EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

京都の維新史跡・紀行散策 11-1「桂小五郎之墓所」

2010年06月08日 | 往年の名車 メグロ
京都の維新史跡・紀行散策 11-1「桂小五郎之墓所」

画像は、霊山護国神社にある、坂本龍馬と中岡慎太郎の墓所地、少し北側にある。
桂小五郎は、藩主の指示で、木戸孝允と改名、その墓所で妻幾松の左側にある。 

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京都の維新史跡・紀行散策 11「桂小五郎・幾松之墓所」

2010年06月08日 | 伊予松山歴史散策
京都の維新史跡・紀行散策 11「桂小五郎・幾松之墓所」

画像は、霊山護国神社にある、坂本龍馬と中岡慎太郎の墓所地、少し北側にある桂小五郎・幾松之墓所。
桂小五郎は、藩主の指示で、木戸孝允と改名、維新の三傑の一人、容姿端麗にして神道無念流の達人で、吉田松陰の門下生、理性もあり流血に無縁、一生人を切ったことが無く、この点は北辰一刀流免許皆伝の坂本龍馬とよく似ている。

勤王芸子の第一人者三本木の幾松とのロマンは文久元年、桂小五郎28歳・幾松18歳の時相思相愛、激動の中苦楽を共にし結ばれた。

勤王の志士達の最後は大方悲劇に終わっているが、明治10年5月26日45歳で病死するまで、動乱の幕末を駆け抜け、維新後も日の当たる道を歩き活躍した幸運児だ。
幾松にしても同じで維新の大業成るや正二位公爵 木戸孝允の妻となり従四位を賜るほどの女傑。霊山護国神社墓地に夫婦むつまじく眠っている。 
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京都の維新史跡・紀行散策 10-1「坂本龍馬・中岡慎太郎之墓所」

2010年06月08日 | 往年の名車 メグロ
京都の維新史跡・紀行散策 10-1「坂本龍馬・中岡慎太郎之墓所」

画像は、霊山護国神社にある、坂本龍馬と中岡慎太郎の墓所地で、裏側からの墓所。
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京都の維新史跡・紀行散策 10「坂本龍馬・中岡慎太郎之墓所」

2010年06月08日 | 往年の名車 メグロ
京都の維新史跡・紀行散策 10「坂本龍馬・中岡慎太郎之墓所」

画像は、霊山護国神社にある、坂本龍馬と中岡慎太郎の墓所地で、霊山の中腹にある。

慶応3年(1867年)11月15日午後6時頃中岡慎太郎が近江屋を訪れ、午後8時頃刺客により暗殺された。慎太郎は2日後、17日逝去葬儀の後この地に埋葬された。

最近坂本龍馬を暗殺した刺客は誰か??で騒いでいるが、中には中岡慎太郎説も上がっているが私は此れは無いと思う。
私は、薩摩の命を受け伊東甲子太郎が刺客だと思う。

13年前に伺った時は参拝者はいなかったが、NHK大河「坂本龍馬」の関係で老若男女沢山の参拝者がお参りをし線香がたかれていた。
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京都の維新史跡・紀行散策 9「中岡慎太郎寓居之地」

2010年06月08日 | 往年の名車 メグロ
京都の維新史跡・紀行散策 9「中岡慎太郎寓居之地」

画像は、中岡慎太郎寓居之地で、坂本龍馬、中岡慎太郎遭難の地近江屋の斜め前である。その裏側近くに「高瀬川沿いに」土佐藩邸がある。

勤王派の志士たちは、新撰組や京都見回組等の威圧をかわしながら秘かに活動を続けた。薩摩藩邸は、御所の近くに大きな敷地に構え、長州藩邸は本能寺の近くにあり、この時期は薩摩と長州は敬遠の間柄で、長州を会津藩と薩摩藩が京都から追放したが、長州は再び京都に攻め込み戦いを試みる・・此れが蛤御門の変「禁門の変」で長州屋敷はこの変で焼失してしまう。

尊王攘夷を主張する長州藩と公武合体の新政権唱える薩摩藩、此れをまとめ薩長連合軍をつくり上げたのが龍馬と慎太郎である。
薩摩屋敷は、現在同志社大学である。

この時期の京都は凄い事になっていただろう、関係のない町家の民衆はどんな思い出で生活をしていたのだろうか??何時の世も戦いの犠牲になるのは、民、商い商人、農民である。
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