アップルビィの事件簿に追加

「ミニ・ミステリ傑作選」(エラリー・クイーン/編 創元推理文庫 1982)所収の「アプルビイ最初の事件」を確認したので、「アップルビィの事件簿」の記事に、ちょっとだけ追加。
結論をいうと、森さんの予想通りでした。

それにしても、「ミニ・ミステリ傑作選」の充実ぶりはすごい。
図書館で借りたのだけれど、機会があったら手に入れて、全編をちゃんと読んでみよう。

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浅倉久志さん亡くなる

浅倉久志さんが亡くなったと先日知り驚く。
浅倉さんのおかげでどれほどたくさんの小説に接せられるようになったか。
ご冥福をお祈りします。

あと、浅倉さんのお仕事のなかでも超マイナー作と思われる「ミクロの傑作圏」について、去年メモをとっていたのでリンクを張っておきます。

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アップルビィの事件簿

「アップルビィの事件簿」(マイケル・イネス 勉誠社 1996)
訳は森一。

マイケル・イネスのアップルビィ(アプルビイのほうが通りがいいか)警部ものの短編集。
“Appeby Talking”のいくつかを訳したものらしい。
収録作は以下。

「アップルビィの最初の事件」
「復讐の女神島」
「ビレアリアスの洞窟」
「タイムの砂浜」
「ウィリアム征服王」
「獅子と一角獣」
「崖の上の家」〔付録〕

それに、巻末に解説と訳者あとがき。
最後の付録というのは、「名探偵セクストン・ブレィク」もの。
解説によれば、「名探偵セクストン・ブレィク」は、一連の無名作家たちが仲間同士で連作したシリーズだそう。
少年のころ何度も読んだと、「アップルビィの最初の事件」でアップルビィがいっているので、本書に収録したとのこと。

マイケル・イネスは1905年生まれの英国人。
1994年、享年84歳で没。
長年、大学で英文学を教えていたそうで、作品も古典的教養に裏打ちされたもの。
おかげで、なんだか面倒くさそうだと、アップルビィものはずっと敬遠していたのだけれど、本書は「アップルビィ・トーキング」というだけあって、全編会話で話が進むし、分量もショート・ショートなみ。
読んでみたら、じつに楽しかった。
簡単に内容を紹介していこう。

「アップルビィの最初の事件」
13歳のころは地質学者気どり、15歳のころは比較宗教の権威者になるつもりだったアップルビィは、14歳のころは美術に夢中だった。
印象派の作品をみるために、フェラリーズ美術館にいった少年アップルビィは、落ちたつけヒゲをあわててつけ直す、あやしい男を目撃する。
と、そこへ、同時に開催されていた中国物産展からヒスイが盗まれたという声が――。

アップルビィ警部が、少年時代に遭遇した最初の事件の話をする一篇。
このあと、少年アップルビィがあやしい男にとびかかると、男のヒゲは本物で、さきほどの男とは別人だった、というふうに話は続く。

訳者の森さんは、少年時代の描写から、アップルビィがかなりの名門家庭で育ったと推測。
最終的に警視総監にまで出世するアップルビィの経歴と、その家柄は無縁ではないだろうと述べている。

「復讐の女神島」
財産家のアミーリア・ピンホーンは、非常な吝嗇家で、1年のうち2ヶ月を別荘で、だれともつきあわずに缶詰だけを食べて生活するという奇行のもち主。
このアミーリアが崖から転落死した。
アミーリアの姪ジェインが疑われるのだが、アップルビィ警部が事件の真相を披露する。

アミーリアの性格を利用した犯罪と、因縁話めいたラストが印象的。
それに、この事件は同地に住む伯母からの依頼だったらしく、アップルビィがこうこぼしているのが面白い。

「どうも奇妙なことなのですが、私がスコットランド・ヤードから休暇をとって、シアクリフの大変立派な親戚の婦人、すなわち伯母の邸に泊まって一週間をすごすと、きまってその伯母が、“バス運転手の休暇”みたいなものに、私を巻きこむのです」

“バス運転手の休暇”とは、「バスの代わりに自分の車を運転して家族とともに遠出する」こと。
平常と同じような仕事をしてすごす休暇の意、と訳注にある。

「ビレアリアスの洞窟」
シアクリフでお祭りがあった日、丘の洞窟で教授がシェイクスピアの「シムベリン」に登場するビレアリアスのような男をみかける。
幻覚かと思い洞窟に近づくと、こんどはなかから牧師があらわれて…。

今回、アップルビィは聞き役。
教授と名乗る人物の話を聞くのだけれど、聞き終えたとたんアップルビィは電話をかけにいき、その犯罪を解明する。

「タイムの砂浜」
タイム湾で特殊任務についていたアップルビィ警部は、磯辺で自殺した男を発見する。
男は、航空機黎明時代に有名な長距離飛行を何回かやり遂げたソーマンという人物。
この地にある、一緒に長距離飛行をした友人、チャールズ・タムブリル卿の邸に滞在していた。
アップルビィはソーマンがスパイだったのではないかと思い、タムブリル卿にかけあうのだが…。

砂浜を利用した、「ちょっと実現不可能なんじゃないの?」といいたくなるトリックがつかわれている。
また、「タイムの砂浜」というタイトルは、ロンクフェロウの詩、「人生賛歌」の一節をもじってつかったのではないかと森さんは解説している。

「ウィリアム征服王」
映画「ウィリアム征服王」に出演するブリオン夫妻。
映画のハイライトはヘイスティングスの会戦で、そこではおびただしい弓矢が天空を暗くする予定。
そこで、弓の名手である妻のクレア・ブリオンは、共演者の美男子ジャイルズ・バークロフトに、土曜日の一日中、アーチェリーの指導をしていた。
そして、ある土曜日、ブリオン夫妻のハウス・パーティーでジャイルズ・バークロフトが殺されるという惨事が。
しかも、ジャイルズの最後の言葉は「わたしは…勝った」というもので――。

本書はすべてショートショートなので、どれもあっさり終わるのだけれど、この作品のあっさりぶりは群を抜いている。
「わたしは…勝った」から解決まで急転直下だ。

「獅子と一角獣」
営業時間が終わった貴金属商同業組合の建物の屋根に、突然、王室の紋章である獅子と一角獣の、等身大の彫り物が設置される。
が、目撃した大佐によると、獅子は自分自身を掻いたという。
折りしも、建物内ではルアリテニアの王冠や王笏など、「即位の宝器」が展示されていた。

この短篇では、アップルビイは副警視総監に。
聞き役として、アップルビイの夫人も参加している。
ストーリーは、王家の宝をめぐるロマンティックなもの。
聞き手のハーボット夫人いわく、「まあ、まるでシャーロック・ホームズのようではありませんこと!」
また、解説によれば、マザーグースが物語の下敷きとしてつかわれているそう。

「崖の上の家」〔付録〕
イングランド北東部、ウィットビィの北にある、ある湾の崖。
黒玉(ジェット)の採掘のため坑道だらけとなった崖の上に、一軒の家があった。
住んでいるのは、妻と子を亡くしてから吝嗇漢の世捨て人として暮らしている、イーノック・ヴェリル老人。
あるとき、パトロール中の巡査部長が、この家のまえで老人の悲鳴を聞きつける。
折りしも通りがかった牧師に加勢を願い、牧師と、大ハンマーをもった鍛冶屋とともに家の中に侵入。
すでに、イーノック老人はこと切れており、老人が溜めこんだ金もなくなっていた。
犯人は一体どうやって逃走したのだろうか?
事件の解決のため、牧師は友人である名探偵セクストン・ブレィクを呼びよせる。

付録として収録された、「セクストン・ブレィク」ものの一編。
本書中、これだけが3人称による報告書のような文章で記される。
ストーリーは他愛のないものだけれど、決まりきった形式のため、安心して楽しめる作品になっている。

さて。
全体を通していえるのは、とにかく手軽で読みやすいということだ。
これは、ストーリーが会話で進むおかげだろう。

それから、懸念していたペダンティックさも、濃くもなく薄くもなくちょうどいい塩梅。
アップルビィ警部が知識を振り回すのではなく、ストーリーの発想自体が古典的教養から発しているようで、それが興味深かった。
でも、これは短篇だからいえることで、長篇になったらうるさい感じになるのかも。
いずれ、長篇を読んでみよう。

訳者の森さんも長年(46年!)英語教師をされてきたのだそう。
本職の翻訳家ではなく、また自負をもって訳されているので、ちょっと独特の訳になっている。
まず、なんでも日本語にして、そのぶんルビを振っているのが目につく。
たとえば、「一志(シリング)六片(ペンス)」と書く。
シリングは「志」で、ペンスは「片」だなんて知らなかった。

それから、アップルビィと会話する、名前をつけられていない人物にはかってに名前をつけたそう。
うーん、大胆だ。
また、たとえばこんな指摘も。

「第一話の終わり近くで、アップルビィ少年が、犯人と思い込んだ男が別人であった時に感じた気持ちを、「…私が立っていた床が、さっと口を開けて、私を一気に飲み込んでくれればいいなあ――と願ったりしました」と筆者は訳した」

「老練の翻訳者なら、「穴があったら入りたい気持ちでした」くらいに、さっと訳すかも知れない。しかし、筆者は、ここの部分に、日英文化の違いがある、と思う故、敢えて、原文通りに、積極的な身の処し方を願った訳出をした。「穴があったら…」というのは、日本人の消極性を示す逃げ口上であろう(仮に、穴がなかったなら、どうするのか、と反問したい)」

第1話、「アップルビィ警部の最初の事件」は「ミニ・ミステリ傑作選」(エラリー・クイーン/編 創元推理文庫 1982)に収録されているらしい。
こちらでは、この部分をどう訳しているのか、そのうち確かめてみたい。


〈追記〉
確かめてみました。
訳者は、深町眞理子さん。
森さんの予想通り、「穴があったらはいりたい」と訳されていて、びっくり。

深町訳のアプルビイ警部は、気安い感じでちょっとえらそう。
森訳のアップルビィ警部は、もっと謹厳実直な感じがする。
森訳のほうが好きだけれど、これは森訳を最初に読んだせいかもしれない。


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ヘンリー・ソローの日々

「ヘンリー・ソローの日々」(ウォルター・ハーディング 日本経済評論社 2005)

訳は山口晃。
カバー挿画、山口次郎。
装丁、静野あゆみ。
編集、奥田のぞみ。

立つほど分厚い本。
索引を抜かして720ページ。
値段も張って、9500円。

本書は、タイトル通り、ヘンリー・ソローが生まれてから亡くなるまでの日々をえがいたもの。
ヘンリー・ソローとは、『森の生活』を書いた、あのソローだ。

章立ては年号だけで記される。
第1章 1817~1823年
第2章 1823~1833年
…といった風。
じつにそっけない。

ヘンリー・デーヴィッド・ソローは1817年7月12日、マサチューセッツ州コンコードに生まれた。
父ジョンと、母シンシアのあいだに生まれた、4人の子どものうちの3番目。
一家は貧乏だったけれど、仲がよく、そして家にはさかんにひとの出入りがあった。
母と叔母のひとりマリアは、社会的関心が高く、多くの運動に積極的だった。

ソローはあまり同級生と遊ばなかった。
一緒に遊ぶよりも、ながめているほうを好んだ。
おかげで、「判事(ジャッジ)」という渾名がつけられた。

また、我慢強く、要領はいささか悪かった。
コンコードの貴婦人であるサミュエル・ホーア夫人が自分の子どもたちと遊ぶように招待したとき、ソローはいかなかった。
いかなかった理由をどう説明したらいいかと母にたずねられると、「いきたくなかったからと話してください」とこたえた。

コンコード学院の最終学期が終わった1833年(16歳)の夏、ソローは《漂泊者(ローヴァー)》と名づけた最初のボートをつくった。
ウォールデン湖に浮かべ、仰向けに寝ころび、ボートが砂にふれると起き上がった。
そして、運命が自分をどの岸辺にはこんだかを確かめた。

母の願いを聞き入れ、また家計もなんとか余裕があり、入学試験も通ったので、ソローはハーヴァード大学に進学。
当時の学生生活は、「朝の祈りは夏は朝6時」というものだった。
大学図書館(蔵書5万冊)をさかんに利用し、備忘録をつけるという終生の習慣を身につけた。

卒業後、郷里のコンコードで教師になるが、体罰をおこなうことになじめず2週間で辞職。
別の学校の口をさがすも、うまくいかない。
そのあいだ、父の鉛筆工場(鉛筆製造業のきっかけは、親戚中でもっとも頼りにならない放浪者、チャールズ叔父がもたらしたものだ)ではたらき、品質を改良し、事業を拡大させた。
鉛筆改良に役立ったのは、ハーヴァード大学図書館でみつけた百科事典だった。
その後も、機会があるごとにソローは鉛筆の改良をする。

また、このころから14歳年上の、アメリカ超越主義者の代表的な指導者だったエマソンとの交友がはじまる。
世間はソローをエマソンの模倣者だと思ったが、自分の息子を誇りに思っていたソローの母は、「エマソンさんはなんとうちのヘンリーと似た話し方をするのでしょう」と語った。

(器用で実際的なソローを見こんで、エマソンはソローを2年間住みこみで雇ったこともある。ソローは菜園を耕し、エマソンの子どもたちに笛や玩具をつくり、夫人の外出用の手袋をしまうために、食卓用の椅子の下に引き出しをつくった。こわれたものを進んで修繕し、またいわれるまえに修繕してしまうこともしばしばだったので、女中も喜んだ。そして、ソローはエマソンの蔵書を心ゆくまで利用した)

すこし遅れて、オルコット(「若草物語」を書いたルイーザ・メイ・オルコットの父)との交友もはじまる。
討論してすごすのが好きだったオルコットは、歩くのが趣味というソローの好みをまったく理解できなかった。

けっきょく、ソローは教職の道を断念し、自分で学校を立ち上げる。
兄のジョンも加わったその学校では、生徒たちはいつも仕事をあたえられ、忙しくされられた。
おかげで体罰はなく、そしてすべての生徒が、まるで軍隊式だったと思い出す規律が維持された。
校外実習が大変多く、ソローは生徒を川岸につれていき、そこにあった先住民のかまどの跡を掘り起こし、また注意深く埋めなおした。
測量の道具を購入し、生徒たちに実習させながら、数学の授業をより実用的で生き生きしたものにした。
のちに、ソローは測量で定期的な収入を得ることになる。

結核だった兄ジョンの具合が悪くなり、学校は3年を待たずして唐突に閉校。
この学校時代(1839年8月)、ソローとジョンは休暇中、ボートでコンコード川とメリマック川を旅した。
このときの旅が、ソローの処女作「コンコード川とメリマック川の一週間」として結実する。
また、この旅から1年半ほどのち(1842年1月)、ジョンは剃刀で切った薬指の傷がもとで破傷風にかかって亡くなる。

ジョンを非常に愛していたソローは、どこにも切り傷がないにもかかわらず、兄が亡くなると、兄と同じ破傷風の開口障害を起こした。
おそらく心身症ためで、ひと月寝たきりになってしまった。

1845年、27歳のソローは、ウォールデン湖に小屋を建て、そこで暮らすという計画を実行に移した。
前年の秋、木こりの斧から樹々をすくうためエマソンが湖の岸辺を買いとっていたので、ソローはエマソンから許可をとり、まっすぐな松を切り倒して材木にした。
斧は借りたもので、借りたときよりも鋭く研いで返したと自慢した。
さらに、古い小屋を買いとり、解体して材木につかった。

100年後、ウォールデンの小屋跡が発見されたさい、ソローは自分が器用なことを自慢していたにもかかわらず、地下室から数百本の曲がった釘がみつかった。

ある友人が、小屋の床の敷物をあげるといってきた。
でも、ソローは部屋が場所をとられるし、振ってほこりを落とすのに時間がかかるから結構ですといって断った。

小屋での生活の2日目が終わるまえに、妹のソフィアが訪ねてきた。
ソローを心配するあまり、前夜眠ることができなかったソフィアは、兄が生きのびたか確認するために、食べものをもってきたという口実をつかった。

大学出の彼がなぜ普通の生活をやめて、森のなかの小屋で暮らすようになったのか、町のひとびとは知りたがった。
そこで、ソローは草稿を書き、講演をおこなった。
講演に対する聴衆の反応が好意的であったため、ソローは湖での自分の生活について本になるくらいの量の話を書くのは意味があると思うようになった。
非常に熱心にこの仕事にとりかかったので、講演の7ヵ月後には「森の生活」となる最初の草稿ができあがった。
この本が最終的に出版されるまでには、まだ7年の歳月と8回にわたる全面的な推敲が必要になる。

ソローが小屋に移り住もうと考えたのは、兄ジョンとの旅行を本にまとめるためだった。
また、「森の生活」にはこう書いた。
「死ぬときになって、自分が生きていなかったことを発見するようなはめにおちいりたくなかったからである」
……

大部の本を要約するのはむつかしい。
それに、この本はあんまり要約しちゃいけないような気がする。

本書の凄みは、すべて同時代の資料をもとに綴られていることだ。
水から魚をとりあげて研究するのではなく、水も一緒にすくいとったといった風。
著者の憶測や主張はほとんどない。
訳者の山口さんいわく、「畏怖の念を感じさせるほどの自制」。

著者がちょっとだけ顔をだすのは、たとえばこんなときだ。
ソローと友人になった英国人トマス・チャムリーは、1855年秋、44冊の東洋関係の書物をあつめ、友情の記念に船便で送った。
ソローは本が近ぢか到着することを知ると、コンコード川で適当な流木を拾いあつめ、特別な本棚をつくった。

それは当時、アメリカで個人的な蔵書としては最大級の東洋の書物のコレクションだった。
が、ソローに強い影響を与えるには数年遅かった。
ソローは、エマソンの書斎やハーヴァード図書館で、自分の哲学に非常に近い東洋の哲学に、大いに刺激を受けたのだけれど、そのころには自らの思想を外から確認する必要を感じなくなっていたのだ。

この、「自らの思想を外から確認する必要を感じなくなっていた」という部分に、著者がわずかに顔をだしている。
文章はさらに、こう続く。
「チャムリーが送ってくれたこれらの書物を彼がすべて読んだかどうかは定かではない」

ソローと同時代の文学者との交流が書かれているのも楽しい。
エマソンを抜かすと、いちばん有名なのはホーソンとの交友だろう。
1842年7月、旧牧師館に住むため、花嫁と一緒にコンコードへやってきたホーソンは、ソローと友情を育むことになる。
ソローはホーソン夫妻のオルゴールが好きで、しばしば聴きにきたという。
(当時の社交はかくのごときだったかと驚いてしまう。20年後、ソローが死に至る病に倒れると、ホーソン家のひとびとはこのオルゴールを病室にもってきてくれた)

また、お金が入用で、7ドルでボートを売りたいというソローの申し出を、ホーソンは承諾。
ソローにボートの扱いを教わったのだけれど、ある方向にボートを進ませたいと思えばボートはそちらにむかうといわれて、ホーソンは不平をいう。
「かれにとってはそうかもしれないが、私にとっては間違いなくそうではない」

痛ましいほど恥ずかしがりやだったホーソンは、旧牧師館での社交に疲れると、心からほっとできる場所として、ソローの小屋にやってきた。
後年、ホーソンは「大理石の牧神」に登場するドナテロのモデルにソローをつかった。
でも、小説をほとんど読まないソローは、そのことに気がつかなかったよう。

当時まだ子どもだったルイーザ・メイ・オルコットも、ソローに強い印象をもち、後年、こう回想した。
「かれは微笑みながら隣人たちのところへきて、皆が大西洋海底ケーブル通信に興味をもつのと同じくらい大いに関心を示して、ルリコマドリが飛来したと知らせたものだ」

ルイーザはソローの告別式にも出席している。
教会がひとびとでいっぱいなのを見て、「かれは生きているあいだはとりあげられなかったけれど、死んだらあがめられるのね」、と皮肉をいったそう。

ソローは、「草の葉」のホイットマンにも会っている。
1852年、測量の仕事でニューヨークにでてきたソローは、その仕事を紹介したオルコットとともに、ホイットマンを訪ねた。
ホイットマンから贈られた、1856年版「草の葉」を読み感銘をうけたソローは、知人に手紙でこう告げる。
「これまでたくさんの本を読んできましたが、どれよりも優れています。…全体としてこの本はどれほど割り引いても、非常に果敢でアメリカ的であるように思えます」

その後、コンコードにホイットマンを招待しようという話がもち上がった。
が、ホイットマンの詩に偏見をもっていたエマソン夫人、オルコット夫人、ソローの妹ソフィアなどが協力して、これをやめさせたという。
当時、ホイットマンがどれだけひんしゅくを買っていたかよくわかるエピソードだ。

ほかにソローはなにをしたか。
奴隷制反対運動をし、「地下鉄道」を指揮した。
しかし、ソローらしいことに、決して奴隷制に反対する団体には加わらなかった。
専門の改革者たちについては、かれらは真に改革をなしとげるよりも、むしろ個人的な権力を手に入れることにはるかに関心があるのではないかと怪しんでいた。

ソローは聖職者ももっぱら偽善者だと軽蔑していた。
死が近づいたとき、信仰心の篤い叔母のルイザに、神と和解したかとたずねられると、「私たちが争っていたなんて知りませんでした」とこたえた。

それから、旅行をし、講演をし、執筆し、スズメバチに追いかけられ、毎年起きる洪水のなかでも、異常に水位が上がった年は、いま自分はコンコードではじめて起きたことを見ているのだと喜んだ。

カメが地中3インチのところに卵を生む傾向があるのを発見すると、温度計をつかって、この深さが昼夜の温度を足すと一番高いことを証明した。
ソローの最初の伝記を書くことになる、友人のチャニングが、その飽くことのない好奇心について批評すると、「この世でほかになにがあるんだい」とこたえた。
「鳥を研究したいなら、どうして撃ち落さないのかね」と村人にいわれると、「私があなたを研究したいとして、あなたを撃つべきだと思いますか」とやりこめた。

ソローの人生とはなんだったのか。
結婚はしなかったし、子どもはつくらなかった。
大金を稼いだわけでもないし、講演者としてはそれほどでもなかったし、処女作はろくに売れず、世界的な著作を残したけれど、その名声を得るのは死後のことだった。

でも、こういったことは、おそらく物差しの当てかたが間違っている。
この本を読んで印象に残るのは、ソローが一日一日暮らしていったことだ。
そして、ソローの真似をすると、一日一日暮らすこと以外、「この世でほかになにがある」という気がする。

最後に。
本書は索引がとてもていねい。
人名のあとにその人物にかんしての小項目が立てられていて、ソローの場合だと「カエルの研究」なんて項目があったりする。
《漂泊者(ローヴァー)》の項目には、カッコで(ボートの名)と記されている。
このていねいさは、山本夏彦の「無想庵物語」(文芸春秋 1993)を思い出させるものだ。

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母と子の20分間読書

「椋鳩十の本」第25巻(理論社 1983)をぱらぱらやっていたら、「母と子の20分間読書」というのが目に飛びこんできたのでメモ。

「母と子の20分間読書」というのは、
優れた本を20分間ぐらい子どもに読んでもらって、
お母さんが耳をかたむける、
というもの。

お母さんが読んであげて、子供が聞いてもいい。
20分という言葉にも、べつにこだわらなくていい。
とにかく、読みつ読まれつして、なにほどか交感するものがあればいいという運動。

子どもは読めるようになると、ひとりでどんどん読んでしまう。
だから、「母と子が共同で読む本」と「子どもが自由に黙読する本」と2種類あるといいと、椋鳩十さんはいきとどいたことをいっている。

椋鳩十さんは昭和22年から18年間、鹿児島県立図書館の館長をつとめたそう。
「母と子の読書運動」は昭和34年からはじめたという(1年間はひとつの小学校で実験した)。
運動は全国にひろまったらしい。
そんなこととは知らなかった。
まだやっていたりするんだろうか。

また、椋鳩十さんは、「価値としての読書」と「手段としての読書」では読書運動のやりかたがちがうといっている。
「手段としての読書」では、読んで感動したり考えたりしただけではダメで、それが実行に移され、効果をあげなければいけない。
農業の本なら、農家の経済にまで響くように読まなくてはならない。

これは図書館だけではできないことだから、県の農政部と県農協に声をかけ、農政部の農業普及員500人と、県農協の技術者700人が協力してくれることになり、昭和30年からスタートして、農業の研究サークルが県下に500もできたという。

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人文会ニュース 2009年5月号人文会ニュース 2009年5月号 〈承前〉

続きです。

「ケーススタディ 人文書販売の現在と未来」
司会 吉武創(勁草書房)
小林 浩(月曜社)
飯野勝巳(平凡社)
磯 知七美(筑摩書房)
山田秀樹(東京大学出版会)

これは、各編集者、つまり人文書のつくり手側による現状の発表。
ここでも、話題は新書について。
それまで、新書といえば岩波、中公・講談の3社だった(文庫クセジュとか、細かいことはいろいろあるかもしれないけれど、ここでは触れられていない)。
で、1994年にちくま新書が創刊。
以降はこんな風。

1998年、文春新書
1999年、平凡社新書、集英社新書
2000年、角川ワンテーマ21
2001年、光文社新書
2003年、集英社新書

このあとも、各社が参入して、もうなにがなにやらわからないことに。
各社参入での大きな変化は、雑誌編集者が新書をつくることになったことだ、と磯さん。

「一口に編集者といっても、雑誌と書籍では別の職種といえるくらい仕事のありようがちがいます。まずフットワーク、アンテナの立てかた、それからテーマの絞こみかたなどがちがいますし、一つのテーマでの射程距離も全然ちがうと思います」

「端的なのが新潮社新書で、創刊当時8名で立ち上げられたそうなんですが、そのうちの6名が雑誌編集者だったそうです。創刊当時の編集長も現在の編集長も、雑誌に長く携わってこられたかたです。ほかの雑誌を抱える版元さんでも、新書編集部には、雑誌経験者が多いようです。すると、新書がどうしても高速化していきますね」

ちなみに、ちくま新書は書籍畑の編集者でやってきたそう。

「私どもはいま、8人で毎月5点、年に2度6冊だす月がありますので、年間62冊をつくっています」

それから、人文書の棚と、新書や文庫の棚をジョイントしていこうという書店のこころみは、非常にありがたいことだと磯さんは述べている。

「雑誌的な新書が増えれば、初速で売れないものはどうしても返品になってしまいます。ちくま新書は10日発売なのですが、以前は翌月の新刊が出るまでは平台に置いてくださっていたものが、他社新書が20日前後にでると、平台は満杯、結果的に1ヶ月もたず、月後半には帰ってきてしまう。初速がよくないと販売チャンスが少ない、つまり地味なものは埋もれてしまうのです」

「数年前までは、「ちくま新書は棚で既刊が売れていますよ」といってくださる書店さんが何軒かあり、非常にありがたいと感じていたんですけれども、この2年くらい、それに頼れなくなってきた、という印象が強いです」

新書の洪水のなかで、手にとってくださるかたに届けたいという思いが切実にある、なので新書の棚だけではなく、可能性があるならどんどんひろげてほしい、と磯さん。

ところで、ちくま新書には「社会学の名著30」とか「歴史学の名著30」とかいった、「名著30」シリーズがある。
それから、初期にだしていた「ニーチェ入門」、「フーコー入門」といった哲学系の「入門」シリーズ。
また、「高校生のための評論文キーワード100」は、刊行から3年で5万部近くでたそう。
そこで、磯さんはこういう。

「ブックガイドやキーワード的なものは、新書のなかでもさらに敷居の低い入門書として可能性があるかなと思っています。さらに、敷居を下げることと同時に、新書と専門書の隙間を埋める、たとえば選書的な単行本群にも、今後は需要があるのではないかと思っています」

それから、面白かったのは山田秀樹さんのお話。
人文書というくくりは、ひょっとすると日本だけなんじゃないの?、という指摘をされている。

「諸外国は、ものすごく安いペーパーバック版みたいなものと、専門書・学術書みたいなものが、価格もはっきり分かれていて、専門書のようなものは7000~8000円、1万円ぐらいはざらですし、安いものはペーパーバックで1000円ぐらいで買えるようになっていて、中身もはっきり区別されているような印象があります。いっぽう日本の人文書といわれているものは価格的にはなだらかな中間あたりに位置していて、中身についても専門的な内容をわかりやすくつたえる中間的な存在であるわけです」

「読者対象として、大学生あるいはプラスアルファの、いわゆる教養を身につけたいと思っているひとにたいして訴えかけている。非常に中間的といいますか、これは非常に特殊な入れ物じゃないかな、というふうに考えています」

また、磯さんのいう「敷居の低い入門書の可能性」についてにも言及。

「全体をざっくり捉えるかたちでオーバービューできる概説のようなもの。こういうものをどうやって開発していけるかということが大きな課題になっていると思います」

たとえば、東大出版会でだした「日本美術の歴史」という本はよく売れているそう。
似た例として、山田さんが編集した、「法思想史講義」もA5判の上下巻で、あわせて7400円という本にもかかわらず、1年で初刷の3000部がほぼなくなろうとしているという。

「これだけ高額の商品をなぜ買ってくださるのか、たとえば東京国際ブックフェアの反応によりますと、一般のかたが買ってくださった。会場で10冊ぐらい売れたそうなんですけれども、必ずしも読者はもともと想定していた大学生にかぎらない、教養をもとめている一般のひとたちなのです。そういうひとたちが、あるときに、全体を知りたいと思ったときに、こういう内容の本がありますよというかたちで提供したいと考えておりますし、教科書と人文書というカテゴリーの境界を少しずつなくしていきたいと考えています」

人文書とテキスト(教科書)の共存関係をつくることにより、地に足がついたかたちでの教養というのを提供できるのではないか、と山田さんは述べている。
最後に、今後の人文書ありかたについて。

「自分自身の目でみて、感じて、考えたこと、そこから発せられる言葉が新しい教養として読者に届くと思いますし、そういうかたちで自分の言葉から発せられた本こそが、新しい教養として流通していくんじゃないかと思います」

「私自身は、教養書や人文書をつくる機会はほとんどありませんが、先ほど申し上げましたようなかたちの、全体をオーバービューするような作品をつくっていくときにも、やはりこのことは肝に銘じて、わかりやすく読者に提供していきたいと考えております」

「フリーディスカッション 人文書販売の未来をデザインする」
司会 華園斉(創元社)
田崎洋幸(みすず書房)

これは、フリーディスカッション。
なので、発言者は、書店のひと、出版社のひととさまざま。
話もあっちこっちにとんで、まとまるということがない。
そこで、面白そうなところをかいつまんでいきたい。

「現状の哲学思想の主流である欧米思想の本のならびに、スパイスとしてアジアを添えるというだけにとどまらず、アジア思想棚を立ち上げていくのが、今後の大きな課題であることは間違いないですね。中国古典とその読解が中心となる従来の東洋思想棚とは異なる棚で、アジア全域をフォローする棚」

「私が人文書の担当になって色々なかたにいわれたのが、人文書、専門書の担当の使命というのは、客単価を上げることだといわれたんですね。どうやって、どんどん減少していくお客様に多くのお金を支払っていただけるか、それを考えなさいと。きょうはそれについてなにかヒントになることはないかなと思ったら、新書で入門書をつくりましょうというお話で、ちょっとガツカリしてしまったんですが」

「単行本で値段を1000円前後にして、それで入門書をつくるのは、ほんとうに無理なことなのか。それだったら、単行本の棚でも素直におさまる。筑摩書房といえば、『高校生のための批評入門』とか、そういう素晴らしい本があるので、ああいう形を発刊させることはほんとうにむずかしいのか」

「どういう基準で、これは新書だ、これは文庫だっていうことを判断されているのか」

「いま、新書の初刷は、おそらくどこの版元さんも8000部から15000部くらいが基準じゃないかと思います。これで利益がでるように売るというのは、非常に大変です。そのために原価を抑えるという工夫をします。装丁はワンメイクで、資材にもあまりお金をかけない。それが、新書のスタイルであり、コストを抑えるという意味で、単行本よりつくりやすいという事情があると思います」

「ちくま新書のスタッフのなかでも、人文書に親和的な者が何人かおり、かっちりした人文書をつくりたいと思っているようですが、12000部というハードルをクリアするために、なんとか間口を広げ、敷居を下げてだしていかなきゃいけないという、厳しい現実があります」

「最近、ランダムハウス講談社が『最後の授業』という書籍の刊行にあわせて、著者の、もう亡くなったアメリカ人の大学教授の、その最後の授業の模様をYouTubeで字幕付で流して、書籍を販売した。すごく面白い手法だなって思ったのですね」

「難解な本を紹介するに当たって、映像の場合はひとにつたわるような言葉で話さないと通用しないと思いますから、そういった意味では入門にもいいし、それが本の販売に結びつくのではないか」

「個人的にすごい疑問に思うのは、たとえばお客様がブログで読んだりとか、YouTubeで本の情報をみて面白そうだなと思ったらどうするかというと、そのまま書誌情報をアマゾンに貼っちゃうんじゃないかなと思います」

「多分、ここにいらっしゃるほとんどの書店さんでは、ネット上で決済する手段がないところが多いのではないかと思いますが、一部のネット上で決済が可能な書店さんが、特に人文書の分野で成果を上げていらっしゃるのか。決済の手段さえあれば成果は上がるのか」

「ジュンク堂でも店舗単位でネットから注文されたお客様の取り置きサービスはやっているんですが、注文件数が日に2ケタいくことはめったにないですね」

「ブログなどでされる本の紹介がどこにつながっているか。ぜひ、アマゾンさんには、そのへんの秘密主義をやめて、冊数金額を開示していただきたいと思います」

「既刊書を売るためにフェアをやるのではなく、普段から売っていくためにはどういうことが必要なのか」

「みすず書房の『夜と霧』の、池田香代子さん訳の新版がでたときに、霜山徳爾訳版が一度品切れというか、絶版になる方向でやっているというふうに聞いたんですけれども、やっぱり、霜山版がよく売れているんですね。で、どうちがうのかということを、みすず書房のかたから説明を受けて、表紙をカラーコピーして、それぞれ下にどうちがうのかという言葉を書きそえてポップを立てておいていたら、読んでくださっているかたがけっこう多いなと思い、自分ですごく満足しました」

「著者にたいしては失礼ないいかたになりますが、原稿というのは編集者にとっては素材なんですよね。編集者は自分がつくった本が評価も高く、なおかつ売れるものにしたいっていう宿命的な欲望があるんですが、そうした本が書店の現場ではいかに反映していくのかっていうのは、じつはよくみえない」

「東京合同研修会参加者アンケート」

最後はアンケート。
回答者はみんな書店員だ。
これも、気になったところをメモ。

「新書を単行本と併売すると棚の見た目が悪い。現場担当者としてはむしろそのような瑣末なことについてアイデアを出しあいたかったとも思います」

「業界内だけでなく、もう少し読者が何を本当に求めているのかという話がでてもよかったのでは?」

「売れないのは担当者自身の棚づくりのせい? とまで考えたこともありましたが、一日目の竹内洋先生の特別講義のお話で、「売れない理由には人文書購入層であった大学生が本を読まなくなっている現状がある」と聞いたときは、自分のなかのモヤモヤが晴れたような気がしました」

「大学の2人の先生は学生の読書不足、知識不足を嘆いてばかりで、それに対してどうしていくのかという姿勢がお話からほとんど感じられず、人文書をつくり、売っているひとたちを前に話す内容としてはちょっと残念でした」

「余暇は人文書を育てますが、書店員にそんな暇はありません。そのために、書店員の給料の話、勤務時間の話、業界内格差の問題、書店間の破滅的な競争の問題…が話されるべきだったのではないかと思います。毎日店舗で感じる憂鬱さについて話すことがタブーなままで人文書の未来を語るというのは悲しいことです。人文書担当者を全国からたくさん集めるだけ集めて、なにもしない。暇をつくってほしかったと、妄想だとしても私は思いました」

最後の文章は、ほんとうにこの本の最後にある。
これは編集の妙だろう。

さて、まとめ。
全体の印象としては、率直で正直、かつ真摯。
とにかく、すごくまじめだ。
個人的には、各書店で同じポップをつけていた「思考の整理学」の謎がとけたことがうれしい。

あのポップは、盛岡のさわや書店さんの文庫担当の男性社員がつくったものらしい。
あっという間に何百冊も売れたので、それをきっかけに全国の書店さんに提案して、最終的に1年間で30万部、累計で50万部を超えるような結果を叩きだせたと、筑摩書房の菊地さんがおっしゃっていた。

この本には、当日のレジュメも収録されている。
月曜社の小林さんによる、現代哲学思想のジャンルやキーパーソンをまとめたレジュメが、、とてもわかりやすくまとめられていて感動する。
このレジュメのなかに、「書籍販売の手引き――アメリカ書店界のバイブル」(米国書店組合連合会編 日貿出版社 1982)所収の「書店人とは?」(ロバート・D・ヘイル)から、美しい言葉が引用されているので、それを孫引きして終わりにしよう。

「本を売ることは、永久に伝わる一連の波紋を起こすことである」



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「エミリ・ディキンスン家のネズミ」に訳詩を追加

「対訳ディキンソン詩集」(亀井俊介編訳 岩波文庫 1998)を読んでいたら、「エミリ・ディキンスン家のネズミ」とかぶる訳詩があったので追加。

「対訳ディキンソン詩集」はまえがきが面白かった。
エミリ・ディキンソンの生涯や作品世界が手際よく紹介されて、なるほどと思った。
とくに、ソローを引き合いにだしての説明には、そうか!とひざを叩いた。

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