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令和に改元され早くも6年、新しい年を迎えて 初詣

2024年01月11日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

神社の社号額・石碑の文字全て三輪田米山揮毫です。

神社入口に、大きな注連(しめ)石(いし)と社号碑があり左に「魚躍」右が「鳥舞」で、書道家三輪田米山の揮毫で、米山は、日尾八幡神社神官三輪田清敏の長男、名は「常貞」で号を「米山」と称しました。

社号碑「県社日尾八幡大神」・注連石に「鳥舞」「魚躍」は明治13年10月、米山60歳の時の揮毫で、書家米山の切っ掛けとなった代表の書「鳥舞・魚踊」です。

日尾八幡神社前には、後藤酒造「久米の井」があった。(一昨年3月で酒造業から撤退)此処によく行き酒を飲んでは揮毫していたそうです。

日尾八幡神社周辺の神社の社号碑や注連石は米山が揮毫した碑が沢山あります。
明治時代の軍人で、陸軍の三太郎と言われた一人に「仙波 太郎・中将」がいたが、現在の松山市福音寺町の出身で、三輪田米山塾で教えを受けたそうです。

※ 陸軍の三太郎とは、宇都宮 太郎(陸軍大将)・桂 太郎(第11代内閣総理大臣)・仙波 太郎(陸軍中将・衆議院議員)です。

なお、日尾八幡大神の楼門の「社号額」の揮毫は、三輪田米山です。

1月2日午後、我が家の氏神様である日尾八幡神社に初詣に行って来ました。

例年は、1月3日箱根駅伝の総合優勝を確認して初詣に行くのが私の行動ですが、1月3日は、降雨予報が出ていたので2日に行きました。

私の正月の過ごし方は、例年通りで、元旦は、実業団駅伝、2日・3日は、関東大学箱根駅伝をTV観戦して総合優勝を確認して、3日の午後3時頃日尾八幡神社に初詣に行きますが、今年の3日は午後雨天の天気予報でしたので、本年は2日関東大学箱根駅伝往路の結果をTV観戦し終えてからお参りに行きました。

1月2日は画像の通りいい天気でした。

この日、松山の外気温は14、1度でした。(我が家で測定)

なお、愛媛県出身のランナー4人が力走、1区では、宮岡幸大選手、法政大学(宇和島東高)・同じく1区を走った巻田理空選手、神奈川大学(松山商業高)2区を走った梅崎蓮選手、東洋大学(宇和島東高)・4区では、久保昇陽選手、日本大学(松山商業高)各選手が懸命に走った。

               日尾八幡神社の楼門

氏神様である「日尾八幡神社」の所在は、松山市南久米町、旧国道11号線沿いに位置し、松山市小野地区・久米地区・石井地区の一部の氏子を祭事する神社です。

なお、日尾八幡大神の楼門の「社号額」の揮毫は、三輪田米山です。

私の中学時代の同級生が日尾八幡神社の娘さんで、現在は結婚し東京都杉並区に在住している。2年に一度開催していた中学の同期会には何時も出席してくれていました。

楼門に飾られた立派な大きな「注連縄(しめなわ)・門松・そして国旗(日章旗)」です。

近年各家庭では、国民の祝祭日に国旗を揚げて祝するという気概がなくなり、国旗を掲揚する家庭が激変しました。・・何故でしょうか?・・皆さん何故だと思われますか。

さーこれから158段の長い石段を上り拝殿に行きお参りをいたします。

158段の長い石段、中程から拝殿を望む。・・一休み!!

158段の長い石段の中程に、あまり知られてない小さな社があります。
それは「黒田霊社」です。

祭神は、黒田九兵衛霊

県社日尾八幡大神縁起に「黒田霊社の由来」の項があり次の様に伝えています。

黒田霊社の由来:

慶長5年9月15日関ヶ原の戦に伊豫国松前城主加藤嘉明は東軍に属し3,000人の将士を率いて美濃(関ヶ原)に進軍した。

その虚に乗じて西軍の雄、芸州毛利輝元は家臣、村上掃部、能島内匠、曽根兵庫、宍戸善右衛門等を将として松前城を襲わしめた。

芸軍凡そ三千余騎、百余艘の兵船に分乗して芸州軍は興居島に到り、さらに三津浜に上陸して民家に宿営したのが慶長5年9月18日のことで、伊予の関ヶ原と言われる激戦があった。
この時、松前城の城代、佃次郎兵衛十成はひそかに兵を率い夜に乗じて三津に押し寄せ民家に火を放して陣営を破り、大いに芸軍をなやまし敵将村上・曽根・能島らをはじめ数多の将士を打ち取ったが、残兵はなおも逃れて久米村如来院(現・松山市南久米町、日尾八幡神社直ぐ傍)に立てこもった。

これを追撃する佃十成の軍に黒田九兵衛という勇士がいた。

衆に抽んでて如来院に馳せ付け悪鬼の如き勢をもってその門を破り、うち出す弾雨の中を物ともせず門内に討ち入り、数多将兵を打ち取りなおも奮戦を続けるうち、惜しいかな敵弾を受け戦死をとげた。即ち予に言う久米の戦いである。
この豪勇の士、黒田九兵衛を祀った墳を黒田塚と呼び、里人が病を患い苦しむ時この塚に線香をたむけて祈れば必ず平癒すると言い、これを崇めて一社の神に祈ったのがこの黒田霊社である。

昭和35年4月刊行「日尾八幡大神縁起」より引用。

この戦いで、敗北していれば関ヶ原の戦いに東軍として戦い、武勲を挙げた加藤嘉明は帰る城がなかった。留守を守った城代、佃次郎兵衛十成に対し、嘉明は、松山城築城の際「北之郭」を造り之を与えこの功績に答えたのである。
松山城の北之郭は、佃次郎兵衛十成、一代だけの居住であった。

158段の長い石段を登り詰めると日尾八幡神社神の拝殿があります。

参拝される、日尾八幡神社の拝殿の様子で、今年は賽銭箱が新調されておりました。

「令和6年能登半島地震」でお亡くなりになられた方々のご冥福と、そして被災されました皆様方の一日も早いご復興と平穏な日々が訪れますように心からお祈りいたしました。

私に出来る事は限りがあり、微々たる事しか出来ませんが義援金等でご支援させて下さい。

拝殿右側に「役目を終えた昨年の御札の「納札所」が創られていました。

旧お札や注連飾りは、1月15日の小正月に火祭りとして行われる「どんど焼き」として神職が神社境内で行います。

拝殿左側、春日大社入口には、おみくじを頂く特設を設置、今年の正月も気温が高く好天で巫女さんも楽であっただろう!!ご苦労さまです。

おみくじを頂き、内容を確認して、おみくじを結んでいました。

楼門左には、大きな石碑「忠魂碑」が建立されています。

旧愛媛県温泉郡久米村から、日清・日露・大東亜戦争に出征され戦死された方々の慰霊碑です。

忠魂碑は、明治100年記念として昭和35年10月23日建立されました。

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