EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

松山市城東地区歴史散策 15 秋山兄弟生誕地 

2010年07月26日 | 往年の名車 メグロ
松山市城東地区歴史散策最終 15 秋山兄弟生誕地 

平成17年1月18日全国の秋山兄弟支援者の方々11000名から醵金を頂き、生家と二人の銅像が再建され、NHK「おはよう日本」紹介され、19日から一般公開されている。

今年1月18日で5年を迎え昨年からNHK放映の「坂の上の雲」全国の秋山支援者が急激に増えている。

「秋山の祖先は、伊予の豪族河野氏の出で、はじめ上野氏と称し何時の頃か讃岐の国に移り秋山を姓とし同地に秋山の城跡があると伝えられている。
子孫達は、伊予に帰り越智の武智郷の小谷に住し右衛門宗清と称する者、寛永年間伊予今治藩主藤堂高吉に仕え30人扶持を給され、高吉伊賀に転封の時伊賀に移った。

その後、助太夫久信の時今治に帰りそして伊予松山に移り、久信は伊予松山藩主松平隠岐守(久松定行)に仕えその家臣となった。
秋山家の家系は、宗清を以て始祖とし、久信を以て初代と称している。

言い伝えによると、久信は松平家(久松家)に仕えるにあたり、頭の字の付く役職でないと受けずと言い、中間小頭を以て出仕したと言われている。その後代々徒士の家格をを以て相継ぎ、第6代久敬は、徒歩目付に若くして抜擢された。久敬は、漢学に長じ、文章を能くし廃藩置県後は県の学務係り、小学校の教師等を勤めた。」・・・

好古は、秋山家の三男として誕生、長男第7代則久は病弱のため早く隠居し好古が第8代として家督相続した。なお、次男は岡家、四男は西原家へ婿養子に行った。

好古は大正13年4月66歳、陸軍大将予備役付けのまま郷里北豫中学校長として単身赴任で松山に帰る。

北豫中学校長赴任の前年に元帥に推薦されているが、好古は此れを辞退した。元帥を辞退した者は今までにない事で関係者は驚いた。中には秋山は馬鹿でないのか、元帥に成りたくて申請する者もいる名誉な地位なのに、その上田舎のそれも私立中学の校長かと、批判するものもいた。

明治天皇は、好古が元帥を辞退した事をしり、そうかそれでは特旨を以って従二位を与えよと申されこれを頂き郷里の北豫中学校長として松山に帰った。

東京に在住時は、常に馬を飼っていた。日清、日露戦争で活躍し亡くなった軍馬の事が忘れられなかったのであろう??東京では特別な区域では個人が馬を飼ってはならない条例が公布され、好古は馬を飼ってもいい地域を探し借家住まいとして馬を飼っていた。

松山でも馬を飼うのではないかと秘かに馬丁さんが付いて来たが馬を飼う様子がなかったので東京に帰ってという。
好古揮毫記念石碑が現在全国に47基発見されているが、軍馬忠霊の石碑が静岡市と船橋市にある。

昭和5年3月、6年間勤務した北豫中学校長を辞任し家族の待つ東京に帰りそして発病し10月15日陸軍病院に入院11月4日没した。
享年72歳の生涯であった。
名古屋師範学校の教師で社会人として出発し軍隊生活が長かったが最後も教師として有意義な人生を全うした。

北豫中学校は好古が赴任してからそれまで荒れていた校風が素晴らしい校風に変身したとある。現在も好古が残した校風は愛媛県立松山北高等学校に受継がれている。

 
画像は、生誕地前の松山秋祭り(昨年)の風景で、大人神輿と子供神輿が巡行して来て模擬の鉢合わせをするところうである。好古は馬上から子供達に元気よく育ち松山の良き後継者に育ってほしいものだと願っている。



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松山市城東地区歴史散策 14 子規記念博物館

2010年07月25日 | 往年の名車 メグロ
松山市城東地区歴史散策 14 子規記念博物館

子規記念博物館は、名称は、松山市立子規記念博物館で、短詩系文学の博物館としては日本一の施設である。

昭和50年5月松山市は、市民の文化施設設置の要望にこたえるため「仮称 松山市文化会館」の建設調査を市長部局が行い、途中教育委員会が受け継ぎ7月に文化教育課が設置され準備室が置かれた。11月には助役を本部長としたプロジェクトが編成され基調案が出来上がった。

その概要は、近代文学に偉大な業績を残した正岡子規をテーマとする博物館機能を主体とする施設が適切であろう、その敷地は交通の利便、自然環境、歴史的背景等の要因から道後公園が最適とされたが、当該地は公園計画区域であるため愛媛県の許可が必要、県との折衝がはじめられ事業計画の処置がとられた。

昭和53年3月県の建設に関する基本的な了承を得て同年4月6日市民各界代表者25名からなる建設準備協議会が結成され11月24日基本設計が了承された。
正式名称は「松山市立子規記念博物館」と決定し、昭和56年4月2日に開館した。

子規記念博物館敷地には、昭和53年まで道後地区の社会教育の施設であった道後公会堂(昭和12年建設)があり一時期は、陸軍病院善通寺分院として専用され、戦後は進駐軍に接収された。昭和21年5月進駐軍の指令により日本赤十字松山病院の病舎となった。

また子規記念博物館玄関あたりに昭和25年進駐軍司令官から進駐軍の将校が専用する浴場を作るよう要望があり「しらさぎ湯」の名称で温泉施設が出来た。進駐軍はもっと分かりやすい名称にせよとし、「DOGO HOT SPRING」の赤いネオンが灯った。
進駐軍が撤退後は家族風呂として営業したが昭和43年休業した。しらさぎ湯の傍に道後新温泉があり湯はここら引き湯をした。(新温泉は昭和40年休業する。)

将校たちは道後で受けた印象をお土産に母国に帰った。串だんごに日本茶をすすりながら「ボッチャン ダンゴ」の言葉を覚えたり、「ドウゴ、ムスメサン、トテモヤサシイ」等片言交じりの日本語に愛嬌をふりまいたりし、若い兵士達の逸話はいろいろあるが、誰もが口にして礼讃したのは、戦場での疲れを癒して、心身をもっとも快適にしてくれた道後いで湯のなめらかな肌触りにあったと思う。
そんな歴史のある土地に松山市立子規記念博物館はある。

画像は、子規記念博物正面で、子規顕彰全国俳句大会は、昭和41年(1966年)の子規生誕100年を記念して始められました。子規のふるさと松山で子規の命日(9月19日・糸瓜忌)に有志によって脈々と行われていた追悼句会を継ぎ、命日に近い、毎年9月23日(秋分の日)に開催している。

昭和56年に松山市立子規記念博物館が建設され、第16回大会から会場を博物館に移し開催され現在に至っている。7月12倒壊した愚陀仏庵も館内に模写して再建されている。
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松山市城東地区歴史散策 13 明教館

2010年07月24日 | 往年の名車 メグロ
松山市城東地区歴史散策 13 明教館

明教館は、藩政時代伊予松山藩の教育の場所であった。後の松山中学、現 愛媛県立松山東高等学校である。

秋山好古は、明教館で学び、秋山眞之、正岡子規は松山中学で学んだ。明治28年夏目漱石は松山中学の英語教師であった。名作「坊ちゃん」は松山中学を舞台にして書かれた。
伊予松山藩主、松平定則の時、代官町に考徳館を作ったが定直になって文政11年2月(1828年)明教館を建て、東に武道場、南に学問所とし、別の町に六行舎を建てて心学の大家田中一如を教授として足軽以下の教育に当たらせた。

明治維新後の明教館は、県学校英学所を経て明治11年松山中学となる。
場所は、現在の二番町、NTT西日本四国で当時の建物の一部講堂が松山東高校の校庭に移築保存されている。昭和44年県指定の文化財である。

青柳(せいりゅう)の分身

また南側校庭には大正5年4月2日松山中学が現在地に移転の際、柳の木も移植され、明治・大正・昭和・平成と激動の社会を見てきた大柳があったが残念ながら老木と成り樹勢が衰え平成4年生物クラブの生徒達が挿し木を思いつき、ラクビー部の一人が小枝を貰い受け造園業の父親と丹精こめて育成し、平成7年松山中学入学50周年記念として植樹した木が大きく育っている。(挿し木での苗は親と同じ形質を有し種子による繁殖とは異なる)

土塁

校庭西側にあった土塁は、1602年加藤嘉明が松山城を築城し、その後外堀の計画工事を進めていたが、計画は途中で中止となった。その時の遺稿で終戦後は土塁がほぼ完全な形で残っていたが現在土塁は削られ低くなり当時の面影はない。

画像は、愛媛県立松山東高等学校北側の校庭に保存されている明教館で、画像中心にある門柱は、旧松山中学門柱で大正5年現在地(松山市持田二丁目2番12号)に移転した際、門柱は温泉郡荏原村役場に一時移管されたが大正6年卒業生を中心として思い出を懐かしむ同窓生の努力によって明教館門柱として引き取た門柱である。門内には、安部能成と桜井忠温揮毫の石碑がある。

明教館棟瓦には、久松家の家紋「梅鉢」の家紋の入った瓦が上がっている。
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松山市城東地区歴史散策 12 岩堰

2010年07月24日 | 往年の名車 メグロ
松山市城東地区歴史散策 12 岩堰

石手寺東200m、伊予松山城築城(1602年)前は、(現在の松山旧市街)河の氾濫で農作物等が生産出来るような土地ではなかった。「阿沼」といわれた湿地帯であった。
築城にあたり加藤嘉明は、普請奉行足立重信に河川の改修を命じ現在の石手川に改修し良田が出来た。当時の川は「湯山川」と呼んでいてよく氾濫していたそうだ。

重信川も足立重信が改修を行い河川の名前が足立重信の名を取って「重信川」と命名し、全国の一級河川の名前が改修者名の河川は非常に珍しいそうだ。以前の河川名は伊予川といっていた。この河もよく氾濫をしていた。
石手川付け替え工事は、難工事で特に岩を削って水路を西南に付け替え重信川と合流する壮大な河川改修工事であった。

今でも岩をノミで削った跡があり当時を偲ぶ事が出来る。
改修前の川(湯山川)は現在の二番町(NTT四国・元松山中学)の南を流れ、済美高校の北側を通り松山空港から吉田浜に流れ瀬戸内海に出ていた。
道後公園は、中世の湯築城跡で、1338年河野通盛が築城したが、現在の松山城(勝山)に城が築けなかったのは河川が氾濫していたためであろう。

画像は、石手川(当時は湯山川)の改修工事の一番の難所であった所、岩堰である。
また此処に秋山好古が揮毫した記念の石碑がある。

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松山市城東地区歴史散策 11 文珠院にある石像

2010年07月23日 | 往年の名車 メグロ
松山市城東地区歴史散策 11 文珠院にある石像

画像は、松山市荏原町、衛門三郎邸宅跡にある文珠院境内にある石像。
左の大きな立像が弘法大師、右の小さな坐像が衛門三郎夫妻である。
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