京都の維新史跡・紀行散策 「壬生寺」3
画像は、壬生寺にある、近藤勇の銅像。
文久三年(1863年)、清河八郎の献策を容れ、江戸幕府は14代将軍・徳川家茂の上洛警護をする浪士組織「浪士組」への参加者を募った。斎藤一を除く試衛館の8人はこれに参加することを決め、2月8日、浪士組一向と共に京都に向けて出発した。
中山道を進み、2月23日に京都に到着すると、壬生郷士の八木源之丞の邸に宿泊し、世話になった。これが近藤の浪士組から「新撰組」となる切っ掛けである。
近藤の武術は、天然理心流剣術宗家。
長州藩を京都政局から排するために中川宮朝彦親王、会津藩、薩摩藩主導の1863年8月18日に政変が起こると、壬生浪士組は御花畑門の警護担当となるが、目立った活躍もなく長州勢の残党狩りに出動する。その後、働きぶりが認められ、武家伝奏より「新選組(新撰組)」の隊名を下賜された。
此れからが近藤勇、土方歳三を中心とした新撰組の発足し、活動が行われ、中でも池田屋騒動で一挙に新撰組の名を上げた。この池田屋騒動事件で維新が一年遅れたと言われたくらい重要な勤王の志士がなくなった。現在の池田屋は後で画像を掲載する。
画像は、壬生寺にある、近藤勇の銅像。
文久三年(1863年)、清河八郎の献策を容れ、江戸幕府は14代将軍・徳川家茂の上洛警護をする浪士組織「浪士組」への参加者を募った。斎藤一を除く試衛館の8人はこれに参加することを決め、2月8日、浪士組一向と共に京都に向けて出発した。
中山道を進み、2月23日に京都に到着すると、壬生郷士の八木源之丞の邸に宿泊し、世話になった。これが近藤の浪士組から「新撰組」となる切っ掛けである。
近藤の武術は、天然理心流剣術宗家。
長州藩を京都政局から排するために中川宮朝彦親王、会津藩、薩摩藩主導の1863年8月18日に政変が起こると、壬生浪士組は御花畑門の警護担当となるが、目立った活躍もなく長州勢の残党狩りに出動する。その後、働きぶりが認められ、武家伝奏より「新選組(新撰組)」の隊名を下賜された。
此れからが近藤勇、土方歳三を中心とした新撰組の発足し、活動が行われ、中でも池田屋騒動で一挙に新撰組の名を上げた。この池田屋騒動事件で維新が一年遅れたと言われたくらい重要な勤王の志士がなくなった。現在の池田屋は後で画像を掲載する。