでいる場所)に建立されていたが、境内が中越大地震堀之内地区復興の拠点となる資材置き場となり道路が建設され、現在の場所に再建立された。

平成23年6月10日、魚沼市現地取材の時集まって頂いた地元の方達、石碑取材を始めて現地の方々が現場に来て頂いたのは初めての出来事でビックリし感動した。
その中に松山市出身の一組のご夫婦が居られ、松山から取材に来られると聞き駆け付けましたと言われ嬉しく思った。
取材が終わり地元の方々から天満神社拝殿でお茶のお接待を受け、地元の皆様から色んなお話を伺う事が出来感慨を新たにし、帰りには地元名産の笹団子を頂いた。
取材後、神田氏が上越新幹線、浦佐駅まで車で送って頂き、浦佐駅発13時49分発のMXAとき326号に乗車、上野駅で下車し翌日千葉県鎌ヶ谷市道野辺神社境内に眠っている秋山好古揮毫の石碑の再建立依頼に伺った。その事については、秋山好古揮毫石碑を訪ねて 6、千葉県鎌ヶ谷市道野辺神社の石碑で紹介します。

平成20年8月建立「激震」中越地震復興祈念塔

石碑は柴野氏が平成16年9月11日に発見したそうだがが、同年10月23日新潟中越大地震が発生した。
震度7の中越大地震で一番被害の大きかった地区で、もしかすると石碑は倒壊していると思いますので、魚沼市教育委員会か観光協会に石碑の確認をして下さいと付記されていた所である。
復興祈念塔には、全国の皆様ご支援有難うございましたと書かれた「幟旗」が掲げてあった。

復興祈念塔には、全国の皆様ご支援有難うございましたと書かれた「幟旗」が掲げられていた。

平成23年6月10日、魚沼市現地取材時には、新潟日報新聞鈴木記者が取材に来て頂き、平成23年6月22日付の新潟日報新聞で大きく報道して頂いた。
その時の新潟日報新聞で、新聞記事が遅れたのは、神田勝郎氏が発行した「秋山好古と新潟の人びと」の記事を掲載する予定が、魚沼市石碑発見ありが急に飛び込んできたためその紙面確保に時間が遅れたそうだ。

取材後設置された秋山好古揮毫の石碑の説明版。

(平成23年9月25日、撮影者:新潟県柏崎市、柴野 亮氏)

戦役記念の揮毫は、秋山好古が第13師団長として大正2年に新潟県高田に赴任していたときに、魚沼市の関係者が新潟県知事、伊澤知事さんにお願いして、伊澤知事が好古に戦役記念の揮毫お願いしたのでしょう。
前項でも書きましたが、伊澤知事は、奇しくも前任地が愛媛県で知事をしており、好古は、伊澤知事を「旧知の仲、私の郷里愛媛県で財政を立て直した有能な知事であるので新潟県でもいい仕事をすると思いますと」新潟県民に紹介した。
伊澤知事はその後、東京市長を歴任後、東京警視庁総監になられております。

参考事項

秋山好古が最も信頼をしていた副官が3名いた。その3名とも新潟県出身者である。
豊邉新作、そして山之内保二、建川義次の皆さん方である。
3人の詳細は「秋山好古揮毫石碑を訪ねて 7、静岡県静岡市葵区同慶院の石碑」で述べる事にします。

 

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秋山好古揮毫石碑を訪ねて 4、新潟県新潟市江南区沢海の石碑「忠魂碑」

2018年11月12日 | 伊予松山歴史散策

NHK松山放送局も新潟市に取材に行き放送した秋山好古揮毫石碑「忠魂碑」

秋山好古揮毫石碑、日本海唯一の石碑発見!!新潟日報新聞大きく報道

愛媛新聞も報道した新潟市江南区の石碑「秋山好古揮毫石碑・忠魂碑」

「秋山好古揮毫石碑・忠魂碑」平成26年3月13日、新潟市市民文化遺産に認定

上記の様にマスコミが大きく報道したのは初めての事であった。

“高が石碑、然れども石碑である。”

 平成21年11月6日、千葉県習志野市大久保の薬師寺三橋住職さんから秋山好古揮毫の石碑が発見されたと連絡があった。
千葉県ですかと問いかけると、なんと新潟市であった。
詳細は、新潟市の北方文化博物館の佐藤さんに照会されたしであった。
この時点で好古揮毫の石碑は48基発見されており全て取材を終えていた。
まさか日本海側に好古揮毫の石碑が建立されているとは私は考えもつかなかったし秋山兄弟生誕地の関係者も知る由もなかった。
そして新潟市の好古揮毫石碑「忠魂碑」の取材の旅が始まったのである。
早速新潟市江南区沢海にある北方文化博物館統括室長、佐藤学芸員さんに照会した。
回答は、秋山好古が揮毫した石碑に間違いないの返事であった。
それでも確信が持てずメールで、画像添付で配信をお願いした。
職務多忙の中、直ぐ写真を撮りに行っていただき送って頂いた。
まさしく秋山好古揮毫の石碑で「忠魂碑」と揮毫され、揮毫者は、陸軍中将秋山好古と書かれていた。
この時点では、2番目に古い石碑の発見で日本海側唯一の石碑であった。
画像を送って頂いた博物館の統括室長、佐藤学芸員さん現在の役職は、北方文化博物館専務理事としてご活躍で現在もご厚情を頂いております。

そして、「忠魂碑は」平成26年3月・新潟市市民文化遺産に認定された。

画像は、北方文化博物館で秋山好古揮毫の石碑は博物館と隣接する日枝神社境内にある。

 ここは、元越後唯一の豪農伊藤家で、敷地が8,800坪、建坪が1,200坪、現在は財団法人北方文化博物館となっている。こんな施設は西日本では見ることが出来ない。
マッカーサー元帥の許可で開設された戦後初の私立の博物館、司馬遼太郎もここを訪れ、絶賛された。
新潟市の好古揮毫石碑「忠魂碑」の取材の旅が始まり、新潟市には四たび行く事になる。その内一度は松山から車で行った。

平成21年11月6日、新潟市江南区沢海に「秋山好古揮毫の石碑」があると吉報を送って頂いた千葉県習志野市大久保にある真言宗豊山派・薬師寺住職、三橋秀紀さん。
好古の揮毫石碑を介して現在も親交が続いている。

              

北方文化博物館、佐藤専務理事さんから送って頂いた確認の画像。

秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」建立の経緯、好古が揮毫した詳細な経緯は、全て現、北方文化博物館館長・神田勝郎氏の調査によるものである。

そして、秋山好古揮毫石碑を訪ねて 5で紹介する新潟県魚沼市の石碑も、神田勝郎北方文化博物館長の現地調査で詳細が判明した賜物であり現在も神田館長さんとは親交を頂いている。

 

1.碑   名:  忠 魂 碑

2.所 在 地:  新潟県新潟市江南区沢海二丁目15番30号  日枝神社境内

3.揮 毫 者: 陸軍中将  秋山好古

4.建 立 者: 賀 表 講

5.建立年月日: 大正2年7月 

6.碑石大きさ :   高さ:2m70cm 横幅:1m48cm 厚さ:42cm

7.石碑の由来:

新潟県横越村沢海出身の大町助作一等兵士は明治37年9月20日、旅順港を見下ろす203高地奪取の戦いで、露軍の鉄條網切断の際、敵弾にあたり戦死した。また、同じ出身の斉藤源次郎上等兵も翌38年3月10日、奉天会戦の際に田義屯で戦死した。
横越村では戦死者を弔う村葬が厳粛に行われたが、当時の村長・神田又一氏は、「賀表講」の会員とともに忠魂碑を建立し戦死者の慰霊を後世に託すことにした。
なお、横越村全体で13名の方が戦死されている。

忠魂碑の揮毫は、大正2年1月15日、新潟県高田にあった第13師団長として着任した秋山好古中将に、神田村長らが伊澤多喜男新潟県知事を介して依頼した。好古は伊澤知事を「私の郷里愛媛県で財政を立て直した有能な知事なので、新潟県でもいい仕事をすると思います」と新潟県民に紹介したうえで、揮毫した。
忠魂碑の前でそれ以来、村民が慰霊祭を毎年おこない、現在も続いている。
新潟市は、平成25年9月19日、新潟市民文化遺産制度を創設した際、この忠魂碑を、平成26年3月13日、新潟市市民文化遺産に認定した。
永年、同郷出身の戦死者を弔う暖かい気持ちが、行政を動かしたのである。

写真は、伊沢知事の紹介記事、高田新聞より

揮毫嫌いであった秋山好古だが、日清・日露戦争で国難に殉じた戦死者、特に好古が率いた騎兵隊員の戦死者への心からの哀悼の意と戦死者への詫びる思いの強い優しい人であった。その思いの表れとして東京都世田谷区に自ら哀悼の石碑を建立した。
新潟の忠魂碑揮毫については、愛媛県知事から転任してきた新任の伊沢新潟県知事は、早速第13師団長秋山中将を官邸に訪問、その時に新潟県中蒲原郡横越村、神田又一村長から忠魂碑を建立したく揮毫は秋山中将にお願いしたい旨を受けていたので好古に依頼した。
伊沢県知事は、前任の地が愛媛県で秋山好古の故郷が愛媛県、旧知の仲であった。伊沢知事が愛媛県在任中、住友別子銅山四阪島製錬所から拡散する硫煙(亜硫酸ガス)は愛媛県東予四郡に大被害を与え、足尾銅山の鉱毒事件と並んで大きな社会問題となった。此れを解決したのが伊沢知事で、好古は、愛媛県でいい仕事をした有能な知事、新潟でも良き仕事をされるでしょうと紹介した。

そして忠魂碑を揮毫したのである。

秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」を新潟県の新聞・新潟日報は、日本海側唯一と判明と大きく報道した。
秋山好古揮毫の石碑は、平成30年11月12日現在全国に52基発見されているが、建立の経緯が詳細に判明しているのは新潟県新潟市江南区澤海の「忠魂碑」だけである。
忠魂碑建立の経緯を調査された方は、現、北方文化博物館神田勝郎館長で、平成23年6月8日、発行された「秋山好古と新潟の人びと」でP141の書籍に書かれている。

平成23年6月8日、発行された「秋山好古と新潟の人びと」でP141の書籍である。
この書籍が好評で、北方文化博物館神田勝郎館長は新潟市内各所で講演会が開催された。
なお、書籍の所蔵先は、国立国会図書館・新潟県立図書館・新潟市立図書館・愛媛県立図書館・松山市立中央図書館にあります。

二回目に新潟市に伺った時の様子で、秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」の前で慰霊祭が行われ参列させて頂いた。
例年忠魂碑の前で慰霊祭の神事を行うそうだが、この年は気温が高く神社の拝殿で行った。
この時、松山市から車で行ったが、新潟県に入ってから幾ら走っても新潟県で長かった。

秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」は、日枝神社拝殿の直ぐ傍に建立されており、北方文化博物館と隣接してある。日枝神社拝殿から見た秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」。

この年の慰霊祭も無事終わり遺族会・慰霊祭開催の関係者と記念写真を撮らせて頂いた。

慰霊祭の前日、北方文化博物館で「秋山好古と横越の人びと」と題して講演会が開催された。
講師は、神田勝郎氏で現在は、北方文化博物館館長である。

北方文化博物館専務理事・佐藤氏で講演会の進行司会をされた。
私に秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」の画像をメールで配信して頂いた専務理事の佐藤さんです。

平成22年9月5日、開催された「秋山好古と横越の人びと」歴史講演会の次第。

「秋山好古と横越の人びと」と題しての歴史講演会に参加された方達、予定よりも多くの方が参加され熱心に聴講された。

新潟市民文化遺産認定書

秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」の前で毎年慰霊祭を実施、秋山好古についての歴史講座等々の諸活動が認められて、平成26年3月13日付で新潟市民文化遺産に認定された。
これ全て北方文化博物館神田館長のご努力の賜物である。

平成26年3月13日付で新潟市民文化遺産に認定された事が、平成26年7月5日の新潟日報新聞に報じられた。

平成26年3月13日付で新潟市民文化遺産に認定された事が、平成26年11月6日秋山好古の故郷、愛媛県でも愛媛新聞で報じられた。

平成24年10月29日、4回目の新潟市北方文化博物館訪問で、秋山兄弟生誕地で奉仕活動している研究員7名を引率して伺った。

神田勝郎氏から秋山好古揮毫石碑の経緯の説明を聞く研究員各位。その内2名の男性が熊本市から見学に来ていて一緒に見学した。

北方文化博物館大広間で、今は亡き北方文化博物館第8代伊藤文吉館長さんとの記念写真。
司馬遼太郎・浜田庄司・バーナードリーチ・柳宗悦達も訪れ絶賛した博物館である。

 

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秋山好古揮毫石碑を訪ねて 3、長野県安曇野市豊科、内田與作の石碑(墓石)

2018年11月06日 | 伊予松山歴史散策

秋山好古が揮毫した石碑、墓石として長野県安曇野市で発見された。
墓石の揮毫は初めてであり驚いた。

画像は、秋山好古揮毫石碑を訪ねて・1で掲載した東京都世田谷区の石碑裏面で、中央に「添田賢二郎」隊員の左に「内田與作」隊員の事項が記載されている。

                 
      東京都世田谷区の石碑裏面の「内田與作」隊員の部分を切り取った。

               

内田與作の墓石で、建立は、明治35年1月11日実父、内田茂一が建てた。

秋山好古は、内田與作の実父、内田茂一から日清戦争で戦死した長男、與作のお墓を建てるに当たり秋山好古に揮毫を依頼した。好古は、内田與作騎兵隊員の為に心を籠めて「正八位内田與作墓」と揮毫した。・・好古は心の優しい人であったから、戦死させた責任を重く感じていたと思う。

1.題     標: 正八位 内田與作墓 (墓標)石塔

2.所 在 地:長野県安曇野市豊科高家388番地5

3.揮 毫 者:陸軍騎兵大佐 秋山好古(題標を揮毫)

4.撰 並 書:陸軍騎兵大尉 稲垣三郎

5.建 立 者:内田與作の実父(内田 茂市・もいち)

6.建立年月日:明治35年1月11日 

7.墓石大きさ :  高さ 98cm 横幅 39,5cm 厚さ 38,5cm 

8.石碑の由来:
内田與作騎兵隊隊員は、長野県南安曇野郡高家村(現 安曇野市豊科)で内田 茂市の長男として生まれた。
明治25年12月1日第一師団騎兵第一大隊に入隊し、その後騎兵一等卒に進み馬術・銃鎗の技を修め本体に属し戦地に赴く。
斥候の任務に服し蓋平の戦いに於いて勇ましく戦い、二道溝栄口に敵を迎え撃つも激戦の末名誉な戦死をした。
内田與作騎兵隊員、の実父、茂市は、息子の名誉な戦死を内田家の後世に伝えたく秋山好古に揮毫を依頼し墓を建立した。現在、好古揮毫の石碑は全国に52基発見されているが、名誉な戦死をした優秀な騎兵隊員について石塔に揮毫したのは初めてである。
情報提供者は、神奈川県平塚市の添田敬子氏で、東京世田谷区に秋山好古が建立した「日清戦争で名誉な戦死をした優秀な騎兵隊員の哀悼碑」の裏面に騎兵隊員15名の氏名を好古は自筆で刻印している。
敬子氏は、これを基に国立国会図書館で、ご遺族の所在を調査され判明した。
平成27年10月、この事を私に連絡して頂き、平成28年5月31日現地、長野県安曇野市豊科に伺い写真取材をした。

 特記事項:秋山好古の妻、多美は昭和25年2月12日、長野県安曇野市豊科に居住していた好古の次男、次郎宅で他界した。(明治4年11月8日生まれ79歳)内田與作の墓所から僅か4kmの近くであった。

墓石は、向かって左から3面に渡って内田與作騎兵隊員の事柄が書かれている。
撰文は、内田與作騎兵隊員の直属の上司であった稲垣三郎が撰文している。
稲垣三郎は、退役後秋山好古の奨めで日本体育学校の校長をされた。(日本体育学校は、現在の日本体育大学である。)

墓石2面目。

墓石3面目。

墓石3面目を切り抜いた。
内田與作の墓石の揮毫
※ 題標字を秋山好古
※ 撰並書を稲垣三郎 
※ 彫刻者は白鳥文次郎と書かれている。

 

「正八位内田與作墓」墓石三面に書かれている撰文。

「正八位内田與作墓」の正面に未だ積雪が残る常念岳が見えた。
取材に伺ったのは、平成28年5月31日で初夏のような天気で今回の安曇野は、内田與作さんの石塔調査取材が目的の旅でしたが、少し観光もさせて頂いた。

信濃富士「有明山」も見る事ができた。

この度の取材で何時までも残したい安曇野の原風景も感じ取る事が出来た。

内田與作さんの石塔調査取材が目的であったが、是非三連水車の写真が撮りたく、内田さんの家族の方が案内して頂いた。
三連式水車は川の対岸に行かないと見る事が出来ず、一連水車のみとなった。

常念岳は、北アルプス南部にある標高2,857mの山で、すべてが長野県に属し、松本市と安曇野市にまたがる日本百名山のひとつの山、取材日は5月31日で中腹に雲が掛かり、山頂付近には残雪が残り威風な格好で見る事が出来た。

 

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