京都の維新史跡・紀行散策 8「佐久間象山・大村益次郎遭難之地」
画像は、池田屋事件(騒動)があった場所のすぐ近く、三条小橋の袂に、佐久間象山・大村益次郎遭難之地の記念石碑が建立してあった。
この付近は、維新史跡が多くあり散策にはいい場所である。
高瀬川を挟んで歩道を歩くのは風情を感じるし、維新の志士たちが命を懸けて戦った跡、また新しい華町先斗町を散策もよしである。
ちょっと大村益次郎(村田蔵六)の事を
大村益次郎は、伊予にも縁のある人だ。
伊予宇和島藩に一時期身を寄せた事がある。・・その時は、村田蔵六称していた。
大村は宇和島藩で西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手がけ、安政元年(1854年)から翌安政2年(1855年)には長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行った。長崎へは二宮敬作が同行した。
大村益次郎の住居跡は、宇和島市の史跡となっている。
ただし、建物は現存せず、住居跡を示す看板のみが置かれている。
文久3年(1863年)、萩へ帰国。桂小五郎(木戸孝允)の推挙により大村は馬廻役譜代100石取の上士となり、藩命により大村益次郎永敏と改名。明治2年(1869年)9月4日、大村は京都三条木屋町上ルの旅館で刺客に襲われ重傷を負った。
兇徒が所持していた「斬奸状」には、大村襲撃の理由が、兵制を中心とした急進的な変革に対する強い反感にあった。大村は一命をとりとめたが重傷で、山口藩邸に移送され、数日間の治療を受けた後、大坂の病院(後の国立大阪病院)に転院され、蘭医ボードウィンの手術を受けるが、11月5日容態が悪化し死去した。享年46。
また、明治2年6月、戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、東京招魂社(後の靖国神社)の建立を献策した。 それで靖国神社に気高い大村益次郎の銅像が建立されているのだ。もう一つは、事実上の日本陸軍の創始者である。
太平洋戦争で沢山の銅像が金属供出され潰されたが、皇居にある「楠木正成」上野公園の「西郷隆盛」靖国神社の「大村益次郎」は、天皇に真の忠信を尽くした人物として潰されなかった。「秋山好古の騎馬像は潰された」
画像は、池田屋事件(騒動)があった場所のすぐ近く、三条小橋の袂に、佐久間象山・大村益次郎遭難之地の記念石碑が建立してあった。
この付近は、維新史跡が多くあり散策にはいい場所である。
高瀬川を挟んで歩道を歩くのは風情を感じるし、維新の志士たちが命を懸けて戦った跡、また新しい華町先斗町を散策もよしである。
ちょっと大村益次郎(村田蔵六)の事を
大村益次郎は、伊予にも縁のある人だ。
伊予宇和島藩に一時期身を寄せた事がある。・・その時は、村田蔵六称していた。
大村は宇和島藩で西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手がけ、安政元年(1854年)から翌安政2年(1855年)には長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行った。長崎へは二宮敬作が同行した。
大村益次郎の住居跡は、宇和島市の史跡となっている。
ただし、建物は現存せず、住居跡を示す看板のみが置かれている。
文久3年(1863年)、萩へ帰国。桂小五郎(木戸孝允)の推挙により大村は馬廻役譜代100石取の上士となり、藩命により大村益次郎永敏と改名。明治2年(1869年)9月4日、大村は京都三条木屋町上ルの旅館で刺客に襲われ重傷を負った。
兇徒が所持していた「斬奸状」には、大村襲撃の理由が、兵制を中心とした急進的な変革に対する強い反感にあった。大村は一命をとりとめたが重傷で、山口藩邸に移送され、数日間の治療を受けた後、大坂の病院(後の国立大阪病院)に転院され、蘭医ボードウィンの手術を受けるが、11月5日容態が悪化し死去した。享年46。
また、明治2年6月、戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、東京招魂社(後の靖国神社)の建立を献策した。 それで靖国神社に気高い大村益次郎の銅像が建立されているのだ。もう一つは、事実上の日本陸軍の創始者である。
太平洋戦争で沢山の銅像が金属供出され潰されたが、皇居にある「楠木正成」上野公園の「西郷隆盛」靖国神社の「大村益次郎」は、天皇に真の忠信を尽くした人物として潰されなかった。「秋山好古の騎馬像は潰された」