京都の維新史跡・紀行散策 5「前川邸」
画像は、八木邸の直ぐ近くに有る前川邸で、此処は無料で見学できた。
山南敬助は下記のような経緯で新撰組に決別を決意し脱走、この前川邸の一室で処刑された。その部屋の説明も出ている。
山南敬助は、仙台藩を脱藩して江戸に出たとされるが、仙台には山南もしくは三南という苗字はなく、確かな事は不明。小野派一刀流の免許皆伝で、後に北辰一刀流・千葉周作門人となる。
近藤勇の天然理心流剣術道場・試衛館に他流試合を挑み、相対した近藤に敗れる。
この時、近藤の腕前や人柄に感服し近藤を慕うようになり、以後、試衛館の門人と行動を共にする。試衛館には後の新選組幹部となる土方歳三や沖田総司、永倉新八らが集っていた。
文久元年(1860年)8月、府中六所宮で行われた近藤の天然理心流四代目就任披露の野試合に赤軍として参加。翌年正月には沖田と共に小野路に剣術教授に出張している。
元治元年11月、伊東甲子太郎らが入隊。伊東は山南と同門の北辰一刀流で、熱烈な尊王攘夷論者であり学識も高かった。伊東は山南よりも上位の参謀職に就任するという格別の待遇を受け、それと同時に山南は幹部としての立場を失っていく。
元治2年(1865年)2月、山南は「江戸へ行く」と置き手紙を残し、新選組を脱走。新選組の隊規では脱走は死罪とされており、近藤と土方は沖田を追っ手として差し向けた。山南は近江国大津で捕捉され、屯所に連れ戻された。
脱走原因は諸説ある。
西本願寺侍臣西村兼文によれば、山南を追い詰めたのは屯所移転問題だったとされる。壬生から西本願寺に屯所を移すというもので、隊士が増え手狭になったこともあるが、西本願寺は勤王の色が濃く、長州藩毛利家と関係が親密だった為、土方は一挙にその根を断つべく、屯所を移転させようと考えたのである。
勤王の志が強い山南は強く反対したが、近藤や土方は全く取り合わず、これを受けて山南は遂に新選組との決別を決意したとある。
NHK大河「新撰組」では、山南敬助を堺雅人さんが演じたがいい演技をした。
画像は、八木邸の直ぐ近くに有る前川邸で、此処は無料で見学できた。
山南敬助は下記のような経緯で新撰組に決別を決意し脱走、この前川邸の一室で処刑された。その部屋の説明も出ている。
山南敬助は、仙台藩を脱藩して江戸に出たとされるが、仙台には山南もしくは三南という苗字はなく、確かな事は不明。小野派一刀流の免許皆伝で、後に北辰一刀流・千葉周作門人となる。
近藤勇の天然理心流剣術道場・試衛館に他流試合を挑み、相対した近藤に敗れる。
この時、近藤の腕前や人柄に感服し近藤を慕うようになり、以後、試衛館の門人と行動を共にする。試衛館には後の新選組幹部となる土方歳三や沖田総司、永倉新八らが集っていた。
文久元年(1860年)8月、府中六所宮で行われた近藤の天然理心流四代目就任披露の野試合に赤軍として参加。翌年正月には沖田と共に小野路に剣術教授に出張している。
元治元年11月、伊東甲子太郎らが入隊。伊東は山南と同門の北辰一刀流で、熱烈な尊王攘夷論者であり学識も高かった。伊東は山南よりも上位の参謀職に就任するという格別の待遇を受け、それと同時に山南は幹部としての立場を失っていく。
元治2年(1865年)2月、山南は「江戸へ行く」と置き手紙を残し、新選組を脱走。新選組の隊規では脱走は死罪とされており、近藤と土方は沖田を追っ手として差し向けた。山南は近江国大津で捕捉され、屯所に連れ戻された。
脱走原因は諸説ある。
西本願寺侍臣西村兼文によれば、山南を追い詰めたのは屯所移転問題だったとされる。壬生から西本願寺に屯所を移すというもので、隊士が増え手狭になったこともあるが、西本願寺は勤王の色が濃く、長州藩毛利家と関係が親密だった為、土方は一挙にその根を断つべく、屯所を移転させようと考えたのである。
勤王の志が強い山南は強く反対したが、近藤や土方は全く取り合わず、これを受けて山南は遂に新選組との決別を決意したとある。
NHK大河「新撰組」では、山南敬助を堺雅人さんが演じたがいい演技をした。
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