EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

おめでとう「御嶽海」優勝と大関昇進 横綱めざして頑張って下さい

2022年01月29日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

忍者のごとく素早く変異するコロナウイルス、オミクロン型が急速に蔓延する中、大相撲初場所が東京両国・国技館で開催され、関脇御嶽海が3回目の優勝と大関昇進を果たした。
長野県出身の力士が大関に昇進するのは、雷電為右衛門以来、227年振りの大関だそうです。

初場所前半は、照ノ富士の新横綱昇進連続優勝三連覇の話題で、103年ぶりの記録達成と話題で盛り上がった。

解説者もすごい記録が達成されると言われており、栃木山以来の大記録達成間違いないと誰しも思い観戦していた。それだけ照ノ富士の力が強かった。

しかし12日目の取り組み、明生戦の「肩透かし」で土俵下に飛び降りた時に痛めていた膝に異変が起こったのか13日以降の相撲に照ノ富士本来の相撲が出来なくなり、その後は、関脇御嶽海の優勝そして大関昇進の話題に切り替わり、長野県出身力士の大関昇進は、雷電為右衛門以来、227年振りの記録になる話、栃木山から雷電になった。

そして今場所も「国技館の気になる女性」の姿を拝見しながら、御嶽海の躍進を観戦した。

大関昇進を相撲協会の伝達者から受ける出羽海部屋親方と御嶽海。

入幕後、怪我で休場したことがない元気な体、さらなる躍進を期待します。

ガンバレ御嶽海!!出羽海部屋から久し振りの大関。

大相撲初場所千秋楽の取り組み。

長野県出身・出羽海部屋の紹介文字がいいですね。

優勝インタビューに受け答えをする御嶽海。

これからの画像は、東京都江東区にある富岡八幡宮です。

境内に、歴代横綱碑があります。

由緒ある富岡八幡宮の拝殿です。
第19代宮司時代からお家騒動が勃発し、殺人事件が起こり神社本庁のトップ迄努めた有力神社が神社庁から外される羽目となった。

現在はどうなっているのでしょうか!!

富岡八幡宮の境内案内図。

富岡八幡宮に日本一大きい神輿をKK佐川急便が創り奉納したが、神輿があまりにも大きく神社の鳥居を潜ることが出来なく創り変えたそうです。

その神輿は画像右側の建物(神輿庫)何時も見えるように展示されている。

神輿庫に展示してある神輿はガラス越しに観るので要らぬ物が映り巧く写真が撮れない。

鳥居を潜り行くと「伊能忠敬」の銅像がある。

伊能忠敬の自宅が富岡八幡宮の近くにあったので、伊能忠敬研究会やその関係者が一般の方々から浄財を公募して銅像を建立したそうです。

伊能忠敬の銅像・・江戸時代の測量家である伊能忠敬は、当時深川界隈に居住し、測量に出かける際は、安全祈願のため富岡八幡宮に必ず参拝に来ていたことから、平成13年(2001年)に測量開始200年にあたりそれを記念して平成13年10月当社境内に銅像が建立されたそうです。

富岡八幡宮境内には横綱碑があります。

歴代横綱碑
富岡八幡宮は、貞享元年(1684年)に初めて寺社奉行の許しを得て勧進相撲が行われ、江戸勧進相撲(現在の大相撲の前身)発祥の神社として言われ、現在でも新横綱誕生の時には境内で奉納土俵入りなどの式典が執り行われ、石碑に四股名が揮毫される。

境内には「横綱力士碑」をはじめ大相撲ゆかりの石碑が多数建立されている。

御嶽海所属の出羽海部屋の記念碑が建立してあった。

出羽海部屋からの大関昇進は47年振りとか!!次は横綱。

歴代横綱碑

歴代の横綱の四股名が揮毫されている。

何故か、石碑左側に横綱でない雷電為右衛門の四股名が揮毫してある。

私が行ったのは、平成24年3月24日で、白鵬までの横綱の四股名が揮毫されていた。

御嶽海も早く横綱力士碑に名前が揮毫されるように努力されて下さい。

横綱力士碑

明治33年、第12代横綱陣幕久五郎を発起人に歴代横綱を顕彰する碑が建立された。

この碑には初代明石志賀之助から68代白鵬関までの四股名が刻まれていてその大きさは高さ3.5メートル、幅3メートル、重量は20トンに及び、横綱を顕彰するにふさわしい堂々たる石碑であった。
 新横綱誕生時には相撲協会立会いのもと刻名式がおこなわれ、新横綱の土俵入りが奉納され、また両側には伊藤博文、山県有朋、大隈重信といった賛同者の名が刻まれており、広く各界から協賛を得て建立されたことを物語っている。・・と神社案内にある。

最近の横綱名には、日本人横綱、稀勢の里名前が揮毫されているはずですがもっと多くの日本人横綱の名前が揮毫されるよう頑張って下さい。でないと一抹の寂しさを感じる。・・頑張れ日本男子!!日本人力士一層の奮起を

新しい横綱力士碑が既に用意されていた。

ここからは、両国国技館の妖精「気になる女性」を今場所も素敵な容姿を拝見させて頂きながら初場所をTV観戦しました。

画像は、大相撲初場所初日の「気になる女性」

初場所3日目の「気になる女性」です。2日目は座る席が右側でした。

観戦中は微動ともせず、ひたすら取り組みに集中されている。

初場所4日目の「気になる女性」です。

着用される洋服は、勝星を意識されてであろう、白色系の服装です。

初場所5日目の「気になる女性」です。

姿勢位がいいから直ぐ分かります。

初場所14日目だったか?の「気になる女性」です。

千秋楽の「気になる女性」です。

御嶽海の母親が友人たちと一緒に千秋楽の応援にきて声援を送っていた。

解説者の北の富士さんは、御嶽海の母親「マルガリータ」のフアンですと言っていました。

これからは、御嶽海とは関係ないことですが!!長野県と関係がありです。

「平成17年1月18日、松山市歩行町二丁目3番地6にある、秋山兄弟生誕地の整備事業が完成し、NHKは朝の大型ニュース番組「おはよう日本」で速報として秋山兄弟生誕地の様子を現場からライブで全国に紹介した。これは、平成21年から放映するNHKの歴史に残る大河ドラマとして取り上げる、その番宣を籠めてのニュース放映であったのでしょう。

このニュースを見られた全国の皆さんが秋山兄弟生誕地にお越しになられました。

秋山兄弟生誕地では、来館者2万人達成時には、感謝記念式典を計画していた。

計画によると、2万人達成には1年は掛かると考えていたが、6ヶ月で達成したことに秋山好古・眞之の人気の凄さに改めて驚きました。

来館者2万人目の方は7月31日午前中に達成するのではと予測し各マスコミに連絡した

画像は

秋山兄弟生誕地は平成17年1月19日から整備事業が完成し一般公開され、平成17年7月31日、来館者2万人目の方が名古屋市の平井さん家族5人で来館された。

平井さんに記念の花束贈呈と記念品の贈呈式が行われた。

画像向かって右側の女性は、現在は無くなったが、「ミス信州コンテスト」でミス信州になられた女性で、一時期秋山兄弟生誕地で研究員として活動された方で、御嶽海と同じ長野県出身です。

また

秋山好古揮毫の石碑調査をしておりますが、現在全国に54基発見されております。

53基目の石碑が長野県で発見されました。

御嶽海とは関係ないのですが、只長野県と言うことで思い出し掲載しました。

 

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15年間共にした愛車との別れ

2022年01月21日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

平成18年4月28日、我が家に来た、ティーダ・18G(1800C・DBA-JC1-MR18)、15年間共に過ごした愛車と昨年12月27日に別れた。

画像は、平成18年5月11日、当時のティーダ・18Gです。

ティーダ・18Gの前に乗っていた車種は「ローレルメダリストターボ・2000CC

L20型6直列6気筒、頑丈な鋳鉄製エンジンで重く燃費は良くなかった。

特別仕様車で、松山には3台登録されていた。

ローレルメダリストで

富士山須走5合目2,000mまで2回行った。

2回目の富士山移動はJA5MX、徳永さんと行った。JA5MXさんと富士山須走で別れ、JR府中本町駅でJA1ESH(村田さん東京練馬区在住)と合流、日光東照宮、華厳の滝、竜頭の滝を観光し奥日光で宿泊した。
翌朝国道120号線で吹割の滝を見てJA1ESHさんをJR高崎駅に降ろし、私は、松本市の国宝松本城を見学、翌朝、長野道、中央道、名神、山陽道、瀬戸大橋、高松道、松山道を乗り継ぎ帰宅した。

その思い出がつい最近のことのようである。

残念ながらこの時の画像は殆ど8mm撮影で静止画像がなく掲載する事が出来ない。

日光観光は高校時代修学旅行に行って以来であった。

国宝松本城を見学。

静岡市の秋山好古揮毫石碑を取材。

ティーダ・18Gになってからは

秋山好古揮毫の石碑取材に、新潟市、静岡市そして富士山一周と私を連れて行ってくれた。本当にご苦労さまでした。

15年間走行した距離は、33,989kmと短く、年間平均、2,265kmで殆ど車庫に入っていた。

「ティーダ」の走行距離は、15年間で33989kmでした。

令和3年12月27日我が家から旅立ち、15年間ありがとう、家内と一緒に見送りました。

次は、どんな方に乗っていただくのか気掛りである。

もしかすると、外国に渡るかも知れません。

海外では、日本車は大人気だそうです。

故障が少なく丈夫であるからだそうです。

では、よろしければこれから画像のみアップしますので見てやって下さい。

なお、車名の「ティーダ」の意味は、「自然の調和」「時代の潮流」を意味する・・と日産自動車の営業マンから説明があった。

平成22年9月5日新潟市江南区沢海二丁目にある北方文化博物館で開催された歴史講演会が開催され、松山市から陸路画像の車「ティーダ」で行きました。

北陸に入って福井・富山は直ぐ通り過ぎましたが、新潟県に入ってからは幾ら走っても新潟県で嫌になりました。

 

平成22年9月10日付けの新潟日報に掲載され講師をされた神田先生から送られて来たので掲載します。

講演会次第は下記の通り

新潟市江南区沢海二丁目15番25号:北方文化博物館  

    歴史講演:「演題:秋山好古と横越の人々」と坂の上の雲とその時代

    講  師:神田 勝郎 現在は北方文化博物館長

    開 催 日: 9月5日午後1時30分~午後3時

    開催場所:北方文化博物館 

歴史講演:「演題:秋山好古と横越の人々」と坂の上の雲とその時代の新聞記事。

これからが「ローレルメダリストターボ・2000CC、L20型6直列6気筒、頑丈な鋳鉄製エンジン搭載の車の思い出での一コマです。

画像の場所は、鹿児島県指宿市開聞川尻にある「指宿ゴルフクラブ」です。

薩摩半島の最南端、薩摩富士と呼ばれる開聞岳(924m)の山麓に自然の地形を活かしたゴルフ場で、多くのプロからも高い評価を得ているコースです。

後方は東シナ海です。

平成16年7月15日、鹿児島県指宿市「 指宿ゴルフクラブ」での画像です。

指宿市に行った理由は、今は亡きJA1AKA荒川 賢(東京都練馬区在住)さんの画像通信実験支援としての移動でした。

指宿ゴルフクラブの支配人にお願いして運用地を確保、後方は開聞岳(924m)車で乗り入れFMATV設備の設営をした。

画像のように芝生を植栽し手入れの行き届いた場所であった。普段は車の乗り入れは不可の場所、支配人の特別な計らいであった。

さて

JA1AKA荒川 賢さんは、
アマチュア無線ATV(画像通信)では日本第一人者で、その普及や啓蒙に尽力され,自らがATVで、深田久弥の日本百名山1/2の山岳から画像通信をされていらっしゃいました。(百名山山頂から下界のアマチュア無線ATV運用局と画像交信するのが目的。)
平成14年のハムフェア自作品コンテストでは最優秀賞(総務大臣賞)を受賞されるとともに、「ひとりぽっちのテレビ局1/2日本百名山」と50座を制覇されていた。日本唯一の山岳ATV運用局でした。

日本百名山からの画像通信で残っていたのが、西日本最高峰の「愛媛県石鎚山1982m」・第2高峰地「徳島県・剣山1955m」・第3高峰地「鹿児島県・宮之浦岳1935m」・「鳥取県・大 山1729m」が残っていた。

上記の山々を4年計画で松山地区SHF研究会が支援した。
難関は、鹿児島県・宮之浦岳1935mであった。

鹿児島県の宮之浦岳は、鹿児島県熊毛郡屋久島町に位置する西日本第3番目の標高を有し、そしてなんと言っても洋上で降雨が多い所である。

画像は

平成14年のハムフェア、東京国際展示場・東京ビッグサイトで開催されたアマチュア無線

自作品コンテストで最優秀賞(総務大臣賞)を受賞された、5700MHz(5,7GHz帯)のアンテナ。

私が東京に行った時、練馬区のJA1AKA荒川さん宅に伺い、総務大臣賞を受賞した作品を撮らせて頂きました。

10GHz帯アマチュア無線ATV(画像通信)無線機器。

10GHz帯アマチュア無線ATV(画像通信)無線機器。

指宿ゴルフクラブの一角で待機した。

何時でも宮之浦岳からの電波受信出来るよう待機、連絡は1200MHzで行った。

この車で、富士山、日光、北海道とよく走ってくれた。

走行しながらHF帯から2,4GHz帯まで運用できる無線機を積載していた。

これから画像は、JA5MFYさんからの画像提供です。

宮之浦岳移動するのは初めての登山であったので、宮崎県西都市のJA6BQUさんが登山経験者であったのでお先達をお願いした。

平成16年7月15日、宮之浦岳山頂から移動運用するJA1AKAを支援する登頂支援組。

宮之浦岳登山入り口で:左より JA1AKA・JA6BQU・JA5IDH・JA5JSU・JA5MFY、宮之浦岳目指して登山開始。

予定より少し遅れて山頂に着いたと1200MHz帯で連絡があった。
宮之浦岳も天候は良かったし開聞岳も良かった。

鹿児島県熊毛郡屋久島町・宮之浦岳「1935m」山頂の各局運用開始の設備セット準備。

鹿児島県熊毛郡上屋久町・屋久町:宮之浦岳「1935m」山頂の各局、いよいよ開聞岳移動のJR5EEKとFMATV運用開始。その後鹿児島県薩摩郡柴尾山移動:九州各局と交信する。交信信号強度はM5Cのカラー映像が開聞岳移動の私の設備に届いた。

降雨の多い屋久島・宮之浦岳天候に恵まれ風も無く絶好の登山日和&無線運用日和、但し下界では、予定していた時間に下山しないので宿舎の関係者は心配していたそうです!!

 

平成13年8月12日、西日本最高峰の石鎚山1982m運用の時に、JA1AKA、荒川さんの希望で松山城本丸からATV運用された。

JA1AKA、荒川さん、日本百名山、石鎚山移動で来松、松山地区SHF研究会メンバー

が道後温泉で歓迎会開催した。

   平成13年8月12日:愛媛県・石鎚山1982m

   平成14年9月29日:徳島県・剣 山1955m

   平成15年9月 7日:鳥取県・大 山1729m

   平成16年7月15日:鹿児島県・宮之浦岳1935m

JA1AKA、荒川さんを4年計画で上記の山々移動を松山地区SHF研究会メンバーが支援した。

 

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令和に改元され4年、気持ちも新たに初詣

2022年01月07日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

1月4日午後、我が家の氏神様である日尾八幡神社に初詣に行って来た。

今年松山は、年末から気温は低く例年にない寒い令和4年の年明けであった。

私の正月の過ごし方は、毎年駅伝を見て過ごすのが恒例となっており、今年も元旦は、実業団駅伝、2日、3日は、関東大学箱根駅伝をTV観戦、今年の箱根は往路、復路も平成28年の様な体調を崩し大崩れする選手も無く無事終了した。

青山学院大の素晴らしい走りで、新記録・2年ぶりの往路・復路優勝で総合優勝を飾った。

今年の箱根駅伝は見ごたえのある場面があった。1区の中央大学の吉居選手区間新記録、それから4区と5区のタスキリレーの演出をした駿河台大学徳本監督、今井選手と永井選手、師弟関係のタスキリレーは涙を誘った。

徳本監督は現役時代、法政大学では、お茶目な選手だったが、いまもその気配は残っている。

来年から楽しみな大学で見守って行きたい。

愛媛県出身の選手はいないのかとTV観戦したいたところ、2人の選手がいた。

さて、東京箱根間往復大学駅伝も終わり、昨年のお礼を心にして令和4年の初詣に出掛けた。

多くの氏子達が家族ずれで氏神様である日尾八幡神社に来ていた。

昨年は全国各地で新型コロナが蔓延し、未だ平常な生活が出来てないが、今年は一日も早く元の生活に戻る事を祈願し、災害のない平穏な年であることをお願いするとともに、今年も家族一同元気で過ごせますようにとお祈りをした。

氏神様である「日尾八幡神社」の所在は、松山市南久米町、旧国道11号線沿いに位置し、

松山市小野地区・久米地区・石井地区の氏子を祭事する氏神である。

神社入口に、大きな注連(しめ)石(いし)があり左に「魚躍」右が「鳥舞」で、書道家三輪田米山の揮毫で、米山は、日尾八幡神社の神官三輪田清敏の長男で、名は「常貞」で号を「米山」と称した。

社号碑「県社日尾八幡大神」・注連石に「鳥舞」「魚躍」は明治13年10月、米山60歳の時の揮毫で、書家米山の切っ掛けとなった代表の書「鳥舞・魚踊」である。

日尾八幡神社前には、後藤酒造「久米の井」があり、此処によく行き酒を飲んでは揮毫していたそうだ。

日尾八幡神社周辺の神社の社号碑や注連石は米山が揮毫した碑が沢山ある。

明治時代の軍人で、陸軍の三太郎と言われた一人に「仙波 太郎・中将」が居られたが現在の松山市福音寺町の出身で、三輪田米山塾で教えを受けたそうだ。

※ 陸軍の三太郎とは、宇都宮 太郎(陸軍大将)・桂 太郎(第11代内閣総理大臣)・仙波 太郎(陸軍中将・衆議院議員)である。

日尾八幡神社の山門。

山門左には、大きな石碑「忠魂碑」が建立されている。

温泉郡久米村から、日清・日露・大東亜戦争で戦死された方々の慰霊碑である。

山門に飾られた「注連縄・門松・そして国旗(日章旗)である。

近年各家庭では国民の祝祭日に国旗を揚げて祝するという気概がなくなったのか国旗を掲揚する家庭が激変した。・・何故であろうか?

山門をくぐり振り返ると赤い大鳥居と真っ直ぐにのびた参道が見える。

さーこれから、158段の長い石段を上り拝殿に行きお参りをする。

158段の長い石段、途中小休止。

158段の長い石段を登り詰めると日尾八幡神社の拝殿がある。

日尾八幡神社の拝殿。

氏子達が初詣をする日尾八幡神社神の拝殿内部。

祭神は天御中主大神、天照皇大神、月夜見大神の神々が祀られている。

おみくじを頂き、家族で確認して、おみくじを結んでいた。

拝殿左側に設置された納札所。

久しぶりに、日尾八幡神社山頂展望台に登ってみた。

登山道は、綺麗に掃き清められていた。

標高107,4mにある、日尾八幡神社山頂展望台。

標高107,4mにある日尾八幡神社山頂にある展望台デッキ。

展望台から見た登山道で、右側が日尾八幡神社からの登山道、左側が四国88ヶ所第49番札所の浄土寺に行く遍路道。

日尾八幡神社の展望台から見た松山城。

日尾八幡神社の展望台から見た「伊豫三山」の眺望。

伊豫三山:星岡山・天山・土亀山」

展望台登山道から見た日尾八幡神社の本殿と拝殿。

158段の長い石段最上部から見た下方の石段。

知られてない社が日尾八幡にありそれは「黒田霊社」です。

祭神は、黒田九兵衛霊

県社日尾八幡大神縁起に「黒田霊社の由来」の項があり次の様に伝えている。

黒田霊社の由来:

慶長5年9月15日関ヶ原の戦に伊豫国松前城主加藤嘉明は東軍に属し3,000人の将士を率いて美濃(関ヶ原)に進軍した。

その虚に乗じて西軍の雄、芸州毛利輝元は家臣、村上掃部、能島内匠、曽根兵庫、宍戸善右衛門等を将として松前城を襲わしめた。

芸軍凡そ三千余騎、百余艘の兵船に分乗して芸州軍は興居島に到り、さらに三津浜に上陸して民家に宿営したのが慶長5年9月18日のことで、伊予の関ヶ原と言われる戦いがあった。

この時、松前城の城代、佃次郎兵衛十成はひそかに兵を率いて夜に乗じて三津に押し寄せ民家に火を放して陣営を破り、大いに芸軍をなやまし敵将村上・曽根・能島らをはじめ数多の将士を打ち取ったが、残兵はなおも逃れて久米村如来院(現・松山市南久米町、日尾八幡神社直ぐ傍)に立てこもった。

これを追撃する佃十成の軍に黒田九兵衛という勇士がいた。

衆に抽んでて如来院に馳せ付け悪鬼の如き勢をもってその門を破り、うち出す弾雨の中を物ともせず門内に討ち入り、数多将兵を打ち取りなおも奮戦を続けるうち、惜しいかな終に敵弾に中り戦死をとげた。即ち予に言う久米の戦いである。

この豪勇の士、黒田九兵衛を祀った墳を黒田塚と呼び、里人が病を患い苦しむ時この塚に線香をたむけて祈れば必ず平癒すると言い、これを崇めて一社の神に祈ったのがこの黒田霊社である。

昭和35年4月刊行「日尾八幡大神縁起」より引用

この戦いで、敗退していれば関ヶ原の戦いに東軍として戦い武勲を挙げた加藤嘉明は帰る城がなかった。留守を守った城代、佃次郎兵衛十成に対し、嘉明は、松山城築城の際北の郭を造り之を与えこの功績に答えたのである。
松山城の北の郭は、佃次郎兵衛十成、一代だけの居住であった。

役目を終えた狛犬が祀られていた。

狛犬は、神様のお使いと邪気を祓うものとして扱われている。

お寺には、仁王様(金剛力士)が、山門や建物の入口に悪魔が入って来ないように守護しており、お城の天守には、鯱があげられている。

狛犬も、金剛力士も、鯱も、口を開けているのが「阿形」で、口を閉じているのが「吽形」である。置き方は神社・寺院・天守によって異なる。

なお天守の鯱は、織田信長が安土城を築城した時に「魔除け」と火災になると口から水を吐き出し、消火してくれるという伝説と装飾、屋根の上に乗せる、鬼瓦と同様に守り神として大切にされてきたのが始まり。

また個人の家には、守り神として「鍾馗さん」をあげて守護している。(京都に多くある)

役目を果たした狛犬は、山門左後方に祀られていた。

狛犬は、神社にお祭りされている神様のお使いで、参道の両脇に一対で置かれ、邪気を祓う意味があるそうです。

画像の狛犬は、長期間日尾八幡神社の役目を果たした狛犬である。かなり老朽化が進んでいる。

向かって左、口を開けているのが「阿形」で、向かって右、口を閉じているのが「吽形」である。

ちょっと箱根駅伝に触れてみよう!!

駿河台大学、4区の今井選手がリレーする永井選手は、自身が中学校の教員をしていた時、直接指導した教え子で、異例の師弟リレーとなった。

「人生をかけて、中学教師をしていた今井選手(31歳)は新しい学問を学ぶため休職して駿河台大学3年生として編入入学した。心理学を勉強していた時、徳本監督から声を掛けられた。箱根駅伝に出てみませんかと!!

恩師からタスキを受け取り5区箱根の山登りに向かう「永井君たのむよ、ガンバレと声をかけてもらった。ハイ」といった。

その後、駿河台大学タスキは途切れることなく繋がり大手町にゴールした。

分かりましたとタスキを受け取る教え子、監督車から見守った徳本監督は今井選手に「2年間ありがとう。俺に謝って来たら、ぶっ飛ばすからの声が飛んできた。」

今井選手は、この言葉を聞き号泣した。

4月から再び中学校の教師として教壇に復帰するそうです。

昨今、教師の世界いろんな不祥事が起こっている中、再度大学に入学し新しい知識を身に纏い、新たな意気込みで教師として再出発される今井先生にアッパレである。そして徳本監督の粋な計らいにも、「大アッパレである。」

令和4年の「初春」から心温まるいい場面を見せて頂いた。

最後に「駿河台大学駅伝部」の今後益々のご活躍を祈ります。

初出場の駿河台大学往路箱根にゴール。

1区から9区までタスキは途切れることなく繫ぐことが出来、10区選手が皆の熱い思いが籠められたタスキを大手町のゴールにつなぎ辿り着いた。駿河台大学、来年からは予選会を通過して、そしてシード校の常連校として確保できる歴史を作っていって下さい。

いい箱根駅伝を見させてもらった。

 

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新年のご挨拶

2022年01月01日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

皆様 新年明けましておめでとうございます

謹んで新春のお祝詞を申し上げます
平成21年7月15日に開設いたしました私のお粗末なブログ、昨年もご覧頂ありがとうございました。

今年も拙いブログですが継続して行きますのでご覧頂き、そして是非ご批判頂きますと共にご指導ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。

新型コロナ「オミクロン」が蔓延しておりますくれぐれも御身ご自愛下さい。
本年も皆様のご健勝とご多幸をご祈念申し上げます。

令和 4年 元旦

画像説明:我が家の山茶花です。昨年植え替えましたら、土壌の変化で環境が変わったのが良かったのか、今年は沢山綺麗な花を咲かしてくれました。

我が家の山茶花です。昨年植え替えましたら、土壌の変化で環境が変わったのが良かったのか、今年は沢山綺麗な花を咲かしてくれました。

昨年12月22日、全国で最も早い梅の花が松山市で開花したと松山地方気象台は発表しました。
平年より14日早く全国で最も早い開花の発表です。

令和3年12月22日、気象台によりますと、愛媛県内は22日高気圧に覆われて晴れて気温が上がり、最高気温は宇和島市で17.4度、松山市で16.2度など各地で平年より暖かな1日になりました。
こうした中、気象台の敷地内にある梅の標本木で、花が5輪咲いているのが確認され気象台は22日、「松山市で梅が開花した」と発表しました。
松山市の梅の開花は去年より9日遅いものの、平年より14日早く全国で最も早い開花だということです。
開花がこれだけ早くなった理由は分からないということですが、気象台は「寒い日もあったが今月は総合的には平年より暖かい日が多いため、何らかの影響を与えた可能性もある」と言ってます。

松山地方気象台の敷地内にある梅の標本木で、花が5輪咲いているのが確認され気象台は、令和3年12月22日、「松山市で梅が開花した」と発表しました。
松山地方気象台は、松山市の高級住宅街に位置し、木造一戸建ての住宅地でしたが、近年高層住宅街に変貌、マンションビルの輻射熱で梅の開花が早くなるのではと素人考えです。

画像の中央の樹が「梅の標本木」で、後方のビルとの間に市道があります。

明治28年4月、東京大学を卒業した「夏目漱石」は愛媛県松山の松山中学の英語教師として赴任しました。給料は教頭先生よりも高く、毎日坊っちゃん列車にのり道後温泉に入浴、入浴後「更科団子、後の坊ちゃん団子」を美味しく食べて下宿先に変える日々を送っていた。

その、坊っちゃん列車が画像後方のビルと、気象台のネットフェンスの間、市道に軌道があり坊っちゃん列車が走っていました。

当時は、鉄道沿線に住宅を建て生活を営むのがステータスだってそうで、この周辺は高級住宅街です。(松山市持田町)

坊っちゃん列車の旧軌道跡は、NHKブラタモリ道後編で跡地を辿った。

明治28年4月、夏目漱石が乗った列車が復元された「坊っちゃん列車」で現在は市電の軌道を営業運転しています。

伊予鉄道は、日本最古の軽便小鉄道でその主役として活躍したのがドイツ・ミュンヘン州クラウス社製から輸入した蒸気機関車(愛称・坊っちゃん列車)でした。

 坊っちゃん列車は明治21年10月28日の運行開始以来67年にわたり総17台の機関車が活躍しておりましたが、昭和29年廃止され、以後電化になるまでディーゼルエンジン機関車に引き継がれ、列車の電化に伴い蒸気とディーゼルで走っていた坊っちゃん列車は路線上から姿を消しました。その後復元して市内電車の軌道を走らせる計画がありましたが市内を不完全燃焼で発生する煤煙を撒き散らす事は、大気汚染防止法に反する行為で立ち消えました。しかし何とか走行させたい思いは強く、平成13年9月2日、動力をディーゼルエンジンとしての機関車を外観復元、客車を復元させて市内電車の軌道を走る事になり現在に至っています。

現在1号車と、14号車が走っております。

夏目漱石が乗車した坊っちゃん列車客車内部です。(復元客車)

漱石の下宿は、現在は駐車場になっています。所在は、三越松山店の直ぐ南側にあり一角に記念碑が建立されています。

松山地方気象台の敷地内にある梅の標本木の表示版。

松山地方気象台の敷地内にある梅の標本木の表示版。

此れからは、私が毎日散歩をしています「散歩道」です。

私が毎日散歩をしています「散歩道」です。この道は殆ど車の走行はなく絶好の散歩道です。

すぐ近くにある病院に入院している患者さんが理学療養士の指導でリハビリを兼ねて歩行運動をしています。

春には、さくらが開花すると画像のようになります。

画像は、昨年3月26日の様子です。

昨年12月24日撮影しました。
私が毎日散歩をしています「散歩道」の川の堤防に咲いている野の花たちで、春の気配を感じます。

職員の手厚い保護を受け草花は元気よく花をつけ、散歩をする人たちを楽しませてくれます。

昨年12月24日カメラ持参で散策して撮りました堤防に咲く花たちです。

散歩道の右側に天山病院がありその組織の中に施設管理課があります。
施設管理課の職員が堤防の雑草を処理していますので画像のような花々が元気よく気持ちよく育ち花を咲かすのです。・・ご苦労さまです。

川は、「川附川」で一級河川・石手川の支流です。
伊丹十三記念館前で小野川と合流し、坊っちゃん球場付近で石手川に合流、そして一級河川・重信川と合流し瀬戸内海に流れ込みます。

川附川にはカワセミがやって来ます。

散歩道沿線には、奈良県の天香山との姉妹の山「天山」があり、弘安の役、博多湾で蒙古軍と勇敢に戦った「河野通有」の居城、縦渕城址があります。
近年では、伊丹十三記念館が開館し、時折、奥様(館長)の宮本信子さんがお越しになります。

由緒ある歴史の地を散歩するのは有意義さを感じます。

 

 

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