京都の維新史跡・紀行散策 4「八木邸」
画像は、新撰組発祥の地、八木家(京都市指定有形文化財指定)の玄関で此れより先は(内部)撮影禁止であった。特別に芹澤鴨暗殺時の刀傷を撮らせて頂きたくお願いするもだめだった。
入館料は、ガイド&お抹茶付で1,000円
八木邸はもっと広い屋敷かと思って行って見たが想像よりも小さかった。(当時はもっと広かったとガイドさんは説明していた。)
八木邸の一室には、今も生々しい芹澤鴨暗殺時の刀傷が残っている。
芹澤鴨の亡き後近藤勇・土方歳三新体制の下京都守護職・松平容保の配下で特別隊「新撰組」として短い間であったが活躍をした。
新撰組隊員の増加に伴い屯所は、八木邸から慶応元年(1865年)西本願寺に移し、翌年1866年には、現在のJR京都駅の北西(某ホテル)に移転、鳥羽伏見の戦い直前には伏見奉行所に移り終焉を迎える。
京都市の説明版には下記が記載してあった。
八木家は壬生村きっての旧家でかつて壬生郷士(壬生住人士)の長老をつとめていた。また幕末には新選組の近藤勇、土方歳三らの宿所となり旧壬生屯所として知られている。
建物は長屋門が東に開きその奥に主屋が南面して建つ。
当家に残る普請願から長屋門が文化元年(1804年)主屋は文化六年の造営と知られる。主屋は西端に土間を奥まで通し、土間に沿って居室を三室ずつ二列に配する。入口は土間部分に開くほか東南隅に式台を備えた本玄関を配しての北に仏間奥座敷を一列に並べて格式ある構成をとっている。
長屋門の外観は腰に下見板を張り与力窓や出格子窓を開くなど昔のおもかげをよく残している。
壬生地区は今日市街化が著しいが、かつては洛中に近接した農村であり、当家は幕末期の遺構として、また新選組ゆかりの建築として貴重であり、昭和58年6月1日京都市指定有形文化財に指定された。
画像は、新撰組発祥の地、八木家(京都市指定有形文化財指定)の玄関で此れより先は(内部)撮影禁止であった。特別に芹澤鴨暗殺時の刀傷を撮らせて頂きたくお願いするもだめだった。
入館料は、ガイド&お抹茶付で1,000円
八木邸はもっと広い屋敷かと思って行って見たが想像よりも小さかった。(当時はもっと広かったとガイドさんは説明していた。)
八木邸の一室には、今も生々しい芹澤鴨暗殺時の刀傷が残っている。
芹澤鴨の亡き後近藤勇・土方歳三新体制の下京都守護職・松平容保の配下で特別隊「新撰組」として短い間であったが活躍をした。
新撰組隊員の増加に伴い屯所は、八木邸から慶応元年(1865年)西本願寺に移し、翌年1866年には、現在のJR京都駅の北西(某ホテル)に移転、鳥羽伏見の戦い直前には伏見奉行所に移り終焉を迎える。
京都市の説明版には下記が記載してあった。
八木家は壬生村きっての旧家でかつて壬生郷士(壬生住人士)の長老をつとめていた。また幕末には新選組の近藤勇、土方歳三らの宿所となり旧壬生屯所として知られている。
建物は長屋門が東に開きその奥に主屋が南面して建つ。
当家に残る普請願から長屋門が文化元年(1804年)主屋は文化六年の造営と知られる。主屋は西端に土間を奥まで通し、土間に沿って居室を三室ずつ二列に配する。入口は土間部分に開くほか東南隅に式台を備えた本玄関を配しての北に仏間奥座敷を一列に並べて格式ある構成をとっている。
長屋門の外観は腰に下見板を張り与力窓や出格子窓を開くなど昔のおもかげをよく残している。
壬生地区は今日市街化が著しいが、かつては洛中に近接した農村であり、当家は幕末期の遺構として、また新選組ゆかりの建築として貴重であり、昭和58年6月1日京都市指定有形文化財に指定された。
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