松山市城東地区歴史散策最終 15 秋山兄弟生誕地
平成17年1月18日全国の秋山兄弟支援者の方々11000名から醵金を頂き、生家と二人の銅像が再建され、NHK「おはよう日本」紹介され、19日から一般公開されている。
今年1月18日で5年を迎え昨年からNHK放映の「坂の上の雲」全国の秋山支援者が急激に増えている。
「秋山の祖先は、伊予の豪族河野氏の出で、はじめ上野氏と称し何時の頃か讃岐の国に移り秋山を姓とし同地に秋山の城跡があると伝えられている。
子孫達は、伊予に帰り越智の武智郷の小谷に住し右衛門宗清と称する者、寛永年間伊予今治藩主藤堂高吉に仕え30人扶持を給され、高吉伊賀に転封の時伊賀に移った。
その後、助太夫久信の時今治に帰りそして伊予松山に移り、久信は伊予松山藩主松平隠岐守(久松定行)に仕えその家臣となった。
秋山家の家系は、宗清を以て始祖とし、久信を以て初代と称している。
言い伝えによると、久信は松平家(久松家)に仕えるにあたり、頭の字の付く役職でないと受けずと言い、中間小頭を以て出仕したと言われている。その後代々徒士の家格をを以て相継ぎ、第6代久敬は、徒歩目付に若くして抜擢された。久敬は、漢学に長じ、文章を能くし廃藩置県後は県の学務係り、小学校の教師等を勤めた。」・・・
好古は、秋山家の三男として誕生、長男第7代則久は病弱のため早く隠居し好古が第8代として家督相続した。なお、次男は岡家、四男は西原家へ婿養子に行った。
好古は大正13年4月66歳、陸軍大将予備役付けのまま郷里北豫中学校長として単身赴任で松山に帰る。
北豫中学校長赴任の前年に元帥に推薦されているが、好古は此れを辞退した。元帥を辞退した者は今までにない事で関係者は驚いた。中には秋山は馬鹿でないのか、元帥に成りたくて申請する者もいる名誉な地位なのに、その上田舎のそれも私立中学の校長かと、批判するものもいた。
明治天皇は、好古が元帥を辞退した事をしり、そうかそれでは特旨を以って従二位を与えよと申されこれを頂き郷里の北豫中学校長として松山に帰った。
東京に在住時は、常に馬を飼っていた。日清、日露戦争で活躍し亡くなった軍馬の事が忘れられなかったのであろう??東京では特別な区域では個人が馬を飼ってはならない条例が公布され、好古は馬を飼ってもいい地域を探し借家住まいとして馬を飼っていた。
松山でも馬を飼うのではないかと秘かに馬丁さんが付いて来たが馬を飼う様子がなかったので東京に帰ってという。
好古揮毫記念石碑が現在全国に47基発見されているが、軍馬忠霊の石碑が静岡市と船橋市にある。
昭和5年3月、6年間勤務した北豫中学校長を辞任し家族の待つ東京に帰りそして発病し10月15日陸軍病院に入院11月4日没した。
享年72歳の生涯であった。
名古屋師範学校の教師で社会人として出発し軍隊生活が長かったが最後も教師として有意義な人生を全うした。
北豫中学校は好古が赴任してからそれまで荒れていた校風が素晴らしい校風に変身したとある。現在も好古が残した校風は愛媛県立松山北高等学校に受継がれている。
画像は、生誕地前の松山秋祭り(昨年)の風景で、大人神輿と子供神輿が巡行して来て模擬の鉢合わせをするところうである。好古は馬上から子供達に元気よく育ち松山の良き後継者に育ってほしいものだと願っている。
平成17年1月18日全国の秋山兄弟支援者の方々11000名から醵金を頂き、生家と二人の銅像が再建され、NHK「おはよう日本」紹介され、19日から一般公開されている。
今年1月18日で5年を迎え昨年からNHK放映の「坂の上の雲」全国の秋山支援者が急激に増えている。
「秋山の祖先は、伊予の豪族河野氏の出で、はじめ上野氏と称し何時の頃か讃岐の国に移り秋山を姓とし同地に秋山の城跡があると伝えられている。
子孫達は、伊予に帰り越智の武智郷の小谷に住し右衛門宗清と称する者、寛永年間伊予今治藩主藤堂高吉に仕え30人扶持を給され、高吉伊賀に転封の時伊賀に移った。
その後、助太夫久信の時今治に帰りそして伊予松山に移り、久信は伊予松山藩主松平隠岐守(久松定行)に仕えその家臣となった。
秋山家の家系は、宗清を以て始祖とし、久信を以て初代と称している。
言い伝えによると、久信は松平家(久松家)に仕えるにあたり、頭の字の付く役職でないと受けずと言い、中間小頭を以て出仕したと言われている。その後代々徒士の家格をを以て相継ぎ、第6代久敬は、徒歩目付に若くして抜擢された。久敬は、漢学に長じ、文章を能くし廃藩置県後は県の学務係り、小学校の教師等を勤めた。」・・・
好古は、秋山家の三男として誕生、長男第7代則久は病弱のため早く隠居し好古が第8代として家督相続した。なお、次男は岡家、四男は西原家へ婿養子に行った。
好古は大正13年4月66歳、陸軍大将予備役付けのまま郷里北豫中学校長として単身赴任で松山に帰る。
北豫中学校長赴任の前年に元帥に推薦されているが、好古は此れを辞退した。元帥を辞退した者は今までにない事で関係者は驚いた。中には秋山は馬鹿でないのか、元帥に成りたくて申請する者もいる名誉な地位なのに、その上田舎のそれも私立中学の校長かと、批判するものもいた。
明治天皇は、好古が元帥を辞退した事をしり、そうかそれでは特旨を以って従二位を与えよと申されこれを頂き郷里の北豫中学校長として松山に帰った。
東京に在住時は、常に馬を飼っていた。日清、日露戦争で活躍し亡くなった軍馬の事が忘れられなかったのであろう??東京では特別な区域では個人が馬を飼ってはならない条例が公布され、好古は馬を飼ってもいい地域を探し借家住まいとして馬を飼っていた。
松山でも馬を飼うのではないかと秘かに馬丁さんが付いて来たが馬を飼う様子がなかったので東京に帰ってという。
好古揮毫記念石碑が現在全国に47基発見されているが、軍馬忠霊の石碑が静岡市と船橋市にある。
昭和5年3月、6年間勤務した北豫中学校長を辞任し家族の待つ東京に帰りそして発病し10月15日陸軍病院に入院11月4日没した。
享年72歳の生涯であった。
名古屋師範学校の教師で社会人として出発し軍隊生活が長かったが最後も教師として有意義な人生を全うした。
北豫中学校は好古が赴任してからそれまで荒れていた校風が素晴らしい校風に変身したとある。現在も好古が残した校風は愛媛県立松山北高等学校に受継がれている。
画像は、生誕地前の松山秋祭り(昨年)の風景で、大人神輿と子供神輿が巡行して来て模擬の鉢合わせをするところうである。好古は馬上から子供達に元気よく育ち松山の良き後継者に育ってほしいものだと願っている。