ヘンリー・ソローの日々

「ヘンリー・ソローの日々」(ウォルター・ハーディング 日本経済評論社 2005)

訳は山口晃。
カバー挿画、山口次郎。
装丁、静野あゆみ。
編集、奥田のぞみ。

立つほど分厚い本。
索引を抜かして720ページ。
値段も張って、9500円。

本書は、タイトル通り、ヘンリー・ソローが生まれてから亡くなるまでの日々をえがいたもの。
ヘンリー・ソローとは、『森の生活』を書いた、あのソローだ。

章立ては年号だけで記される。
第1章 1817~1823年
第2章 1823~1833年
…といった風。
じつにそっけない。

ヘンリー・デーヴィッド・ソローは1817年7月12日、マサチューセッツ州コンコードに生まれた。
父ジョンと、母シンシアのあいだに生まれた、4人の子どものうちの3番目。
一家は貧乏だったけれど、仲がよく、そして家にはさかんにひとの出入りがあった。
母と叔母のひとりマリアは、社会的関心が高く、多くの運動に積極的だった。

ソローはあまり同級生と遊ばなかった。
一緒に遊ぶよりも、ながめているほうを好んだ。
おかげで、「判事(ジャッジ)」という渾名がつけられた。

また、我慢強く、要領はいささか悪かった。
コンコードの貴婦人であるサミュエル・ホーア夫人が自分の子どもたちと遊ぶように招待したとき、ソローはいかなかった。
いかなかった理由をどう説明したらいいかと母にたずねられると、「いきたくなかったからと話してください」とこたえた。

コンコード学院の最終学期が終わった1833年(16歳)の夏、ソローは《漂泊者(ローヴァー)》と名づけた最初のボートをつくった。
ウォールデン湖に浮かべ、仰向けに寝ころび、ボートが砂にふれると起き上がった。
そして、運命が自分をどの岸辺にはこんだかを確かめた。

母の願いを聞き入れ、また家計もなんとか余裕があり、入学試験も通ったので、ソローはハーヴァード大学に進学。
当時の学生生活は、「朝の祈りは夏は朝6時」というものだった。
大学図書館(蔵書5万冊)をさかんに利用し、備忘録をつけるという終生の習慣を身につけた。

卒業後、郷里のコンコードで教師になるが、体罰をおこなうことになじめず2週間で辞職。
別の学校の口をさがすも、うまくいかない。
そのあいだ、父の鉛筆工場(鉛筆製造業のきっかけは、親戚中でもっとも頼りにならない放浪者、チャールズ叔父がもたらしたものだ)ではたらき、品質を改良し、事業を拡大させた。
鉛筆改良に役立ったのは、ハーヴァード大学図書館でみつけた百科事典だった。
その後も、機会があるごとにソローは鉛筆の改良をする。

また、このころから14歳年上の、アメリカ超越主義者の代表的な指導者だったエマソンとの交友がはじまる。
世間はソローをエマソンの模倣者だと思ったが、自分の息子を誇りに思っていたソローの母は、「エマソンさんはなんとうちのヘンリーと似た話し方をするのでしょう」と語った。

(器用で実際的なソローを見こんで、エマソンはソローを2年間住みこみで雇ったこともある。ソローは菜園を耕し、エマソンの子どもたちに笛や玩具をつくり、夫人の外出用の手袋をしまうために、食卓用の椅子の下に引き出しをつくった。こわれたものを進んで修繕し、またいわれるまえに修繕してしまうこともしばしばだったので、女中も喜んだ。そして、ソローはエマソンの蔵書を心ゆくまで利用した)

すこし遅れて、オルコット(「若草物語」を書いたルイーザ・メイ・オルコットの父)との交友もはじまる。
討論してすごすのが好きだったオルコットは、歩くのが趣味というソローの好みをまったく理解できなかった。

けっきょく、ソローは教職の道を断念し、自分で学校を立ち上げる。
兄のジョンも加わったその学校では、生徒たちはいつも仕事をあたえられ、忙しくされられた。
おかげで体罰はなく、そしてすべての生徒が、まるで軍隊式だったと思い出す規律が維持された。
校外実習が大変多く、ソローは生徒を川岸につれていき、そこにあった先住民のかまどの跡を掘り起こし、また注意深く埋めなおした。
測量の道具を購入し、生徒たちに実習させながら、数学の授業をより実用的で生き生きしたものにした。
のちに、ソローは測量で定期的な収入を得ることになる。

結核だった兄ジョンの具合が悪くなり、学校は3年を待たずして唐突に閉校。
この学校時代(1839年8月)、ソローとジョンは休暇中、ボートでコンコード川とメリマック川を旅した。
このときの旅が、ソローの処女作「コンコード川とメリマック川の一週間」として結実する。
また、この旅から1年半ほどのち(1842年1月)、ジョンは剃刀で切った薬指の傷がもとで破傷風にかかって亡くなる。

ジョンを非常に愛していたソローは、どこにも切り傷がないにもかかわらず、兄が亡くなると、兄と同じ破傷風の開口障害を起こした。
おそらく心身症ためで、ひと月寝たきりになってしまった。

1845年、27歳のソローは、ウォールデン湖に小屋を建て、そこで暮らすという計画を実行に移した。
前年の秋、木こりの斧から樹々をすくうためエマソンが湖の岸辺を買いとっていたので、ソローはエマソンから許可をとり、まっすぐな松を切り倒して材木にした。
斧は借りたもので、借りたときよりも鋭く研いで返したと自慢した。
さらに、古い小屋を買いとり、解体して材木につかった。

100年後、ウォールデンの小屋跡が発見されたさい、ソローは自分が器用なことを自慢していたにもかかわらず、地下室から数百本の曲がった釘がみつかった。

ある友人が、小屋の床の敷物をあげるといってきた。
でも、ソローは部屋が場所をとられるし、振ってほこりを落とすのに時間がかかるから結構ですといって断った。

小屋での生活の2日目が終わるまえに、妹のソフィアが訪ねてきた。
ソローを心配するあまり、前夜眠ることができなかったソフィアは、兄が生きのびたか確認するために、食べものをもってきたという口実をつかった。

大学出の彼がなぜ普通の生活をやめて、森のなかの小屋で暮らすようになったのか、町のひとびとは知りたがった。
そこで、ソローは草稿を書き、講演をおこなった。
講演に対する聴衆の反応が好意的であったため、ソローは湖での自分の生活について本になるくらいの量の話を書くのは意味があると思うようになった。
非常に熱心にこの仕事にとりかかったので、講演の7ヵ月後には「森の生活」となる最初の草稿ができあがった。
この本が最終的に出版されるまでには、まだ7年の歳月と8回にわたる全面的な推敲が必要になる。

ソローが小屋に移り住もうと考えたのは、兄ジョンとの旅行を本にまとめるためだった。
また、「森の生活」にはこう書いた。
「死ぬときになって、自分が生きていなかったことを発見するようなはめにおちいりたくなかったからである」
……

大部の本を要約するのはむつかしい。
それに、この本はあんまり要約しちゃいけないような気がする。

本書の凄みは、すべて同時代の資料をもとに綴られていることだ。
水から魚をとりあげて研究するのではなく、水も一緒にすくいとったといった風。
著者の憶測や主張はほとんどない。
訳者の山口さんいわく、「畏怖の念を感じさせるほどの自制」。

著者がちょっとだけ顔をだすのは、たとえばこんなときだ。
ソローと友人になった英国人トマス・チャムリーは、1855年秋、44冊の東洋関係の書物をあつめ、友情の記念に船便で送った。
ソローは本が近ぢか到着することを知ると、コンコード川で適当な流木を拾いあつめ、特別な本棚をつくった。

それは当時、アメリカで個人的な蔵書としては最大級の東洋の書物のコレクションだった。
が、ソローに強い影響を与えるには数年遅かった。
ソローは、エマソンの書斎やハーヴァード図書館で、自分の哲学に非常に近い東洋の哲学に、大いに刺激を受けたのだけれど、そのころには自らの思想を外から確認する必要を感じなくなっていたのだ。

この、「自らの思想を外から確認する必要を感じなくなっていた」という部分に、著者がわずかに顔をだしている。
文章はさらに、こう続く。
「チャムリーが送ってくれたこれらの書物を彼がすべて読んだかどうかは定かではない」

ソローと同時代の文学者との交流が書かれているのも楽しい。
エマソンを抜かすと、いちばん有名なのはホーソンとの交友だろう。
1842年7月、旧牧師館に住むため、花嫁と一緒にコンコードへやってきたホーソンは、ソローと友情を育むことになる。
ソローはホーソン夫妻のオルゴールが好きで、しばしば聴きにきたという。
(当時の社交はかくのごときだったかと驚いてしまう。20年後、ソローが死に至る病に倒れると、ホーソン家のひとびとはこのオルゴールを病室にもってきてくれた)

また、お金が入用で、7ドルでボートを売りたいというソローの申し出を、ホーソンは承諾。
ソローにボートの扱いを教わったのだけれど、ある方向にボートを進ませたいと思えばボートはそちらにむかうといわれて、ホーソンは不平をいう。
「かれにとってはそうかもしれないが、私にとっては間違いなくそうではない」

痛ましいほど恥ずかしがりやだったホーソンは、旧牧師館での社交に疲れると、心からほっとできる場所として、ソローの小屋にやってきた。
後年、ホーソンは「大理石の牧神」に登場するドナテロのモデルにソローをつかった。
でも、小説をほとんど読まないソローは、そのことに気がつかなかったよう。

当時まだ子どもだったルイーザ・メイ・オルコットも、ソローに強い印象をもち、後年、こう回想した。
「かれは微笑みながら隣人たちのところへきて、皆が大西洋海底ケーブル通信に興味をもつのと同じくらい大いに関心を示して、ルリコマドリが飛来したと知らせたものだ」

ルイーザはソローの告別式にも出席している。
教会がひとびとでいっぱいなのを見て、「かれは生きているあいだはとりあげられなかったけれど、死んだらあがめられるのね」、と皮肉をいったそう。

ソローは、「草の葉」のホイットマンにも会っている。
1852年、測量の仕事でニューヨークにでてきたソローは、その仕事を紹介したオルコットとともに、ホイットマンを訪ねた。
ホイットマンから贈られた、1856年版「草の葉」を読み感銘をうけたソローは、知人に手紙でこう告げる。
「これまでたくさんの本を読んできましたが、どれよりも優れています。…全体としてこの本はどれほど割り引いても、非常に果敢でアメリカ的であるように思えます」

その後、コンコードにホイットマンを招待しようという話がもち上がった。
が、ホイットマンの詩に偏見をもっていたエマソン夫人、オルコット夫人、ソローの妹ソフィアなどが協力して、これをやめさせたという。
当時、ホイットマンがどれだけひんしゅくを買っていたかよくわかるエピソードだ。

ほかにソローはなにをしたか。
奴隷制反対運動をし、「地下鉄道」を指揮した。
しかし、ソローらしいことに、決して奴隷制に反対する団体には加わらなかった。
専門の改革者たちについては、かれらは真に改革をなしとげるよりも、むしろ個人的な権力を手に入れることにはるかに関心があるのではないかと怪しんでいた。

ソローは聖職者ももっぱら偽善者だと軽蔑していた。
死が近づいたとき、信仰心の篤い叔母のルイザに、神と和解したかとたずねられると、「私たちが争っていたなんて知りませんでした」とこたえた。

それから、旅行をし、講演をし、執筆し、スズメバチに追いかけられ、毎年起きる洪水のなかでも、異常に水位が上がった年は、いま自分はコンコードではじめて起きたことを見ているのだと喜んだ。

カメが地中3インチのところに卵を生む傾向があるのを発見すると、温度計をつかって、この深さが昼夜の温度を足すと一番高いことを証明した。
ソローの最初の伝記を書くことになる、友人のチャニングが、その飽くことのない好奇心について批評すると、「この世でほかになにがあるんだい」とこたえた。
「鳥を研究したいなら、どうして撃ち落さないのかね」と村人にいわれると、「私があなたを研究したいとして、あなたを撃つべきだと思いますか」とやりこめた。

ソローの人生とはなんだったのか。
結婚はしなかったし、子どもはつくらなかった。
大金を稼いだわけでもないし、講演者としてはそれほどでもなかったし、処女作はろくに売れず、世界的な著作を残したけれど、その名声を得るのは死後のことだった。

でも、こういったことは、おそらく物差しの当てかたが間違っている。
この本を読んで印象に残るのは、ソローが一日一日暮らしていったことだ。
そして、ソローの真似をすると、一日一日暮らすこと以外、「この世でほかになにがある」という気がする。

最後に。
本書は索引がとてもていねい。
人名のあとにその人物にかんしての小項目が立てられていて、ソローの場合だと「カエルの研究」なんて項目があったりする。
《漂泊者(ローヴァー)》の項目には、カッコで(ボートの名)と記されている。
このていねいさは、山本夏彦の「無想庵物語」(文芸春秋 1993)を思い出させるものだ。

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