EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

掛川城紀行

2009年08月31日 | 往年の名車 メグロ
8月25日に東京の帰りに掛川城に行って来ました。
日本100名城、第29番目の紀行です。
天正18年(1590年)全国平定した豊臣秀吉は領地に秀吉配下の大名を配置、掛川城に山内一豊が入り初めて天主を創建したとある。安政元年(1854年)東海大地震で天守、御殿、櫓、城門が倒壊した。その後城郭の建物は再建されたが天守は再建されなかった。平成6年に全国で初めて木造で天守を復元したとガイドさんから説明を受けた。元和元年(1615年)一国一城令・武家諸法度が発令、安土桃山時代にあった約3000の城が、170になり幕府は、城持ち大名にたいして城絵図の提出を命じた。絵図が実際の建物と一寸でも違っている事が分かるとその大名は幕府により領地を没収されたり、お家断絶となるので極めて正確に書かれたとされている。掛川城天守の木造復元には此の資料を基に復元されたそうだ。
天守内部に入ってびっくり、それは豪華の木材を使っているのに、階段は欅、天井は青森ヒバを、また杢板として市松模様には高知県の魚梁瀬スギを使っていた。日本初の木造天守復元に掛けた掛川市民の拘りが伺えた素晴らしい天守であった。
なお、山内一豊は1601年関ヶ原の戦いの恩賞により24万石で土佐に転封、高知城天守は、掛川城天守によく似ている。

画像は、龍頭山・標高52,55mの丘に建つ内部造りが素晴らしい掛川天守
    私は、天主と天守を使い分けている。前記は、安土桃山時代で、後記、
江戸時代の天守として表記している・・間違っていればご指摘下さい。



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東京下町散策・小伝馬町

2009年08月30日 | 往年の名車 メグロ
 8月24日習志野市大久保町から帰りぶらり小伝馬町を散策した。
以前から一度行ってみたい場所でした。日比谷線の小伝馬町で下車して通りに出ると江戸史跡保存協賛会の史跡掲示板があった。「石町時の鐘」「傳馬町牢屋敷跡」「吉田松陰先生終焉之地」の説明を読みその場所に行った。現在は十思公園となっていて老若男女の皆さんが一時の休憩をしていた。傳馬町牢屋跡は知っていたが、石町時の鐘は知らなかった。江戸時代当初は江戸城にあった時の鐘で、第二代将軍秀忠の時此処に移し石町の鐘と親しまれたとある。また傳馬町牢屋で処刑される時、この鐘を合図に執行され、当時の鐘つき者は故意に鐘を突く時間を遅らせ少しでも長く最後の時を過ごさせるよう粋な計らいをしたとの由。安政の大獄で此処に収容処刑された時もこの事があったのか・・思いながら時の鐘と松陰先生終焉之地の石碑を見た。当時の時勢はどんな凄い時代であったのだろうか??日本のよき将来の事を思って行ったのか??隣接してある大安寺には、延命地蔵菩薩が建立してあった。(処刑された魂を鎮めているように)・・地獄の沙汰も金次第のことわざは傳馬町牢屋の事を指すとある。

画像は、十思公園にある時の鐘・奥に吉田松陰先生終焉之地の石碑がある
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江戸城・不浄門

2009年08月29日 | 往年の名車 メグロ
8月24日習志野市大久保町から帰りに東御苑(江戸城)訪れた。
東御苑は、月曜日・金曜日が休苑なので気を付けて下さい。開苑時間は、午前9時から午後4時45分までです。
今回は、不浄門を見に行った。平河門の最初の門「高麗門」を入ると枡形があり渡櫓門が見える。その奥に高麗門型式の「不浄門」がある。城門は必ず控え柱が城内に造られるが不浄門は逆になっている。
此の門は、城内で起こった死人、罪人達を堀に出し水上輸送して埋葬、処刑場に送り出す門で江戸時代の城郭では江戸城だけに造られたものである。
元禄14年(1701年)赤穂藩主、浅野内匠頭長矩が、松之大廊下で吉良上野介に刃傷事件を起し罪人とされ不浄門から運び出され田村邸で切腹して果てた。不浄門をくぐった一番格式の高い人物である。享年35歳だったそうです。

画像は、藩政時代の城郭で江戸城だけにある不浄門で大変貴重な遺構である。
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騎兵第一旅団跡紀行

2009年08月28日 | 往年の名車 メグロ
8月24日に、日本騎兵旅団発祥の地、習志野市大久保町を再び訪れた。
習志野は、以前小金原と言われていたが、明治6年に陸軍大演習が実施され観閲に明治天皇が行幸された。今までにないきびきびとした素晴らしい演習を観閲された明治天皇が御付の西郷隆盛に、今日の指揮者は誰ですかとお尋ねになり、西郷は本日の指揮者は篠原でありますと答えた。そうですか、これからは篠原指揮者に習ってわが国の発展の為に尽くして下さいと言われ、以後篠原に習えが、習志野と命名されたそうです。それから此の地に急速に軍隊が創設されたと案内して頂いた学園大久保商店街三橋理事長から伺った。
今回案内頂いたのは、明治34年12月に創設された騎兵第一旅団があった東邦大学(騎兵第13連隊跡)と日本大学(騎兵第14連隊跡)を訪れた。両大学とも多くの記念石碑が保存されていて感銘を受けた。また騎兵旅団指令本部が置かれていた八幡公園、習志野郵便局にも案内して頂き此処にも記念の石碑が沢山あった。なお、騎兵第二旅団跡は、現東邦中学・東邦高校だそうです。・・此処には行かなかった。
秋山好古は、明治36年騎兵第一旅団長として此の地に着任し、翌年日露戦争で出征し世界最強のロシヤ騎兵隊(コザック騎兵隊)を撃破戦勝に貢献した。それは秋山将軍の卓越した統率力であったと生存されている将校が語っている。そして明治39年早春に堂々の凱旋を大久保の地にしたのである。・・今回の大久保を訪れたのは好古の足跡をたどる意味も含めて行きました。

画像は、東邦大学にある「騎兵第13聯隊発祥の地」の記念石碑で、碑裏面に金属板で「騎兵第13聯隊概史」がはめ込まれている。その中に第二代旅団長・秋山 好古 第六代聯隊長・南 次郎の名が刻印されている。秋山兄弟生誕地(松山市歩行町)にある秋山両将顕彰碑の題額「秋山両将遺邸之碑」を、南 次郎聯隊長(のち大将)が揮毫している。

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駿府城跡紀行

2009年08月28日 | 往年の名車 メグロ
 8月22・23日に平成21年アマチュア無線の祭典が東京有明・国際展示場(東京ビッグサイト)で開催され参加いたしました。
此れに先駆けて21日駿府城跡紀行をして来ました。
日本100名城、第28番目の紀行です。
徳川家康は1605年征夷大将軍を三男秀忠に譲る事を朝廷に納得させ以後将軍職は徳川氏が世襲していく事を天下に示し徳川時代の基礎を構築しました。
1607年駿府城に移り江戸の将軍に対して駿府の大御所として実権を握り続けた。此の地は天文18年(1549年)今川氏の人質として永禄3年(1560年)まで過ごした地でもあります。駿府城は天下普請として大名に命じて築城され三重の堀に囲まれた平城でした。天守は、六重七階の大天守であったが1635年城下よりの出火が城内に延焼し天守、御殿、櫓、塀等焼失、1638年に再建されたが天守は再建されなかった。
なお、家康は1616年75歳の生涯を終える。
駿府とは、駿河の国の中心を意味する。明治2年駿府を静岡に改称した。

21日伺った時、8月11日発生した震度6弱の駿河湾地震で駿府城外濠の石垣三箇所が崩壊していた。

画像は、静岡県庁舎展望室から撮影した駿府城跡で、右端に平成8年に復元された東御門と平成元年に復元された・巽櫓が見えます。中央が本丸です。
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