翻訳味くらべ「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(まとめ)に追加

古本屋にいったら、田中小実昌訳の「郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす」が100円で売られていたので買ってきた。
そこで、翻訳味くらべに追加。
また、「郵便配達は…」についての記事は、2つに分かれてしまっているから、訳文をくらべたところだけ、ここにまとめておきたい。
さて、ではまず冒頭を、田中小実昌訳から。

「郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす」(J・ケイン 田中小実昌訳 講談社文庫 1979) 

《正午(ひる)ごろ、おれは干草をつんだトラックからほうりだされた。前の夜、国境で、おれはトラックにとびのり、キャンバス地の幌のなかにもぐりこむと、すぐ眠った。メキシコのティファナに三週間いたあとで、たっぷり眠る必要があったのだ。エンジンを冷やすため、トラックが道の片側によせてとまったときも、まだ、おれは眠っていた。片足がつきでているのを、トラックのやつらは見つけて、おれをほうりだしたのだ。おれはやつらをわらわせて、もっと先までのっけてもらおうとしたが、やつらはしらん顔でとりあわず、せっかくのギャグもだめだった。それでも、やつらはタバコを一本くれた。おれは、なにか食べものにありつけないか、道をテクっていった。》

「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(ジェームズ・ケイン 中田耕治訳 集英社 1981)。

《正午(ひる)ごろ、おれは干草を積んだトラックから抛りだされた。前の晩、国境のところで飛び乗って、ズック・カヴァーの下にもぐりこんだとたんに眠ってしまったのだ。ティファナで三週間すごしたあとで、ひどい寝不足だったから、エンジンの熱をさますために車が一方へ寄ったときにも、まだ眠りこんでいる始末だった。たまたま、かたっぽの足がつきだしているのを見つけられて、つまみだされてしまった。おれとしてはせいぜいご機嫌をとりむすぼうとしたわけだが、相手はまるで表情を変えない。そこでギャグはやめることにした。それでも、たばこを一本めぐんでもらって、何か食いものをさがそうと道路を歩きだした。》

「郵便配達夫はいつも二度ベルを鳴らす」(ジェイムズ・M・ケイン 小鷹信光訳 早川書房 1981)。

《ちょうど昼頃、乾草を運ぶトラックから放りだされた。前の晩、南の国境近くで飛び乗り、覆いの下にもぐりこむと同時に眠ってしまった。ティワーナの町での三週間のあとだったからあたりまえだ。エンジンを冷やそうと連中が車を寄せたときも、ぐっすり眠っていた。それで、突きでていた片足を見つけられ、放りだされたのだ。道化てみせたが、相手はむつつりしていたので、おふざけは幕にした。煙草を一本恵んでもらい、食いものを探しに歩きはじめた。》

「翻訳入門」(松本安弘・松本アイリン 大修館書店 1986)

《昼ごろ、おれは干草を積んだトラックから追っ払われた。前の晩、南のメキシコ国境でこのトラックの荷台に飛び乗り、キャンバス覆いの下にもぐり込むとすぐ眠りこけてしまった。酒と女とバクチの国境町ティーアワーナに3週間も居続けたあとだったので、おれは睡眠が必要だった。エンジンを冷やすためトラックが道路脇に寄ったとき、まだむさぼるように眠っていた。そのときトラックの連中はおれの片足が外につき出しているのに目をとめて、おれをトラックから追い出した。おれは少々おどけてみせたが、相手からは無表情な顔しか返ってこなかったので、ギャグはやめにした。それでも連中はタバコを一本くれ、おれは何か食うものを探さねばと、ハイウェーをてくてく歩いた》

「翻訳入門」の著者による、小鷹信光訳についての指摘は、こちらの記事を参照のこと。

つぎは会話(「翻訳入門」は会話の訳がないのでなし)。

田中小実昌訳
《「なにをやってる? どんな仕事をしている、え?」
「ああ、あれをやったり、これをやったり、あれをやったり、これをやったり」
「いくつ?」
「二十四」
「若いんだなあ。若い者なら、今すぐほしい。ここの仕事にね」
「いいところじゃないか」
「空気、いい。ロサンゼルスみたいな霧、ない。ぜんぜん、ない。空気、いい。きれいだ。いつも、空気、きれいでいい」
「夜なんかすてきだろうな。今からでも、夜のすてきな空気がにおうようだぜ」
「よく眠れる。あんた、車のことわかる? 故障をなおすとか」
「ああ、おれは自動車修理工に生まれついたようなもんだ」》

中田耕治訳
《「あんた、何をやってるんだ、仕事のほうは、え?」
「うん、一つやったら、また一つ、あれこれやってきたんだ。なぜだい?」
「としは?」
「二十四」
「若いなあ、あんた。このところ、うちでも若い者を使ってもいいんだが。店のほうだが」
「いい場所に店をだしたね」
「空気さ。空気がいい。霧が出ないんだ。ロサンジェルスみたいに。霧なんか見たこともない。いつだって気分がいい場所で、すごく晴れているんだ」
「夜はすてきだろうな。昼間でもそんな匂いがするよ」
「よく眠れるさ。あんた、車のほうはわかるかい? 修理はできるか?」
「あたりまえだよ。生まれつき修理ときたらお手のものだ」》

小鷹信光訳
《「なにをやってる? 仕事は?」
「あれやこれやさ。べつにきまっちゃいない。どうして?」
「年齢(とし)は?」
「二十四」
「ほう、若いんだな。わしの商売に、若い者をすぐにでも使いたいんだがね」
「なかなかいいところだ、ここは」
「空気がいい。ここらはロサンジェルスとちがって、霧などかからない。全然だ。気持ちがよくて、きれいだ。いつもきれいで、いい気分だ」
「夜はもっといいだろうな。もう、匂ってくるようだ」
「よく眠れる。車のことはわかるか? 修理は?」
「お手のもんさ。生まれついての機械工だ」》

田中小実昌訳を読んで、はじめて、かわいそうなギリシア人ニック・パパダキスが、英語がそんなにうまくないのではないかと気づいた。
やっとこんなことに気づくなんて、なんともうかつな読者だ。

以下は2014年9月の追記。
ことし、立て続けに2つの新訳がでた。
ひとつは、光文社古典新訳文庫で、訳は池田真紀子。
もうひとつは、新潮社文庫で、訳は田口俊樹。
とりあえず、光文社の池田訳だけ訳文を確認。
ここに引用しておく。

池田真紀子訳
《正午ごろ、俺は干し草を積んだトラックから放り出された。前の晩に国境で幌の下にもぐりこむなり、寝入ってしまったんだ。歓楽の街ティファナで三週間も過ごすと寝不足になる。トラックがエンジンを冷やすのに道端で停車したときも、俺はまだ熟睡していた。荷台から足を突き出していたのを気づかれ、放り出された。冗談でごまかそうとしたが、相手はにこりともしない。ここまでだ。煙草を一本もらって、どこかで何か食おうと道を歩きだした。》

次は会話。

《「あんた、仕事なに? どんな仕事してる?」
「いろいろだな。あれをやったり、これをやったり。どうして?」
「年齢(とし)は?」
「二四」
「若いね。ちょうどいま、若いのを雇いたかった。ここの店で」
「いい店だな」
「空気、きれい。霧は出ない。ロサンゼルスと違うよ。霧、全然ないんだ。空気、きれいだよ。一年中きれいでいい空気」
「夜なんか気持ちいいだろうな。夜のいい匂いがもうしてるみたいな気がする」
「よく寝られるよ。あんた、車のことわかる? 修理できる?」
「わかる。天性の修理工だぜ」》

池田訳は、主人公のフランクが物語の進行と同時に語っているのではなく、物語が終わったところから回想形式で語っているという感じが強い。
もしこれが映画だったら、まずラストシーンがあり、それからフラッシュバックでファーストシーンが語られる――などと思わせる。

それから。
これは解説にあったのだけれど、「郵便配達」は6回も翻訳されたものの、現在はすべて絶版だとのこと。
これには驚いた。
「郵便配達」は、人気があるのやらないのやら。
ことし出版された2つの翻訳も、またすぐみられなくなるかもしれない。

さらに、以下は2014年12月の追記。
田口俊樹訳を追加。

田口俊樹訳
「郵便配達は二度ベルを鳴らす」田口俊樹訳

《午(ひる)頃、干し草を積んだトラックから放り出された。そのトラックはまえの晩、国境の近くで飛び乗ったんだけれど、幌の下にもぐり込むなり、眠り込んでしまった。ティファナで三週間過ごしたあとだったもんで、すごく眠たかったんだ。だから、エンジンを冷ますのにトラックが路肩に寄ったときもまだいぎたなく寝てて、片足が突き出てるのを見つけられて引きずり出されたというわけだ。おどけてご機嫌を取ってみたりもしたんだが、仏頂づらが返ってきただけだった。おふざけはまるで効かなかった。煙草を一本恵んではもらえたけど。何か食いものにありつけないかと、おれは道路を歩きはじめた。》

次に会話。

《「なあ、あんた、何してる? どんなことしてる?」とギリシア人は訊いてきた。
「まあ、あれやこれや、あれやこれや、だな。どうして?」
「歳は?」
「二十四」
「若いんだな、ええ? 若い男の手は今すぐにでも借りたくてな。この店の手伝いに」
「あんた、いい店もってるよ」
「空気がいい。霧がない。ロスアンジェルスみたくな。霧、全然ない。空気がきれいでいい。ずっといい。ずっときれいだ」
「夜なんかもいいんだろうな。今ここにいても夜のにおいが嗅げそうだ」
「よく寝れる。自動車のこと、わかるか? 修理したりとか?」
「もちろん。おれは生まれながらの修理工だ」》

地の文が口語っぽい訳文になっている。
「郵便配達」は、フランクの1人称なのだから、この訳文もありだろう。

訳者あとがきで、田口さんは、「フランクはそもそもまっとうな男ではないし、コーラと出会おうと出会うまいと、きっとどこかで破滅していただろう」と書いている。
これは面白い指摘だ。
思えば、光文社古典新訳文庫の解説者も似たようなことを書いていた。
また、田口さんは、コーラについてこうも書いている。

《コーラは都会に出てきた田舎娘で、こつこつと真面目に働くことだけを考えている。それもこれもひとりの男を愛し、まともな暮らしをしたいがためで、その姿はむしろひたむきで健気だ。本書はいわゆる悪女(ファム・ファタール)ものとして取り上げられることが多いが、コーラのどこが悪女なのだろう?》

コーラがファム・ファタール扱いされるのは、この小説がフランクの1人称で書かれているためだろう。
もし、コーラの1人称で書かれていたら、コーラにはコーラの、別の言い分があったにちがいない。

コーラから、フランクはどうみえただろう?
フランクは出会った女性をファム・ファタール化する男だったと、コーラはいうかもしれない。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )
« 火のくつと風... オタバリの少... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。