EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

京都の維新史跡・紀行散策 8「佐久間象山・大村益次郎遭難之地」

2010年06月08日 | 往年の名車 メグロ
京都の維新史跡・紀行散策 8「佐久間象山・大村益次郎遭難之地」

画像は、池田屋事件(騒動)があった場所のすぐ近く、三条小橋の袂に、佐久間象山・大村益次郎遭難之地の記念石碑が建立してあった。
この付近は、維新史跡が多くあり散策にはいい場所である。
高瀬川を挟んで歩道を歩くのは風情を感じるし、維新の志士たちが命を懸けて戦った跡、また新しい華町先斗町を散策もよしである。

ちょっと大村益次郎(村田蔵六)の事を

大村益次郎は、伊予にも縁のある人だ。
伊予宇和島藩に一時期身を寄せた事がある。・・その時は、村田蔵六称していた。
大村は宇和島藩で西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手がけ、安政元年(1854年)から翌安政2年(1855年)には長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行った。長崎へは二宮敬作が同行した。
大村益次郎の住居跡は、宇和島市の史跡となっている。
ただし、建物は現存せず、住居跡を示す看板のみが置かれている。

文久3年(1863年)、萩へ帰国。桂小五郎(木戸孝允)の推挙により大村は馬廻役譜代100石取の上士となり、藩命により大村益次郎永敏と改名。明治2年(1869年)9月4日、大村は京都三条木屋町上ルの旅館で刺客に襲われ重傷を負った。

兇徒が所持していた「斬奸状」には、大村襲撃の理由が、兵制を中心とした急進的な変革に対する強い反感にあった。大村は一命をとりとめたが重傷で、山口藩邸に移送され、数日間の治療を受けた後、大坂の病院(後の国立大阪病院)に転院され、蘭医ボードウィンの手術を受けるが、11月5日容態が悪化し死去した。享年46。

また、明治2年6月、戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、東京招魂社(後の靖国神社)の建立を献策した。 それで靖国神社に気高い大村益次郎の銅像が建立されているのだ。もう一つは、事実上の日本陸軍の創始者である。

太平洋戦争で沢山の銅像が金属供出され潰されたが、皇居にある「楠木正成」上野公園の「西郷隆盛」靖国神社の「大村益次郎」は、天皇に真の忠信を尽くした人物として潰されなかった。「秋山好古の騎馬像は潰された」


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京都の維新史跡・紀行散策 7「池田屋騒動之地」

2010年06月08日 | 往年の名車 メグロ
京都の維新史跡・紀行散策 7「池田屋騒動之地」

画像は、池田屋事件(騒動)があった場所で、現在は海鮮茶屋「池田屋」になっていて賑やかな掲示板が設置してある。また協力東映太秦映画村の看板があった。
場所は、三条小橋の近くである。

池田屋事件(いけだやじけん)とは、幕末の元治元年6月5日(1864年7月8日)に、京都三条木屋町(三条小橋)の旅館・池田屋)で京都守護職配下の治安維持組織である新撰組が、潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊皇攘夷派を襲撃した事件である。池田屋騒動、 池田屋事変、三条小橋の変等ともいわれている。近藤勇は書面で洛陽動乱と名づけている。
1864年5月下旬頃、諸士調役兼監察の山崎烝・島田魁らによって四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する枡屋(古高俊太郎)の存在を突き止め会津藩に報告。武器や長州藩との書簡等が発見される。

古高を捕らえた新選組は、土方歳三の拷問により古高を自白させる。
計画は祇園祭の前の風の強い日を狙って京都御所に火を放ちその混乱に乗じて中川宮朝彦親王(後の久邇宮朝彦親王)を幽閉し、一橋慶喜(徳川慶喜)・会津の松平容保らを暗殺し孝明天皇を長州へ連れ去るというものであった。

さらに探索に於いて長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊皇派が古高逮捕をうけて襲撃計画の実行・中止について協議する会合が池田屋か四国屋に於いて行われる事を突き止める。
さらに探索に於いて長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊皇派が古高逮捕をうけて襲撃計画の実行・中止について協議する会合が池田屋か四国屋に於いて行われる事を突き止める。・・とある。

その事件で亡くなった尊皇攘夷派のメンバーに、伊予松山藩の福岡佑次郎が居たと池田屋にある掲示板に記載してあった。・・伊予松山藩の福岡佑次郎は、若くして尊皇攘夷を志、池田屋事件で激死とある。




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京都の維新史跡・紀行散策 6「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」

2010年06月08日 | 往年の名車 メグロ
京都の維新史跡・紀行散策 6「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」

画像は、坂本龍馬・中岡慎太郎が暗殺された「近江屋」の地で現在は、サークルKになっている。

此処に京都市が設置した説明版と「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地」の記念石碑が建立されている。

慶応3(1867)年11月15日夜,この地近江屋を襲った刺客により,海援隊長坂本龍馬(1836~67)・陸援隊長中岡慎太郎(1838~67)は暗殺された。ともに土佐藩出身で薩長連合の功労者であり,大政奉還がなり維新の諸改革を前にしての最期だった。この記念碑は両人が暗殺された近江屋の跡を示すものである。

中京区河原町通蛸薬師下る西側にあり6月6日(日)に散策撮影した。
ここは四条河原町交差点に近い所で日曜日であったので人が多かった。
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京都の維新史跡・紀行散策 5「前川邸」

2010年06月08日 | 往年の名車 メグロ
京都の維新史跡・紀行散策 5「前川邸」

画像は、八木邸の直ぐ近くに有る前川邸で、此処は無料で見学できた。
山南敬助は下記のような経緯で新撰組に決別を決意し脱走、この前川邸の一室で処刑された。その部屋の説明も出ている。
山南敬助は、仙台藩を脱藩して江戸に出たとされるが、仙台には山南もしくは三南という苗字はなく、確かな事は不明。小野派一刀流の免許皆伝で、後に北辰一刀流・千葉周作門人となる。

近藤勇の天然理心流剣術道場・試衛館に他流試合を挑み、相対した近藤に敗れる。
この時、近藤の腕前や人柄に感服し近藤を慕うようになり、以後、試衛館の門人と行動を共にする。試衛館には後の新選組幹部となる土方歳三や沖田総司、永倉新八らが集っていた。

文久元年(1860年)8月、府中六所宮で行われた近藤の天然理心流四代目就任披露の野試合に赤軍として参加。翌年正月には沖田と共に小野路に剣術教授に出張している。
元治元年11月、伊東甲子太郎らが入隊。伊東は山南と同門の北辰一刀流で、熱烈な尊王攘夷論者であり学識も高かった。伊東は山南よりも上位の参謀職に就任するという格別の待遇を受け、それと同時に山南は幹部としての立場を失っていく。

元治2年(1865年)2月、山南は「江戸へ行く」と置き手紙を残し、新選組を脱走。新選組の隊規では脱走は死罪とされており、近藤と土方は沖田を追っ手として差し向けた。山南は近江国大津で捕捉され、屯所に連れ戻された。
脱走原因は諸説ある。

西本願寺侍臣西村兼文によれば、山南を追い詰めたのは屯所移転問題だったとされる。壬生から西本願寺に屯所を移すというもので、隊士が増え手狭になったこともあるが、西本願寺は勤王の色が濃く、長州藩毛利家と関係が親密だった為、土方は一挙にその根を断つべく、屯所を移転させようと考えたのである。

勤王の志が強い山南は強く反対したが、近藤や土方は全く取り合わず、これを受けて山南は遂に新選組との決別を決意したとある。
NHK大河「新撰組」では、山南敬助を堺雅人さんが演じたがいい演技をした。
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京都の維新史跡・紀行散策 4「八木邸」

2010年06月08日 | 往年の名車 メグロ
京都の維新史跡・紀行散策 4「八木邸」

画像は、新撰組発祥の地、八木家(京都市指定有形文化財指定)の玄関で此れより先は(内部)撮影禁止であった。特別に芹澤鴨暗殺時の刀傷を撮らせて頂きたくお願いするもだめだった。
入館料は、ガイド&お抹茶付で1,000円
八木邸はもっと広い屋敷かと思って行って見たが想像よりも小さかった。(当時はもっと広かったとガイドさんは説明していた。)

八木邸の一室には、今も生々しい芹澤鴨暗殺時の刀傷が残っている。

芹澤鴨の亡き後近藤勇・土方歳三新体制の下京都守護職・松平容保の配下で特別隊「新撰組」として短い間であったが活躍をした。
新撰組隊員の増加に伴い屯所は、八木邸から慶応元年(1865年)西本願寺に移し、翌年1866年には、現在のJR京都駅の北西(某ホテル)に移転、鳥羽伏見の戦い直前には伏見奉行所に移り終焉を迎える。

京都市の説明版には下記が記載してあった。

八木家は壬生村きっての旧家でかつて壬生郷士(壬生住人士)の長老をつとめていた。また幕末には新選組の近藤勇、土方歳三らの宿所となり旧壬生屯所として知られている。
建物は長屋門が東に開きその奥に主屋が南面して建つ。

当家に残る普請願から長屋門が文化元年(1804年)主屋は文化六年の造営と知られる。主屋は西端に土間を奥まで通し、土間に沿って居室を三室ずつ二列に配する。入口は土間部分に開くほか東南隅に式台を備えた本玄関を配しての北に仏間奥座敷を一列に並べて格式ある構成をとっている。

長屋門の外観は腰に下見板を張り与力窓や出格子窓を開くなど昔のおもかげをよく残している。
壬生地区は今日市街化が著しいが、かつては洛中に近接した農村であり、当家は幕末期の遺構として、また新選組ゆかりの建築として貴重であり、昭和58年6月1日京都市指定有形文化財に指定された。

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