「リュシエンヌに薔薇を」から「事故」

相変わらず、更新している時間がない。
手元のノートをみていたら、「リュシエンヌに薔薇を」(ローラン・トポール/著 榊原晃三/訳 早川書房 1992)から、「事故」というコントを書き抜いてあったのをみつけた。

すっかり忘れていたのだけれど、ナンセンスでとても楽しい。
更新の代わりに、これを引用しよう。
(このコントが収録されていた「リュシエンヌに薔薇を」がどんな本だった、どうしても思い出せないのだけれど…)

 「事故」
「イエスはチベリア湖の水面に思い切って足を踏み入れた。まだ信用していない使徒たちは、救世主の足元をじっと見つめていた。イエスが水の上を歩かれている! 主の足は1ミリメートルも水中に踏みこんでいない。眼を天のほうに上げて、主はご自分のいるとろを忘れておられるようだ。
 と、使徒たちの悲鳴がほとばしった。しかし遅すぎた。
 イエスはバナナの皮に気がつかれなかったのだ。たちまち主は身体をささえ切れなくなって滑ると、首を波頭の上で砕いてしまわれた。」


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「猫が耳のうしろをなでるとき」に書誌を追加

「ゆかいな農場」が出版されたのを機に、「猫が耳のうしろをなでるとき」に、書誌を追加。

「ゆかいな農場」と「猫が耳のうしろをなでるとき」と「おにごっこ物語」は、すべて同じエーメの作品からの翻訳だ。
ややこしいなあ。



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クレランバール

忙しい!
週に一度は更新したいのだけれど、それすらもおぼつかない。
来月はもう少し楽になると思うのだけれど…。

で、今回もフランスの作品。

「クレランバール」(マルセル・エーメ 白水社 1956)

訳は原千代海。

マルセル・エーメは、「エイメ」とも「エメ」とも表記されるフランスの作家。
いちばん有名な作品は、おそらく「壁抜け男」(早川書房 2007)だろう。
このブログでは、「マルタン君物語」と「猫が耳のうしろをなでるとき」をとりあげたことがある。
奇妙な前提を、精妙な想像力で押し通すところが魅力だ。

「クレランバール」は戯曲。
訳者あとがきによれば、本書はエーメが手がけた3つめの戯曲だそう。
エーメの戯曲ははじめて読んだけれど、これも大いにエーメ風でとても楽しかった。

さて、ストーリー。
舞台は、ひと昔前の現代。
だいたい、クレランバールの館を舞台に話が進んでいく。

没落貴族のエクトール・ド・クレランバール伯爵は、先祖からの財産を守るために必死の防戦を続けている。
家族(妻・義母・息子)には、編物台によるセーターづくりを強制。
自分に子どもが9人いて、1日10時間ずつ編物台にむかったら、4年で借金が返せるのになどと無茶苦茶なことをいっている。
ちなみに、夕食はつかまえてきた猫。
今週3度目。
息子のオクターヴに見合い話をもってきた司祭がつれてきた犬(名前はパピヨン)も、うるさいからという理由で殺してしまう。

こんな暴虐なクレランバールのところへ、突然修道士があらわれる。
修道士の姿は、なぜかクレランバールにしか見えない。
「これを読めば私のことがわかる」と、修道士は一冊の本を置いていく。
死んだはずのパピヨンも、なぜか元気に。
ショックのあまり、クレランバールは町内の売春婦ラ・ラングスゥトがセーターを買いにきたとき、妻や義母の反対を押しのけて、ラ・ラングスゥトの言い値で売ってしまう。
ちなみに、修道士が置いていったのは、「アシジの聖者フランシス伝」(天国書房刊)という本だった。

ところで、司祭がもってきた見合い話の相手は、代訴人ギャルションの娘。
お金持ちのギャルションは、貴族であるクレランバール家と婚姻関係を結びたがっている。
ギャルションには娘が3人して、みんな不器量なのだけれど、この家から逃げだせるのであれば、オクターヴは甘んじて結婚をするつもり。
が、奇蹟と本に感化されたクレランバールは、オクターヴの結婚相手をラ・ラングスゥトにするといいだす。
「卑しい人間であればこそ、ラ・ラングスゥトは、この辺りの代訴人の、どの娘より神に近いんだ」と、クレランバールはいう…。

というわけで、突然信心深くなってしまった主人公が、混乱を巻き起こす――というのが本作品の仕組み。
信心深くなったとはいえ、辛辣さはいささかも変わらないクレランバールは、妻にたいしてこんなことをいう。

「(ラ・ラングゥストとくらべて)それに引きかえ、いくら名誉とやら、品位とやらをもっておると頑張っても、わしの眼には、お前が不純だらけの大きな腫物に見えるんだ。伯爵夫人の称号と王冠にカモフラージュされたでかい腫物、それも、いつかは破裂するが、その日がくれば、その恐ろしい日がくれば、腫物はどくどくと音をたてて膿みつぶれる。そうなると、天使たちもくさい臭いにへきえきして、鼻をつまむに違いないんだ」

自分の奥さんにたいし、ひどいいいようだ。
こんな風にののしられてしまうルイーズは、正気を失った夫とちがい、家の再興を第一に考える。
息子に自分の娘を嫁がせたいというギャリュションにたいして、ルイーズがいうセリフはこうだ。

「ちゃんとした保証の約束でもありますと、それこそ、若い男の心にも、器量の悪いお嬢さんに対して感謝の念が湧いてくるでしょうし、それが知らず知らず、恋に発展しないものでもありませんわ」

こうして、ルイーズはギャリュションからまんまと100万フランを引きだす約束をとりつける。
それにしても、クレランバールといいルイーズといい、洗練されていて、なおかつ率直な素晴らしいセリフを口にする。

いままで見てきたとおり、この戯曲にでてくるのは、豹変したクレランバール以外はみんな俗物。
俗物をえがくとき、エーメの筆は冴え渡る。
じつはラ・ラングゥストの客でもあるギャリュションが、彼女の部屋を訪れるときのセリフはこう。

「お前の好きなギャリュション先生がお楽しみに御入来だ」

ところで、息子のオクターヴは、クレランバールが進めているラ・ラングゥストとの結婚話をどう思っているのか。
じつはオクターヴはずっと前からラ・ラングゥストが好きだったので、父親の話は願ってもいなかった。
で、オクターヴはラ・ラングゥストの部屋を訪れ、そこでギャリュションと鉢合わせする。
そのときの、ギャリュションのセリフ。

「子爵(オクターヴのこと)、あんたは二十二才の青年だ。不安のない生活をして行くには、家庭というものを築いて行くにはどうしなければならないか、そういうむつかしい問題と真剣に取組んで行く年だ、いい年をした男だけにもっともな理屈をつけられるような、そういう浅薄な快楽の中に逃避を求める時期には、まだ、あんたは達しておらん。…」

これもまた、中年男の素晴らしい居直りっぷり。

ここから先はネタバレになる。
本作を未読のかたは気をつけてほしい。

俗物性をあばくことは笑いを誘うものだけれど、それだけでは戯曲にならない。
その点、本作ではラストにきちんと仕掛けがほどこされている。
それは、「じつは奇蹟は起こっていなかった」だ。

クレランバールが殺したと思いこんでいた犬は、じっさいは司祭の犬ではなかった。
殺したのは別の犬だった。
納屋には犬の死骸が残っており、犬は生き返ったのではなかった。

納屋で犬の死骸をみつけたクレランバールは動揺する。
しかし、信仰心はゆるがない。

「奇蹟がおこらなかったのがありがたい。…そんなものも起こらないのに、わしの信仰心が強固になり、高まったのが、それが奇蹟だ。…」

この、逆説的なシチュエーションづくりがなんともに見事だ。

最後に2つばかり。
冒頭で、エーメの作品のことを「奇妙な前提を精妙な想像力で押し通すところが魅力」だと書いたけれど、本作を読んだら、「奇妙な前提」とはつまり奇跡のことなのではないかと気がついた。
ひょっとすると、エーメはずっと奇跡について書いていた作家だったのかもしれないと思いいたった。

もうひとつ。
エーメのセリフ回しはたくみだし、じつに面白い。
それなのに、小説は地の文で押し通すようなスタイルで書かれている。
エーメの小説にもっとセリフがたくさんあったら、読みやすくなるだろうし、ひとにも薦めやすくなるのになあと思った。
それが、ちょっと惜しい気がする。


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