EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

新潟市 北方文化博物館・藤の花の酒「八代伊藤文吉」誕生

2022年04月23日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

新潟市江南区沢海にある北方文化博物館、佐藤副館長の思案で当博物館のシンボルである「藤の花」の酵母を使った日本酒が開発されました。

新潟大学農学部・新潟県醸造試験場の協力で完成したがその道程は険しいものであったと佐藤副館長は話されました。

日本酒といえば米、北方文化博物館は豪農の館、米と藤の花の酵母で困難とされた日本酒です。
藤の花の日本酒は、「心と癒しの博物館」を目指して、見事な藤を育てた第八代当主伊藤文吉の名を使い「八代 伊藤文吉」と命名したそうです。
4年越しに完成した「奇跡の酒・八代 伊藤文吉」、マスカットのような爽やかさがあると、酒造先の杜氏さんは、話されている。

先日、4月18日、北方文化博物館、神田館長さんから「八代 伊藤文吉」が贈られてきました。

賞味する前に、新潟とは非常にご縁があり、大変お酒の好きであった、秋山好古に献杯をして賞味させて頂きました。

コクのある、濃厚で深みがあり果実の味合いで今まで飲んだことのないお酒でした。

先ずは最初に、秋山好古揮毫の「御大典記念」を軸物に表装し、我が家の床の間にかざしてある前に献酒をしました。

北方文化博物館のシンボルである「藤の花」の酵母を使って4年掛かりで開発された日本酒「が開発された「八代 伊藤文吉」で、瓶も収納箱も、黒仕立てで非常にシンプルな仕立て、しかし味は苦労して醸造した賜で深みのある濃い味でした。

                             

「藤の花・八代 伊藤文吉」の箱の表面で箱には、画像では見ませんが、濃い黒文字で「伊藤文吉」と書かれています。

         

左側面には、〇のなかに「元」の字があしらわれています。
伊藤家のオリジナルマークで、女紋・裏紋に相当するもので、「まるげん」と呼ばれているそうです。

        

〇のなかに鳥の巣をモチーフにしたものは、「四方木瓜(しほうもっこう)」と呼ばれるもので、これが伊藤家の公式の家紋だそうです。

そして、箱の裏面です。

松山市歩行町二丁目にある秋山兄弟生誕地の秋山好古騎馬像にも献酒をしました。

好古は、お酒が大好物でしたので、「これは実に美々の酒で新潟の味がする。」と生前であれば言ったでしょう。

秋山好古は今年1月7日で生誕163年です。

秋山好古騎馬像制作に当たり騎乗する好古のモデルとなった人物は、新潟県出身の秋山好古が信頼していた副官が三名いました、その一人「山内保次・陸軍騎兵少将」です。三名とも新潟県出身者で、豊辺新作(長岡市)建川美次(新潟市)敵中横断三百里の主人公です。

北方文化博物館の全景で、石碑と記してある所に秋山好古揮毫の石碑「忠魂碑」が建立されています。

忠魂は、日露戦争で203高地奪回の戦いで新潟県中蒲原郡横越村(現、新潟市江南区沢海)から出征し戦死された方々の慰霊碑です。

北方文化博物館の創設は後の項で説明します。

この石碑がその由緒ある忠魂碑です。

このあと改めてご紹介します。

現在(令和4年4月23日)秋山好古揮毫の石碑は全国に53基発見されており、53基目の石碑は京都市右京区に発見されてますがこの石碑だけ未だ現地取材が出来ておりません。(コロナの関係で)

52基は全て取材済みで、53基の中で一番大きく立派な石碑です。

平成23年12月1日付けで、秋山好古生誕153年記念として「秋山好古揮毫の石碑写真集」を刊行しました。

新潟市・習志野市・松山市の各市立図書館・愛媛県立図書館・国立国会図書館には納本いたしております。

平成23年12月1日付けで、秋山好古生誕153年記念として「秋山好古揮毫の石碑写真集」を刊行しました写真集の標題紙。

 

4年掛かりで創り上げた「藤の花・八代伊藤文吉」の紹介パンフ。

 

八代当主伊藤文吉が敷地中央に移植し、いまや当館の代名詞である樹齢150年・80畳の大藤棚の開花が始まるのは5月初旬。花開きながら房を下へと伸ばし、長い物で1m近くになるそうです。朝は清々しく、夜のライトアップ時は妖艶な表情を湛えます。(北方文化博物館資料引用)

画像は、一昨年の豪雪で大藤棚が崩壊、藤はだめになったかと案じたが、庭師や樹木医さん達の努力で復活したそうです。(画像は、佐藤副館長から私に頂いたものです。)

藤棚も新しく創り変え藤も元気に往時に近くなったそうです。

北方文化博物館の名物藤のライトアップ。

では、北方文化博物館について

この博物館は、江戸時代中期から初代が身を起こし、代を重ね富を築き、越後随一の豪農の伊藤家である。明治に入り全盛期には1市4郡64ヶ町村に1370町歩あり、昭和に入り新潟県下一の3万俵の収穫があったそうです。

戦後GHQにより農地は解放され、伊藤家の家屋も解体の命令が出たらしいですがGHQの新潟担当の司令官、ライト中尉が極東軍最高司令官マッカーサー元帥に掛け合って特別の計らいで文化財として価値あるものだとして戦後日本国内で初めてとなる私立の博物館として開設の許可を与えられ設立された由緒ある博物館です。

平成21年暮れに千葉県習志野市大久保にある真言宗豊山派、薬師寺三橋秀紀住職から新潟市江南区に秋山好古揮毫の石碑が発見されたと吉報が私に届き、詳細は北方文化博物館の佐藤さんに連絡を取るようにとあった。(画像が薬師寺三橋秀紀住職)

それから新潟市北方文化博物館詣でが始まった。新潟には5回行き一度は松山市から自家用車で行きましたが遠かった。そして新潟県に入ってからいくら走行しても新潟県で、越後国は広かった。

平成22年5月19日付の新潟日報新聞に大きく報道された。

秋山好古揮毫の石碑が日本海側唯一と判明・・と報じられた。

その後平成23年5月5日、新潟県魚沼市堀之内に「戦役記念」の好古揮毫の石碑が発見されたのである。

平成26年3月13日、「忠魂碑」が新潟市民文化遺産に認定されました。

この当時、市民文化遺産を制定していた自治体は、京都市・遠野市・新潟市であった。

平成26年7月5日、市民文化遺産に認定された石碑が新潟日報新聞に報道されました。

平成24年10月29日、秋山兄弟生誕地の研究員を引率して北方文化博物館に研修に行きその時、石碑「忠魂碑」の前で、神田さんから石碑建立の経緯を伺いました。

平成24年10月29日、北方文化博物館、大広間で記念写真に収まる第八代伊藤文吉館長さんと、秋山兄弟生誕地の研究員の記念写真を撮りました。

八代伊藤文吉館長さんは、平成28年10月25日逝去されました。享年89歳。

伊藤家の相続者は、歴代、伊藤文吉を襲名されていましたが、八代伊藤文吉さんが最後で、現館長は、神田勝郎氏です。

画像、後列真中の方が、第八代伊藤文吉館長さんであり伊藤家の当主です。

平成26年11月6日付けの愛媛新聞(愛媛県松山市大手町)に、「好古が結ぶ新潟との縁 揮毫の碑 市民文化遺産・関係者交流深めたい」との見出しで報道されました。

秋山好古揮毫石碑「忠魂碑」の前では毎年慰霊祭が行われており、現在は、日清・日露・大東亜戦争で戦死された方々の合同慰霊祭として開催しており、この事が基盤となり新潟市民文化遺産として認定されたものと私は理解しています。

この時の慰霊祭には私も参列させて頂きました。(平成22年9月6日)

忠魂碑の揮毫を秋山好古に依頼した人が「伊澤多喜男」新潟県知事でした。

伊澤知事の前任地は、愛媛県知事で、新居浜市、別子銅山の精錬所から出る亜硫酸ガスが農作物に大きな被害が出る大きな事件が起こりこれを解決したのが、当時の伊澤愛媛県知事であった。
伊澤多喜男知事を好古は、伊澤知事とは旧知の仲、愛媛県で大きな仕事を成し遂げている。新潟県でもいい仕事をすると思いますと新潟県民に紹介したそうです。

その後、伊澤多喜男は、警視総監・東京市長の要職を歴任された。

出身は、信濃国高遠藩である。東京都の新宿御苑は、信濃国高遠藩の江戸屋敷跡である。
秋山好古は、忠魂碑を揮毫し満州へと新潟から旅経つのである。新潟在中は僅か2ヶ月あまりであった。

なお、新潟県魚沼市の石碑「戦役記念」も誰かが伊澤知事にお願いして好古が揮毫したが依頼主は不明である。

好古が頼まれると快く字を書き出したのは、大正13年松山市の北豫中学校校長として赴任したからでのことである。

 

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令和4年4月、私達の散歩道 桜満開 その情景

2022年04月02日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

私が散歩する道には、数本の「ソメイヨシの桜」があります。

先日、快晴で気温も高く、絶好の散歩日和、カメラ持参で散歩に出掛けました。
令和4年3月21日、松山地方のソメイヨシノ桜が開花したと松山地方気象台から開花宣言があってから遅れること私が散歩する道沿いにある。ソメイヨシノ桜が開花、現在(4月2日)満開です。

桜は、川附川に掛かる「孝田橋」のすぐ下流にある、ソメイヨシノ桜が満開の状態で、対岸にある「高齢者福祉施設・れんげ荘」に入所している方々が、優しい介護士さんに付き添われ、車椅子で桜を鑑賞し、桜をバックに記念写真を撮っていました。

優しい介護士さんと一緒に嬉しそうにカメラに向かっていました。

その様子の画像です。

近くの方々にとっても一年で一番いい季節到来で清々しい気持ちで桜を鑑賞しながら、スマホで撮影しながらの散歩です。

施設のお年寄りも介護士さんに連れられて外出桜鑑賞です。

さー・・記念写真撮りましょうね介護士さんの合図でカメラに収まります。

お年寄りの目には、画像のような桜がしっかりと焼き付いて居ることでしょう!!

この桜の鑑賞は終わり、次の桜を見に移動です。

これから桜のトンネルに入ります。

これからの桜は、天山の南面に植樹されている桜です。

天山は、奈良県橿原市にある天香久山と姉妹の山です。

施設には大勢の入居者が居ますので、交代で桜鑑賞に連れて行き、この時期は大忙しです。

ここでも写真を撮ろうかね!!

優しい介護士さん・・大丈夫疲れてない!!

では、もうそろそろ帰ろうか。

桜鑑賞も終わり帰りましょう。

施設には、次に桜鑑賞を楽しみに待つお年寄りが居ます。介護士さん大忙しです。

介護士さんが手を引いて、椅子を持参して桜の下まで来ました。

男性の介護士さんは、持参した椅子を置き介護の人を座らせて暫く気の済むまま椅子に座り桜を鑑賞していた。

そして、椅子から立ち上がりゆっくりとした時を過ごし施設に帰って行った。

後ろ姿をみると目頭が熱くなる光景であった。

男性の介護士さん、しっかりと手を取り、一歩一歩歩いて帰られた。

この地点で、約2時間カメラのレンズを通して光景を追ってみた。

定点カメラです。

右側の川が「川附川」です。

時折こんな大きな鳥もやって来ます。

川には沢山の鯉が生息して川の浄化に一役かっています。

元は、川には鯉はいなかったのですが、私の知人が川の浄化、特にボウフラ防除対策にと、自前で鯉を購入して放流したのが始まりです。

カワセミもやって来ます。

奈良県橿原市にある「天香久山」と姉妹の山「天山」の参道口の桜も満開に近い状態です。
(令和4年3月31日現在)

赤と黒のシックな装いの御婦人がサクラのトンネルを通りかかった。

伊丹十三記念館を中心にした「川附川」「天山」「小野川」の位置図です。

小野川は、鎌倉時代は「縦淵川」と称し、約2Km上流に「久米寺」があり、この久米寺に、小野小町が訪れた時、縦淵川を船で上ったとの伝説がある川である。

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