翻訳味くらべ 「水仙」(翻訳入門版)

「翻訳入門」(松本安弘・松本アイリン 大修館書店 1986)は原文と既訳をならべたうえで、誤訳・拙訳を指摘し、著者による改訂訳をのせている本。
小説だけでなく、評論や詩、児童文学まで対象にしているのが特色だ。

で、今回は詩。
とりあげられいるのは、ワーズワースの「水仙」。
本書の構成にならって、まずは原文を。

“I wandered lonely as a cloud
That floats on high o'er vales and hills,
When all at once I saw a crowd,
A host, of golden daffodils,
Beside the lake, beneath the tree,
Fluttering and dancing in the breeze.

Continuous as the stars that shine
And twinkle on the milky way,
They stretch'd in never-ending line
Along the margin of a bay:
Ten thousand saw I at a glance,
Tossing their heads in sprightly dance.”

詩はぜんぶで4連あるけれど、半分だけ引用した。

つぎに、とりあげられている邦訳は弥生書房の「ワーズワース詩集」
訳者はしらべればわかるだろうけれど、面倒なのでしていない。
その訳は、こう。

「谷や丘の上たかく浮かぶ雲のように
私はひとりさまよいあるいていた。
そのときふと目にしたのは
金色の水仙の大群が
湖のほとり、木立の下で
そよ風にひるがえりおどるさま。

銀河にひしめいて
ひかりまたたく星屑のよう
彼等は入江のふちにそって
目路(めじ)のかぎりつらなっていた。
一目見てざっと一万の花が
頭をふり立て陽気におどっているのだ。」

さて、この訳にたいして、著者による指摘が入る。
すこし引用してみよう。

lonely
lonelyは「ひとりぼっちで心さびしい」「孤独である」。aloneは「ただの1人」。両者を正しく区別すること。原訳(弥生書房訳)の「ひとりさまよいあるいた」では「さびしさ」のニュアンスが出ず適訳ではない。

I saw a crowd,A host,of golden daffodils,…
コンマが訳出されていない。「一群の、いやよく見れば大群の」と、たたみかける漸層叙法で情景を盛り上げている。

o'er
詩語で「…の上の方に」(=over)。詩では場合によっては、強弱のフットを踏ませるために単語のシラブルの数を減らす必要がある。stretch'd(=stretched)、ne'er(=never)、'tis(=it is)などもこのたぐい。

vale
valley(谷)の詩語。

…,When
前にコンマがあるから、追加叙法のwhenで、and just then,at which time(そしてその時)の意。

all at once
「ふと目にした」は誤訳。「たちまち」「突然」「にわか(漢字)に」「だしぬけに」が正訳。

crowd,host
crowdは「かたまり」「群」である。hostは「大群」「大軍」で、crowdよりも大きい群。つまり、遠くから見たときには小さなかたまりに思えたのが、近づいてみると延々と続く大群(大群生)であった。原訳ではざん(漢字)層叙法のコンマを見落とし、crowdとhostの意味の違いに気づかず、両語をひっくるめてただ「ふと大群を目にした」と訳している。詩は神経質に語の解釈をしなければならない。

チェック項目はまだまだあるのだけれど、これくらいに。
続いて、著者による改訳が載るのだけれど、そのまえに、本書では詩の翻訳にかんして重大な提案がなされている。

――定型の英詩は七五調で訳せ
というのだ。

英詩のアクセントを日本語に移すのはまず無理だし、脚韻を移すのもまず無理。
しかし、日本語には七五調という定型がある。
なら、定型の英詩は七五調に訳すべきだ。
…という理屈。
著者はさらにこう続ける。

「原訳(弥生書房訳)を朗読してみると、詩のリズムが全くなく、ただの文章である。やはり、五・七・五の調子を整えるように訳詩を行いたいものである」

「そうすれば一読、突然何千、何万という美しい黄水仙の群落に出会い、その風の中で踊る陽気な花に誘われて、思わず一緒に楽しい気分になり、それまでおうおうとして楽しまなかった詩人の心が忽ち浮き浮きする様子が鮮やかに読者に伝わってくるだろう」

という著者による改訳は、こうだ。

「谷の上、丘の上なる天空にぽっかり浮かぶ雲のごと
われ淋しさにさまよえば
俄に見たり一群の、
いな大群の咲き乱る、黄金色の水仙を
湖水のほとり、木立のもとに
そよ吹く風に翻り、踊り戯る水仙を。

銀河に浮かび、瞬きて
光るあまたの星のごと
入江に沿いてひと条に
まなこの限りうち続く
ひと目のうちに一万の、群れたる花をわれは見し
花はこうべをうち振りて、陽気に踊り戯れる。」


七五調は日本語の定型かもしれないけれど、一瞬しか耐えられないものだと個人的には思う。
長く続くと、単調さが鼻につき、なんだかバカバカしくなってしまう。
この本が出版された、1986年の時点でも、すでにバカバカしかったんじゃないかと思うのだけれど、どんなものだろう。

さて、最後にもう一例。
手元にあった「イギリス名詩選」(平井正穂編訳 岩波文庫 1990)にも、「水仙」が載っていたから、それを引用してみよう。

「イギリス名詩選」(平井正穂編訳 岩波文庫 1990)より
ワーズワス「水仙」。

「谷を越え山を越えて空高く流れてゆく
白い一片の雲のように、私は独り悄然としてさまよっていた。
すると、全く突如として、眼の前に花の群が、
黄金色に輝く夥(おびただ)しい水仙の花の群が、現れた。
湖の岸辺に沿い、樹々の緑に蠅、そよ風に
吹かれながら、ゆらゆらと揺れ動き、踊っていたのだ。

夜空にかかる天の川に浮かぶ
燦(きら)めく星の群のように、水仙の花はきれめなく、
入江を縁どるかのように、はてもなく、
蜿蜒(えんえん)と一本の線となって続いていた。
一目見ただけなのに、ゆうに一万本はあったと思う、
それが皆顔をあげ、嬉々として踊っていたのだ。」


七五調ではないけれど、著者の指摘をクリアしているし、これなら及第点をもらえるんじゃないだろうか。

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