EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

現存12天守紀行 「伊予松山城天守」 7

2010年06月20日 | 往年の名車 メグロ
現存12天守紀行 「伊予松山城天守」 7

画像は、天守最上階で安政元年に再建、江戸時代、最後に築城された天守である。
合戦など無い時代の築城なので、天井を張り床の間を作り畳が敷けるよう仕上げ、窓は大きく造られている。

伊予松山天守以外の、現存12天守の窓は最小限小さくしている。
合戦時の時を考慮して。
窓が大きいと鉄砲、弓矢を打ち込まれやすい。
それと伊予松山城天守の窓には危険防止の金網を設置してない。

これはあってはいけない事だが、現在まで事故が起きてない。
それは、観光にお越しになった方々の秩序がいい証拠である。
これからもマナーを守って観光してもらい金網の設置をしなくてもいいように。

天守最上階は標高約160mあり松山の城下が一望でき、気象状況がいい時は、本州の野呂山(広島県呉市)が見える。観光者にとっては眺望には打って付けである。金網があるのと、ないのでは風景を見渡す時の感覚が違う。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現存12天守紀行 「伊予松山城天守」 6

2010年06月20日 | 往年の名車 メグロ
現存12天守紀行 「伊予松山城天守」 6

画像は、昭和8年7月9日怪火により焼失した時の伊予松山城本壇画像である。
また昭和20年7月26日松山空襲で焼夷弾が投下され天守に付随している城門二つが焼失した。

幸いな事に監守の命懸けの消化活動で国宝の天守は残った。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現存12天守紀行 「伊予松山城天守」 5

2010年06月20日 | 往年の名車 メグロ
現存12天守紀行 「伊予松山城天守」 5

画像は、本壇小天守から見下ろした連立式天守の中庭で正面の門が「内門」右が大天守の一部」左手前一部が「筋鉄門」左上が「北隅櫓」その右が「玄関」と「玄関多聞櫓」左長い櫓が「10間廊下櫓」である。

天守を各櫓で結んでいる形式を「連立式天守」といい、日本では、姫路城天守・和歌山城天守と伊予松山城天守のみで、日本三大連立式天守と呼ばれていて、中庭の規模は伊予松山城が一番大きいのである。

画像で見える建造物は(天守)以外は昭和8年7月9日怪火により焼失い昭和41年12月24日に着工し昭和43年5月27日に落成復元したものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現存12天守紀行 「伊予松山城天守」 4

2010年06月20日 | 伊予松山歴史散策
現存12天守紀行 「伊予松山城天守」 4

画像は、本壇小天守から見下ろした光景で真ん中下が「一ノ門」右が「一ノ門南櫓」真ん中上が「二ノ門南櫓」左が「三ノ門」「三ノ門南櫓」左端一部見えるのが「筋鉄門東塀」である。・・全て重要文化財指定の建造物である。

伊予松山城には、天守をはじめ、櫓・城門・渡塀21棟が国指定の重要文化財指定の指定を受けていて、現存12天守姫路城に次いで多い城である。
画像で分かるように、敵兵に対して四方から攻撃出来る仕組みに造り上げている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

現存12天守紀行 「伊予松山城天守」 3

2010年06月20日 | 往年の名車 メグロ
現存12天守紀行 「伊予松山城天守」 3

画像は、本壇天守城郭群の屋根等々には江戸時代大変威厳のあった、三つ葉葵の紋章が付けられている。徳川家康が異父兄弟の関係だから松平を名乗り三つ葉葵の紋を使うように賜ったためで「現存12天守」では唯一藩主としての「葵の紋章が付いている城となっている。
伊予松山藩が親藩として四国外様大名の監視役として江戸幕府が送り込んで来た。
1635年7月の出来事であった。明治維新では松山藩は賊軍となり苦労をしている。

はたして住民にとってよかったのか??悪かったのか??隣国土佐との気質の違いはこのあたりにあるのでは??
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする