いと低きもの

「いと低きもの」(クリスティアン・ボバン 平凡社 1995)

訳は中条省平。
副題は、「小説・聖フランチェスコの生涯」。

本書もまたフランスの小説。
副題どおり、聖フランチェスコについて書かれたもの。
でも、通常イメージする歴史小説とはぜんぜんちがう。
読んでいて、これこそフランスの小説だと思った。

では、どこがフランスの小説っぽいのか。
その前に、ストーリーを説明しよう。

1182年秋、イタリアのアッシジでフランチェスコは生まれた。
父の名は、ピエトロ・ディ・ベルナルドーネ。
布地と毛織物の商人。
母親はピカの奥方と呼ばれる、プロヴァンス地方出身の女性。
作者は、ピカの奥方がプロヴァンス地方出身であることを重くみる。
当時、プロヴァンスには宮廷風恋愛があらわれていた。
母を通して、宮廷風恋愛のなにがしかがフランチェスコにつたわったのではないか。

父が不在のおり生まれたフランチェスコは、最初母からジョヴァンニという名前をあたえられる。
が、帰宅した父により、名をフランチェスコに。

父親と同じ背丈になったフランチェスコは、父の商売を助けた。
生まれつき商才があり、生地の柔らかな手ざわりを自慢するのに1万もの言葉をもっていた。
明るい目、広い肩、娘のような白い手の美男。
店に入る金を賭け事でつかい果たし、友人たちがきては去り、娘たちがきては去った。

ペルージアとアッシジの2つの共和国のあいだに戦争が起こり、騎士道の栄光を夢みてきたフランチェスコは戦場におもむく。
1202年、捕虜になり、1203年に解放。
1204年、病の床につく。

1205年春、ふたたび戦争が起こる。
フランチェスコはまたもや出発するが、スポレートの街から引き返す。
放蕩生活のあと、放浪をし、癩病施療院において“いと低きもの”がどこに宿るかを知る。

そして、父親から訴訟を起こされる。
フランチェスコが司祭たちにあたえた店の金の返却と、財産の相続を禁じるため。
裁判ののち、フランチェスコは森へいき、シダと木の枝で建てた小屋に住みはじめる――。

以上が、この本から拾い上げたフランチェスコの前半生。
よく知られた話だ。
その後のフランチェスコの人生についても、本書では触れられているのだけれど、これについては省略。

で、こんな風に紹介しても、この小説について語ったことにはまったくならない。
本書は、通常の歴史小説とはちがう。
先にもいったとおり、いかにもフランス風の小説なのだ。
では、フランス風の小説とはなんなのか。

まず、時空間に無頓着。
本書は、フランチェスコの生涯について書かれたものだけれど、当時の風俗を再現しようなどとは、これっぽっちも思ってはいない。
一応、フランチェスコの生涯は順番どおりに語られるけれど、ある空間のなかで、ある行為が時間順に語られるということがない。
つまり、「場面」というものがない。
この「場面」のなさは、英米小説とくらべた、フランス小説の特徴だろうと勝手に思っている。

(だしぬけだけれど、劇でいう「三一致の法則」ということをいいだしたのも、この「場面」のなさと関係があるんじゃないだろうか。「場面」をつくる能力がなければ、「場面」はひとつしかつくれないだろうから)

というわけで、この小説は「場面」、つまり物語の空間をつくらない。
登場人物は、立ったり、すわったり、言葉をかけあったりしない。
では、どうやって話を進めるのか。
エセーの文体を用いて話を進める。
エセーの文体であれば、時空間は止まったままでいい。
読者は、登場人物の行為よりも、作者の声を大きく聞く。

エセーの文体は、作者の考えていることへ、読者を直接みちびく文体だ。
物語空間でおこる、劇的な臨場感は、エセーの文体のもとでは起こらない。
その代わり、あちこちで閃光を発しているような、断言調の、詩的な言葉のつらなりが、緊張感を持続させる。
そのスピード感にあふれた魅力的な文章は、たとえばこんな風。

「その女性は美しい。いや、美しいどころではない。暁のかぎりなくやさしい輝きのなかにある生命そのものだ。あなたは彼女を知らない。だが、たった一枚の肖像画さえ見たことがないにもかかわらず、明らかな事実がそこにある。彼女の明らかな美しさであり、彼女が揺りかごに身をかがめ、幼いアッシジのフランチェスコに息吹きに耳を傾けるとき、その肩に落ちかかる光である」

「幼子はまだフランチェスコとは呼ばれず、ひと抱えの皺ばんだ薔薇色の肉にすぎず、仔猫よりも、潅木よりも裸の、人間のかけらにすぎない。この子供の裸体をおおうため、彼女はみずからの愛を脱ぎさる。その愛ゆえに、彼女は美しい」

この文章の緊張感は、最後まで維持される。
大変な膂力だ。

ところで、訳者あとがきによれば、タイトルの「いと低きもの」というのは、神をあらわす「いと高きもの/至高者」の反語として、作者がつくったことばとのこと。
そのことばどおり、女子どもや貧者や病者など、「いと低きもの」とともにいるフランチェスコを、作者は喜ばしく描きだす。

フランス小説の特徴はこういうものだろうと思っていたら、そのイメージどおりの実物があらわれた。
予想ははずれてはいなかったという気がして、なかなか嬉しい。
つぎに思うのは、こういう詩的な文体をつかいながら、なおかつ「場面」もちゃんとある小説はないだろうかということ。
べつにフランスの小説でなくてもいいので、そんな小説があったら読んでみたいものだ。

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