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千葉県鎌ヶ谷市 道野辺八幡神社に眠る・秋山好古揮毫石碑

2011年06月16日 | 鎌ヶ谷市道野辺八幡神社に眠る・秋山好古揮

鎌ヶ谷市 道野辺八幡神社に眠る・秋山好古揮毫石碑

6月8日から新潟市を訪れ(神田勝郎氏が発行した書籍:秋山好古と新潟の人びとの出版お祝い)10日に魚沼市に新たに発見された好古揮毫石碑「戦役記念」の取材を終えた後11日千葉県鎌ヶ谷市の道野辺八幡神社を訪問した。

千葉県鎌ヶ谷市は、今は全国区になる有名な自治体となっている。
それは、今期早稲田大学卒して、北海道日本ハムファイターズに入団した「斉藤佑樹投手」が練習をする二軍球場があり、住民登録も鎌ヶ谷市に登録して一時期は毎日詳細にTV報道され有名となった。

道野辺神社は球場の直ぐ近くにある由緒ある社である。
この神社にある事情で、秋山好古が揮毫した石碑が18年間眠っているのである。
道野辺八幡神社を訪れたのは、早く石碑を再建立して頂きたく宮司さんにお願いに伺った。
宮司さんのお名前は「北山秀彦」さん、といわれる。
なぜこの社に好古揮毫の石碑が運ばれて来たかの経緯を伺った。

千葉県習志野市の大規模農家の息子さんが日露戦争に騎兵隊として従軍し、戦死され、父親は後世にその戦役を何らかの形で残しておこうと考え、上官であった秋山好古に書をお願いした。好古は本来教育者であり非常に部下思いの優しい心の持ち主で、大阪師範学校を卒業後名古屋師範学校付属小学校の教員をしていたが、伊予松山出身の和久教務官の強い勧めで(強引に・無理やり)軍人にさせられた。
好古の人生の中で軍人生活が長かった。軍服という「甲冑」を着ていた時期が長かっただけで、身体の中身は教育者であった。

揮毫依頼を受けた兵士の名前は「織戸清太郎」で明治38年4月28日戦争地「二道家子」で名誉の戦死をしたのである。
織戸清太郎騎兵隊員の当時の階級は、騎兵14連隊 騎兵伍長で、心身強靭・勇敢で優秀な騎兵隊員であったため好古は、凄い漢詩で揮毫し家族の願いを叶え書き贈った。

※ 好古が揮毫した漢詩は
「征馬振鬣 深入険土 一死鴻毛 躬冒弾雨 貞勒功 永抑其武」
意味、読みは、註3を参照して下さい。

揮毫当時の秋山好古の階級は、陸軍少将 正五位勲二等であった。
好古は、織戸騎兵伍長の勇士を讃え最高の意を漢詩で表現し書き上げた。
揮毫は、当初石碑にする予定でなかったが、後に家族の思いが募り石碑として屋敷に建立したそうだ。

18年前織戸家はある事情で石碑を撤去し道野辺八幡神社に預けた。
それは、碑文の意味がわからなくての事だろう??
八木宮司は、石碑再建立をすべき石工さんに石碑に穴を開け鉄柱を入れ込む工法を相談するも石質がもろく適用できず、思案していたところステンレス製の枠を造りそれに入れ込む工法で再建立する事を考案、近い内に必ず再建立いたします・・とお約束を頂いた。

除幕式には連絡しますとも言って頂いた。・・・その時に取材に伺う。・・そして石碑の傍に説明版を設置して後世に伝えていきたいと宮司は付け加えた。

なお、石碑は長さが約1,8mで厚さは薄く三分割されて境内に眠っていて碑文は下にしているため見えない。
出来るだけ早く日の目の当たる場所に再建立して頂きたい。
出来ればNHKスペシャルドラマ「坂の上の雲・第三部」が12月から放映される、それまでにお願いしたいものだ。
なお石は、宮城県仙台市産で石質は非常に柔らかいそうだ。

註1:現在好古揮毫の石碑は全国に48基発見されているが、道野辺八幡神社の石碑は、2番目に古い石碑で個人的に揮毫した石碑は2基目である。

註2:この石碑の発見は、千葉県八千代市がある調査をしていた時偶然に発見したそうで、碑文の読み、意味、建立発見と経緯は、八千代市立郷土博物館 主任学芸員 佐藤氏から提供して頂いた。

註3:征馬振鬣 深入険土 一死鴻毛 躬冒弾雨 貞勒功 永抑其武
   読み:せいばたてがみをふるい、ふかくけんどにいる。
      いっしはこうもうたり、みづからだんうををかす
      ていびんにこうをろくし、ながくそのぶをあおぐ。
   意味:軍馬はたてがみを振るわせて、敵のふところ深く進撃する。
      自分の命を鳥の羽よりも軽んじて、自ら弾雨の中を突き進んでいく。
      この石碑にこの功績を刻み、永遠にその武勲を仰ぐ。

道野辺八幡神社入口で、急な階段を上ると参道があり社拝殿まで長く舗装された道がある。


長い参道を入ると・・


立派な拝殿が現れる・・立派である・・拝殿前広場は石畳である。


神社の由緒は、画像をご覧下さい。


神社の駐車場で、この奥に好古揮毫の石碑が三分割されて18年間眠っている。
早く日の目の当たる場所に出してやりたい。


18年前に習志野市の織戸家から解体業者が三分割された石碑を運び込んだ。


画像の通り石碑は薄く再建立の造作は難しい。
石は、宮城県仙台市産だそうで、非常に柔らかい石質がゆえに造作が難しい。


伺ったのは6月11日、JR上野駅前の新しいホテルに宿を取ったが、交通の利便性は最高だが、首都高速、下に一般道が走り深夜の救急車、消防車、パトカーのサイレンの音で度々目が覚め熟睡出来なく、新潟からの長旅の疲れが一気に出た。
夜が明けるのを待って、JR上野駅から常盤線でJR柏駅経由、東武野田線船橋行きに乗車、鎌ヶ谷駅で下車して徒歩で道野辺八幡神社を訪れた。
この日は朝から雨で石碑撮影時には小雨となり巧く撮れた。
画像の通り石碑は、碑文の風化を防ぐ為下向きにしてあり見えなかった。
再建立時にはじっくりと拝見したい・・その時を楽しみにして神社を後にした。
北山宮司さんに昼食をご馳走して頂きました。
有難うございました。












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